第2話 ハエトリグモはサザンカと語らう

文字数 2,565文字

 翌朝チズはカタシのもとへ行くか迷った。カタシとの短い会話を思い出すだけで、体が硬直しそうになった。昼前まで迷った末に、チズは思いきって行ってみることにした。
 梁伝いに和室に入るとカタシは同じ座卓の上にたたずんでいた。ひとつ違いがあるとするなら、チズには昨日よりも美しく見えたことくらいであった。
 チズがそろそろと座卓へ下りると、カタシはあの甘い声で喜んだ。
「また来てくれたのね。嬉しいわ。実はちょっと疑ってたの、もう来てくれないんじゃないかって」
 またむずがゆい心地になりながら、チズは昨日よりは大きな声で答えた。
「待ってると、おっしゃったので、うかがいました」
 カタシは律儀なのねところころと笑った。そんな姿を見るだけでチズは不思議な甘い気持ちになる。
(どうして彼女はちょっとしか話したことのない、こんな自分をこんなにも歓迎してくれるのだろう。いてもいなくても問題のない、こんな自分に優しいのだろう)
 チズの卑屈さが頭をもたげる。けれども笑うカタシから目を離せずにいると、ふとカタシが首を傾げた。
「なあに、あたしをじっと見て。何か変だった?」
 チズはしまったと思った。不思議そうにこちらを見つめてくるカタシに、チズは八個の目を少しの間泳がせた。やがて意を決し、カタシに尋ねた。
「どうして喜んでくれるのかなと思って……」
 カタシは余計に不思議そうな顔をした。
「どうしてって、楽しみだったからよ」
 チズはどきりとして「楽しみ?」と聞き返した。
「昨日はあんまりお話しできなかったし、今日はどんなことを話そうかしらってわくわくしながら待ってたの。それに――」
 カタシはいったん言葉を切ると、一輪挿しから身を乗り出した。
「あたし、あなたに興味があるわ」
「興味というと……」
「興味は興味よ。実はあたし、クモってよく知らないの。どんな生き物なのか、どうやって生きてるのか、わからないことだらけなの。チズさんからクモの話を聞いて、どんなものか知りたいわ。もちろん、あなた自身についてもね」
 それを聞いてチズは納得した反面、少し残念にも思った。けれどもぎこちなく笑みを作って「それならお役に立てそうです」とだけ答えた。
 それからチズはカタシに求められるままクモの生活を聞かせた。
 チズの仲間は獲物に直接飛び掛かって狩りをするが、糸で網を作って獲物が掛かるのをひたすら待つチリグモのような一族もいる。どちらも獲物にしている一族には恨まれているが、生きるためには仕方ないから皆割り切っている。冬をチズの仲間たちは木の皮の裏側に潜り込んだりして乗り越えるが、網を張る一族の大人は越えられずに死に絶える。けれども卵は残っていて、網を張る一族自体は滅ばない。
 ぽつりぽつりとそんなことを語りながら、チズはカタシが楽しんでいるかちらちらと様子をうかがった。だがチズの心配に反し、カタシは熱心な様子でうなずき、時に感嘆の声を漏らした。
「そう。クモって大変なのね。すごいわ」
「すごいなんて、なにも……僕らは、そういう風にしか生きられないので……」
「そんなことない。あたしだったらくじけてしまいそう。あたしは水を飲むけど、その度に水から恨まれてたら、だんだん飲みたくなくなっちゃう。チズさんたちは強いのね」
 感心したようなカタシの言い方に、チズはほっとしながらも驚いた。生きていることをすごいと誉められるとは思ってもみなかった。まともに植物と会話をしたことがなかったので、チズはカタシの発想に面食らってしまう。
 カタシはひとしきりチズに質問すると、自分のことについて話し始めた。
 カタシは元々庭に植えられたサザンカの老木の一部だった。庭でのカタシは枝を通して水を吸い、太陽を浴びて、ぼんやりと枝で咲いているだけだったという。自分というものを強く感じるようになったのは、昨日摘まれてかららしい。
「奥さんがあたしを木から摘んでくれたの、しゃきしゃき音のする道具でね。ちょっと痛かったわ。でも頭がはっきりしたし、摘まれて良かったって思うの。それに奥さんっていい人よ。水を毎日変えてくれるし、あたしのこと、よく撫でてくれるのよ」
「……あんな大きな手で撫でられて、怖くないんですか」
「ちっとも。だって奥さん優しいもの。チズさんも機会があったら撫でてもらうといいわ。あたしの気持ちが分かるはずよ」
 カタシはにこやかに言った。チズたちクモに対して人間がそんな優しさを見せるとは思えないが、チズはその笑顔に曖昧な笑みを返すに留めた。
 他にもチズとカタシは色々なことを話し合い、ひとしきり話し終わると、また明日も会う約束を交わして別れた。次の日も、その次の日も、ふたりは明日の約束を交わし続けた。
 チズはカタシと話すと、鮮やかに世界が変わっていくのを感じていた。ハエトリグモの世界しか知らなかったチズには、植物であるカタシの視点や価値は新鮮だった。カタシはどうか分からないが、自分と約束を交わし続けてくれることが、チズにはなによりの救いだった。
 そんな日が一日また一日と過ぎ、彼女と出会ってから7日目の朝、チズはカタシの足元に花びらがひとひら落ちていることに気が付いた。
「カタシさん、花びらが」
 チズが呆然と言うと、カタシは今まで聞いたこともない静かな声で言った。
「あたし、もう散るみたい」
 チズは頭を石に打ち付けたような衝撃を受け、体中の血の気がすうっと引くのを感じた。カタシはなおも続けた。
「なんとなくそろそろだと思ってた、あたしたち花は、いつかは散るものだから」
 カタシは淡々と、けれどもどこか悲しそうに言った。
 その様子にチズはふつりふつりと怒りを覚えた。何故かは自分でも分からない。だが無視出来ない程その怒りは強かった。
 チズはカタシを見上げて言った。
「君は決して散りません。僕が君を助けます」
 チズはそう言うと、落ちた花びらに糸を絡めて自分にしっかりと結び、一輪挿しをはい上がった。そして、その花びらをもとあった場所に二度と落ちないように結びつけた。チズは座卓へ下りてカタシを見上げた。カタシの花びらは最初から落ちてなどいなかったように自然にとまっていた。
「君の花びらは僕が元に戻します。だから、安心してください」
 チズがそう言ってもカタシは寂しそうに笑うだけだった。
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