パニュキス その1
文字数 2,080文字
「パニュキスのいとこは――この子の名まえを、キュモンとよんでおきましょう――赤んぼうのときから、パニュキスのそばで育ちました。ふたりのおかあさんたちは、きょうだいで、農場にかこまれた両家の屋敷は、大きな森のはずれにならんでいました。
そして、その森のまんなかには、美しい湖がありました。
湖をかこむ三方の地面は、だらだらと低くなっていき、ウバメガシや、キンバイカや、ユーカリなどの木が、湖の水ぎわまで、まるで秘密をまもるようにおりていったのに、空にむかっては、すっかり開けていましたから、しずかにすんだ水は、昼は日の光を、夜は月の光を受けるのでした」
敬愛する石井桃子先生の訳でおとどけしています。
「この湖は、パニュキスやキュモンの家 から、たぶん、一キロも森へはいったところにあったでしょう。ふたりは、ちょいちょい、ここへあそびにきました。
ふたりの家のまえには、ハマカンザシやイソマツが一面に広がっていて、その先には、海そのものが、銀色の砂のひざの上に、じっとだかれていました。
その海は、あまりにもすみとおって青く、あまりにもなめらかだったので、魔法がかかっているようにさえ思われました。
それは、まるで、あるきわまった瞬間に――」
歩き回った、ではないです。笑
ある「極まった」瞬間、です。
「それは、まるで、あるきわまった瞬間に、空と海のいのちが、いっとき、停止して、空と海が、じぶんたちの美しさの魔力のもとにおかれたとでもいうようでした」
なんという。
これ、童話でしょうか。児童文学でしょうか。
あり得ない。
なんという官能でしょうか。しかも、清潔で、静謐な。
至福。
こんなの小学生が読んでもわからないですよ。ぜったい。
でもね。
わからなくて、いいと思う。
私思うんですけど、最近の児童書や絵本はちょっと子どもたちに気をつかいすぎじゃないでしょうか。
子どもの能力ってじつはすごくって、「わからなくても受け入れる」ことができるんですね。噛まないで飲みこむ、みたいなものです。
「わかる」ものだけ読んでたら、バカになる、あっすみません下品でした、でも、ようするに、なんの広がりもないんです。
子どもだけじゃありません。大人もです。
あんどれしぇにえでもたもたしていた子どもの私は、この湖の描写で、一気に物語の中に引きこまれました。
あとは一直線です。無我夢中でした。
「ふたりは、おなじ年でしたが、五つになるころには、ふたりの大きさは、たいへんちがってきました。
パニュキスは、ちいちゃい妖精じみた子どもで、はだは、白いきぬのよう。
手足は、花のくきのようにやさしく、うす金色の髪の毛は、とてもやわらかくて、風が吹くと、光のすじのように頭のまわりにもつれました。
おかあさんは、片手でパニュキスをかかえあげることができ、それでも、かかえているかどうかわからないくらいでした。それほどかるがると、パニュキスは、空中にあがってきたのです。
ときによると、おかあさんは、ふいに、パニュキスを肩までもちあげることがありました。すると、パニュキスの足は、まるでうずまくようにからだの下でゆらぎ、輝く髪は、首や目のまわりにふきなびきました。
『ほら、わたしの噴水。』
と、おかあさんは笑って、また、むすめを下におろしました」
なるべくたくさん引用しようと思っています。この短編はいちおう、紙の文庫本と電子書籍の両方で手に入ります。でも、図書館にはなかなか入っていないかもしれません。
どうしてもこの作品を皆さんに読んでいただきたいと思ったのです。
頭の中のイメージと、描写、そして比喩。
この三つがごちゃまぜになった「創作論もどき」のような文章をこのところ立て続けに読まされて、なんだか私、やりきれなくなっちゃったんです。
何を書くか、ということ。
そして、それをどう書くか、ということ。
「おかあさんはやさしい人で、むすめをとっても愛していました」みたいなことは、ファージョンさんは書きません。
それは「説明」です。
説明は、
「『この子はなんてかわいいんだろう』とおかあさんは思いました」というのも説明です。こういうのを「心理描写」とかんちがいしている人がときどきいるようですが、説明です。
正直、私には「心理描写」って具体的にどんなものかわかりません。
でも「『この子はなんてかわいいんだろう』とおかあさんは思いました」が「心理描写」でない、ということは自信を持って言えます。
「説明」です。キャラクターの考えを言葉にして、そのまま出しているだけです。
いま、一字一句この短編を写してタイプしていて、指がふるえるのを感じます。
こんなふうに書けないですよ。とても。
「木が、湖の水ぎわまで、まるで秘密をまもるようにおりていったのに」
「『ほら、わたしの噴水。』
と、おかあさんは笑って、また、むすめを下におろしました」
寂しさや悲しさ、憎しみや怒りを描くのがかんたんだとは、言いません。
でも、
美しさや幸福、愛情を描けるのが、達人だと思います。
こんなふうにね。
そして、その森のまんなかには、美しい湖がありました。
湖をかこむ三方の地面は、だらだらと低くなっていき、ウバメガシや、キンバイカや、ユーカリなどの木が、湖の水ぎわまで、まるで秘密をまもるようにおりていったのに、空にむかっては、すっかり開けていましたから、しずかにすんだ水は、昼は日の光を、夜は月の光を受けるのでした」
敬愛する石井桃子先生の訳でおとどけしています。
「この湖は、パニュキスやキュモンの
ふたりの家のまえには、ハマカンザシやイソマツが一面に広がっていて、その先には、海そのものが、銀色の砂のひざの上に、じっとだかれていました。
その海は、あまりにもすみとおって青く、あまりにもなめらかだったので、魔法がかかっているようにさえ思われました。
それは、まるで、あるきわまった瞬間に――」
歩き回った、ではないです。笑
ある「極まった」瞬間、です。
「それは、まるで、あるきわまった瞬間に、空と海のいのちが、いっとき、停止して、空と海が、じぶんたちの美しさの魔力のもとにおかれたとでもいうようでした」
なんという。
これ、童話でしょうか。児童文学でしょうか。
あり得ない。
なんという官能でしょうか。しかも、清潔で、静謐な。
至福。
こんなの小学生が読んでもわからないですよ。ぜったい。
でもね。
わからなくて、いいと思う。
私思うんですけど、最近の児童書や絵本はちょっと子どもたちに気をつかいすぎじゃないでしょうか。
子どもの能力ってじつはすごくって、「わからなくても受け入れる」ことができるんですね。噛まないで飲みこむ、みたいなものです。
「わかる」ものだけ読んでたら、バカになる、あっすみません下品でした、でも、ようするに、なんの広がりもないんです。
子どもだけじゃありません。大人もです。
あんどれしぇにえでもたもたしていた子どもの私は、この湖の描写で、一気に物語の中に引きこまれました。
あとは一直線です。無我夢中でした。
「ふたりは、おなじ年でしたが、五つになるころには、ふたりの大きさは、たいへんちがってきました。
パニュキスは、ちいちゃい妖精じみた子どもで、はだは、白いきぬのよう。
手足は、花のくきのようにやさしく、うす金色の髪の毛は、とてもやわらかくて、風が吹くと、光のすじのように頭のまわりにもつれました。
おかあさんは、片手でパニュキスをかかえあげることができ、それでも、かかえているかどうかわからないくらいでした。それほどかるがると、パニュキスは、空中にあがってきたのです。
ときによると、おかあさんは、ふいに、パニュキスを肩までもちあげることがありました。すると、パニュキスの足は、まるでうずまくようにからだの下でゆらぎ、輝く髪は、首や目のまわりにふきなびきました。
『ほら、わたしの噴水。』
と、おかあさんは笑って、また、むすめを下におろしました」
なるべくたくさん引用しようと思っています。この短編はいちおう、紙の文庫本と電子書籍の両方で手に入ります。でも、図書館にはなかなか入っていないかもしれません。
どうしてもこの作品を皆さんに読んでいただきたいと思ったのです。
頭の中のイメージと、描写、そして比喩。
この三つがごちゃまぜになった「創作論もどき」のような文章をこのところ立て続けに読まされて、なんだか私、やりきれなくなっちゃったんです。
何を書くか、ということ。
そして、それをどう書くか、ということ。
「おかあさんはやさしい人で、むすめをとっても愛していました」みたいなことは、ファージョンさんは書きません。
それは「説明」です。
説明は、
野暮
です。「『この子はなんてかわいいんだろう』とおかあさんは思いました」というのも説明です。こういうのを「心理描写」とかんちがいしている人がときどきいるようですが、説明です。
正直、私には「心理描写」って具体的にどんなものかわかりません。
でも「『この子はなんてかわいいんだろう』とおかあさんは思いました」が「心理描写」でない、ということは自信を持って言えます。
「説明」です。キャラクターの考えを言葉にして、そのまま出しているだけです。
いま、一字一句この短編を写してタイプしていて、指がふるえるのを感じます。
こんなふうに書けないですよ。とても。
「木が、湖の水ぎわまで、まるで秘密をまもるようにおりていったのに」
「『ほら、わたしの噴水。』
と、おかあさんは笑って、また、むすめを下におろしました」
寂しさや悲しさ、憎しみや怒りを描くのがかんたんだとは、言いません。
でも、
美しさや幸福、愛情を描けるのが、達人だと思います。
こんなふうにね。