第1話 オッサンクイズ

文字数 1,993文字

 男は、三十九歳にして早くも死を願い、山奥までバスで来た。が、夜になっても死にきれず、歩いて帰る途中だ。だからもう、この男の事は、【ただの男】と呼べばいいだろう。名前を覚えたところで、すぐに消えるかもしれないから。
 ただの男は、トンネルの前で立ち止まった。トンネルは大きな怪獣が、口を開けて待ち構えているようだった。オレンジ色に照らされた壁には、苔が沢山生えていた。ゆっくりと弧を描いているために、怪獣の(のど)の奥は見えない。すぐに出口なのか、ひたすら続くのか分からない。何よりも、中に

な気がした。人とか獣ではない何かの気配が、いつの間にか、ただの男に(まと)わりついていた。つまり常人には、容易に踏み込めない恐怖で満ちていた。
 暫くして。
 申し訳程度にひかれた白線の内側を、ただの男は歩き始めた。

「ひぃ、怖い」

 一切車も通らない。相変わらず出口も見えない。すぐに我慢出来なくなり、引き返そうと振り向くと、後ろの景色がおかしかった。正確にいうと、ただの男は、ダムの上にいた。信じられない思いで覗き込むと、轟々と落ちる水の先に、深い深い暗闇が見えた。
 間違いない。
 昼間に眺めていたあのダムだ。飛び込むのを躊躇(ためら)った、あの高さだ。
 ただの男は、後ずさりをしてダムを背にした。そして、また目を疑った。照明の影から抜け出たように、トンネルの奥から、黒いジャージを着た女の子が歩いて来たからだ。女の子は、少し先で立ち止まった。

「もう帰るのか?」
「ああ、今日は帰る」

 大人びた話し方をする女の子に、ただの男は、拳を握って気丈に答えた。弱々しい返事をしてしまうと、何故か、突き落とされてしまうと思った。
 女の子は、困ったように肩をすくめた。

「私は、オッサンを観察するのが趣味でね。散歩しながら、オッサンの行動原理を考えていたら、こんな山の中に来てしまった。あれはダムかな?」
「え、なに?」
「私とクイズをしよう」
「なんで?」

 と頭の回転が追いつかない。女の子は、淡々と話を続ける。

「このトンネルは、一人しか生きて通れないらしい」
「嘘をつけ」
「嘘じゃない。さっき対決したオッサンが言っていた」
「オッサン? そのオッサンはどうなった?」

 俺以外にも、こんな所に人がいたのかと、ただの男は思った。

「私が勝ったので消えた。死んだと思う」

 死んだって、なんだ?
 一瞬頭が真っ白になり、それでも話を飲み込もうとすると、女の子はいきなり問題を出してきた。

「では一問目。どうしてオッサンは、黙って用を足せないのだろう」
「え?」
「トイレの個室だよ。うるさくないか? こっちが集中できないだろう」
「えっ?」

 ただの男が言葉に詰まると、女の子はブッブーと言った。

「はい、マイナス一ポイント。三回間違ったらアウトだよ」
「ちょっと待って」

 ただの男が言っても、女の子は止めなかった。

「じゃあ二問目。あのオッサンのワイヤレスイヤホンは、どう見ても充電端子の部分を、耳の穴に突っ込んでいるが、あれで聴こえているのだろうか。お答え下さい」
「なに? イヤホン?」

 意味が分からない。

「ブッブー時間切れ。二択なのに何してるの? マイナス二ポイントだよ」

 女の子は笑った。自分の勝ちを確信したようだった。その瞬間に、ただの男の足元に、大きなひび割れが走った。
 地面が裂けそうだ。落ちてしまう!

「さあ、最後の問題だ」
「くそっ、助けてくれぇ!」

 女の子は首を振った。

「三十五度を超える猛暑日に、屋根もないのにエンジンを切れというが、オッサンが熱中症になっても構わないということか? オッサンが絶滅しても、社会は持続可能かどうかでお答えください」
「はああ? なっ、夏以外は協力できる! もしくは休憩時間の一時間だけは除外してくれぇ!」
「違います。オッサンがいなくても、社会が持続可能かどうかを訊いているのです」

 トンネルが大蛇の腹の中のように、うねうねと動いている。

「人力だけでやるには限界がある! 排気ガスの少ない車を手配してくれぇぇ!」
「それが答えでいいんですね? 本当にいいんですね?」

 ただの男は、血の気を失った顔で、「あっ」と言った。思考回路の迷宮にはまっていたが、ようやく出口に辿り着いた瞬間だった。
 ただの男は、女の子を睨む。踏ん張って、しっかりと前を向く。

「全部俺の事だな。お前が観察していたオッサンは、俺のことだろう!」

 突然、ただの男は押された。左右からトンネルの壁が迫って、ダムの上から落とされた。ダムの斜面に何度も打ちつけられ、意識がすぐに飛んだ。

 やがて目が覚めると、晴天の空の下で寝転がっていた。ダムもトンネルも、トンネルの住人のようだった女の子も、姿形を無くしていた。ただ、舗装された道がゆっくりと下り、遠くに見える町に続いていた。

「帰ろう」

 ただの男は、歩き始めた。
 胸の内も、空と同じように澄み渡っていくと思えた。

 
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