あの夏、確かに僕たちは甲子園を目指した
文字数 2,009文字
「佳代!? それに、芙由子……? おまえ達こんなとこで何しとる?」
地方大会の試合でグラウンドに着いた光彦の前に、浴衣を着た女子が2人立っていた。近所に住む佳代と芙由子だった。
「八木君の応援に来たのよ」
大きな牡丹の花が描かれた赤い浴衣を着た佳代が笑う。
「キャプテン頑張ってよ!私達クラスの女子を代表してきたんだから」
キャプテンに選ばれたばかりの光彦にむかって、佳代がけらけら笑いながらそう言った。
その横に、恥ずかしそうに立っている芙由子の白地の浴衣には鮮やかな青色の朝顔が描かれていた。すんなりした体つきの芙由子に浴衣はビックリするくらい似合っていて、光彦は内心不安になる。こんなに浴衣が似合ってるんじゃ、みんなの注目の的だ。と言っても芙由子と光彦の間に特に何かがあるわけではないが。
「光っちゃん、モテモテでいいなあ、一人分けろよ!」
冷やかすように勝男に揶揄われて光彦の顔がかっと赤くなる。
光彦はそれ以上何も言わず、女子たちにくるりと背を向け、にやにや笑っているチームメイト達のもとに走った。笑っている勝男の頭を一発殴ると勝男が笑いながら「痛え!」とわざとらしい声をあげた。
勝男以外のチームメイトは光彦に向かって何も言わなかったが、それでもニヤニヤ笑われている気がして、光彦はその日絶対に女子たちのことを無視しようと強く決心した。
9回裏、3対0
一塁と三塁に走者が出ていた。
一発打てば同点。
甲子園を目指す夏が終わるかどうかの正念場だ。
打席に入って投手と向き合った途端、光彦は自分が激しく緊張していることに気づいた。気が付けば、白球が自分の横を2回通り過ぎていた。
「ツーストライク!」
審判の声がどこか遠くに聞こえる。
俺、何やってんだ!?
ぶるぶると首を振る。
こんなところで全部終わらせちまう気か?
ちらりと目を走らせれば、ベンチから乗り出すようにしてチームメイト達が叫んでいた。
俺次第なんだ。
そう思うと、なおのこと緊張の糸がぎちぎちと光彦の心を締め上げてくる。
燃えるように暑いはずなのに、全身が凍り付くような気がする。
ダメだ。ダメだ。ダメだ。落ち着かなきゃダメだ。
必死で自分を叱咤しても委縮した心はどんどん縮こまっていく。その時、
「がんばって!」
思いがけないほどその声はくっきりとした音になって耳に飛び込んできた。
白い浴衣が夏の太陽に光って見えた。そんなに大きな声を出すことができないはずの彼女が必死で叫んでいた。
すうっとすべての音が近くに戻ってくる。息を深く吸い込んだ。
こんなところで終われるか!
甲子園まではまだ遠いのだ。俺達はずっとみんなで勝つために練習を積んできたのだ。
投手が振りかぶる。白い球がぐんと近づいてくる。
思い切りバットを振った。強い手ごたえとともに走る。喚声が聞こえる。全力で三塁を走り抜けた時、「ホームランだ!」という声が聞こえた。ようやく周囲に目をやれば、相手方の選手たちはただ棒立ちで光彦が走るのを見守っていた。9回裏二死からの同点のホームランだった。ホームベースは光彦が戻るのを待っていた。
次打者のお調子者の勝男が打ったホームランで光彦達は逆転勝利を得た。
「女の子達にいいとこ見せたいじゃん?」
勝男はそう笑って言った。あとで、勝男は佳代のことを好きだったんだと聞かされた。
だが、光彦達の夏は、そこで終止符が打たれた。
1941年夏、日中戦争の激化を受け、甲子園を目指して行われていた全国の地方大会は中止された。光彦たちの甲子園までの2戦を残して。
* * *
「八木っ!八木二等兵っ!どこだ!?」
隊長が俺のことを探しながら叫ぶ声が聞こえる。
「佐藤!? 伊賀!?」
あいつらもやられたのかと思いながら、倒れこんだ熱帯の草むらの中からギラギラ輝く真っ青な空を見上げた。鉢合わせした米兵から激しい銃撃を受けた。ドクドクと脇腹から血が流れだしているのがわかる。声を出して居場所を知らせる力はもう残っていなかった。隊長の声はみるみる遠ざかっていく。
「もう、ダメだな」
光彦の喉から誰に聞かせるでもない掠れた声が漏れた。
急速に視界が狭くなる。死ぬんだと、妙に冷静に思う。名誉の戦死だ。もっと南の島では飢餓で死んだ連中も多かったと聞く。多分俺は幸運だった。
でも、心残りはある。
「野球……もう一度、やりたかったな」
空の青と雲の白が、見えなくなる直前の光彦の目に沁みこんでくる。
「綺麗だったな」
その色は最後の野球大会に来ていた芙由子の浴衣の色と似ている気がした。
「みんな、」
勝男は出征前に佳代と婚約したと聞いた。無事でいるだろうか。ほかの連中はどうしているのだろう。
もしまた、次の世で会えたら、
目が閉じた時あの瞬間が蘇った。喚声の中を疾走する自分と、確かに踏みしめた五角のホームベース。
また野球をしよう。
あの夏、確かに目指していた甲子園をもう一度目指そう。