ミカエル愛の考察

文字数 11,764文字

僕が地球(エデン)に来たとき、これが実に最悪だった。
マリアと出会うために人間の身体が必要だった。
そこで妊娠している女性の身体、正確にはその中にいる胎児と同化するわけなんだが……
予想だにしないハプニングが起きた。
なんと生後間もない僕は捨てられてしまった。
雪が舞い散る夜だったという。
とある病院の、それ専用の場所に捨てられたのを職員が助けてくれた。
おかげでこの歳まで健康に人間として生活できている。
それにしても実に危なかった。
だって死んでしまったら“主”の御心に沿うことができないからね。
僕ら天使は100%そのためだけに存在している。
逆に言うとそれ以外の存在理由は無い。
ところが枠から大きく逸脱した者がいた。
それがルシファー。
“主”が一番最初にこの世に創った天使。
あらゆる意味で“主”に最も近い天使。
その姿は美しく威厳に満ちていた。
誰もがルシファーを仰ぎ見た。
それがどういうわけか、何を血迷ったのか天使の三分の一を率いて“主”に戦争を仕掛けた。
僕は“主”の言葉に従い、天使の軍団を率いてルシファーと戦った。
結果、ルシファーは敗北し、叛乱した天使とともに深淵に落とされた。
僕とルシファーはもともと“主”の補佐をするために創られた。
右手と左手のようなものだ。
それが敵味方になり戦うだけでも想定外だったのが、果てしない時間を経過して地球(エデン)でこうして肩を並べて再び言葉を交わすとは……
マリアと出会うまでの間、僕はルシファーとは違った環境で人間として生活した。
もともとこの宇宙が誕生してから決まっていたことだった。
正確に言うと“主”が誕生した時から。
人間としてのマリアを僕らの属性に染めるために僕は人間として生活しながら研究した。
人間を。
結果は実に不可解で、これほど愚かなものなのかと痛切に思った。
僕ら天使から見たらあまりにも不完全で脆く、卑劣で蒙昧だ。
このような下等な猿をどうして“主”が創造されたのか理解に苦しむ。

おっと。
“主”の御心に疑念を挟んではいけない。
なぜなら、その思惑は僕ら天使の及ばぬところなのだ。
忠実な下僕は黙々と与えられたことだけをしていればいいのであって、そこに自分の幼稚な考えなど持ち込むべきではない。
どうも人間と暮らしていて僕にも悪い影響がでているようだ。
戒めないと……

それから人間と暮らしていて僕が滑稽でたまらなかったことがある。
それは人間が言う“神”という存在だ。
どうも我らの“主”を指しているらしい。
彼らは甚だ誤解している。
そもそも“主”は人間のことなんてこれっぽっちも考えてはおられない。
少なくても僕が見た範囲ではだ。
愛という概念もない。
慈悲も怒りも、感情も。
何もない。
従って、いくら祈ろうが“主”には届かないし響かない。
なのに彼らは毎度の食事の度に祈りを捧げる。
しかも人間は神=主には無限の愛があり、自分達を救済してくれると信じている。
いったいどうしたらこれほど都合のよい考えが生まれるのか?
どうして曲解するのか?
そのことを自分なりに研究するのはいい暇つぶしにはなった。
マリアの思考を理解するのにも役立つだろう。
さて、そろそろ本腰を入れていくか。


毎朝、それぞれの当番をこなして食卓に着く。
僕は施設で暮らしている。
管理しているのは園長と副園長の老夫婦だ。
僕以外に5人の子供がいる。
みんな小学生か、それに入るかというところだ。
つまり暮らしている子供の中では僕が年長になるわけだ。
食卓に着くと園長に倣ってみんなが手を合わせる。
そして神様に祈りを捧げる(この滑稽な行為にも慣れてしまった自分がおかしくもあるが)
8人で囲む食卓はにぎやかだ。
そして学校がある者は食事をすませると登校していく。
僕もその1人だ。
「行ってきます。先生」
「気をつけてね聖也」
副園長の老婦人はいつも温かい頬笑みで僕らを送りだしてくれる。
この人たちの感心なところは他人の子供を自分の子供のようにめんどうをみているというところだ。
善と悪――
この二つで分けるとしたら間違いなくこの人たちは善良な人間だろう。
無欲で慈善の心を持ち、子どもたちに対して献身的だ。
人間の言う“神”とはこういう人たちを指すのではないかと、ふと思う。
しかしこの人たちを崇め、仰ぎ見る者はいない。
それが不思議だった。
施設の門まで来ると後ろを振り返った。
副園長は、まだ小学校に上がる前の子と手をつないで僕に手を振っている。
口元をゆるめて手を振りかえすと道路に出た。
最近では、毎朝繰り返されるこの光景が僕の中に影を落とす。
もうすぐ滅んでしまうのに……
終末はすでに背後から肩を叩こうとしている。
ああ… この人たちはそのことを知る由もないのだ。
そして逃れることもできない。
そのことを考えると胸の奥がわずかに締めつけられるような感覚になると振り払うように頭を軽くふった。

僕が通っている学校というものも人間を知る上では非常に役に立った。



ここには大人と子供がそれぞれの役割を持って、同じ空間で過ごしている。



ここに通う生徒、つまり人間の子供だが彼(彼女)達は実に卑怯で怠惰だ。
会ったことのない芸能人との結婚を真剣に悩むような夢想さもあれば、自分よりも強い者、弱い者を実に鋭敏に嗅ぎ分けるリアリストな面もある。
権威ある者、強者には媚びへつらい弱者には徹底的に容赦なく残酷になる。
実に大人も子供もそうなのだから、これが人間なのだろう。
要するにブレブレなのだ。
僕ら天使、悪魔でさえもその行動と思考には一貫性がある。

いや……
間違えた。
彼らにも一貫性はあった。
ブレることなく彼らに等しく存在するもの――
自分を特別な存在と強烈に思い込む自己愛だ。
こうして朝から夕方まで学校というところにいると実によくわかる。


放課後になり帰り道を歩いていると10メートルほど先にマリアの後ろ姿があった。
最近は僕を慕う人間たちが執拗にまとわりついていたが、何回か拒絶するうちに沈静化した。
「マリア!」
声をかけるとくるっと振り向く。
「白神先輩」
マリアは立ち止ると屈託のない笑顔で僕に手を振る。
僕も軽く手を上げて応えると歩いていった。
「今日は一人なんだね」
「ええ。みんなそれぞれ部活とかありまして」
「ふうん… マリアは部活はしないの?」
「私は今のところ… 体動かすのは好きなんですけどね!」
「そうなんだ?じゃあウチの学校の運動部はお気に召さないかな?」
「いえいえ!そんなんじゃないんです!ただ、ちょっと止められてて」
「誰に?」
「パパと… 神尾先生に」
「神尾先生?」
「あっ!私の家庭教師の先生です!私が小さい頃から住み込みで… もう家族同然なんですけどね」
「ますます変わってるね。君の家庭は」
「言われてみるとそうですよね」
「ますます興味がわいたよ。君にも、君の背景の事情にも」
「私も興味があって」
「何に?」
「神様…… 白神先輩が言う“主”です」
「主のなにを聞きたいのかな?」
僕は歩きながら問い返した。
「どんな存在ですか?その… 私たち人間が信仰しているような、愛を説き、慈愛に満ちた、救いの手を差し伸べるような、そんな存在ですか?」
僕は脚を止めてマリアを見た。
マリアは僕の目を見て答えを待っている。
僕は軽く微笑むと首を振った。
「全く違うよ」
説明を続けるために僕はまっすぐ伸びた道の横にある土手を指した。
「少しあそこで話そう」
「はい」
二人並んで座る。
ゆっくりと流れる川を見ながら主について話しだした。
「この宇宙を創造した主に感情というものはない。君たちが抱く神のように優しい存在ではないんだ」
「感情がない…?」
「そうだ。それに主は特定の個に関心は抱かない。あくまで宇宙全体の調和のみを考えておられる。だからいくら地上の人間が祈ろうが何を願おうが主には届かないよ」
「そんな……じゃあ私も神様、主になったらそうなるんですか?」
マリアはとても悲しそうな顔をした。
「それは正直僕もわからない。そうなるかもしれないし、或いは全く違う考えを持った存在になるかもしれない」
マリアはきゅっと唇を噛み締めた。
そして頭を振ると僕の方を見て言った。
「私、そんなのにはなりたくない」
やれやれ……
「君は前にも言ったよね?人間として生きたいと。友人と語り、遊び、恋をして愛を知り人間としての生活を送りたいと」
「はい」
「そんなに人間として生きたいかい?拘りたいかい?」
「そりゃあそうですよ。だって人間として生きてきたのだから」
「なるほどね。一理ある。でも人間が拘るべき価値もないものだとしたら?それでもそう思うかな?」
「そんな…… 白神先輩は人間でないから、天使だからそう言えるんです」
「わかった。君に見て欲しいものがあるんだ。それを見てからもう一度質問するよ」
僕は笑顔を見せると立ち上がった。
「さあ。ちょっと来てくれないか?」
マリアが主に対して関心を持ったのは大きなチャンスだ。
彼女の価値観を変えるきっかけになるかもしれない。
歩き出した僕の後をマリアはついてきた。
「あのう…どこに?」
「僕が暮らしている施設だよ。この先にあるんだけど寄ってみる?」
「えっ?いいんですか?」
「ああ。ウチには小さい子供がけっこういてね。お客さんは大歓迎だよ」
5分ほど歩くと施設に着いた。
「ここが僕の家だよ」
門を開きながら招き入れた。
庭ではすでに帰宅していた子供達がみんなでドッジボールをして遊んでいるところだった。
全員が僕の帰宅に笑顔を見せたが後ろにいたマリアを見て表情をこわばらせた。
「あの…」
「大丈夫。お客は滅多に来ないから驚いてるんだよ」
僕はマリアに話してから子供達の方へ笑顔を向けた。
「この人は僕の大切な友達だから」
こちらを見る子供達から幾分、緊張の色が溶けた。
僕は手前にいた正則に園長夫妻はいるか聞いてみた。
「うん!今は教室の方にいるよ」
「ありがとう」
正則に礼を言うとマリアの方へ向き直った。
「ちょっと園長夫妻を呼んでくるから待っててくれないかな」
「はい」
「すぐに戻るよ」

大きく分けてこの施設の家は4つの部屋からなっている。
一つは玄関から入ってすぐの広間、奥にはキッチンがあって僕らが食事をしたりする部屋だ。
その隣が教室という少し変わった部屋になっている。
この施設では一番大きな部屋だ。
といってもその規模は微々たるもの。
10人ほどで満員になるくらいの広さだ。
奥の壁に木製の十字架にかかったキリストが掛けられている。
ここで学校の勉強をしながら毎週日曜日に園長夫妻が聖書を読んでくれる。
これは夫妻が神を信仰している証に他ならない。
彼らは親に見捨てられた僕らの情操教育に聖書の教えがいるものだと思っている。
僕にとってはナンセンスなのだが彼らの真摯な態度は伝わる。
だから“主”のしもべたる僕も甘んじて聞いているわけだ。
広間を通って教室に行くと副園長が机を拭いていた。
「先生」
先生――
そう、僕は園長とその夫人を「先生」と呼んでいる。
「まあ、聖也。おかえりなさい」
園長夫人は柔らかい笑顔を僕に向けた。
「先生、今日は学校の友達を連れてきたんです」
「えっ」
驚く園長婦人。
無理もない。
だって僕がここに“友達”を連れてきたことなんて未だかってないことだ。
「これは珍しいね。聖也がお友達だなんて」
手に持っていた雑巾を畳みながらこちらに歩み寄る。
「ちょうどみんなにケーキを出そうと思っていたところなの。ご一緒にどうかしら?」
「ありがとうございます」
「じゃあ準備をするから、もう少し待っていてもらって」
「はい」
とりあえずマリアには中に入ってもらおう。
僕も準備を手伝わないと。
玄関から外に出ると子供たちとマリアはドッジボールをしていた。
「あっ!白神先輩!」
マリアが手を振った。
「あっ」
僕が声を出そうとしたのも束の間、武の投げたボールがマリアに当たった。
そこをタイミング良く桜がキャッチする。
「痛って!やったな!」
桜からボールを受け取ったマリアは武に向かってボールを投げた。
人見知りなこの子達が、こんな短時間で懐くとは・・・
笑い声と歓声。
マリアの側はいつも幸せな雰囲気で満ちている。
そこにいる誰もが笑顔になる。
ここ何回か、彼女とその周囲を見て感じたことだった。
無邪気に子供達と戯れるマリアをしばらくの間見ていた。
その健康的な美しさを。

きりのいいところで園長婦人がお茶の用意をしてくれていることをみんなに告げた。
子供達は嬉しそうにこちらへ走ってくる。
マリアはボールを持ちながら歩いてきた。
「随分と仲良くなったね」
「なんか楽しくって」
屈託のない笑顔で言う。
テーブルに着くと人数分のケーキと紅茶が置かれた。
テーブルには園長と副園長を上座にみんなきちんと座っている。
「やあ。いらっしゃい」
「お邪魔します」
園長夫妻がにこやかにマリアを迎えた。
マリアも笑顔でお辞儀した。
「美味しそう!いただきます!」
苺がのったショートケーキを前にみんな嬉しそうだ。
「マリアはこういう甘いものは好き?」
「はい!大好きです」
僕が聞くとマリアはティーカップを手に取り笑顔で返事した。
「そういえばお名前をまだうかがってなかったわ」
園長夫人が言う。
「あっ!すみません!私、高原マリアっていいます」
ティッシュで口許を拭くと背筋を伸ばして答えた。
「高原さんというと… もしかして高原教授の娘さんかな?」
園長が興味深そうに聞く。
「はい」
「まあ… じゃあ、あそこのお屋敷の」
高原教授はこの町では有名人だ。
いや、この町どころではない。
ノーベル賞受賞者として、日本の誇る「世界の頭脳」として。
それがマリアの父親だった。
「いやぁ、高原教授の娘さんがうちの聖也と仲良くしてくれるなんて光栄だね。しかもこんなに綺麗で明るいお嬢さんが」
園長が言うと婦人も笑顔でうなずいた。
「そんなことないですよ…」
照れくさそうに肩をすぼめるマリア。
「私の方こそ白神先輩と仲良くしてもらって光栄です」
「学校では聖也はどうなのかしら?みんなと上手くできてる?」
園長夫人が聞く。
「はい!生徒会長で全校生徒の憧れです!」
「まあ… 生徒会長になったのは聞いたけど聖也はほとんど学校のことは話さないから」
「それに友達を連れてきたのも初めてなんだよ」
園長が言う。
「私のクラスにも大勢いますよ!白神先輩のファン!」
お茶の時間はこの上ない和やかなものだった。
マリアは海外留学した話を冗談交じりにみんなに話した。
子供達はマリアの話しに夢中になっていた。
園長夫妻も加わって、みんなの笑い声が絶えないテーブル。
こんなにも打ち解けるとは予想外だった。
そして、みんなと打ち解けているマリアを見ていると自分の中に安堵にも似た感情が湧き上がっていた。

夕食の時間が迫ってきたので園長夫妻はマリアも一緒にどうかと尋ねると「すみません… 家の方で作ってると思うので今日は失礼します」と、マリアは申し訳なさそうに頭を下げた。
園長婦人とみんなは玄関まで帰るマリアを見送りに出てきた。
「聖也、気をつけてお送りするんだよ」
「はい」
マリアを送っていく僕に園長が言う。
「またいらしてくださいね」
園長婦人が笑顔で言った。
「はい!」
「お姉ちゃんまたね!」
瑠璃をはじめとする子供達みんなが手を振って言う。
「うん!みんなまたね!」
マリアもそれに応えるように手を振った。
門を抜けて施設の外に出たマリアは、玄関の外まで出てきているみんなに改めて手を振ってお辞儀した。
「今日はありがとうございます!とっても楽しかったです」
「それなら良かった。呼んだ甲斐があったよ」
マリアはうつむいて何かしら考えている風だった。
そして立ち止まると僕をまっすぐ見て質問した。
「白神先輩は私に何を見せたかったんですか?というより何を言いたかったんですか?」
「あの施設が君が拘る人間の全てだよ」
「えっ…」
驚くマリアを置いて僕は歩き出した。
「僕達、あそこの子供たちの境遇は大方察しがつくよね?」
「あそこの子達…… 白神先輩もご両親がいらっしゃらないんですよね?」
「でもねえ、あそこの子達はそればかりじゃないんだよ」
「えっ?」
「確かに不幸なことで両親を亡くした子もいる。でも半分以上は親に捨てられたか虐待されていたのを保護しているケースだよ。僕も含めてね」
「そうなんですか……」
「僕の場合は産まれて間もなく捨てられた。だから両親の記憶は無いよ」
そう語る僕に向けられたマリアの視線を感じながら続けた。
「きっとあの子達は―― 虐待された子達はどんなに時間が経っても刻まれた恐怖と絶望は消えることは無いだろうね」
「私もそう思います…」
「産まれたときから親がいない僕と、愛されるべき親から虐げられた彼等とどっちが不幸なんだろう?たまに考えることがあるよ」
マリアは黙ったまま夕陽に照らされて僕の横を歩いている。
「マリアは不思議に思ったことはない?」
「なにをです?」
「この世界―― 自然界の、およそ全ての生物は自分の種を残すことを至上課題として生きている。それはどんな虫けらでも、動くことのない草花でもね」
「はい」
「でも人間は違う。自分の種を殺してしまう。自分でわざわざ産んで、育ててね」
「そういう例もありますよね…」
「“種”よりも“個”を優先させた結果だよ。種族維持よりも個の欲望を優先させたことで、やがて滅んでしまうんだ。人間は」
「そんな!大袈裟ですよ」
マリアは半ば笑みを浮かべて言った。
「大袈裟じゃないよ。人は知性と理性を持つことによって自然界のサイクルから外れたのさ。狂った歯車を修正することなく、共食いのまま最後の1人になるまで誰も気がつくことなく絶滅していくよ」
僕の言葉を受けたマリアは何かしら考えながら口を開いた。
「そうかもしれません…… でも、私がこういうことを言ったら白神先輩は不愉快になるかもしれませんけど…」
「なんだい?僕は不愉快にはならないよ。人にはそれぞれの主観があるからね」
マリアは一旦、唇をきゅっと結ぶと僕に言った。
「たしかに白神先輩が言うように今の世界はおかしいです。どこかが狂っているのかもしれません」
「うん」
「でもきっと気がつくと思うんです。それに上手くは言えないけど…… 」
「言えないけど?」
「愛があるじゃないですか?人間にも」
「愛?」
いきなり何を言い出すのかと思ったら“愛”か。
「はい!」
「君はほんとうに“愛”なんてものがこの世にあると思っているの?」
「は… はい」
「哀れな小羊よ……」
真実哀れに思う。
この世に愛があると考えるなんて。
思わず同情の言葉が出てしまった。
「えっ?」
「いや、なんでもない。それより――」
「マリアの言う愛というのはどういうものだい?異性に対する愛情?」
「はい。それもあります」
「残念だけどそれは独占欲、所有欲だよ」
「どうしてそうなるんです?」
小羊には解りやすいように、噛んで含めて言い聞かせないと。
「好きになった、もっといえば自分の興味ある対象を独占したい、所有していたいという欲望だよ」
「いやいや、白神先輩、どうしてそうなっちゃうんです!?」
「だって飽きるでしょう?別れたり離婚したり」
「そうでない人もいますよ。ずっと死ぬまで愛する人と一緒に過ごす人達だっています」
「それはたまたまそういう環境だったんだよ」
仮にそういう者が多くいたとしても、そこに“愛”があるとは限らない。
そして人間全てに“愛”が備えあっていることにはならない。
「母性愛というものは単に種族維持の本能から来るものさ。ほんとうに母親にそういう愛情が備わっているなら僕らのようなそして、彼等のような子供はいないよ」
“愛”を語る上での母性というものは僕らにとって空念仏のようなものだ。
「すみません」
「マリアが謝ることはないよ。この手の話題はどうも僻みっぽくなるな」
「そんなことないと思います」
マリアは大きな瞳で僕を見ながら言った。
「ありがとう」
笑顔で返すと僕はマリアの先を歩いた。
やがて夕陽に照らされた川面が見える道に出た。
「ありがとうございます!ここからは1人で大丈夫ですから」
「ねえマリア…」
「はい」
「もう一度聞くけど君は愛というものがこの世にあると思っている?」
僕が聞くとマリアは少し考えてからうなずいた。
「そうか… 君達… いや、君が思っている愛というものはどういうものかな?」
この汚れを知らない可憐な乙女がどのように“愛”を考えているのか興味があった。
人間達の都合のよい免罪符にしか感じられない“愛”を。
「う~ん… 小さいものかなって…」
「小さい?」
「ええ。愛っていうのは相手に求めないで与えることができるものだって聞いたんです」
「それは誰から?」
「神尾先生からです」
ああ… さっき言っていた住み込みの家庭教師か。
なかなか面白いことを言う。
「つまり見返りを要求しない、欲望ではないと?」
僕が尋ねるとマリアはうなずいた。
しかしそれはどうだろう?
そういう場合は得てして“与えている自分”に酔っているだけだろう。
自分が陶酔できる場を、アンディティティ―を無意識のうちに相手に与えることで求めているにすぎない。
「それを聞いたときにはピンとこなかったんですけどね… たまに考えたりしてたらなんとなくだけどわかってきたんです」
僕にはさっぱりわからない。
「どうわかったの?」
興味が湧いたので聞いてみた。
「相手に与えれるってことは相手を理解している、解り合えてるってことですよね?それってすごいんじゃないかなって」
ふうん…
反論はいくらでもあるが……
まあ、ここでは言わないでおこう。
それよりさっきの言葉が気になる。
「小さいというのは?」
そう。
愛が小さいというのはどういう意味だ?
「それは… 始まりっていうか… 自分の中に芽生えたときは小さいものなんじゃないかなって」
マリアは両手を自分の胸の前で、あたかも小さな玉を包むように動かした。
「強弱っていうか、個人差はあるだろうけど…… 最初は小さい、けど温かい灯みたいなもので… 自分の中で育んでいくものじゃないかなって」
「それで?」
「相手を理解するのと同じように、焦らずに、諦めないで育てていくものだと思います」
それが“愛”?
君の求め、考える“愛”なのか?
僕から見たらこれは能天気というか楽観的にしか感じられなかった。
だからつい口から出てしまった。
「美しいね… でも理想だ」
「理想…?」
「ああ。あるいは理屈かな?」
「理屈?」
「“愛”は感情と思われるがそうじゃない。感情というものは人の中でもっと大きく強いものだよ」
「“愛”は強くないと先輩は考えてるんですか?」
マリアの瞳が悲しげな憂いを帯びたように見えた。
「“愛”は大きな喜びを与えるかもしれない。しかし、その反面に怒りと憎しみを産みだす…… いや、そういう感情に流されてしまうんだろうね。そう考えるといかにも脆くてか細い」
「だから育てていかないと」
そう微笑みながら返されたときに自分の中に戸惑いのよなものを感じた。
地球(エデン)の夕陽に照らされたマリアは、さっきまでの健康的な美しさとは違った美を湛えていた。
僕は声を漏らして笑った。
「面白いね。君は」
「そうかなぁ…」
おどけて首を傾げるマリア。
「君は“愛”を知りたいみたいだね?」
「えっ」
マリアの瞳を見つめながら頬に手を添えた。
「どういうものか僕も興味がある。君をとおして僕に教えてくれないか?」
マリアの手を取る。
「ちょっと… 先輩、どうしちゃったの?」
「正直、僕は君に夢中だ」
「こんなところで…」
マリアは頬を赤く染めると消え入りそうな声で言った。
「じゃあ誰も来ないとこならいいのかな?」
マリアはぶるぶると頭を振ると、
「そ、そういう問題じゃなくって私は…」
「私は?」
聞き返して抱き寄せる。
「君となら愛というものを体感できるかもね」
「ダメですよ…」
その声を聞いたときにマリアの耳元で囁いた。
「なんてね」
「えっ」
「ここで愛してるとか耳元で囁けばドラマのワンシーンみたいにはなるんだろうけどね」
笑って言うと緊張気味だったマリアの表情もほころんだ。
「もう!先輩!悪ふざけしすぎです!」
マリアは頬を膨らますと肘で僕の腕をつついた。
その仕草がなんとも愛らしい。
「ハハハッ。 ゴメン、ゴメン。僕もこんな話題を誰かと話したことなんてなかったからね。いい刺激になったよ」
「そんな!私が白神先輩に刺激だなんて」
「さっきも見たとおり家に帰ると僕の周りは子供だらけでね。歳の近い人と話すなんてことは皆無なんだ。だから新鮮でね」
「それは…そうかもしれませんね」
「あの子達も君を好きになったみたいだし、良かったらまた、いつでも遊びにきてよ」
「ハイ!お邪魔でなければ!」
「ああ。今度また話そう」
「ええ!」
マリアは笑顔で返事をすると僕にお辞儀をして歩きだした。
川沿いの道を歩いていく彼女の背中を僕はしばらく見つめていた。


家に帰ると園長夫婦が夕飯の支度をしていた。
「すみません。今日は僕の当番だったのに」
すると園長が柔らかい笑みを浮かべて言った。
「ハハッ… いいんだよ。聖也も高校生だし友達と遊ぶのも貴重な時間なのだから」
「すぐ仕度します」
僕がブレザーを脱ごうとすると副園長が制した。
「いいからいいから。あっちで座ってなさい」
「でも…」
「じゃあ下の子達の面倒を見ていてちょうだい。じきにご飯になるから」
「はい…」
食卓に行くとみんなが僕を見た。
「聖也兄ちゃん、ほんとのとこはどうなの?」
武が聞いてきた。
「ん?」
「あの人って彼女なんでしょう?」
幸が興味深そうに身を乗り出す。
「ハハッ、だといいけど残念ながら違うんだ」
「良かったね!瑠璃」
桜にふられて瑠璃が頬を赤く染めた。
「おい?どういう意味だ」
「鈍いなぁ、兄ちゃん。瑠璃は兄ちゃんのことが好きなんだよ。なぁ~?」
正則が冷やかすように瑠璃に言うと瑠璃はいよいよ真っ赤になって下を向いてしまった。
「正則!つまんないこと言わないの!!」
桜がパチンと正則の頭を叩いた。
やれやれ……
僕は席に着くと、うつむいている瑠璃に声をかけた。
「ありがとな。瑠璃」
瑠璃は無言でうなずく。
さっきマリアと一緒にいたときとは想像もできない反応だ。
「瑠璃のヤツ、真っ赤じゃん!」
「うるさい!」
桜がまた正則を叩いた。
「いてえな~ なにすんだよ!」
「なによ!?」
つかみ合う2人。
「オイ、やめろって!もうすぐ食事だぞ」
僕が言うと2人はサッと大人しくなった。
程なくして園長夫妻が夕食を運んできた。
「まだキッチンの方にあるからお願いね」
副園長が言うとみんな元気に返事をして席を立った。
僕も一緒にキッチンに行く。
そして祈りを捧げていつもの夕食が始まった。
食事をしながらふと気になった。

チラッと園長夫妻を見る。
あなた達はどうして赤の他人の僕らにこれほど親切にできるのだろう?
ここに、この2人が僕らに与えているものが“愛”になるのだろうか?
僕らの先にも同じような子供がここにはいた。
その子供達にもあなた達は等しく“愛”を注いでいたのだろうか?
それほど手軽なものなのだろうか?
僕らはいなくなる存在だ。
時期が来れば入れ替わる。
その都度、リセットするのか?蓄積されていくのか?
確かなことは、この2人に関しては利己的な感じは受けないということだ。


食事が終わって後片付けをすると、みんな広間でテレビを観たりゲームを始めた。
僕は部屋に行って本でも読もうと思い立ち上がると瑠璃が来た。
「ん?どうした?」
「これ。作ったんだ」
瑠璃が照れくさそうに差し出したものは折り紙で作った犬だった。
「へえ~上手だね!」
器用なものだ。
「ありがとう。大事にするよ」
そう言って折り紙の犬をシャツの胸ポケットにしまった。
すると瑠璃は嬉しそうに笑ってテレビを観ている桜達のところへ行った。

まあ……
これは“愛”とは違うだろうな……



























































































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