第1話
文字数 1,959文字
「江戸の町には剣術道場がたくさんあるわなあ」
料亭の座敷で軍鶏 のもつ鍋を箸でつつきながら勝小吉 が言い出したのが、そもそもの始まりであった。
「はい」
向かいに座るのは男谷精一郎 。
小吉はまるで自堕落な浪人の姿をしている。対して、羽織まで着て背筋を伸ばして座っている精一郎はふっくらとして温容であった。
小吉の方が御家人で、精一郎は武士ではない。
もっとも後年、精一郎は天下の講武所 頭取 、男谷下総守 となり剣聖とうたわれる人物だ。
小吉はというとあの勝海舟 の父である。
さらにこの両人は甥と叔父の関係にある。しかも年上の精一郎の方が甥なのだ。
「おれは考えるんだよ。いってえどこの道場が、いや剣客が一番強えかってね」
「やはり玄武館 、練兵館 と士学館 あたりになりますか」
「おう。どこもかしこも玄武館だ。北辰一刀流 の千葉周作 は今や飛ぶ鳥を落とす勢いだなあ」
「練兵館。神道無念流 の斎藤弥九郎 どのも立派なお方だと聞いております」
「立派な人間が強えってわけでもないだろ。そういや、ちかごろ士学館の鏡新明智流 を継いだ桃井春蔵 の四代目は天才という話だな」
「かなりの美形とか」
「かー、だめだだめだ。気に入らねえ。道場がでけえからって強えとはかぎらねえぜ」
「多摩の近藤某 が開いている試衛館 が強いと聞いたことがありますが」
「あれもだめだ」
小吉は手を振った。
「一人相手によってたかって殴る蹴る。なんでもありだよ。剣法というより殺法 だね」
「左様ですか。では道場ではなく一介の剣客ですと、まずは大石進 どの」
「ああ。四尺(一・二メートル)の竹刀で負けなしっていう。あんなのが剣術なのかい」
小吉は眉をひそめる。
物干竿 のように長大な竹刀を使えば容易に勝てる剣理 。
一時、長大な竹刀を持つ者が増えたものであった。
「大石どのを破った者がおります」
「それはどいつでえ」
「高柳又四郎 どの」
「おう。あの、音なしの構えの」
音なしの構え。相手と剣を合わせることなく、音もなく斬るという秘剣。
「噂の秘剣を見てみたいねえ。それで、高柳又四郎はどうやって大石進を倒したんだい」
「鍋蓋 のような鍔のついた竹刀をもって」
小吉は口をあんぐりと開けた。
「なんでえ。童 の遊びじゃねえか」
道具をもって道具を制す。それが剣術と言えるのか。
小吉は首を捻る。
「天保御前試合 の勝者は決まりませんね」
「なんでえそれは」
「これほどの剣客を集めて、小吉さんとわたしほどの剣人が頭の中で競わせる。なんとも贅沢な御前試合ではありませんか」
精一郎が珍しくおどけてみせた。
「ちげえねえ」
小吉も口を開けてしばらく笑った。
「ところでおめえさん。そいつで人を斬ったことはあるのかい」
箸で精一郎の横に置いてある刀を差す。
「まさか。小吉さんは」
小吉は照れたようだが不敵な笑みを見せた。
「いまの世の中、剣客といってもしょせんは撃剣 よ」
撃剣とは竹刀で防具をつけた相手と試合をすることだ。
「つまり小吉さんは人を斬ったことがある剣客が一番強いと」
「まあな。あるいは迷うことなく斬れる奴だな。そういう意味では白井亨 」
「え。白井どのは中西道場の。あそこは古来からの木刀での型稽古ですが」
「それよ。だから強え。木刀は一歩間違えば命にかかわる」
なるほど中西道場の中西忠兵衛 の門下には、浅利又七郎 、千葉周作、高柳又四郎ら高名な剣客が多くいる。
精一郎は顎に手をあてて唸った。
「ではこの天保御前試合は白井亨さんの勝ち――」
一陣の木枯らしとともに三度笠 を被った男が料亭に入ってきた。
道中合羽 を羽織った姿は博徒 であろう。
料亭の客たちも一気に冷えたからか、だれもが固まったように動かなかった。
「待ちやがれ」
静寂を破って、三人の着流しの男たちが抜き身の白刃をちらつかせて乱入してくる。
「うちの賭場で暴れやがって」
「いかさましたのはそっちだろ」
着流したちの白刃が閃いた。
三度笠の博徒は振り向くと同時に長脇差 を抜いた。
銀光が迸 ること三度。
着流しの男たちは三人ともが博徒の足もとに血を噴いて倒れていた。
博徒が三度笠を取ると、精悍だがどこか人懐っこい顔が現れる。
「主人、店を汚してしまったな」
呆然とする料亭の主人の足もとに小判を一枚投げる。
「ごめんなすって」
料亭の客たちに頭を下げて、博徒は去ろうとする。
「待ちなよ。おめえさん、名を、名をおしえてくれよ」
小吉が声をかけた。
博徒は振り返り、腰を中腰に落とし、右手の手のひらを見せるように前へ突き出した。
「軒先 の仁義、失礼ですがおひかえなすって」
小吉が座敷から身を乗り出した。
「手前、生国 は上州 は国定村 でございます。姓は長岡、名は忠次郎。人呼んで国定忠治 でございます」
「あの侠客 の……」
精一郎が感嘆の声をあげる。
「見なよ、精一郎。あれが天保御前試合の勝者だよ」
料亭の座敷で
「はい」
向かいに座るのは
小吉はまるで自堕落な浪人の姿をしている。対して、羽織まで着て背筋を伸ばして座っている精一郎はふっくらとして温容であった。
小吉の方が御家人で、精一郎は武士ではない。
もっとも後年、精一郎は天下の
小吉はというとあの
さらにこの両人は甥と叔父の関係にある。しかも年上の精一郎の方が甥なのだ。
「おれは考えるんだよ。いってえどこの道場が、いや剣客が一番強えかってね」
「やはり
「おう。どこもかしこも玄武館だ。
「練兵館。
「立派な人間が強えってわけでもないだろ。そういや、ちかごろ士学館の
「かなりの美形とか」
「かー、だめだだめだ。気に入らねえ。道場がでけえからって強えとはかぎらねえぜ」
「多摩の近藤
「あれもだめだ」
小吉は手を振った。
「一人相手によってたかって殴る蹴る。なんでもありだよ。剣法というより
「左様ですか。では道場ではなく一介の剣客ですと、まずは
「ああ。四尺(一・二メートル)の竹刀で負けなしっていう。あんなのが剣術なのかい」
小吉は眉をひそめる。
一時、長大な竹刀を持つ者が増えたものであった。
「大石どのを破った者がおります」
「それはどいつでえ」
「
「おう。あの、音なしの構えの」
音なしの構え。相手と剣を合わせることなく、音もなく斬るという秘剣。
「噂の秘剣を見てみたいねえ。それで、高柳又四郎はどうやって大石進を倒したんだい」
「
小吉は口をあんぐりと開けた。
「なんでえ。
道具をもって道具を制す。それが剣術と言えるのか。
小吉は首を捻る。
「
「なんでえそれは」
「これほどの剣客を集めて、小吉さんとわたしほどの剣人が頭の中で競わせる。なんとも贅沢な御前試合ではありませんか」
精一郎が珍しくおどけてみせた。
「ちげえねえ」
小吉も口を開けてしばらく笑った。
「ところでおめえさん。そいつで人を斬ったことはあるのかい」
箸で精一郎の横に置いてある刀を差す。
「まさか。小吉さんは」
小吉は照れたようだが不敵な笑みを見せた。
「いまの世の中、剣客といってもしょせんは
撃剣とは竹刀で防具をつけた相手と試合をすることだ。
「つまり小吉さんは人を斬ったことがある剣客が一番強いと」
「まあな。あるいは迷うことなく斬れる奴だな。そういう意味では
「え。白井どのは中西道場の。あそこは古来からの木刀での型稽古ですが」
「それよ。だから強え。木刀は一歩間違えば命にかかわる」
なるほど中西道場の
精一郎は顎に手をあてて唸った。
「ではこの天保御前試合は白井亨さんの勝ち――」
一陣の木枯らしとともに
料亭の客たちも一気に冷えたからか、だれもが固まったように動かなかった。
「待ちやがれ」
静寂を破って、三人の着流しの男たちが抜き身の白刃をちらつかせて乱入してくる。
「うちの賭場で暴れやがって」
「いかさましたのはそっちだろ」
着流したちの白刃が閃いた。
三度笠の博徒は振り向くと同時に
銀光が
着流しの男たちは三人ともが博徒の足もとに血を噴いて倒れていた。
博徒が三度笠を取ると、精悍だがどこか人懐っこい顔が現れる。
「主人、店を汚してしまったな」
呆然とする料亭の主人の足もとに小判を一枚投げる。
「ごめんなすって」
料亭の客たちに頭を下げて、博徒は去ろうとする。
「待ちなよ。おめえさん、名を、名をおしえてくれよ」
小吉が声をかけた。
博徒は振り返り、腰を中腰に落とし、右手の手のひらを見せるように前へ突き出した。
「
小吉が座敷から身を乗り出した。
「手前、
「あの
精一郎が感嘆の声をあげる。
「見なよ、精一郎。あれが天保御前試合の勝者だよ」