第九話 心臓を止めたくなるほどの陶酔

文字数 1,334文字

「ちょっと」
 凜々しかった顔が崩れ時雨さんがどん引きしている、その顔は汚物を見るかのよう。まあ、目の前で好きでも無い男がいきなりお馬さんの格好をして践んでくれと言ったら、Sの女王様でも無い限り引くのも分かるが、今はそんな場合じゃ無い。
「君ってそういう性癖の人?」
「違う。俺を土台にして旋律を舞うんだ」
「あっそういう」
 時雨さんの汚物を見るような目が少し和らいだ。
「でも」
 俺を踏みたくないのか触れたくないのか、まだ躊躇いがあるようだ。
「俺への生理的嫌悪は捨てろっ。もう直ぐ土台にすら成れなくなるぞ」
 手をついた俺の腹にまで水かさは上がってきている。もう時間が無い、俺は真剣な目で時雨さんの目と合わせる。
 時雨さんの目から嫌悪が剥がれ落ちていき、元の凜々しい澄んだ目になる。
「ごめん」
 俺の覚悟が伝わったのか、声がしたときには俺の背にむにゅっと柔らかい感触が乗った。どうやら時雨さん遠慮して靴は脱いでくれたようだ。
「耐えてね」
 俺の背中が滑らかにリズミカルに踏まれ、滑らかに摩られる。時雨さんが旋律を舞いだしたようだ。その姿を見れないのが残念だが、柔らかい感触と小気味いいリズムが背中で触れられるのも悪くない。
最もそれを堪能する余裕は余裕は直ぐに無くなった。上から来る水の手は時雨さんが舞いながら払ってくれているようだが、水面下から伸び上がって俺の首を絞めたり口を塞ごうとする水の手は俺自身が払うしか無い。
時雨さんが羽毛のように軽いといってもそれは例えで、やはり少女一人をましてや動いているのを背中で支え続けるのは、それなりに力がいる。だがこのまま窒息してしまうわけにもいかない、少々きついが俺は片手で体を支えることにした。
「ぐっ重い」
 片手になった途端加重がぐっと感じられる。心なしか言葉を漏らした瞬間背中を強く踏まれた気もしたが、俺は自由になった片手で必死に水の手を砕いていく。
 顔に幾度無く水を掛けられ、呼吸もままならないままに片手を必死に振り、時雨さんを支え続ける。体の温度がどんどん奪われ思考が回らなくなり時の経緯を感じられなくなった頃、時雨さんの動きが止まり足が俺の背中一点を押す。
「雪月流 風凍る夜」
 美しい旋律を響かせ小太刀が旋回する。
パリンッ、時雨さんに襲いかかる水の手が全て砕け散った。砕け散った水滴は細かい氷砕となって床に落ちる前に消えていった。
「ユガミはボクが何とかするから、果無さん他の人を助けてあげて。
はっ」
 時雨さんが俺に他の人のことを頼むと背中が軽くなった。軽くなって立ち上がれば、水の上を水鳥の如く軽やかに滑り走って行く時雨さんが見えた。
 時雨さんを脅威と認識したのか、無差別に襲っていた水の手が時雨さん向かって一斉に襲いかかった。
 時雨さんが水上を走りながら左手を振って小太刀を共振させれば、小太刀は澄んで堅い音色を発して振るわれる。水の手は氷り砕け氷砕となって粉雪の如く光を弾いて時雨さんを彩る。
美しい。これが俺が心奪われた光景。人間は嫌いでも時雨さんには惹かれる理由。ずっと見ていたい。このまま時が止まるか、心臓が止まってこの光景を抱えて俺の時が止まってしまえばいいのに。
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