第1話

文字数 18,604文字

 我々四人は当時「しましま同盟」と呼ばれていた。

 それは高校生の頃の出来事で、我々四人は体育祭の百足(むかで)競争なるものに選出されたのだった。縦に四人が並んで、それぞれの足を前後の人間と(ひも)で結び付ける。動きにくいことこのうえないが、息を合わせれば結構速く進む。たまたま四人の名字に「島」という字が含まれていたため、誰かが——それが誰だったのかいまだに思い出せないのだが——冗談で我々を選出したのだ。僕が「島井(しまい)」であり、あとの三人が「(しま)」、「島田(しまだ)」、そして「小島(こじま)」だった。担任の男の教師は――彼は英語が担当だったが――「フォー・アイランズ(Four Islands)」と我々を呼んだ。もっともそう呼んでいるのは彼だけで(気の利いた名前だと思ったようだったが)、あとのクラスメイトたちはみんな「しましま同盟」と呼んでいた。我々は普段から別に仲が良かったわけではない。僕と島はたしかに結構親密に付き合っていたが――お互いにちょっと変なところがあった——島田と小島は「まあ悪くはないが、さほど興味深い人間とは呼べない」という部類のグループに属していた。もちろんそのグループ分けは僕の高校生当時の、偏見に満ちた見方に基づいたものである。正直なところ僕だってだいぶ退屈だったろうから。

 結局百足(むかで)競走は僕の後ろにいた島が飛ばし過ぎて――僕が先頭、次が島、あとが島田、そして小島だった――折り返し地点を過ぎた全体の四分の三くらいのところで派手にクラッシュしてしまうのだが――僕は(ひざ)を擦りむき、島田が鼻血を出した。小島は右手の小指を骨折した。暴走した島だけが無傷だった――「しましま同盟」という呼称はその後も結局は卒業するまでクラスに残り続けることになった。たぶんその響きが面白かったからだし、「同盟」という割に我々があまりにもバラバラな個性の持ち主だったから深く印象に残ったのだろう、と今では推察している。まああんなのは田舎の高校生の罪のないお遊びだった、と思えばそれだけなのだが、なんだか暖かい思い出のような気もするから不思議なものだ。

 我々はみな千葉県の海岸の街に生まれ、育った。島田は小学生の頃に三年ほど、父親の仕事の関係でアメリカに行った(アラスカに行ったんだよ、と彼は言っていた。彼の父親が何の仕事をしていたのかはいまだに謎である)。でも結局はまたこの街に戻ってきた。僕は同時から一人でいることを好んでいたのだが――よく本を読んでいた。まあ今でもだが――そこになぜかハイパーアクティブな島が(から)んできたのだった。島は独特な男で、自発的にスキンヘッドにしてきたり――シャンプーをするのが面倒くさいんだ、と彼は言っていた。それで一晩で一気に()ったのだ、と――高校生にしてニーチェとか、ショーペンハウアーとかを読んだりしていた。休み時間に一人で座禅を組んでいた・・・かと思うと、こんなところで休んでばかりいたんじゃ

になる、と言って、机を頭の上に抱えてスクワットを始めたりした。彼は最初ラグビー部に入ったのだが、きつい練習に耐えかねて――かどうかは分からないが――辞め、その後美術部に入って抽象画を描いていた。しかしそこでも顧問の先生と美術論を戦わせて負け(それがどういう意味なのかよく分からないのだが、とにかく)、一生筆を折ることを決意したのだそうだ。その後なぜか学校中の便器をピカピカに磨くことに喜びを見いだし――一カ月ほどすべての便器が輝きを放っていた――すぐに飽きた。あとは一人でランニングをしたり――特設駅伝部に駆り出されて、地区で区間賞を取った――近所のジムに行ったり、怪しげなアルバイトをしたりして(うちの学校は基本的にアルバイト禁止だったのだが)時間を過ごしていた。訊くと両親は二人とも公務員だということだった。父親が市役所で働いていて、母親は介護関係の役所に勤めていた。恐ろしく退屈な家庭さ、と彼は僕に言った。

「それがどうして君みたいな変異種が生まれてくるんだ?」と僕は訊いた。

「そんなの俺には分からないよ」と彼は頭を――そのときはちょうどスキンヘッド期間だったのだが――掻きながら言った。「君には自分で分かるかい? どうして自分が生まれてきたのか?」

「いや、分からないな」と僕は言った。「とりあえず自分がここにいる、ということのほかは」

「まあその通りだな」と彼は多少明るい顔になって言った。「とりあえず自分がここにいる、ということのほかは。まあそれだけ分かっていれば十分なんだろうな」


 僕は彼にいろんな音楽を教えてもらった。最初はフランク・ザッパとか、キャプテン・ビーフハートとか、なかなかとっつきにくいものが多かったのだが、僕が正直にそう言うと、もっとリスナーフレンドリーなものを探して持ってきてくれた(それはCDだったり、データ形式だったりしたのだが)。僕は彼のおかげでアメリカやイギリスの古い音楽にのめり込むようになった。それは我々だけのサンクチュアリ(聖域)だった。どうやらクラスの誰もそんなものには興味を抱いていないみたいだった。僕は彼にドクター・ジョンを始めとするニューオーリンズの音楽を教えてもらった。もっと古いシカゴブルーズも教えてもらった。ビートルズやストーンズは言うまでもない。彼らが――いて当たり前だと思っていた彼らが――ちゃんと初期のうちは先代のミュージシャンたちから多くの影響を受けて、その結果――音楽の大きな流れの中で――自分のオリジナリティーをつくっていったのだ、ということを彼は辛抱強く、系統的に僕の頭の中に叩き込んだ。

「ほら」と彼は言った。「これなんか(のち)のビートルズそっくりじゃないか?」

「まあ、たしかに」と僕は言った。

「だからね、きちんと影響を受ける、ってのは大事なんだよ」

「そのあとで自分のオリジナリティーを出していけばいいんだ」と僕は言う。

「その通りだ」と彼はピカピカの頭を撫でながら言った。


 彼はミック・ジャガーを尊敬していて、自分も歳を取ったら、ああいうじいさんになるんだ、とよく言っていた。そして僕と一緒にローリングストーンズのライブ動画を観て、あの奇妙な、きびきびとした(そしていささか滑稽(こっけい)な)、ミックの動きを真似するのだった。

「君はチャーリー・ワッツタイプだな。ドラムの」と彼はふとこちらを振り返って言った(我々は放課後の校庭にいた)。

「それはどういうことだよ?」と僕は言った。

「つまりさ、黙々とクールにリズムを刻み続ける。あの人くらいクールなドラマーはほかにいないと思うね。俺はまあスティーブ・ガットも好きなんだが・・・」

「それで、君は?」

「俺はミック・ジャガータイプだ。そのリズムに乗って、踊りまくる。そして魂の歌声を響かせるのさ」



 彼は何度か実際にバンドを作ろうとしたのだが、彼のお眼鏡(めがね)にかなうような人間はまったく集まらず――みんなもっと別の音楽を好んでいたのだ――結局文化祭なんかで歌声を披露することはなかった。それに彼自身学校という機構(システム)を信じていなかった、ということもある。「なあ、ここは暇つぶしのための場所だよ」と彼は言った。

「まあそう思わないこともない」と僕は英語の単語帳から目を離して言った(それは三年生の秋の頃だった)。

「そう思わないこともないってさ、君はそれでいいのか? 貴重な人生がどんどん流れ去ってしまうぜ?」

「でもさ」と僕は穏やかに抗議した。「今は受験勉強で忙しいんだよ。ほかに何ができる? 僕はこんなところにいたくない。だとしたら東京の大学に受かるしかないじゃないか? うちは私立に払う金はないから、なんとか国立か、公立の大学に行くしかない。そのために勉強しなきゃ」

「君は何になりたいんだ?」

「分からない」

「分からない?」

「そう」と僕は正直に言った。「なんとなく海外に興味はあるけれど、自分がそんなところで仕事ができるような自信もない。あるいは地方公務員にでもなるのかもしれないな。もしなれたら、ということだけど」

 彼は首を振った。そして溜息をついた。「なあ、一つ良いことを教えてやるよ。人生は一度きりだ。もう一度言うぜ。

。しかし大人たちは――学校の先生たちも含めてだが――その事実に気付いていない。だからこんな退屈なシステムを作り上げたんだ。俺は一応仕方なくここに(かよ)ってきているが、それだって両親をとりあえず納得させるためだ。あんまり反抗していると、大学に行く資金を提供してくれなくなるからな。あの人たちはほら・・・なんというか、コチコチに固まっちゃっているから」

「固まっちゃっている」と僕は言った。そして単語帳に目をやる。"deserve" ~に値する・・・。

「ほら、そんなもの見るのやめろよ」と彼は言って、無理矢理単語帳をパタンと閉じてしまう。僕は彼を見る。

「僕も心のどこかでは君みたいになりたいと思っている(ふし)がある」と僕は正直に言う。「でもその度胸がないんだ。この退屈な流れから離れて、そのあとどうしたらいいのかが分からない。だからとりあえず勉強して、大学に行って、そのあとでいろんなことを考えようと思っている。それはそれで悪くないんじゃないか?」

 彼はまた首を振った。

、とその顔は言っていた。「君はさ、ときどき本当にまともだけど、同時につまんないことを言うんだよな。それも真顔でさ。本当に高校生かよ? おじさんじゃないんだろ? 俺たちは今を生きているんだよ。それが事実だ。そして何歳になってもそれは変わらない。昨日の夜にそれに気付いたんだ。正確には午前三時三十分だ。魂の真の暗闇においては、時刻はいつも午前三時だ、ってね。その時間を三十分も過ぎていたが、そのとき俺は暗闇の中ではっと悟ったんだ。ああ、俺は今生きていたんだ、と。そしてこの感覚はずっと変わらないんだ、とね。もちろん死ぬその瞬間までだ。俺はそのことをあの教師どもに教えてやりたいくらいだよ。あいつらはさ、成長することをやめてしまったんだ。教員免許を取ってさ、学校に――この千葉県のぱっとしない田舎の学校に――配属されて、ああめでたしめでたし、ってわけだ。あとは一生頭を使う必要もないぞってね。決まり切ったことを教えていればいい。進歩する必要もない。刻々と変化し続ける外の世界を眺める必要もない。どうせ生徒なんか馬鹿ばっかりなんだから、適当にあしらっていればいいのさ。ほら、これくらいの成績を取ればどこそこの大学に行けますよってね。でもその先は? その先の人生はどうなる? なんであいつらはそのことを考えないんだ?」

「でも中にはまともな先生もいるよ。少しはね」と僕は少し擁護する必要を感じて言った。

「まあそれは認める。あの歴史の先生とかな。あの人は例外的に面白い。でもほかは脳なしだ。俺が認める。いや、脳はあるんだが、それを使えていないんだ。なぜなら怖いからだ。広い世界に出るのが怖いのさ。それで汲々(きゅうきゅう)と、こんなクソつまらない校舎の中で、時間をつぶしているんだ」

「でも僕が思うに・・・」と常識人の僕は抗議した。「やっぱり大人には大人にしか分からない悩みというものがあると思うんだよね。彼らのようにはなりたくないけれど・・・そうならなければならなかった理由のようなものがある気がする」

「そりゃああるさ」と彼は身ぶりを(まじ)えて言った。その動きだけでもお金を取れそうな、奇妙なジェスチャーだった。「でもさ、心の奥の熱意を失ったらどうなる? 全部無駄だ。全部徒労なんだよ。あの顔を見ていれば分かる。成長することを、前進することをやめてしまった顔だ。あとはボーナスだけを期待して生きていくのさ。それだってきっとくだらないことに使うんだよ。レンタルビデオとか。あとは車とか。くだらないガキをつくって、その養育費に使うとかね・・・」

「それで、君の結論は?」と僕は再び単語帳を開いて言った。"intensify" ~を強める、激しくする・・・。

「結論は学校なんて無駄だ、ってことさ」と彼は清々(すがすが)しい顔で言った。秋の乾いた風が我々のちょうど中間を通り抜けていった。カラスが鳴いていた。そろそろ夕暮れの気配があたりを覆い始めていた。陸上部がハードルを設置していた。ソフトボール部の女子生徒たちが、キャアキャア騒ぎながら、外周を走る準備をしていた。すぐ近くの道路を何台もの車が通り抜けていった。退屈な光景だったが、もしかしたら退屈でない何かが含まれているかもしれないぞ、と一瞬僕は思った。でもそれが何なのか、今の自分にはうまく理解することができない・・・。

「でも君はここを卒業して、大学に行こうとしているんだろ?」と僕は言った。

「まあな」と彼は認めた。「それはちょっと矛盾しているかもしれない。たしかに」

「それでいいのか?」

「実はさ、将来が分からないってのは俺も一緒なんだ。あらゆることをやりたいような気もするし、なんにもやりたくないような気もする。人に会いたいけど、人に会いたくない。自信はあるけど、自信がない。外国に行きたいけど、外国に行きたくない。こんな気持ちって分かるかい?」

「君は分裂しているみたいだ」と僕は笑いながら言う。「でもなんとなく分かるよ。好奇心と不安」

「そう」と彼は指を鳴らして言った(パチン、という気持ちの良い音が鳴った)。「好奇心と不安」

「だからとりあえずは勉強して、大学に行くしかない」

「まあな」と彼は言って、またミック・ジャガーの真似をした。僕らはその後一緒に周り道をして帰った。



 僕の父親は都心の証券会社に勤めるサラリーマンで、家はそれなりに裕福だった。小綺麗な二階建ての家で、車が二台あって、犬がいた。僕の二つ下に妹がいる。母親はパートタイムで子どもたちに英語を教える仕事をしていた。特に問題があったという記憶がない。両親は基本的に我々子どもたちを大切にしてくれたし、休みの日にはいろんなところに連れていってもらった。遊園地とか、水族館とか。もっとも平日はほとんど父親の顔を見ることもなかった。朝早くから電車に乗って都心に行ってしまうし、帰りも遅かった。大人になって生きるというのは、これはこれで大変なことなんだな、と僕は間近に例を見ることによって、腹から納得したわけだ。こうやって家族を持って、家を買って、車があったとしても、その中で自由になる時間というものがない。一日一日と時は過ぎていく。そうやってやがては死を迎える・・・。

 僕自身そういった人生を生きたいと思っていたのかどうかは謎だ。自由になれたらいいけれど、自分にそんな能力があるとは思えなかった、というのが正直なところだったと思う。だからただ堅い仕事に就いて、それなりに堅実に仕事をこなして、やがては適当な相手を見つけて結婚して、両親と同じようにごく普通に年老いていくのだろうな、というイメージしか抱けなかったのだ。それでも島がもたらしてくれた、純粋な熱のようなものは、はっとするほどポジティブな影響を僕に対して与えたみたいだった。もしかしたら自分にも才能が眠っているのかもしれないぞ、とその何かは教えてくれていた。今は駄目かもしれないけれど、もっとずっと先に、成長したあかつきには、自分はあるいはより自由になれるかもしれない。退屈な大人ではなく、ミックのような、成長し続ける大人になれるかもしれない。それが難しいことは分かってはいたのだけれど。

 さて、このような我々の関係に比べると、島田と小島については話すことが少ない。というのも僕は彼らの本質的な部分についてほとんど何も知らなかったからだ。表面的なところなら分かる。島田が一番背が高くて、ヒョロっとしている。水泳部で、背泳ぎを専門としていた。髪の毛が長くて、一見もてそうに見えるのだが、実はあまり女の子にもてない。というか本人が自信がなくて、いつもマンガとかアニメの世界に逃げ込んでいたのだから仕方がなかったのだが。彼はとても良い奴だった。「良い奴」というのが果たして正しい褒め言葉なのかどうかは分からないが――それはどうも個性の欠如を示唆しているような気がしてならないからだが――それでも彼に関してはそれ以外の形容を思い付けない。他人の悪口を言ったりしないし、いささかおどおどし過ぎている部分はあったにせよ、注意深く話を聞くと、結構面白いことを言うこともできた。彼は母子家庭で、父親が早くに亡くなっていた((がん)だった、ということだった)。もっとも祖父母と同居していて、経済的にはそれほど問題はないのだ、ということだった。彼は四人の中で一番成績が良くて、都内の理系の大学に進むことに決めていた。数学の分からないところは、よく彼に教えてもらったものだ。

「数列なんてなくても生きていけるような気がする」と僕は文句を言った。

「まあたしかにね」と彼は笑いながら言った(彼はいつもニコニコと笑っていた。あるいはそれは自分の不安をごまかすためだったのかもしれなかったが)。「でもやってみると意外に面白いよ」

「どの辺が?」

「ほら・・・こう、数字が並んでいるところとか」

「数字が並んでいるところ」と僕は言って、教科書を(にら)んだ。まったく。わけが分からない・・・。「僕にはなかなか理解しにくいんだが」

「きっと何かの役に立つはずだって思っているんだよ。僕は」と島田は言った。「だってそうしないと、いろんなことが無駄になっちゃうからね」

 ちなみに彼だけが脚が長く、歩幅をうまく合わせられなかったことがあのクラッシュの原因だったと――少なくともその一因だったと――僕は思っている。



 小島は背が低く、あまり運動も得意ではなかった。中学校時代に柔道をやっていて、骨格自体はがっしりしていた。でも高校に入ってからは、特に何をするでもなく、ただぶらぶらと時間をつぶしているのだ、と本人は言っていた。ほら動画を観たりさ。あとはパソコンをいじったり・・・。

 彼は簡単なプログラミングをすることもできた。その歳でだ。もっともパソコンおたく、といった風貌をしていたわけではなかった。むしろ一番堂々としていたかもしれない。なぜか芯があるように見えてしまうのだ。成績は中の上といったくらいだった。たぶん経済学部に入って、ごく普通のサラリーマンになるんじゃないかな、と彼は言った。

「IT系の方がいいんじゃないの?」と僕は言った。「ほら、プログラミングができるんだから」

「まあできればね」と彼は言った。「でもこんなのもっと詳しい人に比べたら全然大したことないもの。俺はそれなりにまともに暮らしていける金が稼げれば、正直どこでもいいな」

 彼の家もまた、僕と同じような構成だった。都心に通う父親。二階建ての家。二台の車。母親はパートタイムの仕事をしている、と彼は言った(何の仕事かまでは訊かなかったが)。妹と弟がいる。今は落ち着いたが、実は昔は結構喧嘩っ(ぱや)かったのだ、と彼は告白した。

「それって、殴り合いの喧嘩とかしたの?」

「そこまでひどいものじゃなかったけどね」と彼は過去を思い出して言った。「ただなんというか、相手がこれがひどい奴でね。本当にどうでもいいことに突っかかってきたんだ。あの頃はカッとすると我を忘れちゃうようなところがあって・・・」

 彼はそのときにできた(こぶし)の傷を見せてくれた。「相手の歯が当たってね、スパッと切れた。何針か()ったな。母親が泣いてね。親父にこっぴどく叱られたよ」

「なかなか格好良いんだな君は」と僕は感心して言った。「僕にはとてもそんなことできない」

「あんなの全然大したことないよ」と彼は言った。「大したことない」というのが彼の口癖だった。「それに喧嘩なんて本当はするべきじゃないよね。平和が一番だ」

「そう、平和が一番だ!」とそのとき突然背後から現れた島が叫んだ。そして突風のように消えていった。ストーンズの歌を口ずさみながら。

「あいつが一番外れているよな」と笑いながら小島は言った。

「まあ」と僕は言った。

「でもときどき(うらや)ましくなる」

「君が?」と僕は驚いて言った。「島に?」

「そう」と彼は頷いて言った。「俺にはとてもあんな真似はできないよ。反抗したくてもね。何かが俺を押し留めるんだよ。結局そんなことしてもどこにも行けないぞってね。高校生のくせにこんなこと言うの変かもしれないけれど、実は君も似たようなこと考えているんじゃないのか? 反抗したいけど、反抗してもどこにも行けないことを知っている。それで仕方なく真面目な振りを(よそお)っている」

「そうかもしれないな」と僕は少し考えたあとで言った。「でもまあ、それは今に限ったことだよ。そのあとどうなるのかは分からない」

「俺たち四人がさ」――つまり「しましま同盟」のことだ――「十年くらいあとに集まったら面白そうだよな。みんな何をしているんだろう?」

「まあ僕と島田と君はそれなりにまともに普通に生きているんじゃないかな。それはなんとなく分かる。でも島は・・・」

「あいつは予想がつかない」と笑って小島は言った。

「その通り」と僕は言った。

 ちなみに小島が例の百足(むかで)競走で小指を骨折したとき、その小さなギプスにみんなでサインを書いた。島田は端正な、おどおどとした、丁寧な字で。僕はごく普通の――と自分では思っている――楷書(かいしょ)体で。島はずうずうしくも一番大きな字で "Mick Jagger" と書いた(とにかくひねくれているのだ)。幸い怪我(けが)は大したことがなかったらしく(「大したことないよ」と小島は言った)、そのギプスもやがては姿を消すことになるのだが。その年は僕にはなんだか特別な陰影を持った一年として記憶されている。長かった子ども時代の終わり。親密な小世界を離れて、大人の世界に移動する。もちろん本当に大人になるにはまだ少し時間がかかるわけだが、その一歩を踏み出そうとしていたのはたしかだったと思う。島以外の三人は、無事に第一志望の大学に合格した。島は結局は一浪したあとに、第三志望くらいの私立大学に行くことになった。島田と小島とは、夏休みに自動車教習所で何度か顔を合わせた。おどおどとした島田は実地の教習で何度か失敗して、普通よりも長く通う羽目になった。僕と小島はストレートですべての教習をパスした。島がその間何をしていたのかは謎だった。僕らはそれぞれの人生の道を、それぞれのペースで進もうとしていた。そのようにして時が経った。



「なあ、島田が死んだ」という連絡があったのは、僕が三十歳になった、まさにその夜のことだった。その電話をしてきたのは島だったのだが、彼の電話番号は当時とは変わっていたため、始め僕は誰なのか分からなかった。

「え?」僕は言った。「島田ってつまり・・・」

「俺たちの高校の同級生の島田だよ。殺されたんだ」

「殺された? なんで・・・」。と、そこでようやくその声の(ぬし)が島であることに思い至った。「ああ、君は島か。どうしていたんだ?」

「どうしていたもなにも、生きていたんだよ。まったく。相変わらずだな、君は。なあ君はニュースというものを観ないのか?」

「時間があれば観るけどね。島田のことがニュースでやっているのか?」

「探してみたら」

 僕はそこでテレビを点けてみたが、ちょうどその時間には彼に関するニュースはやっていなかった。そこでパソコンを開いて、NHKのサイトで載っていないか見てみた。と、三十歳の男性が不自然な他殺体で発見された、と書いてあった。都内某所。深夜のうちに、道端で、誰かに殴り殺されたのだ。島田一彦(かずひこ)、と本名が載っていた。都内医療機器メーカー勤務。犯人はまだ見つかっていない・・・。

「あった」と僕は言った。「本当にあの島田だ。どうしてこんなことに・・・」

「そんなの知るかよ」と彼は言った。「なあ世の中おかしくなっている。コロナの騒ぎが収まってきたと思ったら、この島田の殺人事件だ。なあ、あいつのどこに殺される要素があったっていうんだ? あんなに良い奴だったのに」

「良い奴」と僕は言った。そして高校生当時の彼の姿を思い出した。いつも白い歯を見せて笑っていた。マンガとアニメが好き。背泳ぎの選手。女の子が怖い。そうか。医療機器メーカーに就職していたのか。彼らしいな・・・。

「ところで君は何をしているんだ?」と島は言った。

「僕? 僕はただの銀行員だ」

「どこの銀行だ?」

 僕は名前を言った。まあ大手だから、聞いたことくらいはあるだろう。

「ふうん。それで、自分の人生に満足しているのか?」

「どうだろうな・・・」と僕は言った。「そこそこ、じゃないかな。少なくとも収入は悪くない。忙しいことは忙しいけれど」

「結婚は?」

「していない。君は?」

「していない」と島は言った。「どうやら島田も独身だったみたいだ。まああいつならあり得ることだけどな」

「そうか」と僕は言った。「ところで君は何をやっていたんだ? 大学生の頃に会って以来、全然連絡もくれなかったじゃないか?」

「俺?」と彼は言った。「俺は今沖縄にいる」

「沖縄?」

「そう。宮古島だ。ユタになろうと思ってね」

「ユタ?」

「そうだ」と彼は言った。自信満々な口調だった。「それで今は、海でクロールの練習をしている。なんだか話によると、うまく泳げないと霊的世界と繋がることもできないみたいなんだ。派遣標準記録があるみたいでね」

「相変わらずだな」と僕は溜息をついたあとで言った。三十歳。ユタ。宮古島。クロールの練習。



「なんだよその相変わらず、ってのは」と彼は心底わけが分からない、という風に言った。

「ロックシンガーになるんじゃなかったのか?」

「いいか?」と彼は言った。「俺は一度もロックシンガーになりたいなんて言ったことはない。あくまでミック・ジャガーの

に影響を受けた、というだけのことさ。そしてその姿勢を先鋭化していった結果、宮古島でユタになる、という結論に行き着いたんだ」

「今まで何をしていたの?」

「いろいろやった」と彼は過去を思い出して言った。「主に肉体労働だな。大学を七年かかって卒業して――その間もいろいろほっつき歩いていたんだが――就職を拒否して、まず北海道の牧場に行った。そこで半年牛の世話をして、そのあとで長野の山小屋で働かせてもらった。その次に汚水処理場で働いたり・・・」

「汚水処理場?」と僕は驚いて言った。「でもなんで?」

「だってさ、自分たちの使った水がどこに行き着くのかきちんと見てみたいと思ったんだよ。君も一度くらい見てみた方がいいと思うね。あれは・・・あれはなかなか過酷な職場だったな。世界の仕組みを少しは理解できたような気がするよ。みんなが目にしない側面というかね」

「そのあとは?」

「そのあとは・・・ホテルの皿洗い。そんで外国にしばらくワーキングホリデーの制度を使って行った。オーストラリアで農作業をやったな。わけの分からない野菜を収穫するんだ。ベトナム人たちに混ざってね。みんな良い奴だったな」

「君は・・・」と僕は言った。「やっぱり一所(ひとところ)に落ち着けるような人間ではなかった、というわけだ。今は髪の毛はあるのか?」

「あるよ。坊主だけどね」と彼は――おそらく――頭を撫でながら言った。「でもユタは髪の毛を伸ばした方がいいらしいんだ。なんか雰囲気が出るからってさ。だからしばらくは 散髪は(おこな)わないことになりそうだな」

「そっちに行ってどれくらい経つ?」

「まあ三カ月ってところかな」

「それで、霊的世界と結合できたのか?」

「まだだ。まだ派遣標準記録を突破できていない。そうしないと次のステージに進めないんだ」

「誰か師匠みたいな人がいるのか?」

「いるよ。百十歳のばあさんだ。あるいは八十くらいかもしれない、と本人は言っているけどな。その辺は定かではない」

「その人は・・・つまり大丈夫なのか? もっと良い師匠がいるんじゃないのか?」

「でもネットの口コミで見たら一番評判が良かったんだ。というかその人しか載っていなかったんだけど」

 僕はそれについて何かを言おうとしたが、自分の中の何かがそれを押し留めた。この件についてこれ以上押し進めても結局はどこにも行けない、とその何かは言っていた。いずれにせよこの男の人生なのだ。退屈で、凡庸(ぼんよう)で、安定した生活を送っている一般市民としての僕に、とやかく言う資格はない。

「ところで小島が今何をやっているのか知っているか?」と彼は訊いた。

「小島?」と僕は言った。僕は実のところ教習所以来彼に会っていなかった。連絡先は知っていたが、それだって番号が変わっていたら通じないだろう。「ああ、あの小島か。しましま同盟の最後の一人」

「そうだ」

「どうして小島が気になるんだ?」と僕は言った。

「いや、なんとなくさ。義務として、島田が死んだことを伝えた方がいいんじゃないかと思ったんだ」

「どうしてだろう?」と僕は本当に疑問に思って訊いた。「だってさ、たしかにあれはちょっと特殊な同盟だった。本来繋がるはずのない四人が、体育祭の百足(むかで)競走のために白いちっちゃな(ひも)で繋がったんだ。当時楽しかった、っていう記憶がほとんどないんだけど、あの思い出だけは別だ。我々は途中まではトップを走っていた」

「君が(つまづ)いたんだったな。先頭で」と彼は言った。

。君が僕の後ろでスピードを出し過ぎたんだ。わけの分からないことを叫んでね」

「ミック・ジャガーの真似をしていたんだよ」と彼は言った。「でもさ、たしか俺の後ろの島田も結構興奮していたんだよ。ほら、あいつ背が高かったから。その歩幅に合わせていたらさ、自然とスピードが上がっちゃって・・・」

「まあいいや、そんなことは」と僕は言った。「でもまあたしかに君が今あのメンバーについて思いを巡らしたくなる、という気持ちも分かるかもしれない。十二年経って、今それぞれが何をやっているのか」

「分かるだろ?」と彼は言った。「なんとなくさ。あれは俺たち四人にとっての、共通の夢みたいなものだったんじゃないかと思うんだ」

「しましま同盟が?」

「そう。イノセンスの終わり。いや、正確に言えば終わりの直前の地点にある、何か、だな。その後否応(いやおう)なく大人の世界に組み込まれることになる」

「君はそれを拒否しているみたいだけど」

「俺だって大人になったさ」と彼は言った。「運転免許だって取ったし、税金だってきちんと納めている。まあ年に数回は、だな。選挙だって行ってきた。投票したい候補者がいなかったから、でかでかと自分の名前を書いたけどな」

 僕は溜息をついた。「やっぱり君だけ特殊だよな。分かったよ。このあとで小島に電話をかけてみよう。彼は結構まともな男だったから、あるいは怒るかもしれないけれどね。そんなことでいちいち電話してくるな、とかさ」

「いや、それはないだろう」と彼は言った。「だって同盟の一人が殺されたんだぜ? わけの分からない謎の人物に。これは事件だ。革命だ! 戦争だよ。まったく。あの大人しい島田がな・・・」

「彼は自分が死ぬなんて思ってもみなかっただろうな」と僕は言った。

「その通りだ」と島は言った。「みんなきっとそうなんだろう。死ぬってのは、ものすごくエネルギーを使うことだからな。それでいてどんな状況に陥るのかは、誰にも分からない」

「ユタになったら分かるんじゃないのか?」

「それだよ」と彼は言った。「だから俺はわざわざ沖縄までやって来たんだ。見てなって。そのうちノーベル平和賞でも取るからさ」

「何の業績で?」

「人々の心に平和をもたらした、という業績で」

「沖縄で?」

「宮古島で」

「ふうん」

「なんだよ、そのふうん、ってのは。俺は本気だぜ? じゃあ小島に連絡してくれよ。そして結果報告をしてくれ。ただ時差を考えてくれよな。俺は本州にはいないんだから。じゃあな。あばよ」

 僕はその後じっと静かになった携帯電話を睨んでいた。島。三十歳。大人になることを(こば)んだ男。宮古島でユタになろうとしている。でもきっと、それも飽きが来るまでだろう。彼の中にははっとするほどポジティブで、言うなればナイーブなところがあったが、一方でそれがいつまで続くのかは誰にも分からなかった。

。誰もがどこかの時点で、そういった領域を通り抜けなければならないのではないだろうか? そして次の段階に向かうのだ。いつまでも罪のない幻想に(ふけ)っていていいわけではない。そういった姿勢は、結局のところ、本来の自分を損なうことに繋がってしまうのではないだろうか? なぜなら落ち着いて自分自身を深めるということがどうしてもできないからだ。

 しかしそんなことを思いながらもなお、彼の姿勢に刺激を受けていたことも事実だった。僕は今何を思って生きているんだろう? あるいはただ日々を何事もなかったかのように前に押し出すため

生きているんじゃないだろうか? もしこのままの流れで生き続けていったら、あるいは僕は一生なんでもなしのままかもしれない。個性のない、退屈な、一労働者として消えていくのかもしれない。島田はあの歳で死んでしまうことを望んでいただろうか? まさか。きっと予想も付かなかったに違いない。ある夜道端(みちばた)を歩いていると、突然誰かに後頭部を殴られる。彼のことだからいつも警戒して歩いていたに違いない。しかしその夜だけは、ちょっと油断してしまったのだ。そもそもなんであの男が真夜中に一人で歩いていたのだろう? 何か事情があったのだろうか? もちろんもう三十歳で、高校生ではない。酒を飲んだ帰りだったのかもしれない。でもこんなコロナの状況で? 僕の想像する彼の姿は、そういった推測にはそぐわないものだった。彼は一体なんで夜にほっつき歩いていたのだろう? そしてどうして死んだりしたのだろう?

 もう夜九時を回っていたが、意を決して小島の電話にかけてみることにした。もう十年以上連絡を取っていないかつての同級生。しましま同盟の最後のピース。「大したことじゃない」という声が聞こえてくるような気がした。彼は一体どんな人生を歩んできたんだろう?



「もしもし」と(なか)ば警戒したような様子で、彼は言った。ほんの少し低くなっているが、十二年前と変わらない、小島の声だった。僕はそれで安心した。

「もしもし」と僕は言った。「島井だけど。悪いな。こんな時間に」

「いや、全然大丈夫だよ。ただちょっと驚いたんだ。だって十年以上連絡してこなかっただろう?」

「十一年くらいかな」と僕は言った。「最後に会ったのは自動車教習所だ」

「ああ、そうだったな」と彼は思い出して言った。「俺たちはすんなりと通ったが、島田はぐずぐずと失敗ばかりしていた」

「そう。その島田なんだ。彼が殺された」

「殺された?」と小島は驚いたように言った。どうやらまだそのニュースを観ていなかったようだった。「それはたしかか?」

「たしかだよ」と僕は言った。「NHKのサイトに載っている。本名も出ている。島田一彦ってね」

「ちょっと待ってくれ」と彼は言って、おそらくはパソコンでそのニュースを探していた。数分後に、また声が戻ってきた。「あった。本当だ。都内の路上で・・・。どうしてあいつが殺されなくちゃならないんだ? あんなに大人しい奴だったのに」

「島もおんなじことを言っていたよ」と僕は言った。「ついさっきあいつが電話をかけてきたんだ」

「島か・・・」と小島は言った。「変な奴だったな。

変な奴だった。今何をしているんだ?」

「沖縄で――宮古島で――ユタになるための修行をしている。クロールの練習をしているんだって」

「ユタって・・・一種の巫女(みこ)みたいなものか?」

「まあ、たぶん」

「それって男でもなれるのか?」

「知らない」と僕は言った。「でも大丈夫なんじゃない? ほら、ジェンダーフリーの時代だし・・・」

 彼は溜息をついた。もっともそれはがっかりした、という意味の溜息ではなくて、もはやあの男についてはあきらめるしかあるまい、という意味の溜息だった。その気持ちはよく分かる、と僕は思った。「相変わらずだな」と彼は言った。

「そう、相変わらずみたいだ。いつまでも子どもっていうか」

「君は何をしている?」

「僕は銀行員だ」

「どこの?」

 僕は会社名を教えた。

「大手の銀行じゃないか」と彼は言った。「まあそれも君らしいよな。そこの通帳持っているぜ」

「どうもありがとう」と僕は言った。「そのうちいくつかのサービスについて説明させてもらうかもね。ところで君は? その後どうなったんだ?」

 彼は一拍間を置いた。そして説明した。「大学の経済学部を卒業したあとに、あるビール会社に就職した。別にビールが好きだったわけでもないんだけど、給料は良かったし、安定しているみたいだったからね。そこで三年ほど営業をやったあとに、正直こんなことをして一生を終えたくないと思った。それで、知り合いと組んで、小さなIT企業を始めたんだ。ウェブデザインとか、そういう感じのやつだ。始めは苦労したが、だんだん軌道に乗りつつある」

「じゃあ社長ってことか?」

「まあね。大した社長でもないけど」

「みんないろいろ経験しているんだな」と僕は言った。「リスクを取って生きている、というか。なんだか地道に銀行員をしている自分が恥ずかしくなってくるよ」

「別に恥ずかしくなんかないさ」と小島は言ってくれた。「あくまで俺にとっては、今の仕事の方が合っているってだけでさ。スーツを着る必要もないし、くだらない上司に頭を下げる必要もない。会社の仲間はみんな同年代だ。そして自由に好きなことができる。もちろん利益を上げるのは大変だけどね。まあやりがいはあるかな」

「なかなか(うらや)ましい」

「島田は医療機器メーカー勤務って書いてあったな。君は彼と連絡取っていたのか?」

「いや、全然。彼とも教習所以来会っていない」

「俺は成人式で会ったな。あのくだらない成人式。そういえば君と島は来なかったじゃないか?」

「そうだっけ?」

「そうだよ。もう忘れたのか?」

「そういえばそうだったかな・・・」。僕は同時の記憶を思い出そうとしたが、なぜかぼやけてかすんでしまっていた。きっと自分にとってさほど重要性を持たない記憶だったのだろう。「まあいずれにせよ昔のことだよ。大事なのは今だ」

「そうだな。今だ」と彼は言った。

 話を聞くと、彼もまだ独身だった。ガールフレンドはいるのだが、仕事が忙しいこともあって、なかなか結婚という方向に話が進んでいかないのだ、と。「それに急いで父親になりたいわけでもないしな」と彼は言った。

「まあ」と僕は言った。「それは同じかもしれない」

「それで、どうするんだ? 島田の葬式には行くのか?」

「行こうかと思っている。君は今都内だっけ?」

「そうだ。江東区だ。君は?」

「そこからさほど遠くない」

「じゃあ一緒に行くか」

「そうしよう」

「まさか犯人を見つけて罰してやろうというつもりで電話したんじゃなかったよな?」

「まさか。そこまでの力は僕にはない」と僕は言った。「ユタにでもなれば別だけど」

「それには修業が必要なんだろ?」と彼は言った。

「そう。派遣標準記録が必要なんだって。クロールの」

「どこに派遣されるんだ」

「あの世じゃないかな。たぶん」



 その数日後に僕らは連れだって葬儀に行った。葬儀は島田のマンションではなく――考えてみればまあ当然だったのだが――千葉県の彼の実家で()(おこな)われた。母親はまだ何が起きたのか信じられないみたいだった。(ひつぎ)に横たわった彼の顔を見たが――綺麗に整えられていたため、頭を殴られたとは始めは信じられなかった――ぱっと見た限りでは高校生の頃からさほど変わっていないように見えた。いつもの良い奴。島田。おどおどとしていて、女の子が怖い。もっとも三十歳になったからには、少しは耐性ができていただろうが。小島の方は以前よりは太っていたものの、血色は良かった。自分に合った仕事をしているせいかな、と僕は思った。黒い喪服を着て、黒いネクタイを締めていた(それは僕も一緒だ)。その日は終始曇っていて、今にも雨が降りそうだった。でも結局最後まで降らなかった。僕が持って行った傘は、その役目を果たすことなく、島田家の玄関に忘れられてきてしまった。でもまあそれで良かったのかもしれない、と僕は思う。あの傘には死の匂いが染みついてしまっていた。あれを持ち帰ってきたら、僕は家の中に死を持ち込むことになっただろう。適当に処分してくれればいいのだが、と戻ってきてから思った。

 島はもちろん沖縄に――宮古島に――いたから急にはこちらには来れないと言った。だからリモートで参加する、と。

「どういうことだよ、それは」と僕は言った。「動画でも撮るのか? つまりその映像をこっちに送るとか」

「まさか」と彼は笑いながら言った。「俺はユタだぜ? まあまだ修行中だけどな。ちょっと問題が起きてさ。授業料を払えっていうんだ。先に。まあいいや、それは。とにかく俺はこっちにある洞窟の中で、とにかくひたすら集中する。時差が二時間あるから、それもまあ計算してな」

「沖縄と本州の間に時差はない」と僕は指摘した。この間調べたのだ。

 彼はそれを無視した。「だからまあちょうど葬儀の時間に合うように洞窟にいるからさ。それで、俺はあっちにいる島田と交信してみることにするよ。ばあさんはまだ何も教えてくれないが、俺だってフロイトとユングを全巻読破したことがあるんだ。人間の心については分かっているつもりでいる。要するに集合的無意識だ」

「集合的無意識」と僕は言った。「何だそれは?」

「とにかくさ、ひたすら集中して、意識の奥の方に行けば、たぶん死者にも会えるってことさ。それで島田に会ってくる。まだ火葬されていないんだろ?」

「火葬はまだだ」と僕は言った。「それは数日後だって」

「じゃあオーケーだ。ユタの教科書によると――これが高かったんだが――火葬されると、交信するのは各段に難しくなる。その前に島田に会ってくるよ。なあ、なんか伝えたいことあるか?」

 僕と小島は――その電話の最中彼も近くにいたのだが(それは葬儀の日の朝だった)――じっと考え込んだ。でも正直なところ今さら十数年前の高校の同級生に何を言ったらいいのか分からなかった。お元気で、とでも伝えればいいのだろうか? もう死んでしまった相手に?

「なんだよ。何も浮かばないのかよ」と島は不満げに言った。

「何が見えるって訊いてくれないか?」とやがて小島は言った。「そっちから見える景色を教えてほしい、と」

「島井は?」

「僕は・・・まあ僕も一緒かな。そっちでも達者にやってくれよ、と。そのうち行くから、と。あとは何が見えるのか? たしかに気になるところではある。同盟の一員が、あちら側から何を見ているのか」

「そうか。分かった」と島は言った。「うまく会えたら訊いてみよう。ところでさ、葬儀は実家でやるんだろ?」

「まあ」と僕ら二人は言った。なんだか嫌な予感がした。

「じゃあさ、ついでに俺の家に行ってさ、俺の部屋にある『レット・イット・ブリード』のLPを持ってきてくれないかな。そんでこっちに送ってくれよ」

「なんでまた」と僕は言った。

「急にミックの声が聴きたくなっちゃってさ」

「ストリーミングでもなんでも、聴く方法はいくらでもあるじゃないか?」

「あのLPがいいんだ。あそこには俺の高校時代のイノセンスが詰まっている。お前たちのイノセンスも詰まっている。あれをこっちで焼く」

「焼く?」と小島が驚いて言った。「でもどうして?」

「島田の供養のためだ」と島は言った。「そして俺たちみんなの青春の供養のためだ」



 葬儀が終わって、小島と二人で都内に戻ってきたあとで、僕のマンションの一室で、また島に電話をかけた。うまく島田には会えたのだろうか? ちなみに例のLP盤は、彼の母親がガサゴソと三十分以上もかけて探した挙句(あげく)、ようやくのことで見つけてきてくれた。ジャケットは古びていたが、レコード盤そのものは奇跡的に(かび)もなく、ピカピカしていた。その黒い盤面に、僕と、小島の、三十歳になった顔が反射していた。そのとき僕は自分たちがもはや元には戻れないことを悟った。我々はとにかく前進し続けなければならないのだ。たとえその先にあるのが死でしかないと知っていたとしても、だ。たしかにこれを聴いて、そのあとで燃やしたら供養になるかもしれないな、と僕は思う。しましま同盟の死の供養だ。おそらく小島も似たようなことを考えていたのだと思う。

「もしもし」と僕は言った。「もしもし。島田には会えたか?」

「・・・ああ、会えたよ」と少しタイムラグがあったあとで島は言った。その声は心持(こころもち)涙ぐんでいるようにも聞こえた。「あいつはちゃんとそこにいた。暗闇の中にね。三途(さんず)の川を背泳ぎで渡るところなんだそうだ」

「何が見えるって言っていた?」と小島は言った。

「何が見えるのか? あいつはね・・・」。でもそこで電話が切れてしまった。いくらかけ直しても繋がらなかった。彼は一体あちらの世界で何を見たんだろう?

 その夜夢を見た。地平線から太陽が昇る夢だった。でも頭半分だけ出したところで、止まってしまうのだ。僕は自分の足元を見る。そこには影ができている。ものすごく長い影だ。でもよく見ると、それは僕の足から分離している。なぜなんだろう、と思った瞬間に、島がどこかから「走れ!」と叫ぶ。僕はとっさに走り出す。影が追いかけているのが分かる。でもとにかく走り続ける。こうして動き続けていれば、悪いものには捕まらないのではないだろうか・・・?

 そのとき太陽がようやくきちんと昇り始める。ゆっくりとゆっくりと、全貌を(あら)わにしていく・・・。島田がどこかでこう言う。「そちらの世界は美しかった。こちらには何もない。

ない。僕は(おび)え過ぎていて、その事実に気付かなかったんだ。きちんと生きるんだ。しましま同盟。死がやって来るまで」

 朝起きてすぐその夢のことを小島に報告したことは、言うまでもない。


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