第6話 トステ国のミツ③
文字数 2,626文字
トステの人間にとって、皇室のお力になれるという事は、神様に仕えるに等しい事を意味していたのだ。毎朝行われる祈りの儀式「ムト」の言葉の中に『ミツ様にも神のご加護を』と加える者まで出てきたほどである。
しかし、ミツは不安だった。護衛のトヌマと妃のマルナ以外に知り合いはなく、マルナに至っては知り合いと言ってはいけないような、やんごとない身分の方である上に、トヌマとて気軽に話しかけて良いような方ではない。要するにおよそ誰も知らないに等しい場所へ、一人で行かなければならないのだ。それを思うと不安でたまらない。そんな事を幼馴染のカイヤに話すと、
「何言ってるだ!向こうで、ええ男捕まえなあ。選り取り見取りじゃろうて。」
といって、ミツを笑わせた。しかしミツは、こんな笑い話が出来るのもあと僅かだと思うと、更に寂し気持ちにもなったのだった。
カナンへ出発する前日。ミツは仕事場に向かった。これが見納めになるだろうと思い、絵付けの筆や作業台などを名残惜しそうに見つめていた。カナンではミツに仕事場が与えられ、手伝いをする職人も新しく雇われることになっていたので、これからはミツ自身が職人たちの先頭に立たなければならなかった。今までのように笑い合いながら絵付けをしたり、川で流しをするなんて事はそう滅多に出来なくなる。カナンにも川はあったが、この村の川とは違い、あまり綺麗とは言えなかった。あの清々しい感触は二度と味わえないだろう。そして、後で川にも行ってみようと思っていた時だった。
「カイヤ!カイヤ!おるの?」
作業場の入り口で焦っている声がした。仕事仲間であった。
「どうしたん?」
ミツが顔を出すと、真っ青になって、彼女は言葉を探していた。
「ミツ…川で…。とにかく川に行き。あたしはカイヤを探すで、はよ行き!」
何が起こったか分からなかったが、嫌な胸騒ぎと共に川に向かった。
川沿いの土手に着くと、その光景に思わず足を止めた。
『川が…赤い!』
そして、いくつかの死体が川に浮かんでいたのを見て更に驚愕し、思わず口を押さえた。死体は傷だらけで腐乱している。ミツの村はトステでもかなり南の方に位置しているので、その温かい気候のせいもあるが、恐らく幾日も経っているのであろう、その匂いも酷いものだった。そして、その地形を頭に思い浮かべて嫌な予感に足が震える。この川の上流はナッカとの国境にまたがるアスナ峰から流れており、ミツたちの村を経由し、海へと流れている。そして、そのアスナ峰の麓でナッカとの戦が行われていた。カイヤの旦那は、その戦に借り出されていたのだ。
嫌な予感に、それでも川沿いを走っていくと、ある場所で人だかりが出来ていた。
その予感は当たっていた…。人をかき分け入って行くと、一足先にミツの母親が来ていて死体の顔を確認していた。
「…ロトだ。」
母親はカイヤの旦那の名前を口にした。ロトに両親はいない。ミツの母親はそんなロトの面倒をよく見ていたのだった。息子同然だったロトの変わり果てた姿に彼女は嗚咽した。
ロトの顔は傷だらけで、体は膨れていたが、特徴的な鼻の横にあるほくろは、ロトであることを示している。そこへ、カイヤが土手を走ってきた。集まっていた人達は「見ない方が良いと」言ってカイヤを止めるが、カイヤは押しのけてロトの前に跪く。
「ロト…?嘘よ。そんなはずない!嘘よ!」
暴れるカイヤをミツは抱きしめ、一緒に泣いた。
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死体を埋葬し、墓を建てるのに何日も必要だと思われた。その日は、夜までかかり村人総出で死体を川から引き揚げた。前日までミツの事でお祭り騒ぎだった村は、一転して暗く悲しい空気に満たされたのだった。
夜。
ミツは川に残り、一人茫然としていた。川の中に足をつけると、生暖かい水が何とも気持ち悪い。あれほど気持ち良く清らかだった川は、もうどこにもなかった。
「川は教えてくれたんだべ。もうずっと前から…。」
何か月も前からミツは川の異変に気付いていた。でも、その原因が何なのか分かったところで、ミツに何が出来ただろう。
「川も、可哀想だで…。あんな大勢の死体を運ばされて…。気持ち悪かっただな…。」
ミツが呟くと、川の流れが急に早くなりミツの目の前に渦を作った。
『あら、心配してくれるの?ありがとう。』
「だ、誰?」
『脅かすつもりはなかったの、ごめんなさい。これならどうかしら?』
すると、渦の中から水が立ち上がり、女の人の形になってミツの目の前に現れた。
「…ひー。化けもん!」
更に驚いたミツは川から這い出て、その場から逃げようとした。
『もっと、脅かしてしまったわね…。まあ、お待ちなさい。折角お話出来たのに、逃げなくてもいいんじゃなくて?大丈夫。私は何も出来ないし、する気もないわ。少し伝えなければいけない事があるの。だから聞いてくれるかしら?』
不思議な事に、化け物は川にいるはずなのに、声は頭の中で響いていた。その声はある種の威圧感はあったが、怖がらせようとしているわけでもなかったので、ミツは川に戻り、水の女性に恐る恐る尋ねる。
「…伝えなければいけねえ事って…?」
『ミツ、あなたは選ばれた人間なの。この世界の人間を救うためにね。』
「人間を救う?あんた誰だい?」
『あら、私としたことが、自己紹介がまだだったわね。私は『ミズノイシ』」
「ミズノイシ?」
『あなたは、一年後コルナス山脈で『アマノイシ』と会う運命(さだめ)なの。そうしなければ、人類は滅びてしまう。』
「なんで、あたいが…?」
『なぜ、あなたが選ばれたのか…それは私にも分からない。でも少し分かることもあるわ。あなたは僅かだけど、
水の意思
を感じる事が出来るみたいね。』「何を言っとるか、あたいにゃさっぱり分からんで。」
『とりあえず、伝えたわ。一年後、コルナス山脈。私はいつでもあなたを見ているし、あなたもいつでも私と話が出来るわ。でも今日はお帰りなさい。そして眠りなさい。心が疲れているわ。』
そう言うと水の女性は、ポチャンと鳴った音と共に、川の流れに吸い込まれていったのだった。