Chap.7

文字数 3,205文字

 南向きの窓の向こうには青空が広がり、陽光が差し込んでいた。陽光に照らされながら、茂手木さんは床に膝をついた。
「茂手木くん。なんで?」
 スナオさんが沈黙を破った。
「……事故になるなんて思っていなかったんだ。検問にでも引っかかって、逮捕されれば。信頼を失えば……」
 震える声が教室に響いた。
「あんたの目的は武富さんの経歴に泥を塗ること。動機はたぶん、自分の体罰が武富にバレたから?」
「体罰じゃない。指導ですよ。玉木は服装指導している私に暴言を吐いたんだ。『偉そうにするな。武富がいなきゃ何もできないくせに』。声を荒らげたら、あいつはいつも声真似をして茶化し反抗する。教師の心を伝えるには、痛みでわからせるしかない。なのに」茂手木さんが泣くような声で笑った。「武富先生は、私を叱った。『間違ったやり方では、生徒の人格を歪めてしまう』、『校則は大事だが柔軟に対応すべきだ』と、くどくどと……。挙句、『君は今のままではいけない』なんて。だから」
 スナオさんが首を振り茂手木さんに近づく。
「どうして。武富先生は憧れの先生だったんじゃなかったの?」
「憧れだった。素晴らしい先生だったんだ。だから許せなかった」
 怒りを浮かべた茂手木さんがスナオさんを見上げ、声を絞り出す。
「僕が尊敬した先生は、生徒に舐められてもへらへら笑ってる奴じゃない。挙句ストレスで弱っていくような老いぼれじゃなかった」
 窓に手をついて茂手木さんは立ち上がる。ガラスの空に透けて、うっすらと茂手木さんの歪んだ顔が映る。
「僕が体罰をしたというなら、中学生の僕はほかならぬ武富先生にそれ以上のことをされていた。校則を破って怒られ、悪いことをすれば手を出された。でもそうして、今の僕になれた。感謝こそすれ先生を憎んでなんかいない。憎む生徒がいるなら、そいつがおかしい。過去のやり方が間違いだった? なら今の僕は何なんだ?」
 茂手木さんの目に涙が浮かんでいた。私は複雑な思いに胸が痛くなる。
「武富先生は自分が成長したといったが、僕にいわせれば掌返しだ。時代が変わろうと、あの人は変わらなくてよかった。直人だって、殴ってくれた先生を恩師だと思ってるだろ?」
 問いかけられたスナオさんは静かに息を吐き、級友を見返した。
「武富先生は僕にとって恩師だ。でも、殴ってくれたから、じゃないよ。そう思ったことは一度もない。武富先生は暴力無しでも僕の恩師になっていたはずだ」
 茂手木さんは懇願するように首を横に振る。
「暴力? 僕たちのために殴ってくれたんだ。先生の拳には愛があったじゃないか、直人」
「愛があったのは……」
 私は言葉を発していた。茂手木が振り向く。
「愛があったのは茂手木さんの方だったんじゃないですか? 殴られる生徒の方に先生への愛があったから、許されていた。時代とか先生の考え方とかの問題じゃなくて」
 殴る方に愛があるかどうかなんて、関係ない。暴力が暴力として訴えられるかどうかは、殴られる方に愛があるかどうかの、それだけの差じゃないか。
「気づいてる?」
 千川さんがいった。
「あんたに受けた暴力を玉木響は告発しないでいる。ひどく未熟で不完全な愛とやらに、大人になったあんたも助けられてるんだよ」
 愛、をひどく皮肉げに発音して両手を広げる。茂手木さんはなおも目を背けた。
「……罪を認めてよ。茂手木くん」
 スナオさんがいう。悄然とした様子で茂手木さんは低い声で抵抗を試みた。
「……水筒をすり替えたという、証拠はあるんですか。……ああ、第一、飲酒が原因の事故ではなかったのかもしれない」
「さっきいいそびれた脅迫の続きだ」
 千川さんが通る声でいい、茂手木さんの前に再び立った。
「武富さんに酒を飲ませたと出頭しろ。さもなければ」
 千川さんは茂手木さんが何もできない速さで、その背中を押した。窓際から教卓の前に、転がすように一気に押しやる。よろめいた茂手木さんが顔を上げると、その首根っこを掴んで、正面を向かせた。
 整然と並ぶ無人の机を。明日には数十人の生徒で埋まるであろう、教室を。
「……さもなければ、あんたは嘘を抱えたまま、愛する生徒たちに見つめられ続ける。明日からずっと。この場所で」
 茂手木さんの耳元で、そう脅迫した。
「耐えられるか? 茂手木さん」
 ――嘘はつくな。俺もおまえたちに嘘はつかない。
 沈黙は長くなかった。やがて茂手木さんは、肩を落とし、首を横に振った。

 武富さんが意識を取り戻したのは、茂手木さんが出頭した二日後のことだった。
 ベッドに横たわる武富さんが、入室したスナオさんを見て笑った。
「わざわざ見舞いに来てくれたのか、須藤」
「当たり前でしょう。先生は恩師ですから」
「相変わらずの口上手だな。そちらは」
「初めまして。金坂澪です」
 私は一礼した。
「僕の友達です」
「なんだ。彼女とのデートのついでに寄ったのか」
 武富さんはため息をわざとらしくついた。
「あ、彼女ではないんです」
 慌てて私はいった。するとスナオさんがとぼけた顔をする。
「違ったっけ。あ、僕より千川くんか」
「スナオさん!」
 怒る私を「ごめんごめん」と受け流し、武富さんに目を戻す。
「先生が無事で何よりです」
「ああ。全然覚えてないんだがな。運転中に、意識が、急に遠のいてな。歳のせいか」
 武富さんは、自分が酒を飲まされていた事実を知らされていない。ショックを受けるだろうからしばらくは秘密に、と和枝さんにいわれている。
「生徒のために無茶するからですよ。定年間近だっていうのに」
「ははは。教師の定年なんて、生徒には関係ねぇからよ。全力でぶつかるんだよ」
「問題児にも?」
「当たり前だ。問題ってのは解くためにあるんだ」
 意識を取り戻して数日とは思えないほど強い声だった。
「そういえば須藤。茂手木に会ったか?」
 胸にズキッと痛みが走る。茂手木さんが何をしたのかも武富さんはまだ知らない。
スナオさんは穏やかな声音で答える。
「ちょっと前に。元気そうでした」
 武富さんは誇らしげに微笑んだ。
「一緒に働いているんだ。私がこんなことになって迷惑をかけている。まだ見舞いにはきてくれないが、きっと私の分まで仕事を頑張ってくれてるんだろう」
「茂手木くんは、いい先生ですか?」
「ああ。俺よりずっとな。彼は堂々とまっすぐに生きている」
「堂々と、まっすぐに」
「まぁ、少し、真面目すぎるがな。もう少し肩の力を抜くといいんだ」
 私は武富さんを直視できなかったけれど、スナオさんは微笑みながら続けた。
「彼が見舞いに来たら、そのときに伝えてあげてくださいね。きっと喜ぶから」
「いやぁそいつは……照れるな」
 武富さんは笑い、晴れた窓の外に目を向けた。

 駐車場で、千川さんの待つ車に乗り込む。
「嘘ついてきたのか?」
「うん。僕の特技だからね」
「嘘はつくな。俺もおまえたちに嘘はつかない――届いてねぇな。教え子に」
 エンジンをかけながら千川さんが笑う。
「先生に本当のことを話したくない、という気持ちに嘘はつかなかったよ」
「なんだそれ」
 二人のやりとりを聞きながら、私はやるせなさでいっぱいだった。
「……いつかは事実を知ってしまいますよね。武富さん。自分が茂手木さんに憎まれて、あんなことになったって。自分の教え子が」
 大丈夫、とスナオさんはいう。
「僕だって先生の教え子なんだから」
「何が大丈夫なんだよ」
 千川さんが訊ねる。
「立派に生きている教え子もいるっていう事実が、きっと武富先生の支えになる」
 立派、と自分でいいきってしまうスナオさんに、思わず笑ってしまう。千川さんが「アホか」とため息をつき、アクセルを踏む。澄んだ青空の下を車が走り出した。
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