桜の季節

文字数 2,999文字

 4月中旬にしては冷たい夜の風が、わずかに残っていた最後の花びらたちを散らしていく。
「——さよなら」
泣きそうな顔でそう告げる君を前に、俺は立ち尽くすばかりで何も言えなかった。そしてその日を最後に、彼女は本当に俺の前から姿を消した。

 彼女と別れた次の日、目が覚めるとすでに夕方で、太陽は西の山の向こうに沈むところだった。部屋の中の空気は淀んでいて息がしづらく、俺は部屋の窓を開けると裸足のままでふらふらとベランダに出た。すると、奇妙な光景が目の前にあった。——桜の花が咲いていたのだ。
 賃貸マンションの2階にある俺の部屋のベランダからは、外の桜並木が間近に見える。桜並木と言っても6本の桜の木が並んで植えられているだけで、マンション裏のその通りは狭く花見スポットと言うわけでもなかったため、花見の時期でも静かだった。彼女は桜の花がこの世でいちばん好きな花だとよく言っていた。初めて彼女を部屋に呼んだ日、俺は彼女をベッドに誘うまでの自然な流れを作るための会話のシミュレーションを何回も繰り返して緊張でどうにかなりそうだったのに、彼女は俺の部屋に上がって数秒後、外に満開の桜を見つけるなり大喜びし、コンビニで買ってきたお酒はベランダで飲もうと言い出した。結局その日のベランダでの花見は3時間に及び、散々桜を眺めて満足した彼女はシャワーを浴び終えると、俺にキスの一つもさせずにぐーすかと眠ってしまったのだった。それからというもの、俺の部屋は彼女のための花見スポットとなり、一昨年の春も、去年の春も、そして、つい数日前までも、二人で何度も桜の花を眺めた。それなのに、何故こんなに突然——。
 いや、今はそれよりも。桜の花は昨日の時点でほとんど散っていたはずだ。生き生きとした若葉が花びらを追い出すかのような勢いで成長し、アスファルトに落ちた花びらが人々に踏まれて茶色くなっていた。昨夜彼女と会った公園の桜だけじゃない。俺の部屋から見えるこの桜の木も、ほとんど黄緑色の葉に覆われているのを確かにこの目で見た。それなのに、今目の前にあるのは、満開の花を咲かせた桜の木だ。
「まさか、タイムスリップか?」
ありえない考えだとはわかっていたが、思わずスマホの日付を確認する。ロック画面には、間違いなく「今日」の日付が表示されていた。一昨日発売だったコミックの新刊も、ローテーブルの上に無造作に置かれている。一体何が起こっているというのだろう。
 俺は、寝巻きにしているジャージにパーカーを羽織っただけの適当な格好で部屋の外に出た。マンションの裏に回ると、先ほど部屋から見た通り、並んだ6本の桜は全て満開だった。緑の葉は少しも見えない。俺は昨日の公園へと向かったが、そこでも同じように、満開の桜が俺を迎えた。昨夜、俺と彼女の足元では、春の残り滓みたいな花びらがクルクルと風に踊っていたが、今日はそれもない。俺は半ば祈るような気持ちで、近場の花見スポットまで走った。花見の時期には「桜祭り」が開かれ、川沿いの通りには屋台が並び、昼も夜も多くの花見客で賑わう全長数百メートルにも渡る本物の桜並木。小さな川を挟むその桜並木を一望でき、絶好のフォトスポットとなっている橋の真ん中で、俺は棒立ちになった。悪い予感は的中し、何本もの桜の木は全て満開の花を咲かせていた。しかし、桜祭りの期間中には行われる夜のライトアップはされていない。すっかり日が落ちた闇の中でうっすらともやのように浮かぶ白い花が、木々の間を流れる真っ黒な川に飲み込まれていくような気がして、ぞっと寒気がする。
 可愛らしい柴犬と、そのリードを握った中年男性が橋を渡ってくる。男性は桜並木を一瞥すると、子に語りかけるような優しい声で犬に話しかけた。
「見ろ、もう桜の花もすっかり散ってしまった。来週からは急に暑くなるらしいぞ。俺は暑いのは苦手なんだよなあ。まあでも、今年は一緒にたくさん花見ができてよかったな」
男性は少し立ち止まると、犬の頭をよしよしと撫で、再び歩き出した。
 俺は絶望した。この満開の桜が見えているのは自分だけなのだろうか。彼女がいなくなってしまったショックで頭がおかしくなったのだろうか。悲しみのあまり、彼女が大好きな桜の花が幻覚として見えているのだろうか。そう言えば、彼女はどうして桜の花がいちばん好きだったのだろう。あれだけたくさん二人で花見をしたのに、その理由を聞いてみようと考えたことすら無かった。昨夜は、公園からの帰り道も、家についてからも、ぼうっとしていて自分が悲しいのかどうかも分からなかったが、今、急に目に涙が滲み始めた。俺は静まり帰った桜並木に背を向け、情けなくぽろぽろと泣きながら歩いてマンションに帰った。

 ——それから数年が経った。

 この数年間、桜の花は一度も散ってなくなることはなかった。満開の桜は、やはり俺にだけ見えている幻覚のようなもので、一年中咲き続けていたが、手を触れることはできなかった。風が吹けばその花弁ははらはらと散るが、いくら散っても木が裸になることはなく、青々とした葉が生えてくることもなかった。桜の花が見えること以外に異常はなく、病院に行くような気力もなかったので、精神科にもかかっていない。幻覚が見えるようになった年の夏にはすでに分かったことだが、桜の花は、一年のうちに数日間しか咲かないからこそ美しく、柔らかく生命が息を吹き返すような春に咲くからこそ人々の心を惹きつけるのだ。夏のじっとりと湿った緑の中でも、秋の鮮やかな紅葉の中でも、冬の静かに張り詰めた空気の中でも、変わらず優しげに咲く薄ピンクは、とても呑気に綺麗だなどと言えるものではなく、気味の悪さや禍々しささえ感じさせるものだった。俺は、桜の木が目の前にあるあの部屋から引越し、外出する時は桜が目に入らないように俯いて歩いた。しかし、ここ日本では、大抵どこへ行ってもそこかしこに桜の木が植えられている。うっかり季節外れの桜を目にして重く沈んだ気持ちになることは、週に一度くらいはあることだった。
 俺が彼女のことを忘れられないから、桜の花の幻覚が見え続ける——。これが最もありえそうな原因なのだが、だんだんと、彼女を忘れられないから桜が咲くのか、桜が咲いているから彼女を忘れられないのかが分からなくなり、彼女が俺に呪いや催眠でもかけたせいでこんな目にあっているのではないかという妄想まで膨らみ始めた。桜と彼女について色々と考えを巡らすのは俺にとっては苦しいことだったので、できるだけ余計なことは考えず、ただ無心に桜を避けるように努力する生活が習慣になっていった。

 2月下旬のある日、何の気なしに付けていたテレビから「今年の桜の開花は、例年より早い予想となっています」と伝える声が聞こえてきた。締め切っていた部屋のカーテンと窓を少し開けてベランダへと出ると、木の芽起こしの温かな雨が生命の気配を呼び覚ましていた。
 本物の桜が咲いている間、俺の幻覚は消える。桜を売りにしている近所の市民公園では、例年より少し早めに桜祭りが開かれるだろう。大勢の人が、そこに咲く花を見て「きれい」と口にする。俺だけじゃない。誰の目にも、あの花の姿が映る。

 ああ、もう少しだ。もう少しで、一年にたった数日だけ、君が愛したあの花を心の底から美しいと思える季節がやってくる。
 
 
 


 
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