第七話「崩壊」
文字数 3,785文字
エリスが十五か十六になったら全てを話そう。だからそれまではエリスの出生について、あの部屋については僕とあなたの間の秘密にして欲しい。それがバーソロミューの希望であり、フィリアが交わした約束だった。
だが、結論から言えばそれが実現されることはなかった。それよりもずっと早くに、全てが灰に還ったからである。あの部屋も、バーソロミュー本人も。
崩壊の序曲がいつから始まっていたのか、フィリアには分からない。いつの間にかバーソロミューの「往診」の頻度が増え、長期になり、そして「来客」の頻度もゆるやかに増えていた。その時は二人とも何も思わなかったのだが。
事態が発生したあとから考えてみれば、おそらく異変と呼べるものがあったのはあの朝くらいだろう。バーソロミューが「フィリアはまだ通路の事を知らないんだよな」と言い出した朝だ。
「通路? まだ仕掛けがあるのか」
「ああ、非常時専用のがな。後で地図とかも見せておきたいんだが、問題ないか」
「ああ」
非常時への備えはあるに越した事はない。そう判断して頷くと、バーソロミューはエリスのほうに向きなおった。
「教えた事はきちんと覚えているね?」
「ええ!」
「素晴らしい。後でフィリアにも教えてあげなさい」
「わかったわ!」
記録をサルベージして、この会話と似た物をここに来た初日に観測したなと気付く。これが非常事態への備えなのだろう。かつては自分の来訪が「非常事態」だった。それが今や自分はその対策を共有する存在になったのだ。フィリアはそのことを少しだけ面白く思い、そしてそれ以上のことを考えなかった。
だから、朝食を終えて彼の応接室に向かうときも足取りは軽かった。部屋で地図を広げたバーソロミューの顔を見て、少し情報の重要性を上げはしたが。
「これが現在地点、聖ラウレンティウス教会。地下から抜けて一番安全な脱出口はこの村の北の入り口近辺に通じている」
バーソロミューはいつもの“応接室”で地図を広げ、翡翠色の羽ペンの先端で小さな赤い点を示した。村の北端だ。
「この道を通ると、途中で道が塞がれている所がある。道がなくなったように見えるが、塞いだのは一部だけだ。木々の間を突っ切る事になるが、なんとか迂回してくれ。そこから先は迷う事もないだろう。一本道だし、子供の足でも一日程度だ」
彼はペン先を滑らせて北へ北へと曲がりくねった林道を辿る。その先にはかつてフィリアがいた街の名があった。なるほど、自分は途中まで林の中を突っ切って封鎖の先で道に合流したのだろう。
「規模の大きい街だ。夜闇に紛れれば東側から入り込めるだろう……まあ、その……血とかも入手は出来ると思う」
小声で付け加えて、彼は“旧友”との連絡手段に話を切り替えた。錬金術師には錬金術師のつながりというものがあるらしい。連絡をとれば迎えが来るはずだ、という説明を終え、彼はとんとんと地図の遠い点を優しく叩いた。
「あいつには人体錬成の顛末も伝えている。信頼できるやつだ。僕にはどうやってもこの状況を動かす方に踏み切れない。あの子はここで他者の血と骨で育ち、動き続ける。だが何かあったらそこに停滞しつづけるのは無理だ」
彼と離れたら一週間ごとに血液を補給し続けるなぞ出来るはずもない。それがなければエリスは動けなくなる。
「それならあいつに賭けるしかない。あいつなら現況を変えることが出来るだろう。……もちろん、頼らずに済むのが一番だが」
二人は地図に記されたこの廃村からはるかに遠い南の街を見つめた。湖畔の街、アーグルトン。名前だけは聞いたことがあった。
「一応万が一のことを考えてあいつ宛の言伝をエリスに渡しているが、あれも古くなっているからな。今度君のことも書き足したものをあとで渡す。……使う事がないよう祈っといてくれ」
そう言って彼は羊皮紙を取り出して机に置き、ペンを走らせ始めた。人形に祈る対象がある訳ではないが、「わかった」とだけ答えてフィリアは部屋を出た。
そういえば地下通路がどうとか話していたな。そう思いながらエリスの部屋に入ると、そこに彼女の姿はなかった。代わりに見慣れない黒い穴がぽっかりと口を開いていた。一日前の映像記録と重ね合わせて暖炉のあった場所だと認識する。どうして地下室に暖炉があるのかと思っていたが、このためだったらしい。穴を覗き込む。何も見えない。
「エリス? そこにいるの?」
暗闇にむかって呼びかけてみたが、返事はなかった。どうしたものか。フィリアは少し思考を巡らせ、自室からランタンを取ってきて虚空へと身を躍らせた。
がしゃん、と着地してランタンを掲げ、周囲を見回す。納骨堂の手の付けられていない部分だろうか。彼が通路を掘りぬいたのかと思っていたが違うようだ。いくつか通路が見受けられたが、補強された一つ以外は相当に荒れていた。道標が刻まれたこれこそが『北への脱出口』なのだろう。
「フィリアー?」
頭上から降って来た声に振り返って引き戻す。四角く射し込む弱い灯りの中からエリスの白い頭が飛び出していた。
「エリス。上にいたのか」
「ええ、梯子かせめてロープがないかって探してたの。見つからないから戻って来たんだけど……その、上がってこれる?」
しばらく沈黙の時が流れた。完全に失念していた。
「やってみよう」
「えっ、本当に何もなしで飛び降りちゃったの?」
「ま、何とかなるさ」
「ねえ」
ランタンを咥えてなんとか壁をよじ登る。人形に疲労が無くてよかった、と久々に思った。ここにいると自分が人間ではない事を時々忘れそうになる。
エリスの手を借りて部屋に戻り、ついた土を穴の中に払い落とした。
「もう、先に飛び降りちゃうなんて」
「悪かったよ。君も一回行ったんだっけ? その時はどうしてたんだい」
「通路から地上に出て、歩いて帰って来たわ」
「そうしてもよかったのか」
エリスはこちらの顔を覗き込んでからくすくすと笑った。平和なひとときだった。二人にとってこれは「ちょっとした冒険」に過ぎなかったのだ。
地下通路に降りた記憶が薄れる程度には長く、バーソロミューの旧友への手紙が書きあがるには短いほどの時が経ったあと、審判の日が訪れた。
その日その時、エリスとフィリアはいつも通り最奥の地下室でトランプ遊びに興じていた。警告灯が音を立てて青色に輝いたのは、ちょうどフィリアが山札を捲って次の手を考えているときだった。炎は踊り狂うようにしゅうしゅうと揺れていたが、その時にはもう珍しい事でもなくなっていた。
「今日はまたいちだんと激しいな」
二人は手を止めて炎に見入る。
「最近、増えてきたわね。前にもこんな時期があったけど、何だったのかしら。結局いつのまにかなくなったけど」
「わからないな。バーソロミューは何も言わなかったの?」
「ええ、なんにも。……まあ、考えても仕方ないわ。次、あなたの番」
ぱたぱたとバーソロミューが階段を登っていく音を聞きながら、促されて手を進める。二回戦はエリスが勝ち、三回戦はフィリアの辛勝に終わった。一息ついている時に頭上から「どん」という鈍い音が響いた。フィリアは立ち上がった。
「妙に騒がしくないか。ちょっと聞き耳を立ててくる」
上を指してそう言うと、エリスも頷いて立ち上がった。先ほどからぱたぱたという足音も聞こえてきていたのだ。ここまで入って来る事はないだろうとは思ったが、何が起きているのかは知っておきたい。
部屋を出れば、階段を登りきる前に怒声が聞こえてきた。複数の知らない声だ。意味をとるにはくぐもりすぎていた。だが、その響きをフィリアは知っている。忘れるはずもない。放浪していた時にさんざん聞いた叫びだ。
これは他者を断罪する声だ。掲げられた十字架のもとに『異端』を排除する宣言だ。
不安げなエリスを制して扉の前に立ち、耳をすませる。バーソロミューが何か言っているが、相手は聞く耳を持っていない。こうなった『善良で敬虔な市民たち』が何をするか、フィリアはよく知っている。
「エリス。先に下で通路を開けて待っていてくれ。今から彼を回収してくる」
「駄目よ」
「安心して、私なら大丈夫。死にはしないよ」
エリスは「そうじゃないわ」と扉の蝶番を示した。何かが挟まって歪められている。
「もう、これはお父様が閉じてしまった。ここから上には行けないわ」
フィリアは気づいた。何故彼は安全な地下に娘を置いてわざわざ地上で時を過ごしていたのか。あれは地下から目を逸らさせるための囮だったのだ。
「急がなきゃ。上に行くにしても、地下から行くしかないもの」
エリスは思考を走らせていたフィリアの袖を引いた。それがどこまで本音なのか、判断する時間はない。フィリアは頷いて階段を降りる。駆け降りる足音よりも大きな物音と呻き声が頭上から降ってきたが、二人とも振り返る事はなかった。
散らばったカードを踏んで部屋の最奥に駆け寄り、暖炉を外す。カンテラを抱え込んだエリスを抱いて、フィリアは暗闇へと飛び込んだ。何とか着地して、最後にちらりと差し込む四角い光を見上げる。光は小さく、遠くからこちらを見下ろしていた。もう、戻ることはできない。
だが、結論から言えばそれが実現されることはなかった。それよりもずっと早くに、全てが灰に還ったからである。あの部屋も、バーソロミュー本人も。
崩壊の序曲がいつから始まっていたのか、フィリアには分からない。いつの間にかバーソロミューの「往診」の頻度が増え、長期になり、そして「来客」の頻度もゆるやかに増えていた。その時は二人とも何も思わなかったのだが。
事態が発生したあとから考えてみれば、おそらく異変と呼べるものがあったのはあの朝くらいだろう。バーソロミューが「フィリアはまだ通路の事を知らないんだよな」と言い出した朝だ。
「通路? まだ仕掛けがあるのか」
「ああ、非常時専用のがな。後で地図とかも見せておきたいんだが、問題ないか」
「ああ」
非常時への備えはあるに越した事はない。そう判断して頷くと、バーソロミューはエリスのほうに向きなおった。
「教えた事はきちんと覚えているね?」
「ええ!」
「素晴らしい。後でフィリアにも教えてあげなさい」
「わかったわ!」
記録をサルベージして、この会話と似た物をここに来た初日に観測したなと気付く。これが非常事態への備えなのだろう。かつては自分の来訪が「非常事態」だった。それが今や自分はその対策を共有する存在になったのだ。フィリアはそのことを少しだけ面白く思い、そしてそれ以上のことを考えなかった。
だから、朝食を終えて彼の応接室に向かうときも足取りは軽かった。部屋で地図を広げたバーソロミューの顔を見て、少し情報の重要性を上げはしたが。
「これが現在地点、聖ラウレンティウス教会。地下から抜けて一番安全な脱出口はこの村の北の入り口近辺に通じている」
バーソロミューはいつもの“応接室”で地図を広げ、翡翠色の羽ペンの先端で小さな赤い点を示した。村の北端だ。
「この道を通ると、途中で道が塞がれている所がある。道がなくなったように見えるが、塞いだのは一部だけだ。木々の間を突っ切る事になるが、なんとか迂回してくれ。そこから先は迷う事もないだろう。一本道だし、子供の足でも一日程度だ」
彼はペン先を滑らせて北へ北へと曲がりくねった林道を辿る。その先にはかつてフィリアがいた街の名があった。なるほど、自分は途中まで林の中を突っ切って封鎖の先で道に合流したのだろう。
「規模の大きい街だ。夜闇に紛れれば東側から入り込めるだろう……まあ、その……血とかも入手は出来ると思う」
小声で付け加えて、彼は“旧友”との連絡手段に話を切り替えた。錬金術師には錬金術師のつながりというものがあるらしい。連絡をとれば迎えが来るはずだ、という説明を終え、彼はとんとんと地図の遠い点を優しく叩いた。
「あいつには人体錬成の顛末も伝えている。信頼できるやつだ。僕にはどうやってもこの状況を動かす方に踏み切れない。あの子はここで他者の血と骨で育ち、動き続ける。だが何かあったらそこに停滞しつづけるのは無理だ」
彼と離れたら一週間ごとに血液を補給し続けるなぞ出来るはずもない。それがなければエリスは動けなくなる。
「それならあいつに賭けるしかない。あいつなら現況を変えることが出来るだろう。……もちろん、頼らずに済むのが一番だが」
二人は地図に記されたこの廃村からはるかに遠い南の街を見つめた。湖畔の街、アーグルトン。名前だけは聞いたことがあった。
「一応万が一のことを考えてあいつ宛の言伝をエリスに渡しているが、あれも古くなっているからな。今度君のことも書き足したものをあとで渡す。……使う事がないよう祈っといてくれ」
そう言って彼は羊皮紙を取り出して机に置き、ペンを走らせ始めた。人形に祈る対象がある訳ではないが、「わかった」とだけ答えてフィリアは部屋を出た。
そういえば地下通路がどうとか話していたな。そう思いながらエリスの部屋に入ると、そこに彼女の姿はなかった。代わりに見慣れない黒い穴がぽっかりと口を開いていた。一日前の映像記録と重ね合わせて暖炉のあった場所だと認識する。どうして地下室に暖炉があるのかと思っていたが、このためだったらしい。穴を覗き込む。何も見えない。
「エリス? そこにいるの?」
暗闇にむかって呼びかけてみたが、返事はなかった。どうしたものか。フィリアは少し思考を巡らせ、自室からランタンを取ってきて虚空へと身を躍らせた。
がしゃん、と着地してランタンを掲げ、周囲を見回す。納骨堂の手の付けられていない部分だろうか。彼が通路を掘りぬいたのかと思っていたが違うようだ。いくつか通路が見受けられたが、補強された一つ以外は相当に荒れていた。道標が刻まれたこれこそが『北への脱出口』なのだろう。
「フィリアー?」
頭上から降って来た声に振り返って引き戻す。四角く射し込む弱い灯りの中からエリスの白い頭が飛び出していた。
「エリス。上にいたのか」
「ええ、梯子かせめてロープがないかって探してたの。見つからないから戻って来たんだけど……その、上がってこれる?」
しばらく沈黙の時が流れた。完全に失念していた。
「やってみよう」
「えっ、本当に何もなしで飛び降りちゃったの?」
「ま、何とかなるさ」
「ねえ」
ランタンを咥えてなんとか壁をよじ登る。人形に疲労が無くてよかった、と久々に思った。ここにいると自分が人間ではない事を時々忘れそうになる。
エリスの手を借りて部屋に戻り、ついた土を穴の中に払い落とした。
「もう、先に飛び降りちゃうなんて」
「悪かったよ。君も一回行ったんだっけ? その時はどうしてたんだい」
「通路から地上に出て、歩いて帰って来たわ」
「そうしてもよかったのか」
エリスはこちらの顔を覗き込んでからくすくすと笑った。平和なひとときだった。二人にとってこれは「ちょっとした冒険」に過ぎなかったのだ。
地下通路に降りた記憶が薄れる程度には長く、バーソロミューの旧友への手紙が書きあがるには短いほどの時が経ったあと、審判の日が訪れた。
その日その時、エリスとフィリアはいつも通り最奥の地下室でトランプ遊びに興じていた。警告灯が音を立てて青色に輝いたのは、ちょうどフィリアが山札を捲って次の手を考えているときだった。炎は踊り狂うようにしゅうしゅうと揺れていたが、その時にはもう珍しい事でもなくなっていた。
「今日はまたいちだんと激しいな」
二人は手を止めて炎に見入る。
「最近、増えてきたわね。前にもこんな時期があったけど、何だったのかしら。結局いつのまにかなくなったけど」
「わからないな。バーソロミューは何も言わなかったの?」
「ええ、なんにも。……まあ、考えても仕方ないわ。次、あなたの番」
ぱたぱたとバーソロミューが階段を登っていく音を聞きながら、促されて手を進める。二回戦はエリスが勝ち、三回戦はフィリアの辛勝に終わった。一息ついている時に頭上から「どん」という鈍い音が響いた。フィリアは立ち上がった。
「妙に騒がしくないか。ちょっと聞き耳を立ててくる」
上を指してそう言うと、エリスも頷いて立ち上がった。先ほどからぱたぱたという足音も聞こえてきていたのだ。ここまで入って来る事はないだろうとは思ったが、何が起きているのかは知っておきたい。
部屋を出れば、階段を登りきる前に怒声が聞こえてきた。複数の知らない声だ。意味をとるにはくぐもりすぎていた。だが、その響きをフィリアは知っている。忘れるはずもない。放浪していた時にさんざん聞いた叫びだ。
これは他者を断罪する声だ。掲げられた十字架のもとに『異端』を排除する宣言だ。
不安げなエリスを制して扉の前に立ち、耳をすませる。バーソロミューが何か言っているが、相手は聞く耳を持っていない。こうなった『善良で敬虔な市民たち』が何をするか、フィリアはよく知っている。
「エリス。先に下で通路を開けて待っていてくれ。今から彼を回収してくる」
「駄目よ」
「安心して、私なら大丈夫。死にはしないよ」
エリスは「そうじゃないわ」と扉の蝶番を示した。何かが挟まって歪められている。
「もう、これはお父様が閉じてしまった。ここから上には行けないわ」
フィリアは気づいた。何故彼は安全な地下に娘を置いてわざわざ地上で時を過ごしていたのか。あれは地下から目を逸らさせるための囮だったのだ。
「急がなきゃ。上に行くにしても、地下から行くしかないもの」
エリスは思考を走らせていたフィリアの袖を引いた。それがどこまで本音なのか、判断する時間はない。フィリアは頷いて階段を降りる。駆け降りる足音よりも大きな物音と呻き声が頭上から降ってきたが、二人とも振り返る事はなかった。
散らばったカードを踏んで部屋の最奥に駆け寄り、暖炉を外す。カンテラを抱え込んだエリスを抱いて、フィリアは暗闇へと飛び込んだ。何とか着地して、最後にちらりと差し込む四角い光を見上げる。光は小さく、遠くからこちらを見下ろしていた。もう、戻ることはできない。