後編
文字数 1,390文字
私は咄嗟に瞼をぎゅっと閉じ、それと同時にアクセルから足を離して、ブレーキを踏み込みました。
幸いにも、落ち葉の山がクッション材となり、車が突っ込んだ衝撃を和らげてくれました。
車が無事に停止した途端、極度の緊張状態に晒されていた身体の筋肉が、一気に弛緩していくのを感じました。
私は深い溜め息を吐くと、シートベルトを外し、車の外に降り立ちました。
どうやら、落葉樹の種類が多い深い森の中に迷い込んでしまったようです。
艶やかな錦の装いに染め上がった樹々からは、葉っぱがはらはらと降り続けていました。
ひんやりと忍び込んでくる空気に、体温が奪われていくのを感じ、シャツブラウスにカーディガンを羽織っただけの両腕を、抱きかかえるようにして擦りました。
その時、スキニーパンツのポケットに入れていたスマートフォンが着信し、けたたましい電子音を鳴り響かせました。
私は、樹々達の静かな営みに水を差してはいけないと思い、元凶である着信音を黙らせるべく、急いでその電話を受けました。
「はい、もしもし」
「あ、美月さん? 山中です。
出勤途中で、何かあったの?
始業時間、とっくに過ぎてるんだけど」
それは勤務先からの電話でした。
不思議なことに、その電話を受けるまで、私は自分の名前であるとか、勤め人と小説家の二足のわらじを履いていることなども、すっかり失念していたのです。
もしも勤務先から、すぐに電話が掛かってこなかったとしたら、私は虚ろな表情のまま、森の中を徘徊していたに違いありません。
それがたった一日で済むなら可愛いものですが、その期間が数ヶ月、或いは数年に渡っていくとしたら…‥。
そう考えると、縮み上がるほど恐ろしくなりました。
私は、自分が誰であるのか、どのような目的で生きているのか、思い出させてくれた山中さんに感謝しました。
「山中さん、申し訳ありません。
運転中に、車がトラブルに巻き込まれまして、すぐに動かせるかどうか、分からない状況なんです」
「ええっ、そうなの?
そういう時は、すぐにJAFを呼んで、対応してもらわなきゃ。
美月さんに、怪我がなければいいんだけど。
ところで、今、どこにいるの?」
居場所を説明しようとして、私は途方に暮れてしまいました。
この森が、地図上ではどの辺りに位置するのか、さっぱり見当が付けられません。
困惑したまま周囲の樹々を眺めているうちに、一本の年ふりたブナの巨木に目が吸い寄せられました。
そこに穿たれている洞(うろ)の存在が、妙に気になったのです。
洞の中は、ブラックホールのようにどこまでも深く、黒々とした闇がわだかまっていました。
けれども、何かしらの神秘的なエネルギーを感じるのです。
息を潜めて見守っていると、その洞の闇の中から、シャボン玉のように華やかな虹色に光るオーブが、ふわふわと浮かび上がってきたのです。
きっと、ブナの巨木に棲んでいる精霊に違いありません。
美しい精霊に邂逅出来た喜びで、自然と声が弾みました。
「どうやら、精霊の森の中にいるようです」
~~~ 完 ~~~
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
☘️いつもご愛読ありがとうございます。1000記事以上の豊富な読み物が楽しめるメインブログは、『庄内多季物語工房』で検索して頂けます。ぜひそちらでも、あなたのお気に入りの物語との出逢いを、楽しんでみて下さいね。