第16話 アリサの過去の中の語り部の過去

文字数 6,524文字

ぬわんぬわんぬわんぬわーん 

ぬ? 何だそれはですって? 
その秘密は各自で解明してください。



夏の終わり。
日の入りも早くなり、涼しくなって来た
とある夕方頃の話である。
ベッドの上で、日課の語り練習をしていた時の事

「ありんこあかいなあいうえお9998回
ありんこあかいなあいうえお9999回
ありんこあかいなあいうえお10000回
ありんこあかいなあいうえぽ・・ぬうう
区切りでは噛んでしまうか・・
1万の壁を破れぬ・・ヌふう ヌふう
ぬ、もう一度である! ありんこあかいなあいうえお
ありんこあかいなあいうえお2回
ぬぐっ、ごほっごほっ」

しかし、喉を使いすぎた私は
赤い液体と共に、咳をしてしまう。

「今日はここまでにするか。喉が限界かも知れぬ
明日のバイトの弁当の準備もせねばな・・」

チョロチョロリン

「む?」

夢中になっていたせいもあり
いつの間にか我が左腕の上を歩いている
子ゴキブリが、肩の方向を
目指し向かっているのを発見したのだ。

 まあ鋼のメンタルを有する私にとって
心揺らぐ出来事ではなかったのだが。
それもその筈
その当時の私には怖いものなど一つも無かった。
自分だけを信じて、才能も実力も十分と確信し
そう遠くは無く、難なく手に届くと思っていた
だが、今になってもまだ追い求めている
目的に向かって邁進していた時期の話。

まだ世間を知らず、完璧だと思い込んでいた時の話。
ただそんな完璧と思い込んでいた当時でも
一つだけ弱点があった。

そう、この子虫の成虫がもし腕に落ちてきたら
流石の私でもベッドから転げ落ちてしまう。
だが相手はまだ幼虫。

「ぬ? なんだ・・まあこやつなら・・」

そう言いつつ、近くにあったティッシュを取り
その子ゴキブリに右手を伸ばす。
その瞬間に、事件は起こったのだ。

皆さんもこんな短期間の間に
起こる事件など無いんじゃないか? と思うであろう。

しかし

私の人生を左右する様な事件が起こってしまった・・

なんと、逃げ出すと思ったそやつは
両手を私の顔に向け伸ばし
何かをおねだりしている様な仕草をしたのだ。
命を狙われているその瞬間に・・
しかし、その姿を見たのも一瞬。
ブレーキをかける事も出来ずにその子を潰した・・

そして

(馬鹿な奴め。逃げもせずに止まって
手を上げたりするから潰されるのだ)

と思っていた・・しかし・・その後よく考えたら
ある仮説が浮かんできた。

それは

まだ生まれたばかりで、自分が
人間から拒絶される存在とも知らない純粋で無垢な子供。
初めて見る私を敵と看做《みな》せずに私の腕に上ってきたのは

もしかしたら・・もしかしたら!!

「おにいちゃん、あそぼうよ」


無欲恬淡《むよくてんたん》に私と遊びたいとおねだりして来た
ただそれだけなのかも知れない・・

そんなまさか? と思う方もいるであろうが
どういう訳か私は確信してしまったのだ。
そして、それを知ってしまった私は

「なんて事を私はしてしまったのだ
・・馬鹿なのは・・私だ・・」

プルプル・・プルプル・・
そんな子供を躊躇いもなく潰した事を激しく後悔した。
そう、手を上げ遊んでほしいというこの子の気持ちを
その短い時間の間で読み取り、
殺意に満ちた右手を止める事が出来たなら
この無邪気な子ゴキブリの命を取らずに済んだのに・・
自分の頭の回転の遅さに悲憤慷慨《ひふんこうがい》し
自らの手で、その短い生涯を終わらせてしまった事を

考え涙したのだ。

そう、人間がゴキブリを潰した後
後悔して泣いてしまったのだ。

 男が泣いていいのは、親が死んだ時。
と誰かが言っていた。
しかし、生まれた時にも泣いているし
少年時代にも色々あり幾度も涙を流してきた。

 そして、その度に私は一皮剥け
一歩ずつ成長して出来たと思っている。

その私が、虫に向けて涙する事になるとは
夢にも思わなかった。
こんな事をする人類は私が初かもしれない。

ぬ? おにいちゃんではなく
おじいちゃんの間違いではないかであると?
・・・せめておじちゃんにしてくれないか? 

しかし

思い出話に美化や脚色は切っても切れない物である。
多少の美化脚色は目を瞑ってほしい。

ただ、後悔し涙した時。私は
完全に心だけは少年のそれになっていたと思う。



 私は、どちらかというと感受性が
普通の語り部よりも高い語り部なのかもしれない。
ありもしない幻想を見ているだけなのかもしれない。
ただ向かってくる右腕に威嚇の意味をこめ
両手を上げただけかもしれない。
それでも・・その瞬間私は感じたのだ。
何せその子には
敵意という物が一切感じられなかったのだから・・

 語り部にとって感受性など全く必要の無い物。
物語の状況を如何に正確に、そして、円滑に進める為に
順序良くしっかりとした道筋を立てて語る。
その為に感情を殺し、論理的思考で語れないといけない。

殺人が今正に起ころうとしている現場も感受性が高いと
こうなってしまうかも知れない。

「ああ! ナイフを持った犯人が
後ろから迫ってますぅ
あああっ女性の首元に勢いよく
・・ブオォ!! キャー怖いですー
血がいっぱーい出てますぅ
誰か語り部代わってーもうヤダよー(TmT)
こんな怖いのーあたし帰るー」

などと狂乱して語ってしまったら・・

想像するだけで恐ろしい・・

 リアクションに目が行ってしまい
物語に集中など出来ないばかりか
心霊スポットの状況を語る時や
殺人現場の状況を語る度に惨めな様を晒す事になる。
冷静に今起こっている事だけを的確に伝える事が
求められる職業。それが語り部なのだ。

先程の語り部の伝えた情報量を見てほしい
奴が喋った文字数は大体100文字位である
それなのにナイフを持っている犯人が、
女の頚動脈を切り
血が噴出した事だけしか伝わってこない。
だが、同じ状況を論理的語り部が語れば
同じ100文字でもこうなる

「暗い夜道、赤いコートを羽織った女性が
一人歩いている。
その後ろからナイフを持った男の影が・・!
足早に近寄り、勢いよく頚動脈に向けて振り下ろす
一瞬の出来事。断末魔も上げる遑いとまも無く
辺りに夥おびただしい量の血の海が・・」

と、この様により多くの情報を詰め込む事が出来る。

ミステリーには感情的に語る事の需要は無い。
そして、奴の言葉の大半は感嘆詞。
きゃあとかひいいとか大声を上げるだけ
これなら100文字程度を埋める事など簡単っしょ
む! 我ながら芸術的な洒落を思いついてしまった様だ
忘れぬうちに・・メモランダムメモランダム。

と、この様により多くの情報を詰め込む事が出来る。
ミステリーには感情的に語る事の需要は無い。

先程の感情的な語り部は、ゲームの実況プレイには
適しているかもしれない。皆が知っているゲームを
その感受性の高い語り部が初見でやるとする。
視聴者は既にクリア済である場合が多い。
ストーリーに大きな変化が起こる場面に遭遇し
そこに初見の語り部が
オーバーリアクションをしてくれよう物なら
自分が作ったゲームでもないのに

「やった! うまいこと引っ掛かった」

と視聴者はまるで自分が仕掛けた罠に
まんまと引っかかってくれたと錯覚し、喜んでくれるだろう。
かく言う私もそういった経験があり
その瞬間、ある種の快感を味わう事が出来
その純粋な実況者を好きになった。

この場合、論理的な語り部が
冷静にノーリアクションで実況しても
恐らく盛り下がるであろう。
最悪ブラウザバックもありえる。

 そう、どちらのタイプにも適材適所があるのだ。
もしかしたら私はここでの語り部失格なのかもしれない。
もしも次回、別の語り部に変わって
ゲーム実況に飛ばされた時の事も考え
今の内にお別れを言っておこう。今まで世話になった。
次の語り部によろしく伝えておいてほしい。

・・だが・・

こんな語り部が一人位いても許してくれないだろうか?
そして時々、そう、2日に一度位でも良い。

こんな

『馬鹿たりべ』

がいたなと言う事を思い出してほしい・・

そして私は、それからと言うもの
子ゴキブリを見つけたらうまい事
空のマッチ箱などに誘導し、それを玄関まで持っていき
外に逃がすと言う面倒な事をする様になってしまった。

「もう帰ってくるなよ?」

まるで刑期を終えシャバに戻っていく元囚人に
看守が最後に掛ける言葉をいい渡し送り出す。
絶対に戻ってくるなよ? いいか? 
フリじゃないからな?・・と言い送り出す。

だが、野に放ったそいつはいずれ成長し
おぞましい成虫になり、行く先々の人に恐怖を与える。
又は帰省本能あり、再び私の所に鶴の恩返しの様に
戻ってくるかもしれない
更に言えば繁殖して倍返しで戻ってくるやも知れない。

そして

「あの時は私を見逃してくれてありがとう」

と言われても、成虫になって戻って来た時には
躊躇いなく殺虫スプレーを浴びせる事が出来るのだから。

私は、人類に迷惑が掛かる事を
現在進行形してしまっているのだ。
子供の内に潰しておけばいいのに
と言われても私には出来ない。

だが

『それでも私は潰さない』

と言うタイトルで一本小説を出し
文壇を震撼させる内容でデビューしてもいいが
今回は気楽な雇われ語り部のままで行こうと思う。

 皆さんは

そんな馬鹿な事を語っている私を蔑むだろうか?
それとも共感してくれる
マイノリティーはいるのだろうか?

今まで何が言いたかったのかというと
私は、小さい時は潰せず
大人になったらあのグロさのゴキブリが
大嫌いという事が言いたかったのだ。
どうせ来週には別部署に飛ばされるであろうから
言いたい事を言わせて頂いた。

しかし・・ほんの少しだけ
長くなってしまった様だな。そろそろ話を戻そう。

んーわぬんわぬんわぬんわぬ

ぬ? 何だそれはですって?
しりません

 しかし、一直線に向かってくるゴキブリを前に
アリサは怯まずに
もう一拳分伸ばせば届く殺虫剤をサッと取り
ターゲットへと向ける。自称正義の味方のアリサが
家の平和を乱す生き物を許す訳もない。

(この家は私が守る)

心の中でそんな事を言い聞かせていたのだろうか?
一人しかいない。
その逆境が、まだ年場も行かない幼女を女戦士に
否。女勇者へと進化させたのだ!

一方ゴキブリも只者ではなかった。
戦国時代。一手一手が必殺の。刀が、銃が
人の命を奪っていく時代。そんな時代で今正に
命を落とそうとしている一人の武士の目力、眼力。
本能寺の変で、火を放たれ
最後の戦の覚悟を決める信長。正に背水の陣。
その男ゴキブリはその覚悟を見せたのだ!
スプレーには猛毒が入っている。
その事は、彼も本能的に知っている筈!!
だが進路は一切変わらず。
それどころか更に加速する!

その鬼気迫る表情を見て
彼の決死の覚悟を感じ取るアリサ。しかし
それでも飛び掛ってくるゴキブリに身じろぎせず
最善の礼節を尽くす。

「フッ、あんたとは別の世界線では
お友達になっていたかもしれないわね?
ありがとう。そして・・」

     <覚> <悟>

キッ(目つきが鋭くなる音)

「・・さようなら・・!!」

『ありがとう』

彼女はこう言った。
これは一体どういう意味なのだろうか?
それは平凡な夏休みに刺激を与えてくれた
ゴキブリへのお礼の意味だったのだろうか? 
それとも、全力で自分に向き合ってくれた覚悟への
お礼なのだろうか? 今となっては誰も分からない。

そして・・・発射!! プシュウウウウウウウ。

鋼鉄の缶から吹き出るその煙は
正確に彼の体を包み込んだ。
・・彼は初めて受けるその煙に戸惑いつつも
進路を変えず進んでくる。生身での体当たりに対して
科学の力を出し惜しみせずに使うアリサ。
ゴキブリに言わせれば、卑怯だろ! 素手で戦え!! 
と言われそうではある。

だが卑怯と言われようが関係ない。
何故なら、時代は戦国時代ではなく令和。
今はゴキブリにトラウマを持つ者達が
何代にも渡り試行錯誤を繰り返し
必死にそいつらを撃退する為だけに考え抜いた
魔法の薬があるのだ。
そして、これは相手から仕掛けてきた真剣勝負。
その割りには何も用意せず原始的な体当たりという
手段を選択してきた直情径行な彼の方が悪いのだ。

「フッ・・終わった! やっぱり
かがくのちからってすげー」

そしてアリサは目を閉じ
唇の端を釣り上げ、勝利の余韻に浸る。
しかし、まだ終わってはいなかったのだ。
ゴキブリは、アリサから飛散される
謎の成分に意識を失いかける。

真一文字に結んでいた唇はだらしなく開き
羽ばたいていた羽は止まる
それでも彼の勢いは急には止まらない。
彼が羽ばたいたエネルギーは未だに残り
アリサの顔面を目指していた道筋より少し弱く
それでもまだアリサへと向かう。

 その時、アリサは右腕を前に出し
斜め45度でスプレーを構えたまま
勝利の余韻に浸っている。完全に油断しているのだ。
そして、少し開いている
自分のパジャマの胸の右側のポケットに
流石のアリサも気付けなかったのだ。

1 ゴキブリの飛行速度の低下。

2 アリサが勝利を確信して目を閉じている事。

3 開いてしまったパジャマの右ポケット。

これらの3要素が全て重なり合い
アリサ史史上最悪のシナリオが始まってしまう。

「ヒュポッ♪」

軽快な音だ、一体何の音だろうか? 
ファミマコンピューターソフトの 
スウパアマリアシスターズに登場する
ワリボーやナカナカを踏んだ時に響く音に似ている。
勘の良い方ならば気付いてしまったであろう。

「!?」

右胸に、何かの塊が軽く当たる衝撃。
なんと! アリサのパジャマの右ポケットの中に
それは入り込む・・! そして・・!!

「じたばた♪ じたばた♪」

そして、意識は無くても

奴は最後の力を振り絞り暴れ回る。
モケットポンスターというゲームに登場する
モケポン達の使うの技の一つに
じたばたという技がある。
体力が低い時に使うと大ダメージを与えられる技なのだ。
そう、今正に瀕死の状態で使用している
ゴキブリのじたばたはアリサの胸ポケットに
最大ダメージを叩き出している!!

「何これ? え? ま、まさか??」

アリサは、胸のポケットの中で大暴れする者が
ゴキブリであるという事実を知ってしまい・・

「☆@〇$㊥Ж?ぴぎゃああああああ」

慌ててパジャマを脱ぎ捨て、上半身裸でトイレに隠れ
ママを呼び何とか助かった訳だ。

例え小さな虫でも、相手を見て、自分なら勝てると
本能的に思うと
何時もなら逃げ回っている小さな存在でも
普段行わない様な事をして来る。
そう、アリサは隆之につけられた時
あの出来事を思い出したのだ。
まるでゴキブリに飛び掛られる様な
不快感を巻き○そ型の人間から感じたのだ。

因みに、その後パジャマは
ゴキブリが入ったまま庭で火葬された。
アリサは泣き叫んだ。

「オー。マイフェイバリッツパジャメスト!!」

『お気に入りのパジャマが』と言う意味らしい。

そして燃え行くパジャマを見て

泣きながらドナドナの替え歌で鎮魂歌を歌うアリサ。

♪メラメラメーラーメーラー ゴキブリのーせーてー 
ひっぐぃ

メラメラメーラーメーラー パジャマが燃ーえーる♪ 
ひっぐぅ

この出来事は、アリサの中で
右ポケットの怪と言う名で語り継がれるのであった。
えっ? 勿体無い? 
何で洗って再利用しないんだ。だと? 貴公正気か?

ンーワホンワホンワホンワホ

え? なんだそれはですって? わかりません。
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