第1話

文字数 1,500文字

父はもう50年近く同じ理容室に通っていた。
ご夫婦2人で営んでいる町の散髪屋さんだ。
引っ越して少し遠くなってからも、父は通い続けていた。
私も幼い頃から父に連れられ、その店でよく髪を切ってもらっていた。
帰り際、いつもおばちゃんは「りかちゃん、パパには内緒やで」と100円を握らせてくれた。
でも、私は高校生になると街の美容室に行きたがるようになり、
それ以来そのお店に行くことはなくなってしまった。
十数年ぶりに訪れたのは自分の結婚式の3日前。
子どもの頃、ふわふわの泡をたっぷり顔に塗って産毛を剃ってくれたおばちゃんに
また顔を剃ってもらいたかったのだ。

それからまた年月が過ぎ、18年ぶりにお店を訪れたのは、春の嵐が吹いた3月下旬。
すでに夜の7時を過ぎていたので玄関のシャッターは下りていた。
ああ…とがっかりしたけれど、子どもの頃に出入りしていた裏口を思い出し、
細い路地を回り込んでみた。
すると、軒下のハンガーに白いタオルがたくさん干されてあり、ドアのすき間からは灯りがこぼれていた。
トントンと裏口のドアを何度かノックするも、激しい雨音が邪魔をする。
しかし、3回ほどのノックのあと、おばちゃんは気づいて出てきてくれた。
子どもの頃に見上げていたおばちゃんは、
もう私より小さくなり、背中も幾分か丸くなっていた。

マスクをしていたのに、「あぁ、りかちゃん」とすぐにわかってくれ、
そして喪服姿と腫れた目を見て、一瞬で察してくれた。
「ちょうど1週間ぐらい前かなあ、うちの人と、松岡さんどうしてるかなあと話してたところやったのよ。最後に来てくれたのは8月やったかなあ。頭に放射線治療をして髪が抜けたところをすごく気にしてたから、できるだけ短く揃えてあげてんよ。お盆とお正月前は必ず来てくれていたのに、今年はお正月過ぎても来ないから心配しててん。住所も電話番号も控えてないから、市の詳細地図で松岡という家を見つけて二軒ほど訪ねてみたんよ。全然違うお家やったけど(笑)。うちのおっちゃんも松岡さんと同じがんで、もうお店には立たれへんから今はずっと家におるんやけど、松岡さんのことはずっと気にしててんよ」。

お通夜の会場がお店のすぐ近くだと告げると、「ちょっと遅くなるかもしれへんけど、あとでお父さんの顔見に行くわ。あ、これ持っていき」。
昔、100円を握らせてくれた時のように、
ペットボトルのお茶を袋にありったけ入れて私に持たせてくれた。

先に通夜会場に戻ると、その30分後におばちゃんは来てくれた。
父の顔を見て、「松岡さん、髪の毛伸びてるやないの」と、父の髪の毛を50年切り続けた理容師はそう言って合掌をした。
そこへ、私の娘も近づいてきて頭を下げた。「ようこちゃん、大きくなったねえ」。
娘も小さい頃に数回、父に連れられて髪を切ってもらったことがある。
「おじいちゃんはお店に来たらいつも、ようこちゃんの話をしてたから、おばちゃんはいろいろ知ってるんよ」。
それを聞き、娘は泣きながら照れくさそうな顔をした。

おばちゃんはお香典を置いていこうとした。
故人の遺志ですべて辞退している旨を伝えるも、「お店開いてまもない頃から50年もずっと通ってくださった、私たち夫婦の理容師人生に欠かせない大切なお客さんやから。今日は顔を見て直接お礼を言えてよかった。教えてくれてありがとうね」と、私の手に香典袋を握らせた。

葬儀場が理容室のすぐそばだったのは偶然だったが、
おばちゃんとの再会は、周りの人を大切にして生きていけという父のメッセージのように思えた。
私、またおばちゃんに髪を切ってもらいたくなった。
そしたらまた父に会えるかな、なんて期待をしながら――。

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