第1話

文字数 5,000文字

 彼女は私の手に触れないよう慎重に、レシートと小銭を私の掌に置いた。
 私は不快に思いながらも何も言わずに小銭を財布に流し込み、レシートをレジ袋に放り込んで店を後にした。その際彼女からは、マニュアルにあるであろうお礼の言葉も無かった。
 もし彼女が、目を合わせるのすら恥ずかしくなってしまう様な美人でさえなければ、私は店にクレームを入れていただろう。仮に私でなくとも、客に対して雑で無愛想な態度を取り続ける店員が居れば、クレームを入れて最悪辞めさせる人も居るはずだ。
 しかし、彼女に限ってはそうならなかった。
 男なら、どれだけ態度が悪かろうと彼女のその美貌を一目みれば、難癖をつける事は無いだろう。女性からはクレームが入るかもしれないが、今日まで彼女がなんとも無しにレジ打ちを続けているところを見ると、彼女の人事権を持っているのはやはり男である事は間違いないなかった。少なくともそう邪推するくらいに不快な接客であったし、同時に異性なら誰でも虜になる美しさを彼女は持っていた。
 彼女は何という名前なのだろうか。私の勤め先近くのコンビニで、彼女を見かける様になってそれなりに経つが、私は彼女の事を何も知らない。店員と客の関係かそれ以下でしかないし、当たり前と言えば当たり前の事だった。
 私はふと、レシートの事を思い出し袋の中を探って拾い上げた。
 レシートのレジ打ちの名前欄には、『浅宮』と印字されていた。読みは『あさみや』だろうか。下の名前も気になったが、プライバシー保護の為か苗字しか記されていなかった。
 私はレシートを握り丸めてポケットに押し込み、クリームパンを袋から取り出して頬張った。そして一緒に買ってあった缶コーヒーで流し込みながら、足早に職場へと向かった。


 広いオフィスには、普通に使うにしては大きく背の高い机が並び、その机を取り囲む様に衣服の掛かったキャスター付きのハンガーラックが立ち並んでいる。
 ここは採寸場だ。この大きな机は衣類を広げて採寸する為の物。つまりは採寸台だ。
 朝の形式的な朝礼を終え、衣服がぎっちりと掛けられたラックを一台選んで運び、私は自分の採寸台に着いた。今日も果てない採寸作業が始まるのだ。
 採寸箇所は例えばシャツなどであれば全長、肩幅、袖丈、袖口、ウエストの長さをメジャーを使って測る事になっている。女性物の衣服なんかはこれにバストのサイズが加わる。私の仕事はこれらの長さをひたすらに測り、採寸台に置かれたパソコンに衣服のデータを入力し続ける事だ。この衣服の情報はネットを通してお客の目に触れる事になる。
 一見すると楽な作業に思えるかもしれないが、採寸も入力も全て立ちながら行わなければならない。
 採寸は別に構わないのだが私は結構に背が高く、中腰で数値を入力していくのがわりかし面倒な事だった。
 採寸場に椅子が無いのは、会社や上司が立ち仕事を厳しく強要しているとかではなく、単に立ちながらでないとしっかり採寸ができないからだ。

「塁くん、塁くん」

 私が採寸作業に入ろうとラックに手をかけた時、隣の採寸台に居たふくよかな女性に声を掛けられた。
 私に声をかけた女性の名前は大野今子(おおのいまこ)さん。私の先輩だ。彼女は色白でふくよかであり、いつもハーフパンツから綺麗な大根の様な足を覗かせている為、私は心の中でこっそり大根(だいこん)さんと呼んでいる。
 因みに、『塁』とは伊藤塁(いとうるい)こと私の下の名前だ。

「クレームのチェックしないの?」
「何ですクレームって」
「さっきの朝礼で、クレームのメールが来てたから確認しておいてくれって言われたでしょ?」
「あぁ、そうでしたっけ」

 形式的だと思っていた朝礼は、どうやらそうではなかったらしい。メモを取る振りをしながら呆けていた為、朝礼の内容は全く頭に入っていなかった。

「塁くんのところにクレームが来るなんて珍しいね」
「採寸ミスですかね。気を付けてはいるんですけど」

 誰がどの服を採寸したかは全てデータとして残っている。その為、お客が購入した衣服の品番と共にクレームを入れると、誰に対しての意見なのか直ぐに分かってしまうのだ。

「塁くんの事だし、どうせお客様のいちゃもんじゃないかな」
「どうですかね。今までのクレームは大抵、『当社基準』の一文で返せる様な物ばかりでしたけど」

 お客のクレームの大半はネットに掲載されている衣服のサイズと、実物の大きさが違うといったものだ。そういうクレームが入ると、お客が購入した衣服と同じ物を取り寄せて採寸し直すことになる。大抵は何度測り直してもネットに掲載されている長さと同じで、お客が自分の基準で測って文句をつけているのがほんとんどだったりする。そんな時はクレームの返信に『当社基準』の一文を添えて、私達採寸者に非がない事を示すのだ。

「塁くんの採寸完璧だもんね」

 大根さんがそう言って体を私に寄せてくる。
 そんな彼女に対し、私は作り笑顔を向けお礼を言った。彼女の事は嫌いではないが、特別好きというわけでもなかった。

「まぁ結局のところ長さ測ってるだけで、難しい事はしていませんし……」
「私達毎日沢山の衣服を採寸するでしょ。それを全部ちゃんと測るって凄い事だと思うよ。私なんて定期的に採寸ミスでクレーム来るし」
「いえ、私なんてただ頭を空にして作業に没頭しているだけですから……」
「仕事も早いから塁くんが来てから残業とかも減ったし、いつも言ってるけど君にはほんと感謝してるよ」
「はぁ」
「……それでね。お礼と言ったらなんだけど、今度の休みに食事でもどうかな。先輩だし奢るよ?」

 大根さんはしっとりした瞳で私を見つめながら、パソコンのマウスを握っていた私の手を取った。
 私は少し狼狽しながら、「次の休みは確か予定があったので、暇な日が分かったら連絡させて頂きますね」などと適当な事を言って大根さんを隣の採寸台に追い返した。
 親元を離れ一人暮らしをする様になってから、私に対して感謝や褒め言葉を送ってくれるのは彼女くらいなものだし、あまり無下な対応するのは良くないと思ったりはする。
 大根さんは少しふくよかなだけで、容姿が不恰好というわけではない。言うなれば、ぽちゃ可愛いという言葉が似合うだろう。実際私が片想い中で無ければ、大根さんつまり大野さんの事を、受け入れていたかもしれない。
 私は一つ溜め息をついてパソコンへとむかい、ご意見ボックスのタブを開いた。
 クレームのメールの名前欄には『センキュー!』の文字と共に絵文字のハートが添えられていた。
 お客にネットでクレームを貰う際、名前と住所を頂く事になっている。これは単純に何処の誰がクレームを出したか知る為でもあるが、悪戯防止も兼ねているのだ。名前欄が明らかに偽名だったり適当だったりすると、メールの本文は大抵ふざけたものになっている事が多い。
 正直この手のメールにいちいち対応するのは面倒だ。上司には名前欄を見せて、悪戯メールでしたとでも報告しておけば問題無いだろう。
 そう思いつつも私はセンキューさんのメールを開いていた。
 お客のご意見を頂くこのメールボックスにはやはりというべきか、普通は文句を綴った内容のメールしか届かない。商品の内容に満足していたら、わざわざメールなど送っては来ないのだ。しかし、このメールの名前欄にはセンキュー、感謝を意味する言葉が打ち込まれている。センキューと言う外国の方の可能性もあるが、どちらにせよ私は自分の中の好奇心を抑えられなかった。
 メールの本文には以下の様な事が書かれていた。『ネットに載っていた服の写真と、掲載されていた採寸の数値がどう見ても合わなくて不安でしたが、実際買って着てみたらサイズぴったりで感動しました。私にとても似合う服で、この服のおかげで彼氏もできました』
 内容についてはかなり簡略化してある。特に後半は服に関係ない彼氏の事ばかり書いてあった。
 要するに新しい服を買って彼氏が出来、その勢いで惚気お礼メールを送ってしまったというわけだ。
 どんな服を買ったのだろうかと思い、メールの商品番号から該当の品を調べるとそれは直ぐに見つかった。

「うわ、これか……」

 私が採寸した中でも際物の服で、誰がこんなの着るんだと言って、大根さんと馬鹿にしながら採寸した服だった。
 メールにはサイズが不安だったと書かれていたが、この服にはふりふりやひらひらの余計な装飾が沢山ついており、そのせいで見た目からは実際のサイズが分かりにくいものとなっていた。

「なんだか複雑な気持ちだ……」

 私は自分の好奇心に負けた事を後悔し、惚気られた事にもうんざりしながらメールボックスのタブを閉じた。そして、採寸作業に入ろうかという時再び大根さんに声をかけられた。

「どうかしたの?」
「あぁ、いえ……」
「にやけちゃって、何かいい事でも書いてあった?」

 どうやら私は笑みを浮かべていたらしい。
 仮にそれが残念な感性を持った人からの惚気メールであっても、ご意見ボックスに届く始めてお礼は、自分で考えているより嬉しいものだった様だ。


 メールを貰った日の翌朝。私はいつもの様に例のコンビニへと足を運んだ。
 彼女はいつもの様にレジに立っていて、私を見るとより一層無愛想な顔つきになった。
 私はいつもの様に朝食用のパンと缶コーヒーを手に取り、カウンターへと置く。
 置かれた品を彼女はいつもの様に気だるそうに会計し、お釣りを差し出した。
 これらは毎日の事ではあったが私は普段と違い、お釣りを受け取る際に一言お礼を述べた。なにも、メールの件があったからといって、突然全てのものに感謝する博愛主義者になったわけではない。私が想いを寄せる彼女にお礼言ったらどんな反応をするのか、そんな好奇心からの事だった。
 お礼を言った後に彼女の様子を伺おうとしたが、顔を向けるのは気恥ずかしく、結局私は直ぐに背を向けて店を出る事にした。

「……ありがとう、ございました」

 彼女にとって、私の感謝の言葉はやはり予想外の出来事だった様で、事務的なお礼の言葉は少しうわずっていた。
 それから私は会計の時は毎回彼女にお礼を言った。彼女もまた業務上の事ではあったがお礼を返してくれるのだった。
 彼女の接客が一般的と呼べる物になってから半月ほど経った。
 私は彼女との距離を縮めたくてお礼の言葉以外に、日常会話を挟む様になっていた。
 話してみると彼女は無愛想でもなんでもなく、少しズレた所はあるがお喋りで快活な普通の女の子だった。彼女曰く無愛想な態度を取っていたのは私に対してだけで、初めて会った時に私が睨みつけていたのが不愉快だったそうな。私は彼女を睨みつけた記憶は無いが、もしかしたら気づかないうちに熱い視線を送っていたのかもしれない。
 そうやって何度も会って会話を重ねるうちに、私は彼女に彼氏がいる事を知った。なんでも、一月ほど前に街中で運命的な出会いをしたそうだ。
 彼女は自分のファッションセンスを酷評される事が多いらしく、それまでまともに男性と付き合った事がなかったらしい。しかし、街中でとある人に自分の着ている服をべた褒めされて、そのままその人と恋に落ちてしまったとのこと。


 今日は休日だ。休日にもかかわらず私は職場近くの公園に来ていた。厳密にはコンビニの近くの公園だ。
 私は休みの日もこのコンビニに通う様になっていて、いつもの習慣でここへやって来てしまった。もう意味もないというのに。
 何がいけなかったのだろうか。初めて会った時に熱い視線を送ってしまった事か。それとも街中で変な服の女を探さなかった事だろうか。いずれにせよ、もっと早くに彼女にお礼を言っておけばもっと別の未来もあったのかもしれない。
 お礼を言われて嫌な気になる人など居ないだろうし、何より言うだけならタダだ。言っておいて損はないだろう。
 公園のベンチに腰掛けながらぼんやりと空を眺めていると、いつも些細な事でお礼を言ってくれるとある女性の顔が浮かんだ。
 私は携帯電話を手に取った。
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