後編
文字数 1,702文字
しかし、茂みから現れたのは、従姉ではなく、知らない男の人だった。
従姉と一緒に消えた、あの男の子ではない。
彼よりも少し歳上の、若い男の人だった。
顔は暗がりで良く見えないけれど、バレーボール選手のように、ずば抜けて長身だった。
「ここら辺に、人がいるのを見たのか?」
何かを警戒しているような声だった。
私はしゃくり上げながら、必死でかぶりを振った。
怖かったのだ。
足許も良く見えないような深い暗闇の中で、見知らぬ男の人と一緒にいるのは、押し入れに一人で閉じ込められるのよりも、数倍強い恐怖心を掻き立てた。
逃げなくちゃ。
咄嗟にそう思った。
けれど、足が竦んで一歩も動けない。
長身の男は、ゆっくりとだが、此方に近付いてくる。
その時、生暖かい感触が、太股の内側を伝った。
恐怖が頂点に達してしまったが故のハプニングだった。
ああ、お母さんに叱られる。
そのことを思って、私は更に激しく泣きじゃくった。
「泣くなよ。
兄ちゃんがいい物見せてやるから」
そう言って、彼はグローブのように大きな掌を、私の頭の上にポンと置いた。
それから、金魚の泳いでいるビニール袋を地面に置くと、いきなり掌大の石ころを振り下ろし、小さな生き物を呆気なく潰してしまった。
突然のことに声もなくびっくりしていると、男は私の目の前にビニール袋を提げて見せ、どうだ、花火みたいだろう、と言った。
金魚の身体から飛び散った血汐が、水中で幾つも珠を成し、ゆらゆらと揺れ、やがて水の中に薄く溶けていった。
水の中に真紅の液体がひらひらと棚引いていく様は、ビー玉の中の薔薇の花弁のような、可憐な模様を思わせた。
「うん、きれい」
私が素直に頷くと、彼は顔をくしゃくしゃにして笑い、私の髪の毛も掌でくしゃくしゃにした。
「まだ、兄ちゃんのこと、怖いか?」
私は少し考えた後で、首を横に振った。
不思議と、先刻まで感じていた恐怖心はなくなっていた。
すると、男はジーンズのポケットから、細身の折り畳み式ナイフを取り出し、兄ちゃんに逢ったこと、内緒に出来るんなら、これをやる、と言った。
私には、それが魔法のナイフのように見えた。
絶対に内緒にすると約束し、そのナイフを受け取った。
その時、急に神社の境内の方が騒がしくなり、私の名前を呼ぶ切羽詰まった従姉の声が聞こえた。
どうしたのだろうと顔を上げた時点で、ナイフをくれた男の姿は、すでに何処にも見当たらなかった。
従姉は私を見付けると、そのまま身体を強く抱き締め、良かった、無事で、と言ったきり、激しく泣き崩れた。
そんな私達の周囲を、何人かの警官が慌ただしく走り過ぎて行き、一人の警官が、知らない男の人を見なかったかと訊ねてきた。
私は唇を真一文字に引き結んだまま、首を横に振った。
後で聞いた話によると、知人を殺害した殺人犯が、その神社の裏手に潜んでいたらしい。
私が見た警官達は、その男を捜索していたのだ。
凶器は、細身の折り畳み式ナイフだった。
あれから二十年以上が経ち、今度は私が自分の娘に、初めての浴衣を着せてやる歳になった。
あの時、あの男に貰ったナイフは、いつの間にかなくしてしまった。
それどころか、今となっては、あの夏祭りの夜の出来事が、現実だったのか幻だったのかすら、定かではない。
現実だったからこそ、これほど鮮明に覚えているのかも知れないし、妖しい幻に酔いしれたかったから、何度も思い返したせいで、覚えているのかも知れない。
いずれにしろ、今も瞼を閉じると、鮮やかに浮かんでくる光景がある。
透明な水の中、破裂した金魚の身体から弾けた真紅の粒が、綺麗な花火のように、広がって見えた瞬間が。
~~~ 完 ~~~
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