第111話 鮎川先生

文字数 1,152文字

 藍はパジャマに着替え、ベッドに入った。これからどうするべきか、あれこれと考えを巡らせるが、これと言ったアイディアは浮かんで来ない。
 昨日の夜には、まさか自分に、こんなことが起こるとは夢にも思わなかった。不可抗力だとは言え、自分の急病がすべての発端になったのだと思うと、責任を感じないではいられない。
 もしも具合が悪くならなかったならば、増永が命を落とすこともなく、藍は今頃、いつもの午後のように、部屋で刺繍にいそしんでいたことだろう。
 
 翔のために刺していた、空を飛ぶ鳥の刺繍。藍の脳裏に、翔の寂しげな白い顔が浮かぶ。
 繊細で泣き虫で、頼りないけれど、とても優しい、たった一人の私の家族。兄であり、可愛い弟のようでもあり、かつては恋人でもあった翔。
 私は、翔のことを深く愛していた。あんなに愛していたのに、いや、今も愛しているのに、どうして私は、あんなひどいことを……。
 
 
 翔のことは大好きだったけれど、その一方で、洋館での暮らしにうんざりしていた。増永たちに厳しく管理され、自由に外を歩くことも、友達を作ることさえ許されない生活。
 教祖の子供に生まれたという、自分ではどうすることも出来ない境遇。自分で将来を選ぶことさえ出来ず、教団の未来を担うことを強制された運命。
 息が詰まりそうで、どうにかして逃げ出すことが出来ないものかと思っていた。そんなときに、学校に鮎川先生が赴任して来たのだ。
 
 
 クラスの女子たちは、先生の都会的でクールな外見に心をときめかせているようだったけれど、藍が心惹かれたのは、そこではなかった。
 わかりやすい授業や、生徒に対する真摯な態度。的外れな質問もしりぞけることなく、丁寧に答えていたし、誰に対しても分け隔てなく接し、それはもちろん、藍に対してもそうだった。
 授業が終わった後に、気になることを質問しても、いやな顔もせずに教えてくれる。先生に対する尊敬が、恋に変わるのに時間はかからなかった。
 
 積極的にアプローチしたのは藍のほうだ。そうしなければ、先生は、いつまで経っても振り向いてくれそうになかったから。
 初めのうち、先生は戸惑って、教師としての態度を貫こうとしていた。そうされればされるほど、藍の気持ちは燃え上がった。
 先生に受け止めてほしくて、今までの自分ならば、恥ずかしくて、とても出来ないような大胆なこともした。
 
 感情を抑えきれなくなって、泣きながら先生の背中に縋りついた雨の放課後、初めて先生がキスしてくれた。それからは、先生のほうが積極的になった。
 ずっと藍のことを思いながら、自分の立場を考えて、気持ちを抑えていたのだと知り、とてもうれしかった。論文を書く手伝いをすることを口実に、放課後、学校近くの先生の部屋に行き、寸暇を惜しむように体を重ねた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み