第七章 時代は変わる

文字数 7,484文字

第七章 時代は変わる

懍からしてみれば、晴が時折製鉄所に顔を出してくれて、いつも悲しそうな顔をしているしのぶと言葉を交わしてくれるのは、ある意味うれしいことであった。少なくともその間は、学会に提出する資料の執筆に専念させてもらうことができた。とりあえず、経過は順調で、高齢初産につきものといわれる中毒症の心配はないようだ。そして、日をますごとに腹部は膨らんでくるのだが、彼女の不安というものも増してくる。それではいけないと懍がいくら言い聞かせても通用しない。まあ、男である自分が発言しても届きにくいというのも確かなので、こういう時に女性の晴が来てくれるのはある意味助かる。

今日は、二人そろって、産婦人科に出かけて行った。懍は、健診には必ず行くようにと言っていた。従順なしのぶは、これには従ってくれた。しかし、行かせる度に、必ず取り乱して泣いてしまい、他の患者さんに迷惑だと産婦人科から苦情がでたことも確かだった。それも乗り越えなければならない壁だと、懍は彼女を一生懸命諭したが効果なし。見かねた晴が産婦人科へ付き添うと立候補してくれなかったら、もう限界だったかもしれなかった。彼女にどうやって母親だと自覚してもらうか。これが今一番の課題だった。

そんなことを考えながら、資料の執筆をつづける。しばらく書いていると万年筆のインクが切れたため、机の引き出しを開け、インクを取り出す。その隣に、ぼろぼろになった密厳経の解説書が入っている。五十年以上所持していた「お守り」代わりの本であり、何か困ったことがあると、この本を開いてヒントをもらってきた。でも、今回抱えている課題は、この本にもヒントは載っていないかもしれない。

思えば、自分が生まれた時は、まだ公家という称号が効果を発揮していた時代だった。母は決して教えてはくれなかったが、ドイツ人の義父に聞かされた話によると、こんなおかしな子供を公家の家に産むとは何事だ!と、母は誰からも怒鳴られたらしいのだ。大量の使用人も雇っていたが、彼らでさえも、からかったほどだったとか。母は、鏡を見ることすらできなかったという。とがった耳、巨大な手、棒みたいながりがりの体、そして立てない足。まあ、どれをとっても決して「健康」ではないし、「生産的」ではない。母が今の女性と唯一違っていたのは、ここまで言われたとしても「殺そう」という感情は持たなかったことである。確かに、逃げるきっかけがあったのがラッキーだっただけなのかもしれないが。しのぶがもし、もう少し妊娠に気が付くのが早かったら、今の時代は「殺す」ことも十分可能になっているので、確実に彼女はそれを実行してしまっただろうな、と思うと、ある意味自分が生きているのも、疑問視されてしまうような気がする。そういえば、この密厳経の本には、世の中にあるものは必要とされているからあるのだという記述もあるが、今の人間はそれを忘れて、「不要品は消す」という技術を発明してしまった。そうなると、自分のような人間は、「生まれる前に消される」という運命しか待っていないのではないか、と思うと怖い。

どうかそうならないようにと思って、今までやってきたが、自分の力では無理になってきたような気もしてきた。自分からしてみれば、そんなおかしな発明をする前に、やることはあるだろ!と思う。父が従軍したという、ノモンハン戦争の舞台になったという地域に、数人の学生を引き連れて訪問したことがあったが、あったものはあっぴろげに広がる草原と、ハルハ川という小さな川、そして自然を敬いながら質素に生活している心優しい住民だけだった。こんなにのんびりした場所で、関東軍とソ連軍が大戦争を起こしたなんて、ちょっと信じられなかった。そうなると、住民は生活をぶち壊しにされて、いい迷惑だっただろうなと思う。それを日本軍の素晴らしい戦いなんて伝えている、日本の歴史本は、馬鹿じゃないかと声を大にしていいたかった。そんな戦いなんてどうでもいいから、他にやることはなかったのか。世界のあちらこちらを訪問すると、日本を含めた先進国は、余分なことばっかりやっているような気がしてならない。そして、邪魔なものは科学技術にお願いして、消してもらう。その具体例が、出生前診断ではないかと思う。そこを素晴らしいというのは、辞めてもらいたいのだが、、、。

「無理ですかね。」

思わず、口に出していってしまった。髪をかじると、とがった耳に触れる。いくら、すごい発言をしても、これを持っていれば無効になってしまうことも知っている。ドイツではまだそれは緩かったが、日本では厳しい。こっちに居る以上だめか、と思い直し、急いでインクを入れなおして、また資料の執筆を再開した。

産婦人科では、いつも通り、しのぶが赤ちゃんについて、検査を受けているが、だいぶはっきりとした画像が撮影できるほど成長したため、ある程度生まれた時の姿が予想できるようになった。説明を受けるときは、取り乱したら止める役として晴も同席した。画像によると、まず赤ちゃんは男の子である。そして、青柳先生とそっくりな耳を持つ。立って歩けるかはまだ定かではないが、心臓に奇形があるため、無理と考えたほうがいい。こうなると、青柳先生より重症なのかもしれなかった。個人差がいろいろあって、どこの臓器がやられるかもいろんなタイプがあるが、多分、青柳先生のような、80歳という長命は望めない。こういう事を言われると、またしのぶは泣きだす。隣で聞きながら、こういう事まであらかじめ知っておく必要はあるのかな?と晴は思ってしまった。まるで、はじめから最終回まで全部与えられてしまったようなもの。最終回なんて、知らなくてもいいのではないか。だって、はじめから結末がわかっている映画なんて、だれでも見る気はなくすだろうし。それを年若いお母さんに押し付けるのは、ある意味酷というか、やりすぎだと思う。

「帰ろうか。」

泣いている彼女をみて、思わずそう言った。

「まだ、説明が終わってませんが。」

医師が間延びした声でいうのが癪に障った。

「いいえ、もう結構です!これからどんなことが待っているかを延々と聞かされてもつらいだけですから、今日は帰らせて下さい!」

「ですけど、これからの子育てのために、」

看護師がそういうが、

「子育てなんて、あなた方が予言したとおりに進むとは限りませんよ。そんな預言者みたいな態度をとって、偉そうにしている暇があったら、他の患者さんを診てあげたらどうですか。」

偉い人って、肝心なことは見ないんだなと思いながら、晴は彼女を無理やり立たせ、診察室から「逃がして」やった。そのまま、機械的に診察料を支払うと、さっさとタクシーを呼びだして、産婦人科から脱出した。

「どうもありがとうございます。私も、帰りたかったんですよ。」

タクシーの中で、しのぶがそんな事を言った。

「やっぱりね。あんな風に、次から次へと言われたら、確かに嫌になるわね。楽しみがなくなっちゃうもんね。」

「はい。」

二人は、やっと顔を見合わせて笑う。

これをみて、晴もやっと彼女がほしいものが何なのか、少しわかったような気がしてきた。

「ちょっとさ、寄り道しちゃおうか。」

「だって、先生に結果を言わなきゃ。」

「いや、遅れたっていいわよ。もし何かあったら、私がとりなしてあげるから。あんまり部屋の中にいるより、外歩いたほうが、気楽でいいかもよ。」

「そうですね。」

晴は、運転手に、製鉄所とは別の場所へ行くようにと指示を出した。

「どこへ行くんですか。」

それを無視して、晴は誰かに電話をかけていた。

「あの、どこへ?」

数分後にタクシーは杉三の家の前で停車する。

「降りて。」

晴の指示にしたがって、恐々タクシーを降りる。インターフォンも押さないで、晴はどんどん玄関のドアを開けてしまった。玄関は土間こそあり、下駄も置いてあるが、上がり框が設けられていない。つまり、段差が撤去されているのである。

「おう、待ってたぜ!どんどん入って!」

中から杉三の声がした。

「入って。」

晴に促されて、

「お邪魔します。」

と、とりあえず中に入った。どの部屋もそうだけど、段差が何もないので、誰か高齢者でも住んでいるのかと思う。晴に続いて居間に入り、隣接する食堂に行くと、車いすに乗った人物が二人と、高齢の男性が頭を鉢合わせにして、テーブルに座り、いくつかの書類とにらめっこしながら何か話していた。

「どう?いい物件見つかった?」

晴が聞くと、

「いや、まだまだだ。空き物件は結構あるんだが、障害のある人が入るとなると難しくて。」

蘭がそう答えを出した。

「当り前じゃないか。僕たちみたいに馬鹿にとって段差は大敵だ。参加する人にはもっと重い障害のある人もいる。それがえーと、何人集まるんだっけ。」

杉三が頭をかじりながら言うと、

「はい、とりあえず、今の参加者は40人おります。」

冷静に答える沼袋さん。

「いつの間に、そんな大量になったのかは知らないが、普通の学校で生徒が40人教室に集まっただけでも息が詰まるんだから、障害のある人には、もっと負担だ。」

「そうですねえ。もっと広い部屋を調べてみます。不動産屋さんはほかにもたくさんあるし。もっと大規模な不動産屋さんに聞いたほうがいいですね。」

「頼むよ、沼袋さん。それにテレビに宣伝をだすような不動産屋はだめだぞ。そういうところは使う人よりも金儲けの事ばっかり考えて、余分なことばっかりするからね。もっと、苦労をしっている不動産屋を探して。」

「全く、店の名前も読めないし、テレビなんか持ってないのに、なんでそういう事が言えるんだよ、杉ちゃん。」

蘭はちょっと不服そうに言った。

「いったい何を探しているんでしょうか。」

しのぶは、小さく晴に聞いてみる。

「お寺でやっている講座の会場。参加者が多すぎて、お寺の中に入りきれないんだって。それじゃかわいそうだから、新しい会場を探しているの。」

「それならネットで探せば?」

晴の答えに、通常選ばれるやり方をあげたしのぶであったが、

「いえいえ、そういうやり方は大嫌いなのが、あの子たちなの。」

晴は笑ってそう返した。

「でも、単に会場を借りるとかなら、文化センターの会議室を借りるとか。」

「まあ、一般的に言うならそうなんだけどね。沼袋さんと庵主様で話して、この際だから、受講者さんたちで集まれる場所を作ろうかってことになったの。普段は喫茶店さんみたいな形にしてさ、何か悩みがあったとき、ふらっと入れるような場所があってもいいなと思って。子育て中のお母さんとかが集まって、議論でもできるところがあればなと。今は、スマートフォンもあるし、偉い人が書いた本もたくさんあるから、答えなんてすぐ用意できているけど、はいそうですかとその通りにはいかないのが人間ってもんでしょ。そうじゃなくて、議論して話しあって得た答えのほうがよっぽど頭に入る。一番足りないのは、そういう場所だと思うのよ。だから講座の受講者が増えすぎて困ってるんじゃないの。」

「そういえば、、、。」

「本当は、あなただって、ほしいんじゃないの?そういう場所。私はね、そういうところさえあれば、あなたはちゃんと赤ちゃん育てられるんじゃないかなと思うのよね。」

ぽろんと涙をこぼしてしまった。

「図星?まあ、いいのよ。そういう気持ちなんだから素直にそうだと言えば。今は、そう言うことが許される時代だし。青柳先生の時代とはまた違うからね。でもね、逆をいうとね、そこさえあれば、ちゃんと育てられるとおもわれるお母さんって多いのよね。」

「はい。」

しっかりと頷いて、しのぶは涙を拭いた。

「しかし、杉ちゃん。このあたりで不動産屋さんというと、後一軒しか残っておりませんな。確か名前は、丸吉不動産だったと思うのですが。」

沼袋さんがそんなことを言っている。

「そこは評判がいいのかな?」

「少なくとも、口コミサイトでは、評判のよい不動産屋として挙がっている。」

蘭がタブレットを見ながらそう言った。

「ダメダメ。そういうもんは、役に立たない。それを信じて来訪したら、店員に怒鳴られて嫌な思いをした店はざらにあるよ。健康な人が好いと書いても、僕たちみたいな人にとっては、印象がぜんぜん違う事のほうが多いから。あてにするもんじゃないね。」

「そうですねえ。確かに、杉ちゃんの言うことも一理ありますね。」

杉三の辛口発言にすぐ同調する沼袋さん。

「やっぱり、これは主君を変えるべきだったなあ、、、。」

蘭が、思わず言ってしまうほど、杉三と沼袋さんは馬が合うようだ。

「私、丸吉さん知ってますよ。」

不意に、しのぶが発言した。

「結婚して、新しいマンション探そうと思ったときに、主人と二人でお願いしました。店主さんはとても親切で、誰に対してもフランクに話していました。」

「なに!それは本当か?僕たちみたいな人にでもそうか?」

「ええ。自閉症のお子さんを持っているご家族も、相談に来ていました。」

「ようし、すぐに電話してみようぜ。沼袋さんお願いできる?」

「はい、わかりましたよ。杉ちゃん。」

スマートフォンをとって、すぐに電話をかける沼袋さんは、やっぱりベテランの側近として貫禄のようなものもあった。すぐに話がついて、物件を見せてもらうことになる。気が早いと蘭は言いながらも、沼袋さんが車を出してくれて、二人とも手早く出かけて行った。しのぶは一緒にいきましょうかと言ったが、大丈夫、妊婦さんは無理をしないほうがいい、女のひとは、かえって不動産屋に乗せられてしまうぞ、なんて杉三にさらりと断られてその場に残った。こんな風に言われても傷ついたとは思わなかった。

「ああいう風に、面白おかしく生きている障害者もいるんだから、障害のある人全部が不幸な人なのかというと、そういう事はないわよ。」

晴が、そっと彼女に言うが、もしかしたらそうなのかもしれないなとやっと考え直すことができた。

「昔とはそこが違うのよ。」

そうだなあ。青柳先生みたいに、海外に逃げないと安全が保てないということはないんだな。

「はい。わかりました。頑張ってみます。」

やっと言えた。このセリフ。

「ご主人にもしっかり伝えてね。きっと、すました顔で仕事しているだろうけど、裏ではすごく悩んでいると思うから。私、短期間しか夫といなかったから、当時はわからなかったけど、この年になってやっとわかるようになった。それじゃ遅いのよ。」

「はい。」

他にも言いたい思いはあるが、セリフが浮かばなかった。結局この二文字しか出なかったが、晴はそこをしっかりわかってくれたようで、それ以上のセリフを求めることはなかった。

そのうち杉三たちが、契約を完了させて戻ってくるだろう。ああいう作業は結構難渋することが多く、疲れることが多いから、お茶でも出して待っていよう。二人はそういう日本女性らしい事を話しながら、杉三たちの帰りを待つことにした。

とりあえず、晴は冷蔵庫を開けてスイカを切って、しのぶはテーブルを拭くことにした。

雑巾を持ってテーブルに手をかけたその時。

「あれ?」

と、思わず声が出る。

「どうしたの?」

晴がスイカを切りながらそういった。

「何かあった?」

「あ、何でもないです。」

「なんでもないはダメよ。ちょっとでも体調悪くなったら、すぐに手をうたないと大変なことになっちゃうわよ。」

「でも、すぐ戻りましたし。」

まあ、そう言えるくらい、おかしいなと思ったのは一瞬の事だったのだが、、、。

「すぐ戻ったということは、何かあったんでしょ?そういう事は隠さないで、すぐに言わないと。これはね、赤ちゃんの体の事じゃなくて、赤ちゃんの生きるか死ぬかが関わってくるのよ。」

ピンとこないが、出産の経験者がいう事なので、もしかしたら重要なことなのかと思い、

「いえ、なんとなく体が締め付けられるというか、縛られるような感じがして。」

と正直にあったことを答える。

「それじゃ、危ないじゃないの!すぐに横になって休まなきゃだめよ。もしそれが何回も続くようなら、病院いかなきゃダメかも!」

「そうなんですか?」

急に晴の態度がガラッと変わった。そんなに深刻なことなのか、勿論自覚はないし、そんな症状が出る病名なんて全く知らない。どう反応していいかわからず、ぽかんとしたまま、

「そんなに、怖いことですか?」

「当り前じゃないの!あなた、お医者さんに予定日までにはまだ、ひと月あるって言われていたのに、そういう風になったということは、もう出ちゃうということなのよ!まだ臨月来たわけじゃないし、赤ちゃんだって、十分に成長しきっているわけじゃないのに出ちゃうから、」

つまり、準備不足のまま戦場に出されるのと同じようなものか!やっと理解できた。

「ど、どうしたら、」

答えに迷っていると、先ほどと同じ感覚が再びやってきて、今度はちょっと痛みのようなものも同時にやってくる。痛みとなると、顔に出さないほうが難しい。なので、晴にもすぐばれてしまった。

「迷っている場合じゃないね。すぐ産婦人科に行こう。これはまずいよ。あなただけでなく、赤ちゃんも。」

「わかりました!」

こうなったら覚悟を決めて、先輩に従うことにした。自分の中では前代未聞のことで、まだこれからどうなるかなんて、全く予想できないのであるが、、、。

「歩いていくと危ないから、もう一回タクシー使ったほうがいい。」

急いで晴がタクシー会社に電話した。こういう時に沼袋がいてくれればいいのだが、今回はそうではない。間延びした様子でタクシーがやってくるまでが、やたら長く感じてしまうのであった。

しばらくして本当にタクシーがやってくると、二人は戦場に行くようにタクシーに乗り込んだ。晴は時折汚い言葉を使って、運転手に猛スピードで産婦人科まで突進させた。杉三の家のテーブルには、不格好に切られたスイカと、一枚の雑巾だけが残った。
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