みすぼらしい聖書

文字数 1,197文字

初めて自分の聖書を手にしたのは小学校高学年だったと思う。日曜学校の皆勤賞で頂いたものだったと記憶する。ミッション系の高校に進学した際に購買部で初めてコウバイブルした。いつもカバンの底に入れてあり歪み変形していた。授業の他では開かれることがなかった。歪みこそすれきれいなものだった。
親の聖書はくたびれていた、なんだかいろんなものが挟まって分厚くなり表紙も擦り切れ手あかで汚れていた。どうしたら本があのようになるのか不思議だった。
神学を少しかじり学んだ、教会や日曜学校で知っていた聖書じゃないような気がした。
驚きの事実が聖書から離れる原因になり、やがて教会からも離れるようになった。
神学と信仰とは違うのか、違わないのかそんな思いを持ちながらどんどん聖書から離れることになった。
父親が病床の中「詩編を読みなさい」それが自分にとって親父の遺言となった。数年経ち
何を思ったのか詩編を読んだ。
そこに「自分」がいた。罪に苦しむ自分がいた。
ある老牧師が「聖書通読」を勧めてくれた。親父の遺言を受け入れるには凡そ5年かかったが、老牧師の勧めはすんなりと受け入れられた。「立ち止まらない、毎日読み続ける」ことがアドバイスだった。今年5回目の通読を終えた。
聖書の中には「自分」がいたるところにいた。ヨブ記、ヨナ書の中にも
イエス様のたとえ「放蕩息子」の中にも。
面白いことに、最初に「放蕩息子」に触れた際、自分は「弟」であった。最近読むと
「兄」であった。自分自身が成長したのか、後退したのかわからない、しかし自分自身の立ち位置が変化していることに気づかされた。
 聖書通読を始めた際、自分が「荒野」にいるような気がしてならなかった。
イエス様が試みに合われた「荒野」ではなく、讃美歌「荒野の果てに」の「荒野」
荒野の果てに夕日が落ちて♪遠い地平線まで広がり夕日と共に暗闇が始まるそのような気持ちが心の奥底にあった。幾度も聖書を読み返していると66巻の様々なテーマで記されている聖書がただ一つのことを伝えていることを知った。
「神様がわたしと共におられる」。もう少し言い換えるならば「神様は私と共に歩もうと呼びかけてくださっている」。エデンの園がどこにありどのような場所であったのか、それは今もわからない、どこかで考古学的に発見されたらと興味は尽きない。それ以上に今、今日もまた神様が自分と共にいてくださること、そして自分自身が神様ととともに歩みたいと願えることが何よりも嬉しくまた楽しい。
不思議と困難にあった際、車の助手席に置いてある聖書が開かれる、手に取るとその時々に必要なことが書いてある。それはただ書いている文字ではなく神様が私に語りかけているとしか思えない、聖書が「生きた神様の言葉」であることを実感します。
今自分の聖書を見るといろんなものが挟まれて擦り切れて手垢で汚れていてみすぼらしい。でもなんだか成長した気がする。
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