7、大切な笑顔【万世】

文字数 4,679文字

 だれもいなくなった教室で、机にでろーんと突っ伏して。
「はああ」
 盛大にため息をついた。
 最近、ちとせがちょっと元気なくて、心配だ。また、にーちゃんのことを思い出してるのかもしれない。
 でももし、前にちとせにキスしたやつが原因だったりしたら、おれは絶対に許さない。そいつをバッキバキにしばく。
 二年前。空気の読めない年賀状で、にーちゃんが死んでたってことを知ってしまって、ちとせはめちゃくちゃ動揺した。そのときちとせは中学三年生で、受験をひかえたものすごく大切な時期だったんだけど、その一件のせいで試験に失敗してしまった。県内トップの進学校だって、余裕のはずだったのに。
「もっとおれを、たよってくれたらいいのに」
 年下ってたよりないのかな? ちとせを守れるくらいには成長したつもりだよ、おれ。
「それじゃあお言葉に甘えて、遠慮なくたよらせてもらうってことで」
 まったく期待してなかった声が降ってきた。
「栄介!」
「よ、ヒマ人」
「だれもあんたにたよってほしいなんて言ってないんだけど?」
「つい今さっき言ってたじゃねーか」
「おれをたよっていいのはちとせ限定!」
 机をたたいて立ち上がり、栄介をにらみつける。女みたいにやたら長いまつげの奥の目は、何かをたくらんでるのか妙に楽しげで。おれは嫌な予感に眉をひそめた。
「何の用?」
「だーかーら、万世をたよりに来たんだよ」
「やだ」
「オレ、まだなんも言ってないんだけど?」
「やだ。絶対ろくでもないこと考えてるから」
「ひでーなぁ。オレってそんなに信用ない?」
 信用ない。っていうか、経験上、嫌でも危険を察知できるようになった。
「その目があからさまにアヤシイ」
「単に荷物運び手伝ってくれってたのみに来ただけだって。だから来いよ」
「たのんでるんじゃなくって、命令形?」
「細かいところ気にすんなよ」
「やだ。気にする」
「はいはい。んじゃ、荷物運び手伝ってください万世君」
「今度なんかおごれよー?」
 栄介に連れてこられたのは、職員専用の駐車場。駐車場の真ん中にでんと停まった白いトラックが一台あって、その荷台にはダンボールやらスチールの枠やら、いろいろなものが積まれていた。
「なにこれ?」
「見りゃわかるだろ」
「わかんないから聞いてるんじゃん」
「画材もわかんねーのかよ? 新品の油絵の具が入ってる。美術室まで運んでくれよな」
「重くない?」
「重いぞ、思いっきり」
 ダンボールを受けとって思わずよろめいた。ハンパなく重い。本当にこれ、ただの絵の具? 
「あのなあ、絵の具っていってもおまえが想像してるような、小学校で使ってた水彩とはちがうんだぜ? オレたちが使ってる油彩の絵の具はチューブ一本がまずでかい。そんでもって密度が濃いから重い。それが何十本も詰まった箱なんだから重くてあたりまえだろ」
「栄介は何を持っていくわけ?」
「オレはオイルのボトル」
 栄介が両腕に下げているのは、黄色い液体が入った透明の容器。どう見たっておれのダンボールより持ちやすそうだし、軽そうだ。
「交換してよ」
「ヤだね。オレがそんなものを美術室まで運んだら、背筋がイカレる」
 この体力無しめ。
「おれだって重たいって。職員室でカート借りれないわけ?」
「貸し出し手続きがめんどくさい」
 ――そのあんたのせいでめんどくさいことにつきあわされてるおれって何なんだよ! 
 っていうか、ほかの部員は? 
 栄介は美術部員だ。十何人か、部員がいるはず。まだたくさんトラックに荷物は残っているんだし、部員全員で運び出せば早いのに。
「栄介以外の部員は?」
「部長はこの画材の会計のために業者のおっさんと顧問のところへ行ったし、先輩たちは委員会。一年は今度の野外研修の説明会があるとか言ってた」
「二年はどうしたんだよ?」
「上川は塾、門山と田代は何も予定ないらしいけど……最初(ハナ)から幽霊だからな」
 勉強家の上川さんは別として……幽霊部員め、シメてやる。
「栄介はさ、そういうふうにサボられてもなんとも思わないわけ?」
「べーつにぃ? スペース広くとって絵が描けるわけだから、むしろいいんじゃね?」
「でもさ、そういうサボりのせいで、おれに迷惑がかかるわけなんだよな」
「かまわねーだろ? ちゃんとおごるしさ」
「……栄介ってさ、おれのことカンタンに釣れるただのバカだと思ってるでしょ」
「え? そうじゃねーの?」

 アッタマ来た。廊下にドンとダンボールを置き去りにする。
「ちゃんと自分で運びなよー」
 おれは愛しいちとせが待つ家にとっとと帰らせてもらうからね。
 栄介もさすがにあわてたようすだ。
「おい、ちょっと待てよ!」
 待ったなーい。
「悪かった、だから待てって」
「やだ」
 奇妙な沈黙。おれがふり返ると、栄介の目がすっと細くなった。
「あーあ。せっかくいいもの見せてやろーと思ったのに」
 節をつけて歌うように、挑発するように栄介が言う。
「オレが描いた絵」
 なんだ、絵か。
「オレが描いた、千歳さんの絵」
「……!」
「今度の学生展のための絵。モデルが千歳さんなんだよなー。せっかく見せてやろうって思ってたのに、帰るんならしかたねーよなぁ」
 ――いつの間にちとせをモデルに?
「見たくねぇの? 千歳さんを描いた絵」
 栄介は、勝ち誇ったようににやりと笑う。唇のはしをつり上げた、悪党の笑み。
 結局、あの大量の荷物運びを最後まで手伝ってしまった。おれって、なんで栄介なんかの友達やってるんだろうって、けっこう深刻に悩んでしまう。
「スチール額が五つと足りなかったジンクホワイトが八本、セットの油彩が十、ペーパーパレットが三冊、ペインティングオイルとブラッシングオイルがそれぞれ三本ずつでキャンバスは百号と五十号が――」
 何語かよくわかんない言葉をぶつぶつ言ってる栄介の横で、おれはほおづえをついて待っていた。早く絵を見て帰りたかったけど、美術の授業以外、おれは美術室に縁がない。この物があふれた部屋のどこに目的の絵が隠されているかなんて、わかるはずなかった
「あれ? 百号の額がひとつ足りねーじゃん。在庫切れだったのか」
 そんなことどうでもいいから早くしてよ。手伝ってやったんだからさ。
「ま、いっか。あとで部長に報告しとけば」
 荷物からはなれた栄介は、美術室のうしろに並んだ木製の棚のところで、なにやらごそごそあさりだした。
「乾いたからここに入れといたって部長が言ってたんだけどなー……あったあった」
 ようやく見つけた一枚を手にして
「どーだ、天才だろ!」
 おれは美術とか芸術とか、そういうものに興味がないから、作品のいい悪いなんてわからない――けど。目が、はなせなかった。
 ちとせが、画面のなかで笑ってた。すごくいい顔して、笑っていた。
 まだにーちゃんが生きていて、いちばん幸せだったときのちとせだ。藤棚の下で白い帽子を手に持って、まぶしそうに目を細めて笑いかけていた。
「この写真を見ながら描いたんだ。もちろんトレスしたわけじゃないし、絵は写真そのままじゃねーんだけど」
 栄介がサブバッグから取り出したのは、おれが小学校一年のとき、みんなで旅行に行ったときの写真だ。
 公園の藤棚が、すごくきれいに満開で。そこでにーちゃんが、ちとせの写真をとった。ちとせは写真をとるからポーズで笑ったんじゃなくて、ファインダーをのぞいていたにーちゃんに、笑いかけてたんだ。
「万世、感想は?」
 栄介がニヤニヤしている。
 写真は、ちとせから直接借りたらしい。おれがたまたま委員会で遅くなった日にうちをたずねてきて、おれに黙って。
 だけど栄介のそんな話は、聞いたそばからぬけていった。おれはただ、ちとせの笑顔にくぎづけになっていた。
 おれが何よりも大切に思ってるちとせの本当の笑顔は、にーちゃんに見せる、にーちゃんのための笑顔。
 にーちゃんがいない今、ちとせはもう、こんなふうには笑えないんだ。
「学生展の搬入、万世も手伝ってくれるよな? この千歳さんの絵、運ぶときに傷ついたりしたらオレ泣いちゃうけど、おまえも泣いちゃうだろ?」
「傷つけたりしたら、ゆるさねー」
「だからおまえが来て、監視すればいいんだよ。えーと、搬入何日だっけな?」
 はめられた。いやだと言えないように、栄介に逃げ口をふさがれた。

 学生展の搬入まで手伝う羽目になるなんて、とことんついてない。
 ――でも、ちとせの絵のボディーガードだと思えば、ま、いっか。
 その日は特別暑くて、設営がすんで汗だくになったおれは床に座りこんでいた。すぐ横を見上げれば、額縁の中のちとせが涼しそうな風に吹かれている。
 栄介はほかの美術部員といっしょに、何かの手続きとか、登録とか。残ってるおれは、みんなの荷物の見張りだ。
 そこに、スズメみたいにどこにでもいそうに地味な女子が、ちょこちょこ近づいてきた。ちとせの絵が気になるみたいで、立ち止まると、まじまじと見つめている。
「どう? その絵」
 ちとせをじまんしたくなって声をかけると、スズメがはねるみたいに、女子が飛び上がった。
「これ、あなたが描いたの?」
「ちがうよ。描いたのは、おれの知り合い」
「すごいね。モデルの女の子もかわいい」
「おれもそう思う。あんたも、どっかの美術部員? 何年?」
「二年生。一応副部長で、顧問命令で描かされたんだ。さっき、設営が終わったところ」
「へえ」
「これを描いた子はどこへ行ったの?」
「美術部の顧問や部長といっしょに、なんかの手続きに行ってる」
「中二でこれだけ描けるって、ほんとすごいねえ」
 スズメ女子はしみじみつぶやいて、絵のタイトルが印字されているプレートを指さした。
「どうしてタイトルが『藤壺』なの? 藤棚のまちがいじゃない?」
「まちがいじゃないって。おれもおんなじ質問、したことがあるから」
「ふーん……この女の子、たしかにかわいいんだけど、藤壺や若紫みたいな、絶世の美女ってイメージじゃあないよね? なんで『藤壺』なんだろ」
「難しいことは知らないけど、モデルはおれの血のつながってないねーちゃんだよ。ねーちゃんの、小さいころ」
「血のつながってないお姉さん! ……そういうことなら、『藤壺』なのもわかるかも」
 こいつがどうして急に納得したのか、おれにはぜんぜんわからない。
「あなたのお姉さんって、今いくつなの?」
「今年十七歳。今、高二」
「だったら、あたしと同い年なんだ」
 はい? 
 ――このスズメ女子と、ちとせが、同い年? 
「さっき、二年生だって言ってたじゃん!」
「善哉高の二年だよ。中学二年じゃなくて」
 ……詐欺だ。スズメじゃなくて、サギだ。
 しかも善哉高校って、ちとせの第一希望だった高校じゃん。
「おーい万世、静かにしろよなー。ここ、芸術ホールだぞ」
 もどってきた栄介が、おもしろそうなものを見つけたって顔で、おれとサギ女をかわるがわる見た。
「だって栄介! こいつ、この外見でおれらよりも三つも年上だって信じられる?」
「だからおまえうるさいって。すみませんねーうちの万世が」
 ニヤニヤ顔でぺこぺこ頭を下げている。
 めっちゃむかついたから、搬入のヘルプ代をファミレスでおごらせるときは、いちばん高いメニューを注文してやろうと心に誓った。
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登場人物紹介

沖沢 千歳(おきさわ ちとせ)

高校2年。成績優秀。面倒見は良いが冷めている。大事なものが欠け落ちてしまってから世界の色彩が失われたと感じている。友人がいないわけではないが人とは距離を置き、女子高生らしいはなやかさとは無縁の日々。初恋を大切に抱え、想い続けている。

瀬野 譲(せの ゆずる)

高校2年。千歳に次いで学年2位の成績。顔が良い。儚げ系美少年と校内で有名人。微笑めば歓声が上がり、声を掛けられた女子からは悲鳴が上がる。しかし、千歳には好意を表し続けているが、のれんに腕押しで相手にされない。暗い過去を抱え続けている。

沖沢 万世(おきさわ かずせ)

中学2年。千歳の弟。千歳至上主義。さらさらの長い髪のために街中で女子に間違えられることもしばしば。大変なシスコンと悪友の栄介は評しているが、万世自身は千歳を姉だと思ったことは一度もなく、純粋に恋心を抱き続けている。

鷺野 鈴(さぎの すず)

万世と栄介が出会った、どこぞの学校の美術部員。大変なエリート校らしいが、本人はふわふわとしてとらえどころのない、幼くさえ見える少女。

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