五 モモ

文字数 4,345文字

 静香は、十年前の五月のことを思い出していた。
 その子猫のことを知らせてくれたのは、息子の翔太だった。反抗期も過ぎ、中学生になってからはぶっきらぼうな物言いをするのが大人だとでも思っているのか、静香にはあまり自分のことを話さなくなってきていた。でも、もともと優しいところのある男の子だった。その時も、冷蔵庫を開けながらこう言った。
「そこの公園でさ、子猫がミャーミャー泣いていたから、牛乳飲ませてくる」
「だめだめ、猫がなついてもマンションじゃ飼えないでしょ。かえってかわいそうだから」
「でもすっげえ小さいだぜ。あれじゃ、死んじゃうよ」
「ショウちゃんが面倒みなかったら、誰かが拾ってくれるかもしれないけど、飼えないのに下手にかまってたら、誰も拾ってくれなくなるでしょ。だから見るだけにして」
それでも翔太は口を尖らせて「牛乳ぐらい……」と言って出て行った。すねているのか、怒っているのか、お願いしているのかわからない言い様に、そういえば最近背が伸びてきたかなと思ってその後姿を見送った。
 猫は険しい目つきをしていて、鋭い爪で何でもひっかくし、夜中でもギャーギャー鳴いて迷惑だし、公園の砂にも糞尿をばらまいているというイメージしか持っていなかった静香は、「猫なんて冗談じゃない」と思いながら、でもさすがに翔太も家には連れてこないだろうと思っていた。しかし、情勢は変わった。妹の美穂が学校帰りに、子猫に牛乳をやっている翔太を見つけて、一緒になって家まで持ってきてしまったのだ。子猫は生後数日は過ぎていたのだろうか。手のひらに乗るほど小さかったが、大きな眼はしっかり開いて、ちょこちょこと歩いていた。
 嫌いな猫のイメージとのあまりの違いに静香は一瞬戸惑ったが、いやいやこんなにかわいいのは今の内だけだからと冷静さを取り戻し、少し厳しめの声で二人を説得した。
「このマンションは動物を飼うことは禁止されているのだから無理でしょ、返してきてね」
美穂が涙を浮かべて「かわいそうだからミルクの皿だけは置いてあげて」と言い、静香もこのままじゃ寒くて死んでしまうだろうからと底の浅い段ボール箱を探してきて、それにタオルを敷いて寝床を作ってあげた。ミャーミャーかぼそく泣いていた子猫は、タオルに包むように段ボールに入れてあげると丸くなって目を閉じ、翔太はしぶしぶそれを公園に戻しに行った。
 しかしそれからが大変だった。子供たちは、なんとか家で飼えないか、今晩だけでも家に連れてきてはだめか、餌だけ毎日あげに行ってもいいかとあきらめてくれず、哲史が帰ってきてからもその話で持ちきりだった。
「寒いと子猫は死んじゃうんだ。あったかい季節で良かったな。それにしばらく雨も降ってなかったし」
 と翔太が言い、美穂も
「今までどうやって生きてたのかな。野良猫の親って、子育てを途中でやめることもあるらしいわ」
 と、どこかで仕込んできた知識を披露すると、少し情が移った静香も続けた。
「もしかしたら飼い主が困って捨てたのかもしれない。でも、あんなにかわいい子猫を捨てる人がいるなんて信じられないわね。きっと誰かが拾ってくれるのを期待して、どこかでそおっと見守っているんじゃないのかな。そうじゃなきゃ、あまりにもかわいそうすぎる」
 もしかしたら哲史は猫が好きなのではと思って言ったのだったが、反応は全く違った。
「静香は、昔から猫が嫌いって言ってたよな。それに田舎じゃ、その辺の野良猫が庭の隅で子猫を生んだりしようものなら、箱に入れて川に流したもんだ。おまえたちも結局は、捨ててきたんだろ」
 言わずもがなのことを口走った哲史は、家族全員から総スカンを喰うことになった。結局は、きっとあの段ボール箱を誰かが見つけて飼ってくれるよね、ということになったのだが、誰もが落ち着かない気分のままその夜を過ごした。

 翌日は、この季節にしては少し肌寒い曇天の土曜日だった。子供たちも静香も、ときどき公園が見えるマンションの廊下の端まで歩いて行ってのぞき込んでは、「まだいるよ」とか、「小学生がみんなで囲んで触っている」などと状況を報告していた。そして昼過ぎのことだった。翔太が
「箱が無くなった!」
 と叫んで転がり込んできた。
「ああ良かった」
 と言い合ったのも束の間、
「そういえば、近くに白いバンの車が来ていたよ」
 と美穂が言うので、
「それじゃ、誰かが保健所に連絡して連れて行かれたのかもしれない」
 と静香が言い、
「それからどうなるの」
 と子供たちが声を合わせて聞いた。哲史が、どおってことないという風に答えた。
「そりゃ、保健所でガスか薬で殺されることになってるんだ」
 これには全員ギャーっとばかりに、哲史は再び総スカンを喰わされるはめになった。美穂は「おとうさんの馬鹿」と言ったきり泣いてひくひくしている。哲史としては、マンションで動物を飼えないのもルールなら、保健所が捨て猫を捕獲して処分するのもルールだと教えているだけのつもりなのに、極悪非道の猫殺しだと言わんばかりの攻撃にたじたじとなった。
 その後は、お通夜のようだった。静香も、一度は家に入れてしまった子猫を元に戻したことで、まるで自分たちが子猫を見殺しにしてしまったような罪悪感で、ついため息がでてしまった。決して猫好きではなかったはずなのに。

 その日の三時過ぎに買い物に出かけようとした静香は、公園の昨日の場所とはちょうど反対側の木の下に、段ボール箱が捨ててあるのを見つけた。自分が用意した段ボール箱に似ているようで、まさかと思いながら近づいていった静香はギョッとした。タオルが敷いてあり、中にちらっと子猫が見えたのだ。「ああ、保健所じゃなかったのか」とホッとすると同時に、「死んでいるのかもしれない、どうしよう、ここに居たらまずい」という思いが走り、一瞬立ち止まると、気付かれぬようにさりげなくコースを右に変えてそのまま買い物に向かった。昨日見た子猫のかわいらしさよりも、死んでしまった猫の気持ち悪さのようなもので背中がゾクッとした。もう関わらない方がいい、そう自分に言い聞かせた。
 買い物帰りにも段ボール箱はあった。きっとどこかの小学生が箱ごと家に持って帰り、親から叱られてまた公園に戻したんじゃないだろうか、そんなことを思いながら箱を横目でちらりと見て、家に戻った。
 家族には内緒にしていた。せっかく落ち着いたのに、また大騒ぎになる、そう思ったからだったが、夕方になり小雨が降り始めると、騒ぎ出したのは静香の方だった。実は子猫の入った段ボール箱がまだあった、死んでいるかもしれない、雨が降ってきたしどうしよう、と哲史に言うと、聞きつけた翔太は屋根をつけてやらなくちゃ、と別の段ボールを引っ張り出してきた。美穂は死んでたらかわいそうと叫び、生きていたら家で飼わせてと嘆願した。
「毎日餌もやらなきゃいけないし、おしっことうんこの掃除もするんだぞ、おまえ達が責任を持って飼えるのか」
 と哲史が問うと、翔太と美穂は
「僕は蟹が脱皮するまでちゃんと飼った」
「お母さんの夕食づくりを手伝う」
 とてんでに答えにならない答えを言い、蟹の世話は結局全部私がやったのよねと静香が考えているうちに、哲史が外に出ていき、翔太も美穂も転げるように付いて出ていった。静香も傘を持ってあわてて外に出ると、三人は段ボール箱を上からのぞき込んでいるところだった。
「生きている!」
 とほぼ全員同時に叫び、哲史は箱を持ち上げ、そのまま弱々しく泣く子猫を家に持って帰った。それがモモとの出会いだった。

 モモは、最初は灰色に薄い縞模様のはいっただけの猫だったが、大きくなるにつれて首の周りの毛がライオンのたてがみのようにふさふさ伸びてきて、その毛はより銀色に近く、縞模様もはっきりとしてきた。いろいろ調べて、サイベリアンが混ざった雑種だろうということになった。雌猫だったので名前は美穂が好きだった絵本からモモとつけられた。

 モモは都会生まれの都会育ち、人間で言えば立派な東京者だ。そのうえ動物飼育禁止のマンションで他人の目に触れないよう、隠れるようにして家の中だけで飼われていたので、外の緑やいっぱいの太陽、さわやかな風とは無縁のまま八年間を過ごしていた。もっともモモは段ボールの中で飼われた赤ちゃんのときから、そういう環境しか知らないので、不満も不安もなかったかもしれない。それが、三年前のある日突然、田んぼの真ん中にある家に引っ越して来たのだ。自由に走り回れる喜びとは無縁で、それは未知の世界への恐怖でしかないようだった。
 なかなか外に出ようとしないモモを抱っこして庭に降り、草の上にそっと置いてあげても、一瞬固まってきょろきょろしたかと思うと、家の方にパッと走って逃げ帰ってしまう。それでもなんとか外で遊ぶ楽しさを知ってもらおうと何回か繰り返すうちに、少しは慣れてきたのか外に居られる時間が少しずつ長くなっていった。雑草や落ちている枝、石ころにさえ少しずつ興味も湧いてきたようだったが、まだ自分から外に出ようとはしなかった。
 天気の良い日に、静香は掃き出し窓を開けっぱなしにして庭に降りると、モモに「出ておいで」と何回か声をかけてみた。モモはいつでも逃げられるようにとお尻を引き気味に、レースのカーテンから顔だけ出してじっと外を観察したまま動かない。こっちが見ていたらだめかなと思って、わざと目をそらして窓から離れるようにゆっくりと歩き、時間を見計らってパッと振り返ると、モモは身体を半分外に出して、縁台の上に前足だけをかけた状態で固まっていた。また「出ておいで」とモモに声をかけてから、目を庭の先に戻し、一、二歩進んでパッと振り返ると、今度は身体全部を縁台の上に乗せてじっと見ている。まるでモモと「ダルマさんがころんだ」をやっているようで静香は吹き出してしまった。
 こうしてモモは自分から外に出ることを覚え、マンションで食べさせていたペットショップの猫草ではなく、自然の草を食んでは庭でゲーゲー毛玉を吐くこともできるようになった。 
 朝と夕の二回の食事もトイレの掃除も静香がやってあげているのに、長い毛を櫛で梳いたり膝の上に乗せて眠らせたりする役得はもっぱら哲史のもので、そこが静香にはちょっぴり不満だったが、それでもモモが床の上で毛づくろいしている姿や、猫ベッドで丸くなっている姿を見るとかわいくて仕方がなかった。哲史が亡くなったことを知ってか、知らずか、今は静香の膝にも乗ってくる。そんな時、何も考えずに首や背中をそっと撫でてあげ、ゴロゴロと喉を鳴らすのを聞いているのが、静香が一番落ち着けるほんのわずかの時間であった。
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