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 壮一が、また難題をふっかけてきた。今度は、一泊旅行に出かけよう、と言う。
 この間は、当日の色仕掛けで、鶯谷のホテルに直行し、今までにないほどの乱れ技で、江ノ島行きを阻止。もちろん、演技だ。放心状態の壮一は、疲れ果て、自らキャンセルした。
 それなのに。少し湿ったような臭いのするラブホテルのシーツの上で、壮一はその計画を口にした。
「有給がたまっていてさ、長野あたりの温泉に行かないか?」
 目をきらきらさせて、告げる。
「つきあい出して三ヶ月だろ? お互いをもっとよく知るために、さ」
 う。よくもまぁ、こんな恥ずかしいセリフを真顔で言える、とおののく。そういうくったくのないところが好きでもあるのだけれど、そんなことしなくても良い。私がしたいのは、昼間抱かれてつかのま現実を忘れることだけだ。壮一には、それしか求めていないのに。
 そろそろ潮時かもしれない。私は、唐突に思った。半年以上続けて男性とつきあったことがないから、本当の男女の機微など知る由もない。相手が不可能なことを要求してきた場合、前向きに解決するのではなく、すぐに別れる算段をしてしまう。そうして次から次へと、渡っていくしかない。
 旅行。このどこが、難題なのか。もちろん、母だ。泊りがけでどこかへ行くなんて、許すわけがないではないか。敏博がいなくなってからというもの、私だけは繋ぎとめておかなければと思っているらしく、干渉の度合は格段に強まっている。携帯のチェックは、日常茶飯事。だから、私はダミーの一台を持っている。そこへもう一台から、友人になりすましたメールを送る。
「昨日のランチは、楽しかったねー、また行こうねー」
 おいしそうなプレートの写真も添えて。友人がいないことを心配されるのも嫌なので、こんな小細工をしているが、そもそも母の縛りが強すぎるから、友人がいない。できないわけで。ダミーの携帯には、誕生日四桁の暗証番号でロックをかけてある。わざと推測しやすい番号を設定し、母が自ら外せた達成感をまず味あわせ、次に他愛のないメールを盗み見させて、
「あっちゃんは、まだまだ私のかわいい娘」
 と安堵させる。そうして、こんな安っぽいトリックにまんまと引っかかる母を嗤う。メインの携帯は、会社の引き出しに置いてくる。
 母の目的は何なのか。今でも、わからないでいる。このまま私が結婚をしないで家にいた方が良いのか。毎日マフィンを焼き続け、そのほとんどは駅のゴミ箱に直行しているのも知らず、せっせと高いバターを買い続けるのか。私は、年を重ねていく。そうして婚期を逃させて、介護要員としてこき使うつもりなのか。
 それとも数少ないピアノ教室の男性生徒から、母のおめがねにかなう人と結婚させてようとでも? わからない。
 しかし、兄が思い通りにならなかったことで、少し学習はしたようだ。真っ向から管理するのではなく、私のご機嫌を取りながら、真綿で首を締めるような方法に変えた。変えたところで、私の人生をタイトに縛っていることには、なんら変わりはない。
 全ての起こりうる面倒なことを防ごうと、本当のことを話して旅行の件は断ることにした。これで、また他につかのま私を抱きしめてくれる男を探さなければならないけれど、旅行に行くことで母がどうなってしまうかを想像すると、断るより他ないと思った。
「というわけで、本当におかしな理由なんだけど、旅行は無理よ」
 私が言うと壮一は、
「へぇ、そんな人世の中にいるんだねー、でもそれだけ明子のこと大切に思ってくれてる証拠でもあるよねー」
 その場しのぎのような感想を述べ、提案は取り下げた。
 そうじゃなくて。
「明子! それ異常だよ。そんなお母さんと暮らしてたら、明子までおかしくなっちゃうから、僕と一緒に逃げよう」 
 そう言ってはくれまいか。誰かが母のことを、おかしいと言ってくれないと、私のほうが間違っているのではないかという不安にかられてしまう。
 今までだって、しかたなくマフィンをあげたクラスメイト、同僚などに少しだけ愚痴をこぼすと、
「いーいお母さんじゃないの。娘思いの」
 と返ってくるだけだった。マフィンの威力は、大きい。
 だけれども、壮一は今までと同じようにつきあってはくれないだろう。この告白が、良い方へと転ぶ可能性は、全くない。そうであるなら、今回は心の中に溜まっていたものを吐き出すきっかけとして、利用させてもらおう。それだけでいい。多くは、望まない。
「そんななまやさしい話じゃないのよ。兄なんて、腕の切り傷、自費で治療したのよ」
「自費で?」
 壮一は、何のことだかわからないようで、首をかしげた。そうなのだ。敏博は、怪我をした時、怖くて健康保険証が使えなかった。
 ある夏の日、友人宅でスイカを食べようということになった。その家の人は、留守。高二くらいだったか。丸いスイカを半分に切ろうとして、手がすべり左腕の内側に包丁が当たり、出血した。思いのほか大量だったので、近くの病院に行った。三針縫った。その時、敏博は、保険証を持ってはいた。どこまでも冷静な兄は、
「今日保険証忘れちゃったので、後で持って来ます」
 と嘘をついた。そして、実費での支払い。相当な額だったと思う。お年玉などを切り崩すほどの。敏博はこの時、天秤にかけたのだ。保険証を使い、後日それが母に知れた時の騒動と、自分のお金を失うことを。今では私もよくわかる。
 腕を縫った。救急病院での応急処置のような、治療。そこからばい菌が入って、破傷風になりはしないか。それだけで、パニック。もう明日死ぬと決めつけられてしまう。破傷風。いつの時代の話だ。また友人宅へも、怒りの矛先が向けられ、
「うちの大事な息子をよくも傷つけて」
 と怒鳴りこむかもしれない。兄は、友人を一人失う。そんなことになるくらいなら、自分のお小遣いを使った方が良いのだ。
 残りの夏の季節、兄はずっと長袖を着ていた。しかも、うっかりまくれ上がると困るので、袖口にゴムの入った服を選んで。母は、人の本質が見えないから、元気にしている敏博にすっかり騙されて、長袖を着ている不思議さに思いをはせることなどなかった。つまり本当の本当は、自分のほか誰にも関心がないのだ。兄や私が毎日規則正しく自分の心を乱すようなことをせず従順でいれば、それでいい。
 心配しているのではなく、心配するような状況になって自分が乱れるのが嫌なだけだ。だから、長袖だろうが半袖だろうが、そんなことには興味はない。今なら、よくわかる。
 黙って聞いていた壮一は、何もかも理解できない。そこまで子供が親に気を使わなくてはならない状況が、全く想像できないのだ。当然。あの頃の敏博と今の私は、狂った熊の冬眠をなるべく邪魔せず、日々を指折り数え消化していくことしかできないのだ。冬眠がなるべく長引くように祈りつつ、もしも発狂した熊が、襲ってきたら。逃げおおせる自信はないから。
 理解はできない壮一も、想像はできたようだ。
「ふーん、ちょっと怖いな。俺だったら、そんな親なら自殺しちゃうかも」
 敏博の傷。手首にも近く、当時私も自傷行為ではないか、と疑った。偶然のできごとだったのだろうけど、もしかしたらこのまま死ねたらいいな、くらい思っていたかもしれない。母の存在は、それ程ねちっこく逃れたくなるようなものなのだ。私も、たまに死にたくなる。この馬鹿げた茶番に幕を引けるのは、死ぬ以外ないと思う。
 しかしながら。
 心のほんの片隅で、いつかどこかで私を救ってくれる人が現れるのではないか、母の話を打ち明けた時、
「明子は、全然悪くない!」
 と言ってくれる人がいるのではないか、地球には、七十億人以上の人はいて、その中の男達の中に一人くらいはいるのではないかと。待っているのだ。
 結局。壮一は、一番手軽なフェイドアウトという方法で私から去り、私は目の前の旅行という心配から逃れられ、少しだけ安心した。けれども本当は、今までのどの男よりもつぶらな瞳で私を覗き込み、髪の毛からとても良い匂いをさせていた壮一と、別れたくはなかった。

 それから半年ほどして、赴任先で父が倒れたという知らせが入った。脳梗塞だったが、幸い発見、処置が早くて、後遺症は殆ど残らないとのことだ。けれども、倒れた時に階段を踏みはずし左足首を骨折した。全治三ヶ月。その介護に母が呼ばれたのだが。
「やぁね。私、あんな暑い所いられないのよ。それに飛行機も乗りたくないし、万一落ちたらどうしてくれるの?」
 落ちる心配よりも、まず自分の夫が生命の危機にさらされたことは、どう思っているのか。兄や私の心配をしている時は、自分の身の安全が確保されているからこその行動で、今回のように出向かなくてはならないとなると、一気にこういう反応になるのだった。
「ゆううつだわ。パスポートだって、残存期間あったかしら。あっちゃん、代わりに行ってくれないかしらねぇ。私、レッスン休めないのよ」
 敏博の尾行の時は、休んでいたくせして。
「私だって、会社あるのよ」
 それに。私は、パスポートを持っていない。皆が行く卒業旅行も「危ないから」の一点張りで行かせてもらえなかった。取得する必要がなかったのだ。忘れているのか。どこまで都合の良い記憶力なのか。
 父の怪我についてのコメントは、ない。
「現地のお手伝いさんに面倒見てもらうわけにはいかないのかしら、いやぁねぇ、面倒くさいわ」
 耳を、疑う。自分の夫。異国で倒れたなら、すぐにでも飛んでいくのが普通ではないのか。
「ねぇ、あっちゃん」
 私が断ったので、自分と同じ気持ちだと勝手に解釈し同意を求めてくる。違うだろう。どうしてそう勝手に判断するのか。
 父のことを思う。本当は、来てもらいたくなんかないはずだ。会社の規定で、知らせてきただけだ。遠く逃げおおせて羽をのばしているのだから、きっと病気になったことを悔いているに違いない。
 つまり母は。
 誰からも、愛されていないのである。そして、そのことに気づいていない。面倒くさい、と自分から突き放しているかのように言っているが、そもそも必要とされていないのだ。
 なんてもろい家族の絆。
 消しごむを机の上でこすり続け、できた細い紐。小学校の頃に、授業中の退屈しのぎによく作った。隣の子とこっそり競って、十センチ、十五センチ。カスと化した消しごむが、細く連なり紐となっていく。ぷち。少しの油断で、切れる。我が家の絆は、こんなもの。この紐より、心もとないかもしれない。すでに切れた二本の紐。かろうじてつながっている私と母の間の一本。これも強度はたかが知れたもの。
 愛されていないのは、父も同じだ。母からはもちろん、私だってなんとも思わない。無責任にも逃げ出してのうのうと海の向こうで結婚生活のほとんどを過ごしている父に、何の感情も持ち合わせてなんかいない。倒れたと聞いても、芸能人の訃報の半分も衝撃を受けなかった。
 消しごむの紐は切れてしまったら、切れ目を合わせて、その上で再度消しごむを転がせば修復は効く。元通りになるし、少しだけ太く強固になる。
 私は。あまりにも気の毒で切れなかったこのはかない紐を切るのは今だ、と直感で思った。
 母がのろのろと渡航の準備をしている間、私は不動産屋に通い、ワンルームマンションを契約した。有給休暇を連続して取り、その昼間を使って必要な家具や台所用品を揃えた。貯金は潤沢だった。なにしろ私は友人と遊びに行くことがなく、外食の機会も極端に少ないのだ。お金は、残る一方だった。
 壮一に言われたのだ。
「明子、自分でどうするのが一番良いか考えなよ。俺は、助けてあげられない。これは、明子の問題だもん」
 と。
 最初は、怒りでわなわなと身体が震えた。そんな手垢のついた格言みたいなこと、言って欲しくない。私が欲しいのは、
「明子を守ってあげるから」
 のような言葉。言われた瞬間、壮一のことが大嫌いになった。だから、去られても平気でいられたのだ。
 けれども。
 きっとそれが、今になって起爆剤となり爆発を起こしたのだろう。
 思えば、こんなセリフを二十六歳にもなって言われてしまうのも、恥ずべきこと。壮一が本当に私のことを思って言ったのではない。それくらいは、わかっている。私達は、そこまで親しくはなかった。それでも、こんなふうに少し背中を押してくれる発言をした男も初めて。それくらい、薄い関係を紡いで、誰かれ構わず男を渡り歩いて来たということ。
 私にとって男は、因幡の白うさぎが軽々と飛び越えて行った水面に顔を出した石のようなものだった。私もまた、身体から消しごむの紐を練り出し、ぷちんと切らせては、誰とも繋がってはいなかった。
 母は、その数日後渋々空港へと向かった。
 私は、予定通り、運送業者を手配して荷物を運び出した。置き手紙の代わりに、今まで撮った男との淫らな写真を数枚、ダイニングテーブルの上に広げておいた。これがなければ母は、帰国後すぐに会社に乗り込んでくるだろう。
 でも。
 かわいいかわいいあっちゃんの身体は、すでにすっかり汚されていると知れば、母自らその絆を切るだろう。敏博の時みたいに。そうして、一生自分の崇拝者であるピアノ教室の生徒にちやほやされて、暮らしていくだろう。家族内の都合の悪いこと、恥部は、「なかったこと」にするのが、お得意の母。もしかして、自分に息子と娘がいたことすら、なかったことにするかもしれない。思い通りにならない子供なんていない方がまし。母にとっての正論は、ありえないほど非常識。それに気づけない哀れな母は、きっと父に、
「あなたが、脳梗塞なんかになるから、私はこんな所に来なければいけなかった。なんて運のない」
 などと、愚痴を言っていることだろう。そして父は、一言も、ただの一言も耳に入れず風に流すのだろう。父は、ずるい。そう、両親には少しも未練を感じない。でも、少しだけ敏博のことは気にかかる。そうして私は、一人。なんとなく強い。
 久しぶりに、壮一に連絡をしてみようか。半年ぶりになる。自分で結論を出したと告げたら、褒めてくれるかもしれない。新しい彼女とデートの最中で、無視されるかもしれない。それなら、それまでのこと。私は、またどこかで男を見つけるだけのことだ。
 ただ、これからは門限なんて気にせず、愛を育む事ができる。狭いながらも私の部屋に招き入れることも、可能。きっと今までと違う関係が、結べる。あの時大嫌いだと思ったけれど、やっぱり壮一の瞳は好きだ。壮一ともう一度そうなれたら、嬉しい。
 念のために、転職もしよう。万が一会社に来られたら、厄介。そして、仕事を変えてしまえばもう追手は来ない。
 びくびくした日々に、さよなら。決別の時。今日の私の枕は、思いのほか高い。首が痛くなるほどに。
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