第8話 タダシ、ショウコ
文字数 13,055文字
翌朝、僕はセイイチロウの手記をホテルからファックスで送ると、チェックアウトの準備を始めた。情報提供は匿名では有るが、内容が内容なだけに、恐らく記者や警察が此処に乗り込んで来るであろう。ホテルの電話番号とファックス番号から、彼等が此処を探し当てるのは時間の問題だ。悪いが僕は、面白可笑しく事件の詳細について語る気は無い。只、セイイチロウの最後の願いでもある、差別問題への問題提起をしたかっただけだ。
ホテルのロビーに向かいチェックアウトを済ませると、僕は改めて何処に行こうかと考えた。今夜から野宿でもするか、それとも別のホテルを探すか等と思案しつつ、気付けば例の橋の中央まで来ていた。
「人間の習性って恐ろしいな……。」
そんな事を思っていると、河川敷に居る車椅子の年配の女性と壮年の男性が眼に入った。花見にでも来ているのだろうが、何処か女性の様子が可笑しい。具合が悪いのだろうか。救急車でも呼ぶべきかと思い、河川敷に向かい駆け下りて行った。
「あの、大丈夫ですか?」
「あ……済みません。一寸咳き込んでしまって。」
傍らの壮年の男性が、女性の背中を擦りながら答える。年齢と雰囲気からして、恐らく母親とその息子だろうか。
「良かったらこれを……。」
そういえば、未だ口を付けていないペットボトル飲料が有った筈だと、リュックサックの中から探し当てたそれを差し出した。
「あ、ありがとうございます。」
傍らの男性が受け取り、キャップを外してそれを女性に渡す。一口、二口、三口、と女性は小刻みに中身を口に含み、先程よりは幾分落ち着いた様子だった。
「いやぁね、年を取ると一寸した事で咽ちゃって。助かったわ。本当にありがとう。」
大した事は無い様だと安心し、会釈をして其処を後にしようとした所、年配の女性に呼び止められた。
「あら、一寸待って。命の恩人に、お礼も無しだなんて失礼だわ。良かったら家でお茶でも如何かしら?」
何故だろうか。初対面で大した事もしてあげていないのに、ご自宅に伺うなんて少し図々し過ぎやしないかと思いつつも、この親子の穏やかな空気に飲まれて付いて行ってしまった。
河川敷から徒歩十分程の所に、彼等の住まいは在った。質素なアパートだった。二階建てで十戸程が繋がっており、恐らくは昭和中期の建築だろう。其処の一階の一番西側の部屋が、彼等の住居だった。
中に招かれて足を踏み入れると、外観の荒み具合とは反対に、整理整頓された小綺麗な部屋であった。玄関を入ると台所が在り、その奥に四畳半の和室、更にその奥に六畳の和室が続いていた。小まめに片付けや掃除がされている印象であった。
「す、済みません。お邪魔します。」
僕が玄関先で小さくなっていると、年配の女性が声を掛ける。
「さぁさ、お上がりなさいな。大したお構いも出来ませんがねぇ。」
彼女は四畳半の和室へと躙り寄ると、僕へ向かって笑顔で手招きをした。そういえば、先程は車椅子で河川敷まで来ていた様子だ。脚が悪いのだろう。
僕が招かれた四畳半の和室に上がると、其処には円形の何処か懐かしさを覚える卓袱台が在った。その前に、少し草臥れた正方形の座布団が置かれている。
「さぁ、どうぞ、どうぞ。」
年配の女性は、普段は自身が使用しているであろうその座布団を僕に薦めて来た。彼女は硬い畳の上に直に座るつもりなのだろうか。流石にそれは申し訳ないと思っていると、背後から別の座布団が差し出され、トンと肩を押された拍子に思わずその座布団に座ってしまった。
「私が使用している物で申し訳ないですが、どうぞお使い下さい。お客様を畳に座らせる訳には行きませんので。」
僕の後ろから、息子と思しき男性がニッコリと笑い掛ける。先程の、座布団を薦めた時の女性の笑顔とそっくりだ。間違い無く二人は親子なのだと実感し、少し羨ましく……いや、本当は妬ましく感じていたのかも知れない。
男性は、煎茶を淹れてくれた。そして、パンケーキの様な物を乗せた大皿を持って卓袱台に座った。彼は大皿の上のそれを切り分け、三枚の手塩皿に手際良く分ける。
「さあ、熱い内にどうぞ。」
僕はどう頂いて良いのか解らず、箸使いに手間取っていた。
「これは、流し焼きというものです。母が子供の頃に良く作ってくれたのですが、玉葱や人参等の野菜が入った、和風お好み焼きといった感じのものです。パンケーキの様なおやつの感覚で召し上がって下さい。」
それを聞いて、このまま食べずにいるのも失礼だと思い、先ず手前の一切れを箸で摘まんで頬張った。その瞬間、野菜の甘みと共に懐かしい香りが口腔内に広がった。僕は、涙腺が熱くなるのを感じた。
「す、済みません。熱かったですか?」
男性が慌てて水の入ったコップを差し出す。
「違うんです。凄く、美味しくて……本当に美味しくて……。」
僕は泣きながらこれまでの自身の境遇を語った。家族と共に食事をした経験が無い事、専属シェフの作るメニューはいつも何の味もしなかった事。男性は母親が流し焼きを食べる手伝いをしながら、穏やかな表情で僕の話をじっと聞いてくれた。
「そんな一流のシェフの味と比較しないで下さいよ。私のは単なる有り合わせで作ったもので、本来なら客人にお出しする内容のものでは無いのです。でも、そんな風に喜んで頂けると、逆に私の方がありがたい気持ちになります。」
男性は謙遜してそんな事を言うが、僕の舌の感覚は間違っていないと思う。美味しいだけでは無い、心を温かくする料理だった。
日が沈み掛けたので、礼を言ってそろそろお暇しようとすると、女性に呼び止められた。
「貴方、こんな遅くに何処へ行かれるの?明日も朝は早いんですよ。」
女性の言葉に理解が及ばず、玄関先でモジモジとしていると、男性が僕の腕をさっと掴んだ。
「此方へ。お夕食の準備が整っていますよ。」
腕を引かれるままに、僕は先程の卓袱台に連れ戻されてしまった。その途中で、男性がそっと僕に耳打ちする。
「申し訳ございません。母は、貴方を初恋の人と勘違いしている様です。お急ぎで無ければ、夕食だけでも此方で済ませて頂けないでしょうか?」
僕は促されるまま、彼等と夕食を共にした。
そうして、奥の和室で女性が眠りに就いた頃、男性はそっと玄関から僕を送り出してくれた。
「本日は誠に申し訳ございません。困っている所を助けて頂いた上に、こんな時間まで無理矢理引き止めてしまって……。母は認知症を患っておりまして、その所為で大変なご迷惑をお掛け致しました。」
「いえ、此方こそとても美味しい家庭料理をご馳走になりました。先程のお母様が『貴方』と仰ったのは、きっと貴方のお父様の事なんですね。」
暫くの間が有った後、男性は答えた。
「いえ……それは私が生まれる前の、母の初恋の記憶だと思います。」
月が照らす夜道を歩きながら、男性がゆっくりと丁寧な口調で語ってくれた。
彼等は実の親子で、母親の名前はショウコ、息子の名前はタダシといった。命名の際、どうしても『正』の字を入れたいと、最後まで母親がごねたらしい。
ショウコは一般的な農家の娘であったが、その器量の良さから地元の豪農との見合いが決まっていた。当初は見合い等という旧制度に大反対していたショウコだが、初めての見合いの席でその相手に対面した途端、顔を真っ赤にして下を向いてしまった。文句の一つでも言って破談にして帰って来るつもりだったが、相手の男性の涼やかな笑顔を目の当たりにし、何も言えなくなってしまったのである。見合い相手の男性はマサオといい、彼女の生涯忘れ得ぬ初恋の相手となった。
時は太平洋戦争真っ只中、マサオにも赤紙が届いた。ショウコとマサオは一夜だけの夫婦の契りを交わし、マサオは翌朝には戦地へと赴いたそうだ。それから数ヶ月、戻って来たのはマサオの名誉の戦死を知らせる紙切れ一枚だった。近所の人達からは『おめでとうございます』と挨拶をされ、ショウコは無表情に『ありがとうございます』と返すしか無かった。日に日に窶れて行くショウコの姿を見兼ね、姑が彼女に離婚を薦めた。ショウコは最後まで嫌がったが、それは若い彼女の将来を思い、姑としてして遣れる最後の気遣いであった。
ショウコはその後、手籠め同然で再婚をさせられた。彼女が望んだものでは無い事は、言うまでも無かろう。その翌年に誕生したのが、タダシだ。ショウコの再婚相手は碌に働きにも行かず、酒と博打に明け暮れる毎日だった。当然、日々の生活は困窮し、ショウコは朝、昼、晩、と働き詰めだった。だが、その再婚相手も十年以上前に他界した。
「父が亡くなったのに、不思議と悲しくは無かったんです。息子として失格ですね。」
そう言って寂しそうに笑うタダシの顔を、僕はじっと見詰めた。
父親が亡くなって以降、家族の知り得ない数々の借金が明らかになった。ショウコが汗水垂らして働いて貯めた預金は、父親の借金の返済ですっかり無くなってしまった。相続放棄をする事も出来たが、『身内の不始末は身内で』とのショウコの信条から、全てを完済し終えたそうだ。
「父は年金を一度も支払った事が無く、当然、母には遺族年金なんて支給されません。母の預金が底を付いた後は、私の稼ぎで何とかして行くしかありませんでした。」
タダシは高校を卒業後、近所の食品工場に勤めており、勤勉な性格が評価されて主任という役職を与えられていた。それから暫くは、母と息子二人で質素ながら平穏な生活が続き、このまま幸せに暮らせると思っていた。だが、父親の死から数年後、母親の認知症が発症したのだ。
「最初は、人や物の名前が思い出せない程度から始まったんですが……。次第に、暴言や不眠、徘徊が増えて行ったんです。母が外出して迷子になり、警察に補導されたという知らせを聞いて、私は何度も仕事を早退して母を迎えに行きました。流石に、職場の人達にこれ以上の迷惑を掛ける訳には行かず、暫くして会社を辞める事にしたんです。」
介護に奔走するタダシの姿が眼に浮かぶ。ショウコの世話を焼くタダシの姿からは、紛れも無い親子の愛情を感じた。
「それから少しの間は、失業保険で凌いで行けました。でも、私の預金も日々減って行き……正直不安でした。本当は貴方と出会ったあの時、心中する場所を探していたんです。」
タダシの衝撃的な告白に、僕は何と答えて良いか解らない。
「生活保護の受給も考えて、役所に申請しに行った事も有ります。ですが、門前払いでした。『健康で未だ働けますよね?貴方の様な方は沢山いらっしゃいます。先ずはハローワークで仕事を探して下さい。』って……。母親を介護しながら出来る仕事なんて、何処に有ると言うんですか!」
感情的になって少し声が大きくなり、タダシは慌てて下を向いて口を噤んでしまった。タダシの憤りも尤もだ。何の為のセーフティネットか。彼等の様に本当に必要としている人達では無く、既に丸々と肥え太った役人共に、更なる飼料を与える為の国民の血税か。そう思ったが、僕は敢えてそれを口にしなかった。それを一番痛感しているのは、タダシ達親子だったからだ。
「また、遊びに行っても良いですか?」
例の橋に差し掛かるカーブの手前で、僕はタダシを振り返り声を掛けた。
「え?」
「今日はご馳走様でした。それじゃ、また、明日!」
驚いて立ち止まるタダシに、僕はそう言って足早に駆け出した。
翌朝、商店街で買い込んだ食材を両手に、再びタダシ達親子のアパートを訪れた。応対したタダシは、本当に来たのかという驚きの表情をしていたが、僕の持っている荷物を見て眉を顰めた。
「誠に申し訳ないのですが、私には貴方に施しを受ける理由が有りません。どうかお引き取り下さい。……これ以上、惨めな思いをさせないで下さい。」
本当に申し訳なさそうな表情で、深々と頭を下げられてしまった。だが、此処で引き下がる訳には行かない。
「何を言っているんですか?僕は今日、此処に決闘に来たんです。昨夜、予告したじゃないですか、料理対決です!」
理解不能な状況に硬直しているタダシを余所目に、僕は持って来た食材を台所に運ぶ。すると奥から、ショウコが起き出して、悪い脚を引き摺って此方まで躙り寄って来る。
「あら、嫌だ!私ったら!」
そう言って、再度奥の和室に籠ると、十分程して静々と僕等の前に現れた。その顔には、薄っすらと白粉が叩かれ紅も差されていた。
「貴方、おはようございます。」
そう優しい声で言って、僕に三つ指を着いて挨拶をしてくれた。
それから、僕が持ち込んだ食材を使っての調理が始まった。料理対決とは名ばかりで、実は僕は包丁を握るのも初めてだった。二時間後、タダシの助けも有り何とか目的の物は完成した。タダシの切った綺麗な具材と、僕の切った不揃いな具材とが同居する、奇妙な鍋料理が仕上がっていた。恐らく、料理対決なんてのは嘘だと、タダシには見抜かれているだろう。それでも、三人で卓袱台を囲んで食べた鍋料理は絶品だった。自画自賛だと世界中の人に嗤われても、僕は一向に構わなかった。
満腹になり眠気を催したショウコを奥の和室で休ませ、僕等は二人きりで語り始めた。
「……どういう……つもりなんですか?」
「只の料理対決です。僕は貴方達に、施しなんてするつもりは有りません。勝つまでは毎日、対決を挑むのみです。」
理解が出来ないという風に、タダシは首を振っている。
「どうしても気兼ねだと言うのなら、先ずは明日から日雇いの仕事をして来て下さい。日雇いなので、勤務先に迷惑が掛かるなんて思わずに、此方の都合でいつでも辞められます。その間、対決が出来なくて僕は暇なので、ショウコさんと一緒に遊んでいます。」
外套からスマートフォンを取り出し、求人サイトに条件を入力して検索をして行く。十数件が該当した。
「これなんかどうですか?此処から割りと近いし、時給も結構良いですよ……まぁ、皿洗いばっかりさせられちゃいますけど。」
僕がスマートフォンの求人広告を見せながら言うと、タダシの眼から一筋の涙が流れていた。
「本当に……ありがとう。貴方には救われてばかりですね……。」
翌日の夕方から、彼は早速日雇いのアルバイトに出掛けた。皿洗いなんて仕事は、料理上手な彼の矜持が許さないかとも思ったが、得意分野に近い職場の方が良いと思ったのだ。其処から少しずつ、再起に向けて生きて行って欲しかった。
夜遅くにタダシが帰宅すると、三人で焼きうどんを食べた。流石に麺を打つ所からとは行かなかったが、僕が初めて一人で完成させた料理だった。不揃いな甘藍や人参や玉葱達が、僕にはとても申し訳なく思えたが、ショウコもタダシも美味しいと言ってあっという間に平らげてしまった。
「ご馳走様でした!あの……実は、今日の日雇いのアルバイト先なんですが、明日も来てくれないかって言われてしまいまして……。」
タダシが僕に申し訳なさそうに切り出す。
「良かったじゃないですか!タダシさんの働き振りを、評価して貰えたんですよ!明日もご飯を用意して待っていますね。」
僕が言うとタダシは謙遜していたが、その顔はとても幸せそうだった。このまま、この親子が再起出来る契機になれば良いと思っていた。
翌日もまた、彼は日雇いのアルバイトに行き、夜遅くに帰宅した。僕の拙い親子丼を振る舞った。未だ未だの出来の筈なのに、ショウコもタダシも美味しいと言って笑顔で食べてくれた。こんな僕でも、誰かを笑顔にする事が出来てとても嬉しかった。
そうした生活が数日続き、或る日の夜、タダシが帰宅するなり息咳き込んでこう言った。
「ど、ど、ど、どうしよう。どうしよう?正規で働かないかって言われたんです!アルバイトでは無くて、正社員でって言われたんです!」
あまりの慌て振りに、僕は一先ず、ご飯を食べながらゆっくりと話す事を提案した。その日の夕食は、奇しくもカツ丼だった。ショウコの年齢も考えて、豚肉は脂身の少ない部位を使い、大葉と大根おろしで少しさっぱりと仕上げてみた。ショウコのカツだけ、包丁で小さめの一口大に刻んで食卓に並べた。
食事をしながら話を聞いてみると、やはり彼の料理の才能を買われて、正社員の話が舞い込んだ様だ。シフトに入る筈のスタッフが体調不良で欠勤となり、厨房内のスタッフの手が廻らなくなった事から、急遽、彼が調理を手伝う事となったそうだ。皿洗いの臨時アルバイトであった筈の彼の手捌きに、阿鼻叫喚の地獄と化そうとしていた厨房は救われたのだ。彼一人で、通常の調理スタッフの三人分の調理をこなしたそうだ。加えて、調理師免許の取得は追々で良いとの事で、会社から免許取得の際の補助も出るとの事だった。
「良かったじゃないですか!タダシさんの日々の努力が認めて貰えたんですよ!」
「でも、この話を受けてしまっても良いのか……。」
やはり、彼にとっての問題点は其処だった。母親の介護だ。
「ショウコさんの事は、心配しないで下さい。僕が一緒に居るので、危ない目には遭いませんよ。」
「でも、貴方には……貴方の予定とか、目的とかが有るじゃないですか。人様の貴重な時間を無駄には……。」
「では、お休みの日に、僕に料理をイチから教えて下さい。料理対決なんて言っちゃいましたけれど、僕の料理の腕前なんて、未だ未だなんだって事は充分自覚しています。」
僕は、高校を卒業して大学進学前に、卒業旅行で一人旅をしていると説明した。行き先は決めずに、その時に思い付いた場所を訪れ、気儘な旅をしていると。嘘を吐いている事に心は痛んだが、僕の本当の目的を告げて、彼の心を傷付けるよりはずっと良い。
「先ずは、就職おめでとうございます!今宵は祝杯です!」
互いに煎茶を淹れた湯飲みを掲げ、軽く合わせた。そうして、その夜は遅い時間まで、二人して他愛の無い世間話に花を咲かせた。好みの女性のタイプや、子供の頃に嵌った漫画や、学校で話題だった怪談話や……。どうでも良い会話が、僕には凄く心地良かった。
翌朝気が付くと、僕は昨夜、あのままタダシ達のアパートで眠り込んでしまっていたらしい。不味いと思って急いで起き上がると、僕は一組の清潔な布団の上に居る事に気が付いた。
「あ、おはようございます。眼が覚めましたか?」
タダシが笑顔で声を掛けて来た。
「あ、あの……あの、僕……昨夜は、その……。」
僕が焦っているのを見て、僕の心情を全て見透かしているかの様に、タダシが穏やかにこう言った。
「私はお弟子さんを取る時は、住み込みでと決めているんです。今日からそれが貴方のお布団ですよ。」
未だ寝惚けたままの僕にそう告げて、タダシは軽めの朝食を用意してくれた。
その日から晴れて正社員としての出勤との事で、タダシは昼過ぎには仕事に出掛けた。幸先良く、その日は朝から快晴だった。一通りの家事が済み、僕はショウコにそっと声を掛けた。
「天気が良いですね。今日は散歩にでも出掛けませんか?」
薄っすらと頬を赤らめ、彼女はゆっくりと頷いてくれた。出掛けるのであれば身支度をしたいとの事だったので、僕はそれを手伝った。結んだままの髪を一旦解き、優しく櫛で梳いて行く。再び綺麗に纏め上げ、後頭部にピンを刺して固定して行く。料理の腕は未だ未だだが、ヘアセットに関しては、我ながら良い出来だと思った。そうして、ショウコに外出用の外套を着せ、寒くない様にと襟巻きを巻いて完成だ。僕はショウコを横抱きにして車椅子に乗せ、最後に玄関の戸締まりをした。
「さぁ、出掛けましょうか。」
僕が言うと、ショウコは遠足に出掛ける前の小学生の様な、キラキラとした笑顔で返事をした。
「はい。」
久々の外出の筈なので、あまり無理をさせてはいけないと思い、近くの商店街を散歩する事にした。商店街には、青果店、精肉店、鮮魚店、精米店、衣料品店、呉服店、手芸店、文具店、薬店、理髪店、書店、飲食店等が立ち並び、見ているだけでも懐かしさを覚えた。今時では貴重な、古き良き日本を感じさせてくれる場所だ。
そういえば、先程からショウコがずっと黙ったままでいる。具合でも悪いのかと思い、心配になり覗き込んで声を掛けてみた。
「あの、大丈夫……ですか?」
「ごめんなさい。緊張しちゃって……。貴方と二人きりで散歩なんて、見合いの時以来なものだから……。」
女学生の様に頬を真っ赤に染めたショウコは、此方に目線を向けずにポツリとそう言う。そうだった。ショウコはマサオと僕を勘違いしているのだった。ならば、此処はマサオとして振る舞うべきだと思い、こう続けた。
「では、本日は二度目のデートという事ですね。何処か入ってみたい店は有りませんか?」
僕は話に聞くマサオを、僕なりに精一杯演じてみた。ショウコの生涯忘れ得ぬ初恋の相手だ、きっと素敵な男性だったに違いない。
「あの……折り紙を……折り紙を折ってみたいのですが、暫く振りで折り方を忘れてしまって……。」
ショウコは耳まで赤くして、俯いたままで答えた。
「解りました。では、参りましょう。」
その後、書店で折り紙の本を購入し、文具店で色鮮やかな折り紙のセットを購入した。ショウコは始終、満面の笑みであった。今日、此処に来て良かったと思った。それもこれも、タダシの仕事が上手く行き掛けている事が、全ての吉事の始まりであったと思う。このまま、ずっと末永く、この親子に幸福が訪れます様に……と、僕は心の中で願った。
日が暮れ掛けて来たので、序でにその日の食材も購入し、商店街での散歩を終える事となった。帰宅すると、久々の外出の所為かショウコは少し疲れた様子だったので、暫くは奥の和室で休ませる事にした。その間に、僕は今晩の食事の支度を済ませようと意気込んだ。先ずは赤飯を炊く事に決め、鯛の煮付けと、法蓮草と人参の白和え、蛤のお吸い物を合わせる。ネットでレシピを検索しながら格闘する事、約三時間、試行錯誤の末やっと完成を見た。後は、タダシの帰宅に合わせて食卓に並べるだけである。
程無くしてタダシが帰宅し、僕はお吸い物を温め直して食卓の準備を進めた。ショウコも奥の和室から起き出して来て、三人が卓袱台の周りに揃った。
「タダシさん、お疲れ様でした。さぁ、頂きましょう!」
僕が声を掛けると、タダシが眼を丸くして食卓の上を見詰めている。
「この食材……貴方が……?幾らですか、私が払います!」
いつもより張り切って食材を買い込んだ所為か、タダシが慌てた様子で僕の方に向き直る。
「いえ、この料理達は代金を頂く為に此処に居るのではありません。貴方を祝う為に此処に居るのです。……改めて、おめでとうございます。」
僕がそう言うと、タダシは顔をクシャクシャにして、泣きながら顔の前で両手を合わせて言った。
「……頂きます。」
その後、ショウコと僕も両手を合わせて食事を始めた。温かい時間がゆっくりと流れ、僕はこのままずっと此処に居たいと思い始めていた。
そうして、タダシが正社員として勤務を始めて二週間が経った。僕はいつも通りに、タダシの帰宅時間に合わせて修行の成果を披露し、それまでの時間はショウコと一緒に過ごした。天気の良い日は一緒に散歩に行き、天気の悪い日は一緒に折り紙を折った。
僕は折り紙なんてものは、鶴を折る位しか知らなかったのだが、ショウコは桜や蒲公英、蝶等も折って見せてくれた。
「あぁ、思い出した。やっと綺麗に折れたわ。」
そう言って、ショウコはその中から一つ、一番時間を掛けて折っていた桜の折り紙を、僕にそっと差し出した。
「貴方、どうぞ。いつもありがとうございます。」
花弁のみならず、雄蕊や雌蕊、花托や萼までもが正確に再現されており、本物の桜に見紛う程に美しかった。ショウコが折り紙を折りたいと言ったのは、きっとこの為だったのだ。僕に感謝の気持ちを伝える為だったのだ。僕をマサオと勘違いしての事だったかも知れないが、それでも僕はどうしようも無く嬉しかった。僕はその折り紙を手に取ると、小さな子供の様に泣いた。
或る日、天気がとても良いので散歩に出掛ける事にした。最近は桜雨が続いていたが、その日は久々の雲一つ無い晴天であった。桜が満開の時期であったので、例の河川敷まで花見を兼ねて出掛けてみる事にした。
果たして、河川敷の桜は満開に咲き誇り、辺り一面に花弁が舞い散っていた。舞い散る花弁の所為で、ほんの少し先の視界も良く利かない。こんなに美しい桜は少し怖い。舞い乱れる桜が綺麗過ぎて、何かとても大事なものも一緒に攫って行きそうで……。
暫くは、二人して桜の美しさに眼を奪われていた。不意にショウコがゆっくりと語り掛けて来た。
「……貴方、タダシは貴方に似て、とても良い子に育ちました。」
一瞬、僕の脳裏を疑問が掠めた。
「私はとても幸せでした。貴方と、貴方との間に授かった子との、二つの大きな幸せに包まれて。私は、世界で一番の果報者でございました……。」
ショウコは満開の桜を見上げたまま、その眼からは一筋の涙が流れていた。僕は外套のポケットから、桜の刺繍が施された淡いピンク色のハンカチーフを差し出した。セイイチロウから貰った物だ。
「……どうぞ。」
僕はそっと、ショウコの手にそのハンカチーフを乗せた。ショウコはじっとそれを見詰め、瞬きをしたその眼からは、更に大粒の涙が溢れ出した。
「貴方は……いつも、私に……一番綺麗な世界を……見せ……てくれ……ます……。」
ショウコはゆっくりと顔を上げ、此方に涙で輝いている顔を向けた。
「……愛……して……いま……す。来……世も……貴方……と……。」
ハンカチーフがショウコの膝に緩やかに滑り落ち、そっと彼女は眼を閉ざした。彼女はとても美しい、聖母の様な微笑を浮かべていた。気付くと僕も、大粒の涙を流していた。僕はゆっくりとハンカチーフを拾い上げ、ショウコの涙を拭い顔周りの髪を整えた。
「……僕も、愛しています。」
僕はもう、本当にそれだけしか口に出す事が出来なくて……。そのまま其処で膝を突くと、僕は車椅子の上からショウコを抱き締めて、声を上げて泣いた。それはもう、小さな小さな子供の様に大声を上げて泣いた。
それから何時間が経過しただろうか。河川敷の辺りはすっかり夕闇に包まれていた。僕は、ジャリジャリという河川敷の石を踏み締める音に気付いて、はっとして顔を上げた。其処には、心配そうな表情をしたタダシが立っていた。僕は何か言わなければならないと思ったが、上手く説明出来ない上に、また涙が頬を伝って流れて来た。
「仕事が終わって帰宅してみたら、家に誰も居ないから、心配して捜しに来たんです。若しかしたらと思って、此処に来てみたんだけれど、二人共無事そうで本当に良かったです。」
そう言いながらも、タダシは僕の様子から何かを悟った様だ。
「母は……?」
「……霊山へ旅立たれました。貴方を……貴方と貴方のお父さんを愛していると。」
タダシが眼を見開く。
「……タダシさん、貴方の本当のお父さんは、再婚相手の男性では無く、お母さんが本当に愛した、初恋の男性だったんです。貴方の名前に『正』の字を入れたかった本当の理由は、ショウコさんの『正』の字からでは無かったんです。マサオさんの『正』の字からだったんですよ。」
いつの間にか、タダシも僕と同じ様に涙を流していた。
「そうか……そうだったんですね……。ありがとう……本当にありがとう。」
そう言って、タダシは母親と僕の上に覆い被さり、両腕で抱えて泣いた。僕等三人の上に、憐れむかの様な優しい、そして悲しい桜の花弁が次から次へと舞い散った。
それから二日後、ショウコの葬儀が行われた。僕は慌しくしているタダシを手伝い、親族では無いにも関わらず葬儀にも列席した。全てを終えて、僕がタダシ達のアパートを後にする日、白色の封筒を差し出しながらタダシが言った。
「何から何まで、本当にお世話になりました。貴方のお陰で、母は笑顔で旅立つ事が出来ました。私は一時でも、母と心中をしよう等と考えた、己の罪を一生背負って生きて行きます。……これは原罪等では無く、愚かな私自身が生み出した罪なのです。」
封筒の中に何が入っているのかは、容易に想像が出来た。こんな物を受け取る為に、ショウコとの日々を過ごしたのでは無い。でも、僕が拒否しても、タダシはせめてもの礼にと食い下がるだろう。其処で僕は、別の提案をしてみる事にした。
「別のものに交換出来ませんか?」
タダシは不思議な顔をして此方を見る。
「権利を下さい。血縁関係も無い赤の他人の僕が、お母さんの墓前に参る権利を。毎年、命日には必ず桜をお供えします。」
見る見る内にタダシの顔はクシャクシャになって行き、堰を切った様に大量の涙が溢れ出した。
「貴方は……貴方は、一体……どうして、何処まで、私達親子に……!」
泣きじゃくるタダシの手にそっと手を重ね、僕は言った。
「僕は何もしていません。只、幸せな貴方達を見ていたかったのです。」
これは、僕の本心であった。いや、そうでは無いかも知れない。僕の本心を偽る為に、美しく装飾を施された、都合の良い欺瞞で有り得たかも知れない。僕はこの親子に、僕と僕自身の母親を重ねて見ていたのかも知れない。愛情の枯渇した僕等親子も、この親子が幸せに過ごす事が出来れば、若しかしたら……。違う。そんなのは只の代償行為でしかない。僕は解っていた、解り過ぎる程に良く解っていたのだ。それなのに、僕は未だにこんなにも、卑しい程に母親の愛情を求めている。
タダシとの別れを済ませ、僕は夕暮れ時の街を眺めて歩いた。これからどうしようか?行く当ても無く、気付けばショウコと散歩をしたあの商店街に来ていた。僕はショウコとの記憶を反芻し、一軒一軒ゆっくりと店舗を眺めて歩いた。どの店舗を見ても、温かい思い出が甦って来る。
ふとショウコと折り紙の本を購入した書店を発見し、僕は懐かしく思い其処に入ってみる事にした。今時珍しい手動の引き扉を開け、中に入るなり新刊コーナーを目指して進もうとした。だが、その途中でレジカウンター横のタブロイド紙の見出しが眼に入り、思わず足を止めてしまった。『有名進学校にて出身地域に因る生徒の選別 生徒の投身自殺は被差別部落出身に因る虐めが原因か 同被差別部落出身教師の内定取り消しの過去と謎の事故死 全面否認する学校側を徹底追跡』という大きな見出しと共に、校長の写真を始めとした複数の写真が掲載されていた。僕はそれを手に取り、大急ぎで会計を済ませて書店を後にした。
例の河川敷まで来ると、僕は桜の木の下に腰を下ろし、ゆっくりと記事に眼を通して行った。セイイチロウの手記も、原文ままに掲載されている。正直、本当に記事が掲載されるのか不安ではあったが、期待していた以上の内容であった。
「良かった。あの記者の人、愛想は悪かったけれど、ちゃんと記事にしてくれたんだ。」
だが、これで部落差別が無くなるとは思わない。これは飽くまで問題提起だ。此処から幾つもの衝突と和解を経て、差別への偏見が少しでも無くなる事を祈った。
今夜は空気が澄んでいる。満月がいつもより際立って見えた。僕は河川敷で仰向けに寝転び、すっかり日が落ちた夜空を眺めながら、月と星々の輝きに眼を奪われていた。
僕はこの街に来て、多くの人達に救われた。一時でも、幸せだと実感する事が出来た。
「マナミ……そっちの世界は綺麗かい?寒くないと良いのだけれど。」
僕は声に出して一人一人に挨拶をしてみた。
「ユイ……お腹は空いていないかい?今度は遊園地でステーキの大食いでも挑戦しようか。ヒロミ、ジュリ……いつまでもお幸せに。もう二人の邪魔はしないから、本当に勘弁してよ。セイイチロウさん……やっと貴方の望んだ世界が来るかも知れません。未だ未だ時間は掛かるかも知れないけれど、辛抱強く待っていて下さい。タダシさん……貴方のこれからの人生に、これまで以上の多くの幸せが降り注ぎます様に。そして、ショウコさん……貴方のお陰で、僕のこれまでの人生もそんなに悪く無いと思えて来ました。」
僕は桜の折り紙を握り締めたまま、胸の前で両手を組み、ゆっくりと瞼を閉じた。瞼の裏には、満天の星々が光り輝いていた。
「皆、ありがとう。……僕は、この世に、生まれて来て……本当……に……良……かっ……た……。」
ホテルのロビーに向かいチェックアウトを済ませると、僕は改めて何処に行こうかと考えた。今夜から野宿でもするか、それとも別のホテルを探すか等と思案しつつ、気付けば例の橋の中央まで来ていた。
「人間の習性って恐ろしいな……。」
そんな事を思っていると、河川敷に居る車椅子の年配の女性と壮年の男性が眼に入った。花見にでも来ているのだろうが、何処か女性の様子が可笑しい。具合が悪いのだろうか。救急車でも呼ぶべきかと思い、河川敷に向かい駆け下りて行った。
「あの、大丈夫ですか?」
「あ……済みません。一寸咳き込んでしまって。」
傍らの壮年の男性が、女性の背中を擦りながら答える。年齢と雰囲気からして、恐らく母親とその息子だろうか。
「良かったらこれを……。」
そういえば、未だ口を付けていないペットボトル飲料が有った筈だと、リュックサックの中から探し当てたそれを差し出した。
「あ、ありがとうございます。」
傍らの男性が受け取り、キャップを外してそれを女性に渡す。一口、二口、三口、と女性は小刻みに中身を口に含み、先程よりは幾分落ち着いた様子だった。
「いやぁね、年を取ると一寸した事で咽ちゃって。助かったわ。本当にありがとう。」
大した事は無い様だと安心し、会釈をして其処を後にしようとした所、年配の女性に呼び止められた。
「あら、一寸待って。命の恩人に、お礼も無しだなんて失礼だわ。良かったら家でお茶でも如何かしら?」
何故だろうか。初対面で大した事もしてあげていないのに、ご自宅に伺うなんて少し図々し過ぎやしないかと思いつつも、この親子の穏やかな空気に飲まれて付いて行ってしまった。
河川敷から徒歩十分程の所に、彼等の住まいは在った。質素なアパートだった。二階建てで十戸程が繋がっており、恐らくは昭和中期の建築だろう。其処の一階の一番西側の部屋が、彼等の住居だった。
中に招かれて足を踏み入れると、外観の荒み具合とは反対に、整理整頓された小綺麗な部屋であった。玄関を入ると台所が在り、その奥に四畳半の和室、更にその奥に六畳の和室が続いていた。小まめに片付けや掃除がされている印象であった。
「す、済みません。お邪魔します。」
僕が玄関先で小さくなっていると、年配の女性が声を掛ける。
「さぁさ、お上がりなさいな。大したお構いも出来ませんがねぇ。」
彼女は四畳半の和室へと躙り寄ると、僕へ向かって笑顔で手招きをした。そういえば、先程は車椅子で河川敷まで来ていた様子だ。脚が悪いのだろう。
僕が招かれた四畳半の和室に上がると、其処には円形の何処か懐かしさを覚える卓袱台が在った。その前に、少し草臥れた正方形の座布団が置かれている。
「さぁ、どうぞ、どうぞ。」
年配の女性は、普段は自身が使用しているであろうその座布団を僕に薦めて来た。彼女は硬い畳の上に直に座るつもりなのだろうか。流石にそれは申し訳ないと思っていると、背後から別の座布団が差し出され、トンと肩を押された拍子に思わずその座布団に座ってしまった。
「私が使用している物で申し訳ないですが、どうぞお使い下さい。お客様を畳に座らせる訳には行きませんので。」
僕の後ろから、息子と思しき男性がニッコリと笑い掛ける。先程の、座布団を薦めた時の女性の笑顔とそっくりだ。間違い無く二人は親子なのだと実感し、少し羨ましく……いや、本当は妬ましく感じていたのかも知れない。
男性は、煎茶を淹れてくれた。そして、パンケーキの様な物を乗せた大皿を持って卓袱台に座った。彼は大皿の上のそれを切り分け、三枚の手塩皿に手際良く分ける。
「さあ、熱い内にどうぞ。」
僕はどう頂いて良いのか解らず、箸使いに手間取っていた。
「これは、流し焼きというものです。母が子供の頃に良く作ってくれたのですが、玉葱や人参等の野菜が入った、和風お好み焼きといった感じのものです。パンケーキの様なおやつの感覚で召し上がって下さい。」
それを聞いて、このまま食べずにいるのも失礼だと思い、先ず手前の一切れを箸で摘まんで頬張った。その瞬間、野菜の甘みと共に懐かしい香りが口腔内に広がった。僕は、涙腺が熱くなるのを感じた。
「す、済みません。熱かったですか?」
男性が慌てて水の入ったコップを差し出す。
「違うんです。凄く、美味しくて……本当に美味しくて……。」
僕は泣きながらこれまでの自身の境遇を語った。家族と共に食事をした経験が無い事、専属シェフの作るメニューはいつも何の味もしなかった事。男性は母親が流し焼きを食べる手伝いをしながら、穏やかな表情で僕の話をじっと聞いてくれた。
「そんな一流のシェフの味と比較しないで下さいよ。私のは単なる有り合わせで作ったもので、本来なら客人にお出しする内容のものでは無いのです。でも、そんな風に喜んで頂けると、逆に私の方がありがたい気持ちになります。」
男性は謙遜してそんな事を言うが、僕の舌の感覚は間違っていないと思う。美味しいだけでは無い、心を温かくする料理だった。
日が沈み掛けたので、礼を言ってそろそろお暇しようとすると、女性に呼び止められた。
「貴方、こんな遅くに何処へ行かれるの?明日も朝は早いんですよ。」
女性の言葉に理解が及ばず、玄関先でモジモジとしていると、男性が僕の腕をさっと掴んだ。
「此方へ。お夕食の準備が整っていますよ。」
腕を引かれるままに、僕は先程の卓袱台に連れ戻されてしまった。その途中で、男性がそっと僕に耳打ちする。
「申し訳ございません。母は、貴方を初恋の人と勘違いしている様です。お急ぎで無ければ、夕食だけでも此方で済ませて頂けないでしょうか?」
僕は促されるまま、彼等と夕食を共にした。
そうして、奥の和室で女性が眠りに就いた頃、男性はそっと玄関から僕を送り出してくれた。
「本日は誠に申し訳ございません。困っている所を助けて頂いた上に、こんな時間まで無理矢理引き止めてしまって……。母は認知症を患っておりまして、その所為で大変なご迷惑をお掛け致しました。」
「いえ、此方こそとても美味しい家庭料理をご馳走になりました。先程のお母様が『貴方』と仰ったのは、きっと貴方のお父様の事なんですね。」
暫くの間が有った後、男性は答えた。
「いえ……それは私が生まれる前の、母の初恋の記憶だと思います。」
月が照らす夜道を歩きながら、男性がゆっくりと丁寧な口調で語ってくれた。
彼等は実の親子で、母親の名前はショウコ、息子の名前はタダシといった。命名の際、どうしても『正』の字を入れたいと、最後まで母親がごねたらしい。
ショウコは一般的な農家の娘であったが、その器量の良さから地元の豪農との見合いが決まっていた。当初は見合い等という旧制度に大反対していたショウコだが、初めての見合いの席でその相手に対面した途端、顔を真っ赤にして下を向いてしまった。文句の一つでも言って破談にして帰って来るつもりだったが、相手の男性の涼やかな笑顔を目の当たりにし、何も言えなくなってしまったのである。見合い相手の男性はマサオといい、彼女の生涯忘れ得ぬ初恋の相手となった。
時は太平洋戦争真っ只中、マサオにも赤紙が届いた。ショウコとマサオは一夜だけの夫婦の契りを交わし、マサオは翌朝には戦地へと赴いたそうだ。それから数ヶ月、戻って来たのはマサオの名誉の戦死を知らせる紙切れ一枚だった。近所の人達からは『おめでとうございます』と挨拶をされ、ショウコは無表情に『ありがとうございます』と返すしか無かった。日に日に窶れて行くショウコの姿を見兼ね、姑が彼女に離婚を薦めた。ショウコは最後まで嫌がったが、それは若い彼女の将来を思い、姑としてして遣れる最後の気遣いであった。
ショウコはその後、手籠め同然で再婚をさせられた。彼女が望んだものでは無い事は、言うまでも無かろう。その翌年に誕生したのが、タダシだ。ショウコの再婚相手は碌に働きにも行かず、酒と博打に明け暮れる毎日だった。当然、日々の生活は困窮し、ショウコは朝、昼、晩、と働き詰めだった。だが、その再婚相手も十年以上前に他界した。
「父が亡くなったのに、不思議と悲しくは無かったんです。息子として失格ですね。」
そう言って寂しそうに笑うタダシの顔を、僕はじっと見詰めた。
父親が亡くなって以降、家族の知り得ない数々の借金が明らかになった。ショウコが汗水垂らして働いて貯めた預金は、父親の借金の返済ですっかり無くなってしまった。相続放棄をする事も出来たが、『身内の不始末は身内で』とのショウコの信条から、全てを完済し終えたそうだ。
「父は年金を一度も支払った事が無く、当然、母には遺族年金なんて支給されません。母の預金が底を付いた後は、私の稼ぎで何とかして行くしかありませんでした。」
タダシは高校を卒業後、近所の食品工場に勤めており、勤勉な性格が評価されて主任という役職を与えられていた。それから暫くは、母と息子二人で質素ながら平穏な生活が続き、このまま幸せに暮らせると思っていた。だが、父親の死から数年後、母親の認知症が発症したのだ。
「最初は、人や物の名前が思い出せない程度から始まったんですが……。次第に、暴言や不眠、徘徊が増えて行ったんです。母が外出して迷子になり、警察に補導されたという知らせを聞いて、私は何度も仕事を早退して母を迎えに行きました。流石に、職場の人達にこれ以上の迷惑を掛ける訳には行かず、暫くして会社を辞める事にしたんです。」
介護に奔走するタダシの姿が眼に浮かぶ。ショウコの世話を焼くタダシの姿からは、紛れも無い親子の愛情を感じた。
「それから少しの間は、失業保険で凌いで行けました。でも、私の預金も日々減って行き……正直不安でした。本当は貴方と出会ったあの時、心中する場所を探していたんです。」
タダシの衝撃的な告白に、僕は何と答えて良いか解らない。
「生活保護の受給も考えて、役所に申請しに行った事も有ります。ですが、門前払いでした。『健康で未だ働けますよね?貴方の様な方は沢山いらっしゃいます。先ずはハローワークで仕事を探して下さい。』って……。母親を介護しながら出来る仕事なんて、何処に有ると言うんですか!」
感情的になって少し声が大きくなり、タダシは慌てて下を向いて口を噤んでしまった。タダシの憤りも尤もだ。何の為のセーフティネットか。彼等の様に本当に必要としている人達では無く、既に丸々と肥え太った役人共に、更なる飼料を与える為の国民の血税か。そう思ったが、僕は敢えてそれを口にしなかった。それを一番痛感しているのは、タダシ達親子だったからだ。
「また、遊びに行っても良いですか?」
例の橋に差し掛かるカーブの手前で、僕はタダシを振り返り声を掛けた。
「え?」
「今日はご馳走様でした。それじゃ、また、明日!」
驚いて立ち止まるタダシに、僕はそう言って足早に駆け出した。
翌朝、商店街で買い込んだ食材を両手に、再びタダシ達親子のアパートを訪れた。応対したタダシは、本当に来たのかという驚きの表情をしていたが、僕の持っている荷物を見て眉を顰めた。
「誠に申し訳ないのですが、私には貴方に施しを受ける理由が有りません。どうかお引き取り下さい。……これ以上、惨めな思いをさせないで下さい。」
本当に申し訳なさそうな表情で、深々と頭を下げられてしまった。だが、此処で引き下がる訳には行かない。
「何を言っているんですか?僕は今日、此処に決闘に来たんです。昨夜、予告したじゃないですか、料理対決です!」
理解不能な状況に硬直しているタダシを余所目に、僕は持って来た食材を台所に運ぶ。すると奥から、ショウコが起き出して、悪い脚を引き摺って此方まで躙り寄って来る。
「あら、嫌だ!私ったら!」
そう言って、再度奥の和室に籠ると、十分程して静々と僕等の前に現れた。その顔には、薄っすらと白粉が叩かれ紅も差されていた。
「貴方、おはようございます。」
そう優しい声で言って、僕に三つ指を着いて挨拶をしてくれた。
それから、僕が持ち込んだ食材を使っての調理が始まった。料理対決とは名ばかりで、実は僕は包丁を握るのも初めてだった。二時間後、タダシの助けも有り何とか目的の物は完成した。タダシの切った綺麗な具材と、僕の切った不揃いな具材とが同居する、奇妙な鍋料理が仕上がっていた。恐らく、料理対決なんてのは嘘だと、タダシには見抜かれているだろう。それでも、三人で卓袱台を囲んで食べた鍋料理は絶品だった。自画自賛だと世界中の人に嗤われても、僕は一向に構わなかった。
満腹になり眠気を催したショウコを奥の和室で休ませ、僕等は二人きりで語り始めた。
「……どういう……つもりなんですか?」
「只の料理対決です。僕は貴方達に、施しなんてするつもりは有りません。勝つまでは毎日、対決を挑むのみです。」
理解が出来ないという風に、タダシは首を振っている。
「どうしても気兼ねだと言うのなら、先ずは明日から日雇いの仕事をして来て下さい。日雇いなので、勤務先に迷惑が掛かるなんて思わずに、此方の都合でいつでも辞められます。その間、対決が出来なくて僕は暇なので、ショウコさんと一緒に遊んでいます。」
外套からスマートフォンを取り出し、求人サイトに条件を入力して検索をして行く。十数件が該当した。
「これなんかどうですか?此処から割りと近いし、時給も結構良いですよ……まぁ、皿洗いばっかりさせられちゃいますけど。」
僕がスマートフォンの求人広告を見せながら言うと、タダシの眼から一筋の涙が流れていた。
「本当に……ありがとう。貴方には救われてばかりですね……。」
翌日の夕方から、彼は早速日雇いのアルバイトに出掛けた。皿洗いなんて仕事は、料理上手な彼の矜持が許さないかとも思ったが、得意分野に近い職場の方が良いと思ったのだ。其処から少しずつ、再起に向けて生きて行って欲しかった。
夜遅くにタダシが帰宅すると、三人で焼きうどんを食べた。流石に麺を打つ所からとは行かなかったが、僕が初めて一人で完成させた料理だった。不揃いな甘藍や人参や玉葱達が、僕にはとても申し訳なく思えたが、ショウコもタダシも美味しいと言ってあっという間に平らげてしまった。
「ご馳走様でした!あの……実は、今日の日雇いのアルバイト先なんですが、明日も来てくれないかって言われてしまいまして……。」
タダシが僕に申し訳なさそうに切り出す。
「良かったじゃないですか!タダシさんの働き振りを、評価して貰えたんですよ!明日もご飯を用意して待っていますね。」
僕が言うとタダシは謙遜していたが、その顔はとても幸せそうだった。このまま、この親子が再起出来る契機になれば良いと思っていた。
翌日もまた、彼は日雇いのアルバイトに行き、夜遅くに帰宅した。僕の拙い親子丼を振る舞った。未だ未だの出来の筈なのに、ショウコもタダシも美味しいと言って笑顔で食べてくれた。こんな僕でも、誰かを笑顔にする事が出来てとても嬉しかった。
そうした生活が数日続き、或る日の夜、タダシが帰宅するなり息咳き込んでこう言った。
「ど、ど、ど、どうしよう。どうしよう?正規で働かないかって言われたんです!アルバイトでは無くて、正社員でって言われたんです!」
あまりの慌て振りに、僕は一先ず、ご飯を食べながらゆっくりと話す事を提案した。その日の夕食は、奇しくもカツ丼だった。ショウコの年齢も考えて、豚肉は脂身の少ない部位を使い、大葉と大根おろしで少しさっぱりと仕上げてみた。ショウコのカツだけ、包丁で小さめの一口大に刻んで食卓に並べた。
食事をしながら話を聞いてみると、やはり彼の料理の才能を買われて、正社員の話が舞い込んだ様だ。シフトに入る筈のスタッフが体調不良で欠勤となり、厨房内のスタッフの手が廻らなくなった事から、急遽、彼が調理を手伝う事となったそうだ。皿洗いの臨時アルバイトであった筈の彼の手捌きに、阿鼻叫喚の地獄と化そうとしていた厨房は救われたのだ。彼一人で、通常の調理スタッフの三人分の調理をこなしたそうだ。加えて、調理師免許の取得は追々で良いとの事で、会社から免許取得の際の補助も出るとの事だった。
「良かったじゃないですか!タダシさんの日々の努力が認めて貰えたんですよ!」
「でも、この話を受けてしまっても良いのか……。」
やはり、彼にとっての問題点は其処だった。母親の介護だ。
「ショウコさんの事は、心配しないで下さい。僕が一緒に居るので、危ない目には遭いませんよ。」
「でも、貴方には……貴方の予定とか、目的とかが有るじゃないですか。人様の貴重な時間を無駄には……。」
「では、お休みの日に、僕に料理をイチから教えて下さい。料理対決なんて言っちゃいましたけれど、僕の料理の腕前なんて、未だ未だなんだって事は充分自覚しています。」
僕は、高校を卒業して大学進学前に、卒業旅行で一人旅をしていると説明した。行き先は決めずに、その時に思い付いた場所を訪れ、気儘な旅をしていると。嘘を吐いている事に心は痛んだが、僕の本当の目的を告げて、彼の心を傷付けるよりはずっと良い。
「先ずは、就職おめでとうございます!今宵は祝杯です!」
互いに煎茶を淹れた湯飲みを掲げ、軽く合わせた。そうして、その夜は遅い時間まで、二人して他愛の無い世間話に花を咲かせた。好みの女性のタイプや、子供の頃に嵌った漫画や、学校で話題だった怪談話や……。どうでも良い会話が、僕には凄く心地良かった。
翌朝気が付くと、僕は昨夜、あのままタダシ達のアパートで眠り込んでしまっていたらしい。不味いと思って急いで起き上がると、僕は一組の清潔な布団の上に居る事に気が付いた。
「あ、おはようございます。眼が覚めましたか?」
タダシが笑顔で声を掛けて来た。
「あ、あの……あの、僕……昨夜は、その……。」
僕が焦っているのを見て、僕の心情を全て見透かしているかの様に、タダシが穏やかにこう言った。
「私はお弟子さんを取る時は、住み込みでと決めているんです。今日からそれが貴方のお布団ですよ。」
未だ寝惚けたままの僕にそう告げて、タダシは軽めの朝食を用意してくれた。
その日から晴れて正社員としての出勤との事で、タダシは昼過ぎには仕事に出掛けた。幸先良く、その日は朝から快晴だった。一通りの家事が済み、僕はショウコにそっと声を掛けた。
「天気が良いですね。今日は散歩にでも出掛けませんか?」
薄っすらと頬を赤らめ、彼女はゆっくりと頷いてくれた。出掛けるのであれば身支度をしたいとの事だったので、僕はそれを手伝った。結んだままの髪を一旦解き、優しく櫛で梳いて行く。再び綺麗に纏め上げ、後頭部にピンを刺して固定して行く。料理の腕は未だ未だだが、ヘアセットに関しては、我ながら良い出来だと思った。そうして、ショウコに外出用の外套を着せ、寒くない様にと襟巻きを巻いて完成だ。僕はショウコを横抱きにして車椅子に乗せ、最後に玄関の戸締まりをした。
「さぁ、出掛けましょうか。」
僕が言うと、ショウコは遠足に出掛ける前の小学生の様な、キラキラとした笑顔で返事をした。
「はい。」
久々の外出の筈なので、あまり無理をさせてはいけないと思い、近くの商店街を散歩する事にした。商店街には、青果店、精肉店、鮮魚店、精米店、衣料品店、呉服店、手芸店、文具店、薬店、理髪店、書店、飲食店等が立ち並び、見ているだけでも懐かしさを覚えた。今時では貴重な、古き良き日本を感じさせてくれる場所だ。
そういえば、先程からショウコがずっと黙ったままでいる。具合でも悪いのかと思い、心配になり覗き込んで声を掛けてみた。
「あの、大丈夫……ですか?」
「ごめんなさい。緊張しちゃって……。貴方と二人きりで散歩なんて、見合いの時以来なものだから……。」
女学生の様に頬を真っ赤に染めたショウコは、此方に目線を向けずにポツリとそう言う。そうだった。ショウコはマサオと僕を勘違いしているのだった。ならば、此処はマサオとして振る舞うべきだと思い、こう続けた。
「では、本日は二度目のデートという事ですね。何処か入ってみたい店は有りませんか?」
僕は話に聞くマサオを、僕なりに精一杯演じてみた。ショウコの生涯忘れ得ぬ初恋の相手だ、きっと素敵な男性だったに違いない。
「あの……折り紙を……折り紙を折ってみたいのですが、暫く振りで折り方を忘れてしまって……。」
ショウコは耳まで赤くして、俯いたままで答えた。
「解りました。では、参りましょう。」
その後、書店で折り紙の本を購入し、文具店で色鮮やかな折り紙のセットを購入した。ショウコは始終、満面の笑みであった。今日、此処に来て良かったと思った。それもこれも、タダシの仕事が上手く行き掛けている事が、全ての吉事の始まりであったと思う。このまま、ずっと末永く、この親子に幸福が訪れます様に……と、僕は心の中で願った。
日が暮れ掛けて来たので、序でにその日の食材も購入し、商店街での散歩を終える事となった。帰宅すると、久々の外出の所為かショウコは少し疲れた様子だったので、暫くは奥の和室で休ませる事にした。その間に、僕は今晩の食事の支度を済ませようと意気込んだ。先ずは赤飯を炊く事に決め、鯛の煮付けと、法蓮草と人参の白和え、蛤のお吸い物を合わせる。ネットでレシピを検索しながら格闘する事、約三時間、試行錯誤の末やっと完成を見た。後は、タダシの帰宅に合わせて食卓に並べるだけである。
程無くしてタダシが帰宅し、僕はお吸い物を温め直して食卓の準備を進めた。ショウコも奥の和室から起き出して来て、三人が卓袱台の周りに揃った。
「タダシさん、お疲れ様でした。さぁ、頂きましょう!」
僕が声を掛けると、タダシが眼を丸くして食卓の上を見詰めている。
「この食材……貴方が……?幾らですか、私が払います!」
いつもより張り切って食材を買い込んだ所為か、タダシが慌てた様子で僕の方に向き直る。
「いえ、この料理達は代金を頂く為に此処に居るのではありません。貴方を祝う為に此処に居るのです。……改めて、おめでとうございます。」
僕がそう言うと、タダシは顔をクシャクシャにして、泣きながら顔の前で両手を合わせて言った。
「……頂きます。」
その後、ショウコと僕も両手を合わせて食事を始めた。温かい時間がゆっくりと流れ、僕はこのままずっと此処に居たいと思い始めていた。
そうして、タダシが正社員として勤務を始めて二週間が経った。僕はいつも通りに、タダシの帰宅時間に合わせて修行の成果を披露し、それまでの時間はショウコと一緒に過ごした。天気の良い日は一緒に散歩に行き、天気の悪い日は一緒に折り紙を折った。
僕は折り紙なんてものは、鶴を折る位しか知らなかったのだが、ショウコは桜や蒲公英、蝶等も折って見せてくれた。
「あぁ、思い出した。やっと綺麗に折れたわ。」
そう言って、ショウコはその中から一つ、一番時間を掛けて折っていた桜の折り紙を、僕にそっと差し出した。
「貴方、どうぞ。いつもありがとうございます。」
花弁のみならず、雄蕊や雌蕊、花托や萼までもが正確に再現されており、本物の桜に見紛う程に美しかった。ショウコが折り紙を折りたいと言ったのは、きっとこの為だったのだ。僕に感謝の気持ちを伝える為だったのだ。僕をマサオと勘違いしての事だったかも知れないが、それでも僕はどうしようも無く嬉しかった。僕はその折り紙を手に取ると、小さな子供の様に泣いた。
或る日、天気がとても良いので散歩に出掛ける事にした。最近は桜雨が続いていたが、その日は久々の雲一つ無い晴天であった。桜が満開の時期であったので、例の河川敷まで花見を兼ねて出掛けてみる事にした。
果たして、河川敷の桜は満開に咲き誇り、辺り一面に花弁が舞い散っていた。舞い散る花弁の所為で、ほんの少し先の視界も良く利かない。こんなに美しい桜は少し怖い。舞い乱れる桜が綺麗過ぎて、何かとても大事なものも一緒に攫って行きそうで……。
暫くは、二人して桜の美しさに眼を奪われていた。不意にショウコがゆっくりと語り掛けて来た。
「……貴方、タダシは貴方に似て、とても良い子に育ちました。」
一瞬、僕の脳裏を疑問が掠めた。
「私はとても幸せでした。貴方と、貴方との間に授かった子との、二つの大きな幸せに包まれて。私は、世界で一番の果報者でございました……。」
ショウコは満開の桜を見上げたまま、その眼からは一筋の涙が流れていた。僕は外套のポケットから、桜の刺繍が施された淡いピンク色のハンカチーフを差し出した。セイイチロウから貰った物だ。
「……どうぞ。」
僕はそっと、ショウコの手にそのハンカチーフを乗せた。ショウコはじっとそれを見詰め、瞬きをしたその眼からは、更に大粒の涙が溢れ出した。
「貴方は……いつも、私に……一番綺麗な世界を……見せ……てくれ……ます……。」
ショウコはゆっくりと顔を上げ、此方に涙で輝いている顔を向けた。
「……愛……して……いま……す。来……世も……貴方……と……。」
ハンカチーフがショウコの膝に緩やかに滑り落ち、そっと彼女は眼を閉ざした。彼女はとても美しい、聖母の様な微笑を浮かべていた。気付くと僕も、大粒の涙を流していた。僕はゆっくりとハンカチーフを拾い上げ、ショウコの涙を拭い顔周りの髪を整えた。
「……僕も、愛しています。」
僕はもう、本当にそれだけしか口に出す事が出来なくて……。そのまま其処で膝を突くと、僕は車椅子の上からショウコを抱き締めて、声を上げて泣いた。それはもう、小さな小さな子供の様に大声を上げて泣いた。
それから何時間が経過しただろうか。河川敷の辺りはすっかり夕闇に包まれていた。僕は、ジャリジャリという河川敷の石を踏み締める音に気付いて、はっとして顔を上げた。其処には、心配そうな表情をしたタダシが立っていた。僕は何か言わなければならないと思ったが、上手く説明出来ない上に、また涙が頬を伝って流れて来た。
「仕事が終わって帰宅してみたら、家に誰も居ないから、心配して捜しに来たんです。若しかしたらと思って、此処に来てみたんだけれど、二人共無事そうで本当に良かったです。」
そう言いながらも、タダシは僕の様子から何かを悟った様だ。
「母は……?」
「……霊山へ旅立たれました。貴方を……貴方と貴方のお父さんを愛していると。」
タダシが眼を見開く。
「……タダシさん、貴方の本当のお父さんは、再婚相手の男性では無く、お母さんが本当に愛した、初恋の男性だったんです。貴方の名前に『正』の字を入れたかった本当の理由は、ショウコさんの『正』の字からでは無かったんです。マサオさんの『正』の字からだったんですよ。」
いつの間にか、タダシも僕と同じ様に涙を流していた。
「そうか……そうだったんですね……。ありがとう……本当にありがとう。」
そう言って、タダシは母親と僕の上に覆い被さり、両腕で抱えて泣いた。僕等三人の上に、憐れむかの様な優しい、そして悲しい桜の花弁が次から次へと舞い散った。
それから二日後、ショウコの葬儀が行われた。僕は慌しくしているタダシを手伝い、親族では無いにも関わらず葬儀にも列席した。全てを終えて、僕がタダシ達のアパートを後にする日、白色の封筒を差し出しながらタダシが言った。
「何から何まで、本当にお世話になりました。貴方のお陰で、母は笑顔で旅立つ事が出来ました。私は一時でも、母と心中をしよう等と考えた、己の罪を一生背負って生きて行きます。……これは原罪等では無く、愚かな私自身が生み出した罪なのです。」
封筒の中に何が入っているのかは、容易に想像が出来た。こんな物を受け取る為に、ショウコとの日々を過ごしたのでは無い。でも、僕が拒否しても、タダシはせめてもの礼にと食い下がるだろう。其処で僕は、別の提案をしてみる事にした。
「別のものに交換出来ませんか?」
タダシは不思議な顔をして此方を見る。
「権利を下さい。血縁関係も無い赤の他人の僕が、お母さんの墓前に参る権利を。毎年、命日には必ず桜をお供えします。」
見る見る内にタダシの顔はクシャクシャになって行き、堰を切った様に大量の涙が溢れ出した。
「貴方は……貴方は、一体……どうして、何処まで、私達親子に……!」
泣きじゃくるタダシの手にそっと手を重ね、僕は言った。
「僕は何もしていません。只、幸せな貴方達を見ていたかったのです。」
これは、僕の本心であった。いや、そうでは無いかも知れない。僕の本心を偽る為に、美しく装飾を施された、都合の良い欺瞞で有り得たかも知れない。僕はこの親子に、僕と僕自身の母親を重ねて見ていたのかも知れない。愛情の枯渇した僕等親子も、この親子が幸せに過ごす事が出来れば、若しかしたら……。違う。そんなのは只の代償行為でしかない。僕は解っていた、解り過ぎる程に良く解っていたのだ。それなのに、僕は未だにこんなにも、卑しい程に母親の愛情を求めている。
タダシとの別れを済ませ、僕は夕暮れ時の街を眺めて歩いた。これからどうしようか?行く当ても無く、気付けばショウコと散歩をしたあの商店街に来ていた。僕はショウコとの記憶を反芻し、一軒一軒ゆっくりと店舗を眺めて歩いた。どの店舗を見ても、温かい思い出が甦って来る。
ふとショウコと折り紙の本を購入した書店を発見し、僕は懐かしく思い其処に入ってみる事にした。今時珍しい手動の引き扉を開け、中に入るなり新刊コーナーを目指して進もうとした。だが、その途中でレジカウンター横のタブロイド紙の見出しが眼に入り、思わず足を止めてしまった。『有名進学校にて出身地域に因る生徒の選別 生徒の投身自殺は被差別部落出身に因る虐めが原因か 同被差別部落出身教師の内定取り消しの過去と謎の事故死 全面否認する学校側を徹底追跡』という大きな見出しと共に、校長の写真を始めとした複数の写真が掲載されていた。僕はそれを手に取り、大急ぎで会計を済ませて書店を後にした。
例の河川敷まで来ると、僕は桜の木の下に腰を下ろし、ゆっくりと記事に眼を通して行った。セイイチロウの手記も、原文ままに掲載されている。正直、本当に記事が掲載されるのか不安ではあったが、期待していた以上の内容であった。
「良かった。あの記者の人、愛想は悪かったけれど、ちゃんと記事にしてくれたんだ。」
だが、これで部落差別が無くなるとは思わない。これは飽くまで問題提起だ。此処から幾つもの衝突と和解を経て、差別への偏見が少しでも無くなる事を祈った。
今夜は空気が澄んでいる。満月がいつもより際立って見えた。僕は河川敷で仰向けに寝転び、すっかり日が落ちた夜空を眺めながら、月と星々の輝きに眼を奪われていた。
僕はこの街に来て、多くの人達に救われた。一時でも、幸せだと実感する事が出来た。
「マナミ……そっちの世界は綺麗かい?寒くないと良いのだけれど。」
僕は声に出して一人一人に挨拶をしてみた。
「ユイ……お腹は空いていないかい?今度は遊園地でステーキの大食いでも挑戦しようか。ヒロミ、ジュリ……いつまでもお幸せに。もう二人の邪魔はしないから、本当に勘弁してよ。セイイチロウさん……やっと貴方の望んだ世界が来るかも知れません。未だ未だ時間は掛かるかも知れないけれど、辛抱強く待っていて下さい。タダシさん……貴方のこれからの人生に、これまで以上の多くの幸せが降り注ぎます様に。そして、ショウコさん……貴方のお陰で、僕のこれまでの人生もそんなに悪く無いと思えて来ました。」
僕は桜の折り紙を握り締めたまま、胸の前で両手を組み、ゆっくりと瞼を閉じた。瞼の裏には、満天の星々が光り輝いていた。
「皆、ありがとう。……僕は、この世に、生まれて来て……本当……に……良……かっ……た……。」