第35話 出光美術館へ

文字数 2,679文字

それでは行こうかとなった所で、俺はお栄さんをこのままの姿で連れ出すのは少々不味いのではと思った。
「お栄さんなんだが、このままの姿では不味いのでは無いでしょうか?」
 俺の言葉にさきは事もなげに
「そうでありんあすか? 別段変わった所もなく、このままでもよござんす」
 そんな事を言った。いつの間にか言葉が江戸で使う言葉に変わっている。俺が不味いと思ったのは、このままでは目立ってしまうと思ったからだ。
 頭は幕末に江戸で流行った「割り鹿の子」と言う今では見ない髪の形だし、それに着物を着慣れた女性でも今の人は二十代でこの色の着物は着ない。昔は、若い頃に地味な色や細かい柄の着物を着る事によって若さを引き出させると言う考えの元に若者が地味な着物を着ていたが、それはそれで、若さが際立ったものだった。
 だが今は違う。考え方が今と昔では違って来ているのだ。果たして目立って良いものか俺はその点を危惧したのだ。
「ではどうします?」
 さきが俺に尋ねた所で五月雨さんが
「一応、今の社会人むけの洋服も用意はしてある。ブラウスにスーツだがな」
 そう言って洋装を提案してくれた。
「髪型はどうします?」
「そのままストレートに流しておけば良いかと。あるいはポニーテールにしてもよござんす」
 さきがポニーテールと言ったので、それなら江戸の女性の長い髪も大丈夫なのではと思った。
「わたしが着替えを手伝いますよ。髪型もやります。お栄さんこちらへ」
 さきはお栄さんに声を掛けると一緒に部屋を出て行った。女子社員が二人を案内した。恐らくスーツを用意してある部屋に案内するのだろう。
 残された男三人はぼおっと眺めていたが坂崎さんが
「これから先は俺は必要無いから、江戸に帰らせて貰うかな。今日は非番なんだが、諸々の用事も多くてな」
 そう言って立ち上がって、地下の転送室に向かった。ドアを開きながら
「光彩、江戸で逢えるのを楽しみにしておるぞ、さきにもよろしくな」
 そう言ったのが印象的だった。

 それから小一時間ほどだっただろうか、さきの
「お待たせました」
 と言う声がして、お栄さんとさきが部屋に入って来た。白のブラウウスに若緑とも言う鮮やかな緑色のスーツを身に纏っていた。長い髪は後ろで纏めてある。スーツを同じ色のリボンが付いたヘヤゴムをしていた。足元を見ると黒のパンプスだった。これならお栄さんも歩き易いと思った。俺は正直、余りの綺麗さに見とれてしまったほどだった。さきの視線が痛かったが……。
 よく見るとスーツとヘヤゴムのリボンが違うだけで、さきと同じ格好だった。我が妻も美しいと思った。それにしても江戸からやって来た人とは思えないほど、お栄さんは違和感を感じさせなかった。
「お栄さん。現代の格好は如何ですか?」
 五月雨さんの質問に
「正直言って洋装は窮屈な感じがします。特にこの靴が締められている感じがして、慣れるのに時間がかかりそうですね」
 そんな感想を言っていると、さきが俺の耳元にやって来て、
「実は下着も初めてだったので苦労したんですよ」
 そんな事を言った。お栄さんは今から百五十年ほど前の日本人だ。それだけ違うだけで、我々日本人は全く違ってしまったと思うのだった。
「『美人鑑賞図』はこの先の出光美術館に保管されています。入場料を払えば誰でも見る事が出来ます」
 俺は、そう説明をした。すると
「すぐ傍なんですね。ならば今すぐ見に行きたい」
「じゃあ行きましょう」
 俺とさきはお栄さんを伴って地下の駐車場に降りた。そこにあった車を見ると
「レクチャーとやらでこの時代の事を色々と学んだけど、乗用車と言うものを見たのは初めてです」
 そう言って大層驚いていた。俺は
「実は、時期が良かったです。出光美美術館には常設展示はありません。その時、その時で展示しているものが違うのです。幸い今は勝川春章の特集をやっています。運も良かったですね」
 そう言って時期の良さを言うと、お栄さんは
「そうだったのですね。何か縁(えにし)を感じます」
「さ、お乗り下さい。この辺りは東京でも特に人が多い場所です。何かあったら大変ですからね」
 さきがそう言って後ろのドアを開けると、お栄さんは思ったより簡単に自分の身をシートに滑らせた。
「籠に乗る事を考えれば簡単です。歩く方が今は辛いです」
 確かに、お栄さんにとっては、そうなのだろう。
 車は呉服橋の交差点から永代通りに出て、鉄道のガードを潜って行く。お栄さんとさきが後ろの席に座っている。俺は運転しているので後ろの席の様子は良く判らないが、それでも彼女が前に額をくっつけて外の様子を眺めているのは確認出来た。
 大手町の交差点を左折して真っ直ぐ行き、途中で右折して日比谷通りに出る、すると左手に出光美術館が入っている国際ビルディングが見えて来る。俺は地下の駐車場に車を入れた。
 そのまま専用のエレベータで九階まで登るとそこが出光美術館だ。入場料を払って館内に入る。目的の「美人鑑賞図」は中央の一番広い展示室に飾ってあった。場内は薄暗いが絵の所だけが程よい明るさになっている。
「これが……それなのね。この子供がおっ母さんなのね。そしてこの人がお祖母さん……来て良かった。向こうであのまま生きていたら見る事なんて出来やしなかった」
 そのまま凡そ一時間ほど、お栄さんは「美人鑑賞図」を見つめていた。
「父鉄蔵が言うには、自分も色を塗って手伝ったと言っていました。今の絵からは想像もつかない筆使いです。本当に来て良かった」
 きっとそれは心からの言葉だと俺とさきは感じたのだった。
「何度見ても素晴らしいですね。あの時、あなたがこの絵に関わっていたなんて、今から思えば想像も出来ない事でした」
 さきの言葉では無いが、あの時は夢中だった。実はあの時のもう一枚の方も組織が保管しているのは極秘になっている。表に出したら歴史が変わってしまう可能性もあるからだ。
 帰りにミュージアムショップに寄った。そこで本当なら「美人鑑賞図」の複製画を書いたかったのだが、それを江戸に持って行くと他の人間に見られた場合、色々と具合の悪い事も起きるので、小さいが絵葉書を買う事にした。お栄さんは、「美人鑑賞図」の他にも気に入った作品の絵葉書も選択したので一緒に買った。
「今の世は本当によく出来た複製があるのですね。これなら絵師は必要なくなりますね」
 そんな事を言いながら何時迄も絵葉書を眺めていたのだった。
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