第8話 僕の夜と彼女のときめき

文字数 8,297文字






僕は園山さん、いや、美鈴さんと想いを通じ合わせたその晩、一睡もしなかった。いや、到底できなかった。まるで最高にいい夢を見ているように、自分の生命に感謝し、彼女の愛に感謝し、それから世界中の幸福を集めて眺めているように、とてもいい気分だった。


夕食も食べられないほど僕は興奮していたけど、気持ちは安らかだったように思う。初めは叫び出したいほどの幸せだったけど、だんだんと「彼女と僕は、確かにつながれている」と思うと、今まで小さな光を目指して暗闇を進んでいた僕は、その小さな光の正体は、太陽のような彼女だったと気づかされた気分だった。


僕は心の中で、たくさんの言葉を彼女に贈ることを考えた。


「大好き」。そうだな、とても好きだ。でも、それだけじゃ伝わり切らない。

「愛している」。うん、それもいいけど、ちょっと僕が言うには、まだ大人になり切れていない気がする。

「とても大切」。そうだ。そうだけど、それだけじゃない。

「誰にも渡したくない」。うん、そうだけど。それを彼女に言うのはわがままでもあるんじゃないかと、ちょっと気がとがめた。

「死んでもいい」。僕はそう思ったけど、何度でも彼女に会いたいから、まだこれは早すぎると思った。

「そばにいてほしい」。でもそれは僕の希望でしかない。

「彼女を幸せにしたい」。それは確かにそうだ。でも、僕にそれができるんだろうか…?



最後の、「幸せにしたい」という言葉を初めて人に感じた僕は、今すぐにはそれができない甘やかなもどかしさと、どんなことでもする決心の強さに揺られていた。



そうして考えまわしているうちに、「彼女を守るために命を捧げられるなら、なんと幸せだろう」とまで思い詰め、そのことの恐ろしさに慌てて我に返って自分をなだめたり、現実に一人の女性を幸福にするための方法について、自分は何も知らないかもしれないと不安にもなった。



そしてまた彼女の笑顔を思い浮かべて、それが少しでも僕のためであるなら、僕はもうその他の幸福への興味を失くしてしまうかもしれないと、幸福に怯えるように、ため息を吐くのだった。






夢想的な夜は緩やかに過ぎていきながらも激しく僕を揺さぶり、僕は涙ぐんだり、熱っぽい頭を抱えて唸ったりして、水すら喉を通らなかった。



やがて、窓に掛けたカーテンの隙間から、白みだした明けの空が僕の部屋に滑り込み、朝が来る。


僕はそれがなぜだか、しようがないほど嬉しくて、朝が来るのを早く確かめたくて、小走りで窓に駆け寄った。そして元気いっぱいにベランダ側のガラスに掛かった幅の広いカーテンを左右とも開けて、朝の光の上澄みで部屋を満たした。


まだ柔らかで涼し気な光は、霞のように僕の部屋に広がり、僕はその清浄さで心まで洗われていくのを感じた。



そして僕は、さっきまで自分が幸せにうなされていたベッドをふと振り返る。それからまた美鈴さんのことを思い出した。


「彼女はまだ眠っているだろうか?それとももう起きて、勉強をしているかな?」と僕は考え始める。それから、パジャマ姿で布団にくるまっている美鈴さんを思い浮かべた。



僕は、彼女がすうすうと寝息を立て、ふかふかの布団を体の上にきちんと掛けて、片手だけを布団からはみ出させて眠っているような気がした。


彼女の滑らかで少しだけうねる長い黒髪が、眠っている間に少し乱れて枕の上から零れ落ち、布団の上に流れて朝の薄い光でつやつやと輝くのが目に浮かぶようだ。


彼女の表情は、眠っていれば誰もがそうあるように、和らいで幼く見え、すんなりと寝かされて少し頼りなく下がり気味の眉も、閉じられた瞼の縁の長い睫毛も、髪と同じくひっそりと薄陽を照り返すだろう。それから、色白で肌が透けて見えるような美鈴さんの頬は、今も自然と薄紅色をしていて、唇はバラの花びらのように、瑞々しい紅色に違いない。


僕はそうやって、目の前のガラスに映し出すように美鈴さんの寝姿を想像していた。そしてはっと我に返り、自分が勝手に美鈴さんの立ち入ってはいけない領域に忍び込んだような気がして、慌てて頭を振った。



早く会いたいな。一晩中、彼女のことを考えていたんだから。



そう思い返して、また僕は少し恥ずかしい気持ちになる。こんなにも急に手に入った幸せを、僕はどうしたらいいのかわからないし、今朝までのように彼女に熱し続けていたら、何か悪い事態を招きそうな気もして、不安にもなった。そしてそこで、ふとある疑問が湧く。


彼女は、僕をどんなふうに好きなんだろう?どこまで僕のことを好きなんだろう?本当に大好きで、真剣に考えてくれているかな?



そこから先は、僕はぼんやりと不安の中に佇み、知りようもない彼女の気持ちの答えを探ろうと、漠然と考え続けた。


もちろん彼女は人との関係に真剣な人だし、僕とのことを遊びのように考えられるような人ではないことは、もう、僕が一番よく知っているはずだ。


もし彼女が僕に飽きてしまったり、僕を嫌うようになるとしたら、僕が彼女を満足させてあげられない人間だったという結果だけかもしれない。


僕は、人との会話は小さい頃からちょっと苦手だった。だから、相手のことを考えながらとてもよい返事ができているかについて、いまだに自信はない。それに、「気遣いがよくできる」なんてほめられたこともない。僕がほめてもらえるのは、学校の成績だけだった。


そんなことばっかりに注力してきたから、僕は自分が人に優しくできる人間かわからないどころか、「やったことがない」とすら言えるかもしれない。


美鈴さんには、優しくしよう優しくしようと心掛けてきたけど、それも上手くいっているのかわからない。もしかしたら彼女は、僕が失態を演じていても見て見ぬ振りをして、僕を傷つけまいと黙っているだけなのかもしれない。


だから、美鈴さんが僕と付き合ってみて、やっぱり僕は聡明な彼女からは底の浅い人間に見えたり、彼女のような細やかな気遣いができない僕に彼女がうんざりしたり、僕は言葉が足りないからそのことに彼女が傷ついたり、男らしさもないから飽きられたり…。


なーんだ。僕なんて、いいところの一つもないじゃないか。でも…。



「それでも、彼女のことを誰よりも一番に考えて、わがままを言い過ぎたり傷つけたりしないで、いつも彼女を気遣って、どうしても彼女が僕から逃げたくなんてならないように、そばに引きとめておきたい。」



それが確かな答えのはずなのに、彼女が本当に僕と「ずっと一緒に居たい」と思ってくれるか、そして本当にそうしてくれるか、僕にはやっぱり見えなかった。


早く会いたい。彼女に会って、不安など消えてしまう、あの優しい笑顔に包まれたい。


僕は溢れそうな愛を重いため息にして少しだけ逃がした。このまま一人で考えに沈んでいたら、彼女を想う気持ちに苛まれて、僕は息もできないだろうと思った。





僕たちは、一コマ目の講義の前に学生ホールで待ち合わせて、少し話をしてからそれぞれ違う講義に向かうことにしていた。僕の一限目は数学、美鈴さんは哲学の専門科目だった。


僕はまだ人もまばらな学生ホールで、真ん中に観葉植物の植えられた円形のソファに座って、彼女を待っていた。

彼女を待つ間、僕は時間潰しに数学の教科書を読もうとしていた。しかし、それは僕にとってその時はただの無用な情報の羅列に過ぎず、僕は正面玄関へと続くホールの入口にばかり気を取られていた。それは僕が数学が苦手なだけではなく、彼女を待っているからという理由の方が大きかった。

硬い絨毯の上に誰かの靴底が擦れる音が鈍く響いてくるたびに僕は顔を上げ、彼女ではないとわかると、また目を伏せて数式を追おうとなんとか苦心していた。

それでも僕は、少しずつ教科書に真剣に向き合うようになっていき、ホールで誰かが喋り合っていたりする雑音などが遠くなっていった。僕の興味は一つの複雑な数式に向かっていき、その美しさにのめり込んでいく。


数学については、いつも僕は、「本当にすごい人たちがこんなものを考えたんだなあ」と感嘆していた。

自分のような凡人には到底辿りつけもしないほどに、数学者たちは常に勉強と研究に明け暮れ、しかもそれを彼らは楽しんで、また、自分の使命とも捉えて日々を過ごしていたに違いない。

僕たちはその下でpやqについて悪戦苦闘したりするだけだけど、彼らは最前線で、発明のために新しい問題発見と解決に闘って、また新たな数式を創り出している。僕は、そんな学問の端っこに触れられることが嬉しいと思った。


「でも、やっぱりちょっと難しいな…」

僕がそう独り言を言った時、頭の上から嬉しそうにくくっと笑い声が聴こえて、「数学ですか?」と、美鈴さんの声が降ってきた。


慌てて顔を上げると彼女はいつの間にか僕の座るソファの前に立っていて、僕を驚かせたことを満足そうに笑っていた。

「美鈴さん、おはようございます」

「おはようございます」


僕は彼女を見て、昨日彼女とお付き合いを始めたこと、それから一晩中彼女のことを考えていたことを思い出して、急に頬が熱くなった。それから不思議なことに、今朝まであんなに恋情を思い詰めていたのに、彼女を前にすると、新鮮なときめきだけしか心に湧かなかった。


彼女はいつか僕と二人で出かけた時のように髪の毛を編み込んでいたけど、あの時とは違って今度はカチューシャのような形に片側で留められていて、髪留めにはサクランボの形の細工が付いていた。

彼女の服装は膝丈までのモスグリーンのワンピースだけで、何本も細い紐で足を覆うようなサンダルを履いて、鞄はいつものシックでシンプルな黒いトートバッグだった。

僕は彼女の素足に目がいってしまいそうになるのを堪えて、ちょっと顔を逸らす。


彼女は僕の隣に座ってバッグを膝に抱えた。本当にすぐ隣で、肩が触れ合うんじゃないかというくらいだった。それで彼女の髪からシャンプーか何かの綺麗な花の香りがして、僕は胸をドキドキさせてうろたえるばかりだった。

ちらと彼女の方を見ると、彼女も僕を見て何か言いたげな顔をしていた。

「この間と…髪型が、違いますね…」

僕が切れ切れながらも思い切ってそう言うと、彼女は編み込んだ髪に手を当てて、「変ですか?」と言った。

「いいえ!全然変じゃないです!あの…可愛い、です…」

最後はまた語尾が尻すぼみになってしまったけど、彼女は恥ずかしそうに顔を伏せて、頬を染めた。僕は緩やかに波打っている彼女の髪に触れてみたかったけど、ここは人目があるし、それにそんなに急なことをしたら彼女に嫌われてしまいそうで、見つめているだけだった。

「…実はこれ、昨日調べたんです。私、編み込みって一種類しか知らなくて、ちょっと頑張っちゃいました」

そう言って、褒めてほしそうな小さな子のように彼女がえへへと笑う。


ああ、可愛いなあ。胸が切なくなる。ぎゅっと抱きしめてしまいたいくらいだ。それができないのが歯がゆい。


「そうなんですね、すごく、お似合いです」

僕は、今彼女を抱きしめられないなら、せめて彼女が「頑張った」のは誰のためなのかどうしても聞きたかったのに、聞けなかった。




僕たちは「講義が全部終わったら図書館に集まろう」とだけ決めて、朝の一コマ目に向かった。


僕はその日の講義は、特に集中して受けられたように思う。講義の最中に、僕は何度も「彼女も今頑張っているんだ」と思って、改めて彼女の頭脳を追いかけることもしたけど、それだけじゃなかった。



昨日までの僕にとって、「努力を続けること」を支える理由になっていたのは、「自分を高めたいから」というだけで、それは孤独な闘いだった。美鈴さんと勉強会をしていても、やっぱりそこで培った力は、僕一人のために使われていた。


でも、昨晩醸造した自分の愛情が、今朝になって彼女から感じたときめきに後押しされ、「彼女が居てくれるんだ」という大きな希望の輪郭で僕の心を包んだ。そしてそれは、前に自分で自分を支えていたものより、桁外れの力を生み出させたのだ。


まるで受験期のように必死でかじりついた一限目の数学はいつもより理解が進んで、教授の話の大筋くらいなら理解することができたし、得意とする西洋史と英語講読も、いつもより深くまで読み込んで手にできた気がした。


頭の裏っかわでは、美鈴さんと放課後に図書館で過ごすことに向かっていたかもしれないけど、僕はその日の講義で吸収できるものに全力を費やして、それでも溢れて来るエネルギーに、自分でも驚いたまま、五講目までを終えた。





その日は、彼女は六講目まで授業を受けることになっていたので、僕は学生ホールにある自販機でペットボトルのお茶を二本買ってから、図書館へ向かった。

図書館の窓辺は陽が差すと少し暑くなる季節で、ペットボトルは汗をかいているように、周囲の水分を結露させている。僕は片腕と一緒に頭を机にもたせかけて、首をねじってお茶のペットボトルを眺めていた。


「少し意外だったな」、と考えながら。


何が意外かというと、「僕が勉強を忘れなかったこと」だ。実を言うと、僕はそれが少し怖かったのだ。


昨日夜っぴて彼女のことだけを考えて勉強もせず、食事も摂らずに、水も飲まなかったことを考えると、今朝の気分では「こんなことで授業に集中できるだろうか?」と不安だった。僕はそれを心の裏側に隠して、自分でも見ないようにしていた。考えてしまったら、本当にそうなる気がして。

もし僕がそんなふうになるまで彼女への愛だけになってしまえば、美鈴さんは悲しむだろうし、僕から離れていくことを考えるに違いないと思った。それもあって、僕はその不安から目を逸らした。

でも、今朝彼女が「もう行きましょう。馨さんも授業頑張ってね」と僕を送り出してくれた時、そんなものはいっぺんで消し飛んでしまって、僕は今まで以上に頑張れることを実感していた。



僕の勉強や生活に対する努力は、僕だけのためではなくなった。それは自分が彼女に見合う人間でありたい、彼女の期待に応えたいという理由もあったけど、そもそもの「僕が生きる理由」、それ自体がすでに彼女に手渡されていて、僕はそれを彼女に預かってもらっているから、その分を返すために張り切って生きている、そんな気分だった。



「君がいるから頑張れる」って、こういうことか。僕は伝え聞いただけの恋模様が自分にも当てはまっていて、「みんなそんな気持ちで恋をするのかな」と、恋する誰かの気持ちが少しわかった。



それから、昨晩は熱して追い詰められていくばかりだった僕の気持ちは、明るい光の下で彼女とまた出会うことで新しい地平を得て、自分が袋小路に持ち込んでいじくっていたものよりもそれは遥かに大きく、温かで、安心した。


温かい水が、僕の胸を満たしている。


そんな気持ちで、ペットボトルに付いた水の粒が次第に周りの粒を巻き込んで流れ落ちていくのを、ぼーっと見ていた。



「お疲れ様です」

そんな声が降ってきて、僕はまた慌てて起き上がって振り返る。美鈴さんが僕の椅子の隣に立っていた。

「み、美鈴さん!お疲れ様です!」

僕は今朝みたいにうろたえてしまって、思わず大声で返事をした。それを見て彼女はくすくす笑ってから、「図書館の中では、静かにしないとダメですよ」と、僕を優しく諭す。

彼女は僕を甘やかすように微笑んで、僕の隣に座ってテキストやペンケースを取り出し、早速勉強の支度を整えた。

「す、すみません…あ、それと美鈴さん、これ、お茶が二本あるので、一本、どうぞ…」

僕は何気なく彼女の前にお茶のペットボトルを差し出す。すると彼女は、急に顔を真っ赤にしてそろそろと両手を持ち上げ、なかなか受け取らなかった。図書館の床に、ペットボトルから雫が落ちる。

「…あ、ありがとうございます…」

やっと彼女は蚊の鳴くような声でお礼を言って、お茶を受け取ってくれた。

「初めて、馨さんからもらいものしちゃった」

そう言って嬉しそうに彼女は微笑んで、すぐさまペットボトルの口を開け、一口、二口と飲み始める。それから、もじもじしながら次に言うことを考えているようだった。

「…えっと…じゃあ、勉強会ですね。今日の数学はどうでしたか?」

そう言っていながらも、彼女の目は僕が手渡したお茶からなかなか離れない。

それで僕は、「緊張しちゃったり、どうしたらいいかわからなくなるのは、僕だけじゃないんだな」と思う。

美鈴さんは真っ赤な頬が自然と上がってしまうのか、にこにことしてしまうのを堪えようとしていた。僕は、そんな可愛らしい美鈴さんを、テーブルに肘をついてちょっと眺めていた。

「やっぱり、可愛いです。美鈴さんは」

そう言うと、僕は自分の言ったことに顔が熱くなるのを感じたけど、びくっとして顔を上げた美鈴さんが、何かを言いたそうにしているのに、何も言えなくなってうつむいてしまうまで、そのまま見つめていた。


どうやら彼女は、普段は平然としていられるけど、いざ僕から何かを言われたりすると、あっという間に緊張しちゃうみたいだ。そんなところも可愛いけど、あんまりそう言い続けていると、なんだか美鈴さんに怒られそうな気がした。


「ありがとうございます…」


しばらくして聴こえてきた小さな声は、喜びを抑え込もうとしているように微かに震えていて、彼女の涼やかな可愛らしい声でそんな頼りない囁きをされたから、僕は次の一言に移るのがちょっと惜しいなと思った。


「…今日の数学は、いつもより頑張っちゃいました。でも、わからないところが二つだけあって…」

「そ、そうですか…どこですか?」



話が勉強のことに切り替わると、僕たちは元々友人同士だった頃からの目的を思い出したように頭を切り替え、質問と回答を繰り返しながら議論をして、美鈴さんの勉強も始めて、互いの力になろうと必死で努力した。





あっという間に陽が暮れてしまって、僕たちはもう帰ろうかという話をして、図書館を出る。


学内の奥まった場所にある図書館を離れて、地下鉄の駅が近い方の学校の門を目指した。

僕たちは灯りが消えて生徒も居ない講義室の間をすり抜け、学食の脇を通って、人通りの少ない廊下に差し掛かる。その時、美鈴さんが立ち止まった。

「どうしました?」

僕がそう聞くと、美鈴さんは頬を染めてちょっとうつむいた。


少し暗い廊下に立った美鈴さんの輪郭はぼやけていたけど、伏せられたまつ毛の影は濃く、ワンピースの淡くくすんだ緑色は暗い中で濃くなり、その分、彼女の白い肌を強調する。そんな彼女の頬は、灯りの乏しい中でも分かるほど、赤い。


僕の胸は、それで何かを期待して高鳴る。



「…次のデートの約束、しませんか?」



そう言ってすぐにまた彼女はうつむき、恥ずかしさをごまかすように鞄の内ポケットからスマートフォンを取り出した。

「…は、はい!えっと…」

僕は「デート」と聞いて耳まで熱くなるのを感じ、どうしようどうしようと途方に暮れながらも、自分も慌ててスマートフォンを鞄から取り出す。


僕たちは向い合せに廊下で立ちっぱなしになって、彼女は僕に話を切り出して欲しそうだったし、僕はどう言えばいいのかわからなかった。


「えっと…どこがいいですか?」

僕はやっとのことでそう言いながら、遊園地、映画館、レストラン、カフェ、公園、美術館、博物館…と、よく聞く「デートにうってつけらしい場所」を思い浮かべながらも、どれが彼女に喜んでもらえる場所かわからなかった。

彼女はちょっとの間黙っていたけど、そのうちに彼女の表情はだんだんと悲しげになっていった。僕はそれを見て、自分の言葉のせいではと、少し動揺する。

「私…デートってどこに行くのかよくわからなくて…家でずっと勉強ばかりしていたものですから…馨さんは、どこに行きたいですか…?」


美鈴さんがそう言って僕に向けた目は申し訳なさそうだったけど、僕はすぐに彼女を安心させてあげられると思って、勇気がついた。だって、それは僕も同じだ。


「…僕も、デートってよくわかりません。美鈴さんと同じ毎日でしたから。友だちと遊んだりもしないで、勉強勉強の毎日でした。心配することはありませんよ。一緒に探していきましょう」

僕がそう言うと、彼女は明るい両目の光を取り戻してくれた。

「じゃあ、その…お食事のあとに、大きな図書館に行ってみるというのはどうでしょう?」

「いいですね。いつにしますか?」



僕たちは、その週末の土曜日に、図書館に行く約束をした。食事はどうしようかという話になったけど、僕はあえて、「それはその日の美鈴さんにお任せします」と言って、僕たちは地下鉄の駅で上りと下りに別れた。







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