第86話 クリームシチュー

文字数 857文字

 ドアをノックする音がする。今日の午後になってから、何回目だろう。翔は、目を開けた。
 再びノックの音がするが、ドアは開かない。ドアの外にいるのは……。
 起き上がって、ドアを開けに行くと、果たして、そこにいたのは基樹だった。
「さっきはごめん。夕食を持って来たんだ」
 そう言って、横にあるワゴンを示したので、翔は、黙って脇によけた。
 
 基樹は、いつも久美がそうするように、テーブルの上に料理を並べ始める。立ち尽くしたまま、それを見ていると、基樹が振り返って言った。
「少しでも食べたほうがいい。クリームシチュー、うまかったぞ」
 それでも、立ったままでいると、基樹は、そばに来て、翔の肩を抱え、テーブルまで連れて行った。仕方なく、基樹が引いてくれた椅子に座ってつぶやく。
「本当に、お腹が空いていないんだ」

 翔の背後に立ったままの基樹が言った。
「俺が、馬鹿なことを言ったから……」
 翔はうつむく。
「僕も、きつく言い過ぎたかも」
 自分が基樹を、否応なしに、この特殊な世界に引き入れ、そのために、基樹は強制的に、教義を学ばされたり、厳しい訓練を受けさせられたりしたのだ。
 
「さっきは、俺の言い方が悪かったかもしれない。教団のことを知って、翔と藍が、今まで、どれだけのプレッシャーを抱えて生きて来たかっていうことが、よくわかったんだ。
 もちろん、それで翔に対する気持ちが変わったわけじゃない。翔のことを、もっと理解したいし、もっと大切にしたいと思った。
 自分でも不思議になるくらい……好きなんだよ」
 そう言った後、基樹は、大きなため息をついた。
 
 思わず、振り返って見上げると、基樹は、苦しげな表情を浮かべている。
「これじゃ、だめか? これ以上、どう言ったら翔に許してもらえるのかわからないよ」
「……もう、許してる」
 そう言ってから、今のは、なんだか偉そうだったと思って、翔は立ち上がった。立ち上がったものの、どうしていいかわからなくて、基樹の手を握る。
 じっと見つめていると、ようやく基樹が微笑んで言った。
「シチュー、食べろよ」
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