プロローグ

文字数 4,479文字

「何でヤッてくんないの!?」

 薄暗いラブホテルの一室。部屋の面積の大半を占めているダブルベッドの端にスーツ姿の男が腰かけている。しん、と押し黙りしなびた雰囲気を醸しているジャケットの背中に向かって、ベッドの上で仁王立ちをしている女が声を荒げた。

 女はバスタオル一枚を巻きつけただけの格好で、むき出しの肩からは微かに湯気がたっている。部屋の唯一の光源、ベッドサイドのオレンジ色の光を、しなやかに伸びる太ももとふくらはぎが艶やかに照り返す。意志の強さを誇示するような腕組みの上に、形の良いバストが乗っている。

 シャワーを浴びたばかりの湿った長い茶髪を乱暴に撫で付け、女は不機嫌をあらわに「チッ!」と激しく鋭い舌打ちをした。その勢いに、ぎし、とベッドがわずかに軋む。逆光気味にあおった位置のライティングで増大している威圧感を身にまとい、眉根を寄せて見下ろす男をさらになじる。

「ここまで来といてさ、何なのよ!? いきなり奥さんのこと思い出したとかさ、知ったこっちゃないのよこっちは!」

 まくしたてる女の怒声に、腰かけた男は長い溜息で応じた。四十代半ばと思しきサラリーマン風の男は女の怒りを背で受け、振り返ることなくつぶやく。

「こういうのはやっぱり良くないよ……俺には妻も子もいて、今夜は出張先でちょっと魔が差しただけで……」

「いやいや自分で呼んどいてさ、急にイイ人ぶんなくていいんだって。そういう仕事なんだからさこっちは。何なのよマジで」

「……」

 弱弱しい男の反論を一蹴した女は、腕組みを解いて両腰に手を当てた。うなだれて黙り込む男に向かって「もう一度聞くけど!」とさらに一段高く声を上げる。

「ヤれんの? ヤんないの!?」

「……」

 男は答えない。ライトに照らされた背中をゆっくり上下させただけだ。沈黙の中、ベッドサイドの側面に備え付けられている緑色のデジタル時計が深夜零時ちょうどを示した。ややあって、ようやく男が息を吸い、口を開く。

「本当に、悪かった……」

 男はゆっくりと振り返る。無精ひげの生えた口元が半開きになっている。両目には大粒の涙が浮かび、きらきらと光っている。微かな光が、皺の寄った目じりから一筋、こぼれた。

 座る男の両足に垂れていた両手がゆっくりと上がる。重ねた両手の指が交互に組み合っている。助けを求めるように、祈りを捧げるように、男はその手を顎の下に当てた。

「キミは“特別”だから、傷つけたくないんだ……」



 暗い車内でハザードランプが点滅するカチカチという音を聞きながら、運転席に腰かけた男がダウンジャケットの裾をめくる。かすかな路地の明かりに目を凝らし腕時計の丸い文字盤を眺める。すぐ裾を戻し、手を伸ばしてエンジンキーを回した。身じろぎするように車が揺れる。ぶおお、とエアコンから暖気が噴き出る。

 ラブホテル街の隙間、一車線の路肩。宿泊と休憩の価格を掲げた明るい看板を避けるようにしてコンパクトカーが停車している。繁華街からほど近いはずの路地だったが、この時間は二人組の男女がまばらに行き交うだけだ。カーステレオのディスプレイパネルをいじり、ラジオをつける。男は低いボリュームで聞くともなく流す。

 停めてからせいぜい十五分程度だが、男はいつものように発車の準備を整えた。先ほど少し外に出てコンビニには行ったが、買った缶コーヒーはドリンクホルダーでまだほのかに温かい。

 ほどなくして、近くのホテルの玄関からロングコートを羽織った女が一人で路地に出てきた。ヒールを荒々しく鳴らしながら車に近づいてくる。

 女は車道側のドアを乱暴にあけて後部座席に乗り込むなり「あーもう!!」と先ほどと同じような苛立った声を上げた。

 車内灯がオンになる。素早く着たのだろう女のニットワンピースは乱雑に裾がめくれ、羽織ったコートの襟も右だけが不格好に立ったまま。濡れた髪もドライヤーをかけることなくそのままだ。ぎりぎり若いと言える程度の年恰好の男は、ハンドルに両手を置きながら少し笑う。

「お疲れさま」

 ねぎらいの言葉をかけてハザードの点滅をとめ、アクセルを踏み込んで発進させた。ハンドルを回しながら短いツーブロックに刈り上げた頭をちらりと動かし、後方確認ついでに後部座席に向かって声をかける。

「そんなに怒ることないじゃん。いつものことなんだし」

「はあ?」

 アクセルを踏み込み、路地をゆっくり走らせる。

「毎晩ちょっとだけの期待を常に裏切られてるのに、“いつものこと”で済ますわけあんた」

トゲを隠そうともせず、女はまくしたてる。「どれだけの思いでいるかとか、わかってないでしょ? ねえ? あたしがどういう気持ちかとか考えたことないんでしょ結局?」

「そうだねえ」

「今日はついにヤれんのかなとかって思いをさ、毎回毎回踏みにじられてさ、あーやっぱ結局奇跡なんて起きないんだわ呪われてるんだわあたしって~つって自暴自棄になってとーぜんのこと『いつものこと』つって、適当にあしらうんだねあんたって」

 路地から二車線の大通りに出て、客待ちのタクシーを避けて走る。

「もーいいやあたし一生このキレイな体のまま死んでくんだなっていう諦めみたいな絶望みたいな気持ちをさ、毎晩毎晩エブリナイあたし抱いてるってのにさ。何なの普通は喜ぶもんじゃないの若い美女がさサービス料抜きでイイつってんのにって、そのミジメな気持ちあんたわかんないっていうわけね、あー薄情!」

「そうだねえ」

「頼夫のバカ!」

 全く取り合おうとしない男に業を煮やし、罵声をとばして女はどさっと背もたれに身をあずけた。不機嫌をあらわにしたままの仏頂面で黙り込み、足を組んで車窓に目を向ける。

 車は大通りから幹線道路へ。深夜のためほかの車は少なく、信号以外で止まることなく進む。外灯とコンビニからこぼれる明かりが目の奥をちらちらと刺激する。

 ビル街を抜けて背の低い建物が多くなり、開けた夜空に半円形の月が見えた。闇夜に黄色い光を投げかけている。

 しかし、月だけだ。本来なら見えるはずの星々の光はない。

 淡い月の光のほかは、漆黒の闇。雲ひとつない快晴の夜空に、光はひとつたりとも見えない。

 星々が姿を消したことによる地球への何らかの影響が不安視されたが、研究者による可能性が示唆されるばかりで、現段階では何も変化は見られない。それでも世界中が騒ぎ立て、やれ宇宙人の襲来だ、異世界への転移だなどと、オカルトまがいの根も葉もない噂や様々な説が飛び交った。何となく“終末”のムードが漂いはじめたものの、その騒動は限定的だった。壊滅的な自然災害に見舞われたり世界中の人々が暴徒と化したりといったことは起こっていない。

 日常に暮らす人々にとってはあくまでも「星が見えなくなっただけ」のことでしかなかったのだ。見上げる暗い夜空の寂しさが地球を包み、引き延ばされた“終末感”とまじわって人々の心に少しだけ、諦めのような無力感のような、茫漠とした感慨が生まれただけだ。やがてムーブメントは自体は縮小し、星々を失った夜空は「そういうもの」として静かに受け入れられはじめた。

 星が見えなくなっても、人生も生活も、仕事も学校もすべて、今日に至るまでしっかり続いている。変わらない日常は終わらない。

「世も末だわ……」

 冷たい窓ガラスに額を押し当てながら、女はつぶやいた。

「ん? なんて?」

「なんでもない!」

 聞き返してきた男を短く突っぱねる。女はため息を深くついて、目を閉じた。走る車のわずかな振動が、ガラスごしに伝わってくる。

「ああ、そうだ。真理亜、このあと時間ある?」

「なに?」

 女が落ち着くのを待っていたかのように、目を閉じたまま、男の問いかけに応じる。

「お前にボーナス出たんだよ。事務所に着いたら渡すわ。飲みにでも行かない?」

「ボーナスって何の?」

「三か月連続、指名・売り上げナンバーワンだってさ。おめでとう」

 抑揚のない、淡々とした祝いの言葉に、女はふん、と鼻を鳴らした。

「そりゃ毎回あの短時間でお客さん回してたらね。つか何、あんた人のボーナスにタカって飲み行こうとか誘ってんの? 血も涙もないの?」

「いや純粋に、お祝いの気持ちだよ。あと、たまには労おうと思ってさ」

「あっそ。別にあんたは一緒じゃなくてもいいけど」

「まあそう言わずに」

 相変わらず棘のある女の対応に、男はくさすこともなく柔らかな声で続けた。

「なんか、月もきれいに出てるしさ。なんとなく、いい夜じゃない?」

 そう言って、ハンドルを持ったまま少し身を乗り出し、フロントガラスから空を仰いだ。

 女もドアに寄りかかったまま目を開けた。視点を上げて暗い夜空を見る。建物の影から見え隠れする空に星々のまたたきはない。

「でも相変わらず、星は見えてないじゃん」

 嫌味な言い方で男の言葉に反論する。

「星が見えなくても、いい夜だって思うならいい夜でしょ」

 さらに男がやんわりと言い返す。確かに、それはそうだけど。

 どこか引っかかる、その違和感の出所を一瞬だけ探したがすぐに止めた。

 当たり前のことが失われ、その事実が新たな当たり前に押し込まれて全てが続く。そこから零れ落ちてしまった存在のような感覚を、女は常に抱いて生きてきた。

 その結果、このような仕事に辿り着いた。

(君は“特別”だから……)

 先ほどのホテルで、接客した男に告げられた言葉がリフレインする。その言葉は、女にとっての呪いにも等しかった。自分の体質のことは良くわかっている。そのせいで、普通ではいられなくなっているということも。

 星々がなくなっても続く「当たり前」から、どうして自分は弾かれてしまっているのか。どうすれば、この世界で居場所を見出せるのか。

 思春期に誰もが抱くような単純な命題に、女は折り合いが付けられない。付けられるはずがない。誰よりも、普通のことではないと断じているのは自分自身だ。そのこともまた、わかっている。

「……飲みにでも行くか」

 女は絡まった思考を、ぽつりと言葉にした。男はそれを拾って「おっ」と嬉しそうに、少しだけ女のほうを振り返った。

「よし、何が食べたい?」

「回らない寿司か焼いた牛肉」

「この時間に開いてるとこあるかなあ」

 一瞬だけ思考に沈んだせいで、鋭かった言葉の棘が弱まった。

 とりあえず、今日はご飯を食べてお酒でも飲んで、それから眠ろう。どうせ変化もなく続いてしまう毎日なのだ。毎日少しずつ諦めれば、いつか自分で自分を当たり前に押し込めるときが来るかもしれない。

(……それって、クッソつまんないけど)

 女はわずかな怒りの火が再び腹の奥に点る感覚を得ながら、再び目を閉じた。
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