第1話
文字数 1,996文字
うっすらと意識が覚醒した。目を閉じたまま耳を澄ますと布団の衣擦れの音がする。黒猫のチョコ(本当は千夜子)だ。間違って足で蹴り飛ばすことがないよう、僕は体を動かす。高齢のチョコにとって三十を超えた男の蹴りは命取りだ。
ふわりとしたチョコの体が足元に感じながら、僕はチョコに会った夜を思い出す。チョコの毛のような黒髪を雨でふわくしゃにさせた彼女が突然連れこんだ成猫が、チョコだった。
それはちょうど、彼女が僕の家に居座り、ほぼ無理やり始まった同棲に僕がやっと慣れてきた頃だった。僕は彼女と猫を見比べ途方にくれ、すぐに諦め、彼女と猫のためにタオルを引っ張り出したのだ。
「名前、チョコにしたの」
分厚いタオルで黒猫を抱きしめながら、彼女は幸せそうに微笑んだ。僕は彼女の濡れた髪をタオルで拭きながら、白い頭皮も細い黒髪も当然のものとして触れていた。
「チョコ? チョコレートが好きだからってそんな簡単に……」
「ちがう! チョコじゃない、千の夜の子で、千夜子。『千夜一夜物語』からとったの、千の夜も長生きするように」
彼女が最近読んでいる『千夜一夜物語』が、床に無造作に落ちている。それもまた安直な名前だし、千の夜なんてたった三年ほどしかないと思ったが、これ以上言うと彼女は怒り出すだろうから、僕は何も言わず「夜ね」と呟いた。
「そう、夜。私、夜好き。りっくんと会ったのも夜、この子と会ったのも夜」
満足げな顔で降り仰いだ彼女の黒い丸い瞳と、黒猫の丸い瞳を順番に見つめ、僕は窓から入る春の穏やかな夜風を感じていた。今年は三人で花見になりそうだと思いながら。
実際その年、僕と彼女はチョコを鞄に入れて、花見をした。チョコは鞄から顔だけだして、降り落ちる花びらを興味深そうに見つめていた。
チョコが来てから、白いベッドカバーもクッションも毛だらけになった。彼女は笑い、僕はうんざりし、黒いものに変えていった。
思い出すのは、彼女の笑顔ばかりなのだ。彼女はチョコと季節ごとに一番居心地の良い場所にいた。春は出窓の近く、夏は台所の戸棚の下、秋は西陽があたる本棚の前、冬は灯油ストーブの周りに。
見渡す限り彼女が浮かぶ部屋で、僕は今日もチョコと一緒に朝を迎える。
チョコがぴくりと体を震わせた。夜明けの空気に、目覚まし時計の音が鳴り響く。彼女の目覚まし時計は持ち主が消えた今も正確に時を刻んでいる。彼女が僕におはようと言う時を知らせるものではなく、彼女の不在を僕とチョコに告げる騒音機として。
彼女が消えてすぐは、朝目覚ましが鳴るたびに、リリリと鳴る音と僕の空っぽの中身が共鳴し、彼女の喪失が体の内側から響き渡った。慟哭という言葉を知ったのも、その状態になるのも初めてだった。
チョコに気をつけながら僕は布団から出て、目覚ましをとめた。静寂が戻ると、彼女の無音の声のシャワーが降り注ぐ。
コーヒーやって、私より上手でしょ、お布団綺麗にしてから服に着替えて、ずっとパジャマはだめ、出かけたい時に着替えてたらその時間がもったいないよ!
彼女の言葉を無数に浴びながら、カーテンを開けた。白く明るい光が部屋を照らす。ガランとした明るい部屋が、穏やかに彼女の不在を明るみにする。僕はチョコの朝食の準備を始める。
360度どこを見渡しても彼女の面影があるこの家にチョコと暮らし、何年か過ぎた。彼女がいなくなった直後は地雷だらけだったこの家で、チョコはゆっくりと年を重ねた。一歩一歩死へと近づくチョコに引っ張られるように、僕は泣きながら歩き続けた。
「チョコ、ごはん」
布団からチョコの鼻先が出てきた。布団をまくり抱き上げ、ご飯の前まで連れていく。
どこかしこにもある彼女の面影は確かに、彼女の不在を際立たせ、僕を動けなくさせたものだった。それが、幾重も桜が咲き、散り、蝉がわめき、蜩がなき、落ち葉がくゆり、雪が音を覆うことを繰り返し、彼女の優しい面影が彼女の温かさそのものに変わる様を、僕はチョコのおかげで目視した。
春の足音が響く明るい朝の中、懸命に食べるチョコの痩せた背に触れ、目を閉じる。チョコがいなくなったら自分はどうなるのか、そんな不安に染みいるように、温かさと背骨の硬さが伝わる。自分の手に彼女の手が覆い被さっているような温かさを感じながら、チョコを撫でる。
生きることはゆっくりと死んでいくことなのだ。どれだけの幸せと出会い、それを糧にして、誰を笑顔にするか。彼女の喪失と年老いたチョコが、何もない僕に注ぎ込んでくれたものを、僕は確かに知っている。
「また桜が咲くよ」
僕の言葉は春の湿度を含んだ空気に溶けていく。今年もまた、降り散る桜を眺めながらチョコと彼女を思えますように。チョコは僕に応えるように鳴いた。細く芯のあるチョコの声が目覚まし時計の残響に混じ入り、部屋を震わせる。それは彼女が笑う響きに微かに似ていた。
ふわりとしたチョコの体が足元に感じながら、僕はチョコに会った夜を思い出す。チョコの毛のような黒髪を雨でふわくしゃにさせた彼女が突然連れこんだ成猫が、チョコだった。
それはちょうど、彼女が僕の家に居座り、ほぼ無理やり始まった同棲に僕がやっと慣れてきた頃だった。僕は彼女と猫を見比べ途方にくれ、すぐに諦め、彼女と猫のためにタオルを引っ張り出したのだ。
「名前、チョコにしたの」
分厚いタオルで黒猫を抱きしめながら、彼女は幸せそうに微笑んだ。僕は彼女の濡れた髪をタオルで拭きながら、白い頭皮も細い黒髪も当然のものとして触れていた。
「チョコ? チョコレートが好きだからってそんな簡単に……」
「ちがう! チョコじゃない、千の夜の子で、千夜子。『千夜一夜物語』からとったの、千の夜も長生きするように」
彼女が最近読んでいる『千夜一夜物語』が、床に無造作に落ちている。それもまた安直な名前だし、千の夜なんてたった三年ほどしかないと思ったが、これ以上言うと彼女は怒り出すだろうから、僕は何も言わず「夜ね」と呟いた。
「そう、夜。私、夜好き。りっくんと会ったのも夜、この子と会ったのも夜」
満足げな顔で降り仰いだ彼女の黒い丸い瞳と、黒猫の丸い瞳を順番に見つめ、僕は窓から入る春の穏やかな夜風を感じていた。今年は三人で花見になりそうだと思いながら。
実際その年、僕と彼女はチョコを鞄に入れて、花見をした。チョコは鞄から顔だけだして、降り落ちる花びらを興味深そうに見つめていた。
チョコが来てから、白いベッドカバーもクッションも毛だらけになった。彼女は笑い、僕はうんざりし、黒いものに変えていった。
思い出すのは、彼女の笑顔ばかりなのだ。彼女はチョコと季節ごとに一番居心地の良い場所にいた。春は出窓の近く、夏は台所の戸棚の下、秋は西陽があたる本棚の前、冬は灯油ストーブの周りに。
見渡す限り彼女が浮かぶ部屋で、僕は今日もチョコと一緒に朝を迎える。
チョコがぴくりと体を震わせた。夜明けの空気に、目覚まし時計の音が鳴り響く。彼女の目覚まし時計は持ち主が消えた今も正確に時を刻んでいる。彼女が僕におはようと言う時を知らせるものではなく、彼女の不在を僕とチョコに告げる騒音機として。
彼女が消えてすぐは、朝目覚ましが鳴るたびに、リリリと鳴る音と僕の空っぽの中身が共鳴し、彼女の喪失が体の内側から響き渡った。慟哭という言葉を知ったのも、その状態になるのも初めてだった。
チョコに気をつけながら僕は布団から出て、目覚ましをとめた。静寂が戻ると、彼女の無音の声のシャワーが降り注ぐ。
コーヒーやって、私より上手でしょ、お布団綺麗にしてから服に着替えて、ずっとパジャマはだめ、出かけたい時に着替えてたらその時間がもったいないよ!
彼女の言葉を無数に浴びながら、カーテンを開けた。白く明るい光が部屋を照らす。ガランとした明るい部屋が、穏やかに彼女の不在を明るみにする。僕はチョコの朝食の準備を始める。
360度どこを見渡しても彼女の面影があるこの家にチョコと暮らし、何年か過ぎた。彼女がいなくなった直後は地雷だらけだったこの家で、チョコはゆっくりと年を重ねた。一歩一歩死へと近づくチョコに引っ張られるように、僕は泣きながら歩き続けた。
「チョコ、ごはん」
布団からチョコの鼻先が出てきた。布団をまくり抱き上げ、ご飯の前まで連れていく。
どこかしこにもある彼女の面影は確かに、彼女の不在を際立たせ、僕を動けなくさせたものだった。それが、幾重も桜が咲き、散り、蝉がわめき、蜩がなき、落ち葉がくゆり、雪が音を覆うことを繰り返し、彼女の優しい面影が彼女の温かさそのものに変わる様を、僕はチョコのおかげで目視した。
春の足音が響く明るい朝の中、懸命に食べるチョコの痩せた背に触れ、目を閉じる。チョコがいなくなったら自分はどうなるのか、そんな不安に染みいるように、温かさと背骨の硬さが伝わる。自分の手に彼女の手が覆い被さっているような温かさを感じながら、チョコを撫でる。
生きることはゆっくりと死んでいくことなのだ。どれだけの幸せと出会い、それを糧にして、誰を笑顔にするか。彼女の喪失と年老いたチョコが、何もない僕に注ぎ込んでくれたものを、僕は確かに知っている。
「また桜が咲くよ」
僕の言葉は春の湿度を含んだ空気に溶けていく。今年もまた、降り散る桜を眺めながらチョコと彼女を思えますように。チョコは僕に応えるように鳴いた。細く芯のあるチョコの声が目覚まし時計の残響に混じ入り、部屋を震わせる。それは彼女が笑う響きに微かに似ていた。