第7話 出会いと始まりのあの坂
文字数 3,313文字
丸戸史明氏原作、深崎暮人氏イラストの『冴えない彼女(ヒロイン)の育てかた』(略称『冴えカノ』)は、二〇十二年七月から二〇十七年十月の約五年に渡って、本編十三冊、短編集五冊、計十八冊が富士見ファンタジア文庫から刊行された。この作品は、原作者である丸戸氏が脚本とシリーズ構成を務め、二〇十五年以降に三度に渡ってアニメ化されている。
原作の第一巻から第四巻に相当するアニメの第一期は二〇十五年一月期に全十三話で、第五巻から第七巻に相当する第二期は二〇十七年四月期に全十二話で、そして、その最終章が劇場版として二〇十九年十月に公開された。
アニメ版の第一期は、まず特別篇として第〇話「愛と青春のサービス回」が置かれ、その後に、物語の時間軸を巻き戻し、第一話から本格的に物語が始動するという構成になっている。ちなみに、第二期も、特別編の第〇話の後に第一話という同じ構成になっている。
物語のはじまりを描いているアニメ版の第一期・第一話「間違いだらけのプロローグ」には早くも、物語の主要作中人物である安芸倫也(アキ・トモヤ)が登場し、彼が坂道を自転車で降りてゆく場面から始まっている。そしてその背景には満開の桜の樹々が出てきており、これによって、物語の季節が、桜咲く三月末から四月初めにかけての短い時期、とある春の一日であることが示唆されている。
この時、吹き上がった強風のせいで飛ばされた白いベレー帽が、桜の花びらが舞い散る坂道を転がり落ちてゆくことにトモヤは気付く。そして自転車に急ブレーキをかけ、坂の麓で止まったトモヤは、その帽子を拾い上げ、振り返ると、その坂の上には、帽子の持ち主と思しき白いワンピースを着た一人の少女が佇んでいるのだ。この時のトモヤは、まるで恋愛物語の出会いの如きその状況に、運命の出会いを感じる。
ここで第一話の冒頭部が終わる。
この坂道の出会いのシーンは、第二話「フラグの立たない彼女」の冒頭部においても繰り返されている。ちなみに、冒頭部が終わると、オープニングのテーマソングである春奈るなさんの「君色シグナル」のイントロが流れ出す。このイントロ部分のオープニング映像、すなわち、OPの始まりにおいても、運命の出会いの場になっていた坂道が再び出てきており、まるで、その出会いの場面を再現するかのように、映像は坂の下から坂の上へと向かってゆくのだ。
アニメのオープニングとは、原則として毎回流れる、いわば作品の看板である。しかも、そのオープニングの始まりに出てくることによって、この坂は、視聴者に強い印象を与えているように思われる。
ちなみに、この坂道はエンディングの中にも出てくるし、その後の物語の中でも繰り返し、物語の舞台背景になっているのだ。
その後の物語本編の中で、坂道での運命の出会いが忘れれられないトモヤは、この感動を表現するために、テクストとヴィジュアルとミュージックを同時に扱うことができるメディア、すなわち〈ゲーム〉の制作を決意する。やがて、トモヤは、学校で、その白いベレー帽の持ち主だった加藤恵と再会することになるのだ。
すなわち、トモヤとメグミの出会いの場となったこの春の坂道こそが、物語において重要な時空間になっていることは紛れもない事実であろう。ちなみに、この坂は、アニメの第一期の第二話の中で、ここに興信所があるという理由から、物語内の地元の人たちには「探偵坂」と呼ばれていることが、メグミによって語られている。
実は、この坂にはモデルが実在している。
アニメの第一期のオープニングでは、イントロの後に歌唱が流れ始めると、その背景となる映像では、路面電車と踏み切りを渡ってゆく主要作中人物全員が描かれている。この路面電車も踏み切りも実に写実的に描かれており、現実を参照すると、この電車が都電荒川線で、この線路が、都電の学習院下停留所付近の踏み切りであることが分かる。そして実際に、この辺りを散策してみると、物語の作中人物たちが向かう先には激坂が実在している事が分かるのだ。
この坂道こそが、本作品の前のエピソード「目白台の激坂、上から見るか?下から見るか?」の中で言及した豊島区高田二丁目に位置している〈のぞき坂〉なのである。
この実在の坂をモデルにしたアニメの中の「探偵坂」は、坂の角度、灰色と茶色の路面の配色、車道と歩道を区切る鉄柵の色、滑り止めのOリング、そして周囲の建物の形や色なども含めて、この目白台の〈のぞき坂〉は、現実ほとんどそのままに、実に写実的に描かれているのだ。
しかし、現実とアニメの間に異なる点がないわけではない。
現実においては、〈桜の樹〉は、のぞき坂、すなわち下り坂の左側に一本あるのみで、アニメのように、坂道の両脇で生い茂っているわけではない。現実において、桜の代わりにあるのは何本もの常緑樹である。
ここに現実とアニメの相違が認められるのだが、それでは何故にこのような虚構における修正がなされたのであろうか? おそらくこれは至極単純な理由で、桜によって、〈とある春の日の運命の出会い〉を演出するためであろう。
桜の盛期は、三月末から四月初めの僅か数週間だ。それ故に、〈桜〉は、別れと出会いという出来事の記号の一つとして物語の中で用いられることが非常に多い。
このように「記号」という語を用いると機械的な印象をもたらしてしまうかもしれないが、〈桜舞い散る坂〉、実に絵になるではないか!
それでは、都内にある数多の坂の中で、何故に、目白台ののぞき坂が、『冴えカノ』で採用されたのであろうか?
この坂道は、都内屈指の斜度、最大十三度(二十三パーセント)を誇っている激坂である。
アニメの中で、トモヤは、この激坂の下から、坂の上で佇むメグミを見上げている。このシーンを印象深い一枚絵にするためには、トモヤが見上げるに足る十分な仰角がなければならない。ここで再確認になるが、第一話の冒頭部でのトモヤの眼差しは、第一期のオープニングのイントロで、下から上へのカメラワークとして再現されている。
この〈見上げるシーン〉の急角度、これこそが物語の核なのではなかろうか。
そして、ここでさらに注目したいのが、トモヤとメグミの立ち位置である。
目白台の激坂には二つの呼び名があり、恐る恐る上からのぞき見しながら下る時は通称〈のぞき坂〉、胸に膝を突くように苦労して登ってゆく時の別称が〈胸突坂〉なのだ。
上から見るか、あるいは下から見るか、その視点の違いによって名称が異なるわけなのだが、『冴えカノ』という観点からこの坂を見た場合、こう言ってよければ、この目白台の激坂はメグミにとっては〈のぞき坂〉で、トモヤにとっては〈胸突坂〉なのだ。
そして、この作品冒頭部における、目白台の激坂の作中人物の立ち位置が、『冴えない彼女の育てかた』の物語内容を方向付けているようにさえ思われる。
つまり、メグミは、この後、トモヤの作るゲームのメインヒロインとして、これまで全く知らなかったゲーム制作という世界を覗き見し、やがてその世界に入ってゆくわけで、トモヤは、メグミをメインヒロインとし、ゲーム制作、そしてメグミのリアルな攻略という非常に困難な急角度の坂を登ってゆくことになるのだから。
<参考資料>
<原作>
丸戸文明『冴えない彼女の育てかた』(本編十三巻;短編五巻),東京:KADOKAWA富士見書房,富士見ファンタジア文庫,二〇一二~二〇一七年.
<アニメ>
制作:A-1 Pictures
第一期:2015年1月~3月,全十三話
第二期:2017年4月~6月,全十一話
劇場版:『冴えない彼女の育てかた Fine』,2019年10月公開.
<WEB>
『TVアニメ「冴えない彼女の育てかた」公式サイト』,二〇二一年五月三十一日閲覧.
「『冴えない彼女の育てかた』特設ページ」,『ファンタジア文庫』,二〇二一年五月三十一日閲覧.
「『冴えない彼女の育てかた』」,『ANIPLEX+』
<CD>
春奈るな「君色シグナル」,『君色シグナル』所収,レーベル:SME Records,二〇一五年一月二八日発売.
原作の第一巻から第四巻に相当するアニメの第一期は二〇十五年一月期に全十三話で、第五巻から第七巻に相当する第二期は二〇十七年四月期に全十二話で、そして、その最終章が劇場版として二〇十九年十月に公開された。
アニメ版の第一期は、まず特別篇として第〇話「愛と青春のサービス回」が置かれ、その後に、物語の時間軸を巻き戻し、第一話から本格的に物語が始動するという構成になっている。ちなみに、第二期も、特別編の第〇話の後に第一話という同じ構成になっている。
物語のはじまりを描いているアニメ版の第一期・第一話「間違いだらけのプロローグ」には早くも、物語の主要作中人物である安芸倫也(アキ・トモヤ)が登場し、彼が坂道を自転車で降りてゆく場面から始まっている。そしてその背景には満開の桜の樹々が出てきており、これによって、物語の季節が、桜咲く三月末から四月初めにかけての短い時期、とある春の一日であることが示唆されている。
この時、吹き上がった強風のせいで飛ばされた白いベレー帽が、桜の花びらが舞い散る坂道を転がり落ちてゆくことにトモヤは気付く。そして自転車に急ブレーキをかけ、坂の麓で止まったトモヤは、その帽子を拾い上げ、振り返ると、その坂の上には、帽子の持ち主と思しき白いワンピースを着た一人の少女が佇んでいるのだ。この時のトモヤは、まるで恋愛物語の出会いの如きその状況に、運命の出会いを感じる。
ここで第一話の冒頭部が終わる。
この坂道の出会いのシーンは、第二話「フラグの立たない彼女」の冒頭部においても繰り返されている。ちなみに、冒頭部が終わると、オープニングのテーマソングである春奈るなさんの「君色シグナル」のイントロが流れ出す。このイントロ部分のオープニング映像、すなわち、OPの始まりにおいても、運命の出会いの場になっていた坂道が再び出てきており、まるで、その出会いの場面を再現するかのように、映像は坂の下から坂の上へと向かってゆくのだ。
アニメのオープニングとは、原則として毎回流れる、いわば作品の看板である。しかも、そのオープニングの始まりに出てくることによって、この坂は、視聴者に強い印象を与えているように思われる。
ちなみに、この坂道はエンディングの中にも出てくるし、その後の物語の中でも繰り返し、物語の舞台背景になっているのだ。
その後の物語本編の中で、坂道での運命の出会いが忘れれられないトモヤは、この感動を表現するために、テクストとヴィジュアルとミュージックを同時に扱うことができるメディア、すなわち〈ゲーム〉の制作を決意する。やがて、トモヤは、学校で、その白いベレー帽の持ち主だった加藤恵と再会することになるのだ。
すなわち、トモヤとメグミの出会いの場となったこの春の坂道こそが、物語において重要な時空間になっていることは紛れもない事実であろう。ちなみに、この坂は、アニメの第一期の第二話の中で、ここに興信所があるという理由から、物語内の地元の人たちには「探偵坂」と呼ばれていることが、メグミによって語られている。
実は、この坂にはモデルが実在している。
アニメの第一期のオープニングでは、イントロの後に歌唱が流れ始めると、その背景となる映像では、路面電車と踏み切りを渡ってゆく主要作中人物全員が描かれている。この路面電車も踏み切りも実に写実的に描かれており、現実を参照すると、この電車が都電荒川線で、この線路が、都電の学習院下停留所付近の踏み切りであることが分かる。そして実際に、この辺りを散策してみると、物語の作中人物たちが向かう先には激坂が実在している事が分かるのだ。
この坂道こそが、本作品の前のエピソード「目白台の激坂、上から見るか?下から見るか?」の中で言及した豊島区高田二丁目に位置している〈のぞき坂〉なのである。
この実在の坂をモデルにしたアニメの中の「探偵坂」は、坂の角度、灰色と茶色の路面の配色、車道と歩道を区切る鉄柵の色、滑り止めのOリング、そして周囲の建物の形や色なども含めて、この目白台の〈のぞき坂〉は、現実ほとんどそのままに、実に写実的に描かれているのだ。
しかし、現実とアニメの間に異なる点がないわけではない。
現実においては、〈桜の樹〉は、のぞき坂、すなわち下り坂の左側に一本あるのみで、アニメのように、坂道の両脇で生い茂っているわけではない。現実において、桜の代わりにあるのは何本もの常緑樹である。
ここに現実とアニメの相違が認められるのだが、それでは何故にこのような虚構における修正がなされたのであろうか? おそらくこれは至極単純な理由で、桜によって、〈とある春の日の運命の出会い〉を演出するためであろう。
桜の盛期は、三月末から四月初めの僅か数週間だ。それ故に、〈桜〉は、別れと出会いという出来事の記号の一つとして物語の中で用いられることが非常に多い。
このように「記号」という語を用いると機械的な印象をもたらしてしまうかもしれないが、〈桜舞い散る坂〉、実に絵になるではないか!
それでは、都内にある数多の坂の中で、何故に、目白台ののぞき坂が、『冴えカノ』で採用されたのであろうか?
この坂道は、都内屈指の斜度、最大十三度(二十三パーセント)を誇っている激坂である。
アニメの中で、トモヤは、この激坂の下から、坂の上で佇むメグミを見上げている。このシーンを印象深い一枚絵にするためには、トモヤが見上げるに足る十分な仰角がなければならない。ここで再確認になるが、第一話の冒頭部でのトモヤの眼差しは、第一期のオープニングのイントロで、下から上へのカメラワークとして再現されている。
この〈見上げるシーン〉の急角度、これこそが物語の核なのではなかろうか。
そして、ここでさらに注目したいのが、トモヤとメグミの立ち位置である。
目白台の激坂には二つの呼び名があり、恐る恐る上からのぞき見しながら下る時は通称〈のぞき坂〉、胸に膝を突くように苦労して登ってゆく時の別称が〈胸突坂〉なのだ。
上から見るか、あるいは下から見るか、その視点の違いによって名称が異なるわけなのだが、『冴えカノ』という観点からこの坂を見た場合、こう言ってよければ、この目白台の激坂はメグミにとっては〈のぞき坂〉で、トモヤにとっては〈胸突坂〉なのだ。
そして、この作品冒頭部における、目白台の激坂の作中人物の立ち位置が、『冴えない彼女の育てかた』の物語内容を方向付けているようにさえ思われる。
つまり、メグミは、この後、トモヤの作るゲームのメインヒロインとして、これまで全く知らなかったゲーム制作という世界を覗き見し、やがてその世界に入ってゆくわけで、トモヤは、メグミをメインヒロインとし、ゲーム制作、そしてメグミのリアルな攻略という非常に困難な急角度の坂を登ってゆくことになるのだから。
<参考資料>
<原作>
丸戸文明『冴えない彼女の育てかた』(本編十三巻;短編五巻),東京:KADOKAWA富士見書房,富士見ファンタジア文庫,二〇一二~二〇一七年.
<アニメ>
制作:A-1 Pictures
第一期:2015年1月~3月,全十三話
第二期:2017年4月~6月,全十一話
劇場版:『冴えない彼女の育てかた Fine』,2019年10月公開.
<WEB>
『TVアニメ「冴えない彼女の育てかた」公式サイト』,二〇二一年五月三十一日閲覧.
「『冴えない彼女の育てかた』特設ページ」,『ファンタジア文庫』,二〇二一年五月三十一日閲覧.
「『冴えない彼女の育てかた』」,『ANIPLEX+』
<CD>
春奈るな「君色シグナル」,『君色シグナル』所収,レーベル:SME Records,二〇一五年一月二八日発売.