第6話

文字数 2,219文字

 それからは平坦な日々が続いた。僕は仕事に行き、ハルは学校に通った。ハルは僕よりも早く家に帰ってきて、妻の本棚にある本を片っ端から読んでいた。
 別れた妻が電話をかけてくることはなかった。僕の態度にうんざりしたのかもしれないし、新しい宿り木を見つけたのかもしれない。どちらにせよ、彼女の現在を知りたいとも思わなかったし、知るつもりもなかった。

 その日僕とハルは家の近くのイタリアンの店で夕食を食べた後に二人でのんびり歩きながら家に帰っていた。歩道の隣にはブナの木が等間隔に生えていて、秋の訪れを感じさせる冷たい風が茶色く枯れた葉を落としていた。もうすぐ一つの季節が終わろうとしていた。

「夏の終わりってなんだか寂しい気持ちになる」

 ハルは歩道の縁石の上を歩きながら言った。そのため彼女の顔は僕の肩くらいの位置にあった。

「そうだね。その気持ちは僕も分かる」

「あなたもわたしくらいの年齢の時は夏の終わりは寂しかった?」

「そりゃあ寂しかったよ。僕はその時恋をしていたしね」

「恋をしていると夏の終わりが寂しくなるの?」

「なるんじゃないかな。今はもう寂しくないけど」と僕は言った。「そういうのはきっと君の年齢の時しか訪れない心の動きなんだ。だから君も恋をした方がいい」

「嫌よ。学校の男子は子供っぽいし。わたしは早く大人になりたい」

「たくさん時間をかけてゆっくり大人になればいいさ。なにも慌てることはないよ」

「そんなひどいこと簡単に言わないでよ」彼女は急に立ち止まって、僕の顔を見ながら言った。どうやら彼女は本心から傷ついているようだった。「わたしはね、一刻も早く一人で生きていけるようになりたいの。自分で家の家賃を払って、好きな洋服を買って、一人でいろんなところに行けるようになりたいの」

 いつもより近くでみる彼女の表情は泣きそうになっているように見えた。だから僕は次に彼女に対してかける言葉を慎重に選んだ。

「前に読んだ樹木の話しをしてもいいかな」と僕は葉を落として細くなったように見えるブナの木を見ながら言った。彼女は怪訝そうな目つきをしたままなにも言わなかった。
「その本は人から貸して貰ったんだ。じゃなかったら、僕は絶対樹木の本なんて読んでいなかったと思う。興味もなかったしね。でも、読んでみたら面白いことがたくさん書かれていたんだ。その中に樹木の一番いい成長の仕方っていうのが書いてあったんだけど、それがなにか分かる?」

「しらない。日光をたくさん取り込むとかじゃないの」

「そうだね。君の言うことは正しい。確かに日光をたくさん取り込めば取り込むほど成長のスピードは速くなる」

 僕が言うと、彼女は少し口角を上げて嬉しそうな笑みを作った。

「でも、一番のいい成長方法っていうのは長い時間をかけて育つことらしいんだ。ゆっくり成長するおかげで内部の細胞がとても細かく空気もほとんど含まないし、柔軟性が生まれて嵐が来てもなかなか倒れない。菌類に感染しないし、腐らない。逆に、子供の時から葉っぱを大きく広げて毎日日光をたくさん取り込みぐんぐん大きくなった木はそれと全く反対のことが起こる」

「わたしは木じゃない」彼女は上がっていた口角を元に戻して、ふてくさたように言った。

「そうだね。自由にその場から動くことが出来るし、木と違って空気を振動させて会話をすることだってできる。今の僕たちみたいに」

 彼女は僕を見つめながら形のいい眉をひそめた。<なにがいいたいの?>と彼女は言った。

「人もそれと似てると思うんだ。ゆっくり時間をかけて成長する。その間にいろんな事をするんだ。恋をしたり、失恋したり、復縁したりね」

「恋愛しかしてないじゃん」

「馬鹿みたいだろう?」と僕は彼女の先回りをして言った。「でも結局、大人だって子供と何も変わらないんだ。大人になってある程度の常識を身につけて生きて行くのは成熟したからじゃなくて、歳を重ねるにつれてあらゆる責任が発生したことによるものなんだよ。仕事で出世したり、子供ができたりね。本質的な部分は何も変わっていないんだ」

「あなたもそうなの?」

「きっとね。大人になってからの方がうまくいかないことが多い。だから奥さんと別れちゃったんだ」

「それってすごくきついことなんでしょ」

「そうだね。きついよ」

 そう言ってから、自分が今どうしようもなく空虚な気持ちを抱いていることに気がついた。その不自然に空いた部分を僕ははっきりと感じることが出来た。ぽっかりと胸に空いた空洞は流れる歳月が埋めることはなく、ただ風化して残っていて僕はそこに出来合いの蓋を被せていただけだった。
 やれやれ、と僕は思った。どうしてハルと話している時にこうもセンチメンタルな気持ちにならないといけないのだろう。

 するとハルが僕の隣にやってきて、その小さな左手で僕の右手を握った。彼女は波打ち際を行き来する波のように、力を緩めたり強く握ったりとぎこちない様子で僕の手を握っていた。

「手を繋いだことってあまりないから力加減が分からないの」と彼女は言った。「あなたの手って大きいんだね」

「右手だけは大人になっちゃったんだ」

「馬鹿みたい」と彼女は呆れたように言った。

 彼女は歩道に立ち並んでいるブナの木を見ていた。

「家に帰ったら、その樹木の本を貸してくれる?」

「もちろん」と僕は言った。

 びゅーんと音を立てて冷たい風が通り過ぎていく。僕たちは家に着くまでその手を離すことはなかった。
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