第1話

文字数 1,126文字

私の父親は文字の読み書きができなかった。いや、正確には、私が生まれる頃にはすでに読み書きができていたが、それまではまったくできなかったらしい。

文字は誰でも小学校で習うはずだ。

それなのに、なぜ文字の読み書きができなかったのか不思議に思っていた私は、中学生の頃に父親にそれとなく聞いたことがある。

「なんでパパは字が読まれへんかったん?」

父親から聞いた話では、父親は長崎の生まれで、父親の父親は大型客船の船長だったらしく、そりゃぁ大層な大金持ちだったらしい。家には数人のお手伝いさんがいたと言っていた。

父親がまだ小学校に入る前のある日、父親の両親が事故で突然亡くなってしまった。父親は右も左もわからないまま、親戚の家に預けられていた。

父親の父親は親戚づきあいが最悪だったのか、預けられている先の親戚に可愛がってもらった記憶がないという。

つらくなって家出を繰り返し、結局、あちこちの親戚にたらい回しにされて小学校へ行くことできず、字の読み書きができないまま大人になった。



大人になって自分でお金を稼いで生きていかなきゃいけないときに、文字の読み書きができないことは致命傷だった。

父親は、駅のゴミ箱に捨ててある新聞を拾って字を読む練習を始めた。何が書いてあるのかさえわからないのに、必死になって読もうとしたと言っていた。

その後鉛筆を一本買い、新聞の大見出しを鉛筆でなぞりながら書く練習も始めた。

ある会社の社長に拾ってもらった父親は、新聞に書いてある字を社長に教えてもらいながら少しずつ読み書きが出来るようになった。

大の男の大人が他人に字を習うなんて、どんなに恥ずかしかっただろう。そう思うと父親がかわいそうに思えた。



父親は大のギャンブル好きでよくパチンコに出かけていた。勝つと私を電話で呼び出して、行きつけの喫茶店でミックスジュースを注文してくれる。

ごきげんな父親はいつもならコーヒーを注文するのに、その日はなぜかレモンティーを注文しようとしていた。

「ねえちゃん、レモンチー」

喫茶店のウェイトレスさんを捕まえてねえちゃん呼ばわり。おまけにレモンティと言えずに、レモンチーと言っている。

私は恥ずかしくて「レモンティやん」と言うと、また「レモンチー」と言う。何度言ってもレモンチーとしか言えなくてふたりで大笑いした。

生まれてから30年近く、文字の読み書きができなかった父親には「ティ」という言葉は存在しない。通じればティでもチーでも同じなのである。

ふと見ると、ねえちゃん呼ばわりされたウェイトレスさんも笑っていた。



その後、しばらくして父親が亡くなった。

私は今でもカフェでレモンティを注文する時に、父親を思い出さずにはいられない。

「すみません、レモンチーください」

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