第11話
文字数 9,396文字
それ以降、わたしはミイ姉ちゃんの姿を見ていない。
ミイ姉ちゃんが白くなったあの日、わたしは公園に行けなかった。
あの日、弟が流行りの夏風邪をもらって高熱を出し、お母さんが仕事を早退して、弟と一緒に帰ってきたのだ。お母さんは一週間ほど仕事を休んだ。当然、お母さんが家にいるから、わたしはあまり外に自由に出歩けなくなった。
それでも、タイミングを見てなんどか、公園に足を運んだり、サンコウチョウの巣が見える場所まで行ってみたりしたが、ミイ姉ちゃんの姿は完全に消えてしまった。
夏休みが終わって、ミイ姉ちゃんと会えるかも、と、少しだけ期待していた登校班にも、ミイ姉ちゃんはいなかった。団地にいればどこかでミイ姉ちゃんのおばあさんに会えるかも、と思いついて、しばらくは、友達とも遊ばずに団地の中を一人探検して過ごしたが、ミイ姉ちゃんのおばあさんを見かけることもなかった。
今考えれば、ミイ姉ちゃんはおばあさんがデイサービスででかけている昼間だけ、出歩くことが出来ていたのかもしれない。
夕方になればおばあさんが帰ってきて、おばあさんと一緒に過ごさないといけない。
だから、昼間だけわたしと団地の中で遊んだんだろう。団地の外に行かなかったのも、ここの近辺には友だちはおろか、知り合いすらいなかったからだ。
あの夏が終わった後、ミイ姉ちゃんが元いた小学校に戻ったのか、それとも違うところへ引っ越しが叶ったのか、もうわかる術はない。
もうどうしようもないことだからこそ、今でも日常的に、わたしはミイ姉ちゃんを、そしてミイ姉ちゃんと一緒に過ごした夏を、思い出す。
ミイ姉ちゃんを思い出すことは、日常の中に潜んでいる割れ目にストンと落ちてしまうことに似ている。いつもどおりの日常を過ごしていると、ふいに口を広げている割れ目があって、わたしはいともたやすく落っこちてしまう。すると、瞬時に七歳の自分になって、目の前にはミイ姉ちゃんが笑っていて、わたしはすっかり身動きができなくなってしまうのだ。
十二歳のミイ姉ちゃんがいる割れ目に落っこちて、途端にわたしは七歳のわたしに姿を変え、何かの拍子にはっと現実世界に戻って、学校に通い、友だちと過ごし、宿題をする。ミイ姉ちゃんと出会った夏以降、そうやってわたしは毎日を過ごし、歳を重ねていた。
そして今年の夏、わたしは十七歳になった。信じられないことに、あの夏から十年も経ったのだ。
夏が来るたびにわたしは七歳に戻って、電車に乗るたびに、駅から家まで道のりを歩くたびに、十二歳のミイ姉ちゃんの姿を探している。
ミイ姉ちゃんはもう二十二歳になっているはずだけれど、二十二歳のミイ姉ちゃんなんて想像できないから、わたしが探すのはいつも、十二歳のミイ姉ちゃんだ。
ミレーの絵画のオフィーリアのように、このまま世界から消えてしまいそうなほど綺麗で美しい少女だった、ミイ姉ちゃん。
蛇の髪をもったメデューサのように、真っ黒な絶望を知って、夜を味方につけていたミイ姉ちゃん。
あの夏の後、ミイ姉ちゃんは周囲の人を石に変えて生き延びたのか、それとも、自分が消えてしまう方向をとったのか、わたしと過ごした夏は覚えてくれているのか、何度も何度も、答えが出ない問いを考え続けた。
「…‥つき! 夏希!」
はっと顔を上げると、麻央が丸い目をもっとまあるく見開いて、わたしを見ていた。
「大丈夫? 話聞いてた?」
「はなし?」
「ほら、これ」
麻央が差し出したプリントを受け取る。二学期以降、文系理系どちらの授業に進むかの、文理選択の紙。
「この間中学受験したばっかのような気がするのに、嫌になっちゃうよね、もう受験の話なんて」
わたしはゆっくりとまばたきをしながら、あたりを見渡した。
女子だらけの教室は、みんなが思い思いに過ごしている。今は、今日最後の授業が終わり、担任が来て終礼が始まるまでの、ほんの少しの間だ。
そういえば、さっき終礼前に日直が提出物のプリントを配っていた。あまりよく見ていなかったけど、二学期からの授業の文理選択についての紙だったのだろう。
今日は最後の授業の日だから、みんなロッカーから大荷物を持て来ていて、鞄に詰め、入り切らない分は手提げに詰めている。ひどい子なんて、家からキャリーケースを持ってきたみたいで、その中に全ての教科の教科書やらノートやらを詰め込んでいた。
「この文理選択の紙にそって、夏休み明けに進路面談があるんだってさ。夏希は決めた? 文系理系どっちにする?」
「うーん……麻央は?」
「わたし? 文系に決まってるじゃーん! 理系なんて何一つできないもん! 夏希はいいよね、文系も理系もいけるもんね」
「どっちにも得意科目がないってことでもあるけどね……麻央は国語が得意だもんね」
「得意だなんて、うふふ、それほどでもないけどさあ」
麻央がにまにま嬉しそうに笑った。麻央の変に謙遜したりしないところが、わたしは気に入っている。笑顔で正論を言ってくれるし、隠し事や嫌味もない。そのくせ、友だち思いですごく優しい。麻央の前でなら、正直になれることがわかったわたしは、中学二年で麻央と出会ってから、ずっと麻央とくっついて学校生活を過ごしている。
「麻央は行きたい学部は決まってるの?」
「うーんそこまではまだ……もうちょっとやりたいことを調べてからかなあ。夏希は? 決まってる?」
「わたしも、もうちょっと調べてからかな……」
ぼんやりとした頭でそう返す。本当は、行きたい学部はあまり決まってなかったけれど、なりたいものは決まっていた。
わたしは、小学校の先生になりたかった。
どの学部に行ったらいいのか、どの大学に進めば良いのかも知らなかったけれど、いつからか、小学校の先生になりたいと思うようになった。
わたしが小学校の先生になりたいと明かしたら、クラスのほとんどが「意外だね」と驚くと思う。わたしはそれだけ、物静かでぼんやりと考え事をしていることが多い、目立たない生徒だと自負している。麻央だけは、「すごいじゃん! 夏希にぴったりだよ!」と大げさに喜んでくれるかもしれないが。
ミイ姉ちゃんに出会って、気だるく重たい「なつやすみ」の空気の中を自在に泳ぐ姿を目の当たりにして、わたしは少しずつ、自分で泳ぐ方法を身に着けた。
中学受験だって、きっかけは親に言われたからだけれど、受験勉強をしながら自分なりに私立中学校について調べて、行きたい中学を自力で見つけることができた。
中学に入ってからも、自分がしたいこと、行きたい場所、やってみたいことを一つずつ丁寧に日常からすくいだして、自分のペースで実現してきた。
これができるようになったのは、誰がどう言おうと、ミイ姉ちゃんが自由自在な泳ぎ方を様々と見せてくれ、手を引いてくれたからなのだ。
だから、わたしも、誰かの手を引いてあげたい。
本当は、十二歳のミイ姉ちゃんの手を引いて上げたいけれど、それはもう、叶わないとわかっている。それに、未だにわたしは、十二歳のミイ姉ちゃんの手を引いてどこへいけばよかったのか、わからないのだ。
でもだからこそ、しっかりと勉強してから小学校の先生になって、せめて、あの頃のわたしたちだったような子たちと出会いたい、そして、自分ができる範囲でその子たちの手を引いてあげたいと、大げさじゃなく本気で思うのだ。
「はい、じゃあ終礼はじめるぞー」
ガラガラ、とドアが開き、担任の佐々木先生が入ってきた。
佐々木先生は体育の先生で、ガタイもいいし声も大きい。
そのわりに、ガチガチに体育会系の熱血な雰囲気はなく、ゆるく優しい先生で有名だ。そのため、生徒からも人気があった。
その佐々木先生の後ろに、スーツ姿見慣れぬ女の人がいることがわかると、クラス中が静まり返った。そして次の瞬間、こそこそといたるところで会話が起こり始める。
佐々木先生はみんなのささやき声を聞こえないふりをして、夏休みの過ごし方や、夏休み明けに全国模試があること、図書館の夏季休暇中の利用時間をたんたんと話していった。
「ええ、で、だ。まあ、みんなが気づいている通り、夏休み明けから、このクラスに実習生が来てくれることになった。実際一緒に授業をするのは夏休み明けの二学期からだが……今日偶然顔を出してくれたから挨拶だけしてもらうことになってな。夏休みに部活動で学校に来る人は、先生を見かけるかもしれないから、そしたら、挨拶するんだぞ」
佐々木先生が、どうぞ、と言うと、佐々木先生の後ろからはにかみながら若い女性が出てきて、教壇に立った。
「みなさん、こんにちは」
豊かな黒髪をゆらゆらと揺らす姿と、サハリで出来た風鈴のような響きを含んだ声を聞いて、目を見開いた。彼女から視線が外せなくなり、息が止まる。
「はじめまして。四年前にこの学校を卒業した、柏木美衣那と言います。今は文学部に所属しています。二学期からみなさんの国語の授業を担当します。あと佐々木先生と一緒にバトミントン部の部活にも参加したいと思うので、夏休み中にも見かけるかもしれません。見かけたら、ぜひ声をかけてください」
嬉しそうにはにかみ、柏木と名乗った女の人は、教壇から降りた。そしてそのまま佐々木先生の掛け声とともに「さようなら」という日直の声がかかる。
終礼が終わると、いよいよ始まった夏休みに、クラス中が浮足立つのがわかった。佐々木先生と女の人は談笑しながら、そのまますぐに教室を出ていった。
わたしは慌てて、荷物も持たずに佐々木先生の後を追う。
廊下にも教室にも夏休みに喜ぶ生徒たちが溢れていて、なかなか前へ進めない。廊下で荷物を整理する生徒、立ち話をする生徒、大きな部活道具を詰め込んだバッグを持って移動する生徒。
人をかき分け、かき分け、やっとの思いで「せんせい!」と声を出せたのは、職員室を目前にした場所だった。
「うん? 山下か、どうした?」
「あ、あの、えっと……」
ゆっくりと彼女が振り向く。
肩先で切りそろえた髪、薄く化粧をした顔。
ゆらゆらとした黒髪を腰まで伸ばして、化粧っ気のない美少女だった十二歳のミイ姉ちゃんとはぜんぜん違う。
でも、さまざまな色できらきらと光っている姿も、サハリの風鈴の音色のような余韻のある透明な声も、あの頃のままだった。
「わたし、えっと……」
ミイ姉ちゃん、覚えている? わたしだよ、なつきだよ。
心の中で問いかけた途端、ミイ姉ちゃんが「あっ」という声をだした。
「すみません、実は、この子にさっき図書室まで案内してって約束してもらってたんです」
「図書室? 図書室って……お前卒業生だからわかるだろ」
「いや〜ちょっと、ど忘れしちゃって……すぐに職員室戻るので、佐々木先生、ちょっと待っていてください」
納得のいかない顔をした佐々木先生を残して、ミイ姉ちゃんが歩き始めた。
「あ、じゃ、じゃあ、失礼します」
ぺこっと頭を下げてから佐々木先生のわきをすり抜け、わたしはミイ姉ちゃんの後を追った。
わたし、ミイ姉ちゃんの後を追ってる。
ミイ姉ちゃんが歩いた道を、歩いている。あの頃のように、ミイ姉ちゃんの背中を追って進んでいる。
今起きている現実が信じられなくて、幾度となく想像した十年前のあの夏の続きが、たった今始まったかのような錯覚に陥った。
ミイ姉ちゃんはずんずん進んでいって、やがて、外へ出た。そのまま外にある渡り廊下を通り抜けて、人影のない図書室の裏で足が止まった。わたしはミイ姉ちゃんの後についていっただけだ。当たり前だが、この学校の卒業生であるミイ姉ちゃんは図書室の場所を完全に把握している。
「もう、なっちゃんったら、だめだよ。知り合いだってバレたら、いろいろ面倒くさいんだから。もしかしたら、別クラスに移動させられちゃうかもしれないでしょ」
ミイ姉ちゃんの口から、なっちゃん、という言葉が聞こえた。
「なっちゃん、すごいね、こんなに大きくなったんだね。十年だもんね。見た目も変わるよね。あはは、わたし、はじめは全然なっちゃんだって気づかなかったよ」
おかしそうに、ミイ姉ちゃんが笑う。
サハリの風鈴の音色で、なっちゃん、なっちゃんと、ミイ姉ちゃんが呼んでくれる。
図書室の裏の人気のない場所は、ちょうど日陰になっていて涼しい。足の間を夏風が吹き抜け、スカートの裾がひらひらと空気を含んで舞う。
あの夏そのままに戻ったみたいだ。
気づけば、わたしは涙が出そうになっていた。
それがわかったようで、ミイ姉ちゃんが「やだもう、なっちゃん?」と近づいてくれる。
「もう、なんて顔してるの。せっかくまた会えたんだから、笑ってよ。わたし、なっちゃんの笑顔、すごく好きだったんだから。サンコウチョウのひな鳥を見たときも、猫の道を歩いていたときも、いつもなっちゃん、笑ってくれたから。わたしすごく、それに支えられてたんだよ」
「……よかった、と思って」
「よかった? 会えてよかった?」
「それも、あるけど……また元気なミイ姉ちゃんと目の前で話せて、本当に、よかったって」
「なにその言い方! わたしが元気なくなってたみたいじゃない」
「……元気、なくなってたんじゃないの?」
ミイ姉ちゃんが、一瞬虚をつかれた顔をして、それからぺろっと舌を出した。
「そっか、バレてたか。もしかして、わたしがお母さんと言い合いしたとき、なっちゃん近くにいたのかな? まあ、それもそうか、あんなに大声で話してたんだから、声は聞こえて当然だね」
うんうん、とミイ姉ちゃんは一人納得した声を出した。それから、わたしを見て微笑む。
「あのね、わたし、大丈夫だよ。全然平気、余裕、とは言えなかったけど。夏休み明けにクラスに向かうときなんて、自分の足じゃないみたいに動かなくてさ。大変だったけど……。でも、なんとかなった。わたしさ、あのあとすぐ、お祈りやめたんだ。綺麗さっぱり」
覚えてる? と聞かれ、当然覚えていたので、うなずく。
「わたし、四六時中お祈りしてたんだよ。一緒に流れ星にお願いするって夜公園に引っ張り出したこともあったね……あれは本当に楽しかったなあ、流れ星のことも、覚えてる?」
「……覚えてる。ミイ姉ちゃん、あのとき滑り台のてっぺんで、メデューサみたいだったし」
「メデューサ?! ひどい! そんなふうに見てたの?!」
ミイ姉ちゃんは大笑いして、それから懐かしそうに、幸せな記憶を思い出している顔をして目を細めた。ミイ姉ちゃんの中では、あのときの記憶は幸せそのものになっているようだった。
「おばあちゃんの家で過ごすようになってから、わたしは毎日全力でお祈りしてたんだ。学校のみんながいなくなるか、わたしが別の場所に行けますようにって。とにかく、二度と学校のみんなに会いたくなかったの。でもね、結局、それも叶わなくて……二学期からは、当たり前のように、学校のみんなと顔を合わせたの。でもね、なっちゃん。なっちゃんと一緒に夏休みを過ごしたから、わたしもう少しだけ、がんばろうって思えたんだよ」
ミイ姉ちゃんがじっとわたしの目を見ている。十年前のあの朝、公園で出会ったときのように、わたしとミイ姉ちゃんは長いこと見つめ合っていた。
サハリの風鈴の音で、ミイ姉ちゃんが言葉を紡ぐ。
「一緒に流星群を見たとき、なっちゃん、すごい、綺麗ってたくさん言ってたでしょ? わたしも綺麗だと思ったけど、正直、お願い事をするのに必死で、なっちゃんほど感動していなかったの。でも、お母さんに連れられて家に帰る日、ずっとあのときの流星群を思い返していて。わたしも、ただただ綺麗だな、と思いながら見上げたかったなって、唯一心残りだったなあって思ったの。今思い出しても、ほんと、お祈りしてないで、ちゃんと見ればよかったなって思うよ」
ミイ姉ちゃんはわたしから視線を外して、少しうつむき加減に微笑んだ。
「そう思ったときね、突然、なっちゃんの連絡先を聞き忘れたことも思い出したの。もう、愕然としたよね。祈ってばかりで、わたし、大事なことを見落としてたって気づいたの。それでね、このまま逃げ続けて、目の前の状況から目を背けて、他力本願で必死にお願いだけしていたら、もっと大事なことを見逃していくかもしれないなって思ったんだ」
ミイ姉ちゃんのかしばみ色の目が再び、わたしの目を捉えた。
長いまつげをゆっくりと動かしながら、ミイ姉ちゃんがこれ以上ないほど柔らかく優しく微笑みを浮かべる。
「そう思ったら、祈っていただけじゃダメだったんだな、ってすとんって自分の中で納得できたんだよね。言葉でどうしてほしいか伝えたり、自分の気持を言葉にしたり。もう少し、自分の居場所を作ったり、探したり、見つけたりする方向に、頑張るべきだったんだなって。そうやって納得できたら、もっかい、頑張ろうって思えたの。クラスの子はやっぱりわたしを無視してたけどね。でも、そのときにはわたしは、学校には教室だけじゃなくて、図書室も保健室もあるって気づいてたし、わたしのクラスだけじゃなくて、他のクラスにも生徒はいるって、わかってたから、平気だった。それに、学校の外にもいろんな子がいるって知ってたし」
ミイ姉ちゃんは一つ一つの言葉を確かめるように、ゆっくりと話を続ける。
「なっちゃんは覚えてないかもしれないけど…なっちゃんはいつも、団地の子と会ったら挨拶してたんだよ。クラスも学年もバラバラなのに。それ見てね、同じクラスじゃなくても友だちってできるんだって、びっくりしたんだよね」
全然覚えていなくて、わたしがぽかんと口を開けた。そりゃ、団地の子に会えば挨拶ぐらいしていただろう。でも、ミイ姉ちゃんがいる場所で誰かと会った記憶はまったくなかった。
記憶の中ではあの夏は、ミイ姉ちゃんとわたし二人だけしか小学生がいない世界だった。
ミイ姉ちゃんがゆったり微笑む。あ、と思う。ミイ姉ちゃんの体が、ゆっくり、色を持ってきらきら、ゆらゆら、光っている。
「お母さんに連れられて帰ったあと、一緒に遊び回ってくれたなっちゃんの姿を思い出してね。もうちょっと、学校の隅々まで自分で歩いてみようって思えたんだ。あの夏、祈ってばかりのわたしが楽しかったのは、なっちゃんがそばにいてくれたからだったんだよ。なっちゃんは、一生懸命、わたしのあとに頑張って付いてきてくれて、新鮮な顔でいつもいつも笑ってくれてたから、あんな逃避行一色の夏でも、楽しかった。一生懸命になっちゃんとの遊びに夢中になれて、ほんとに、楽しかったの。友だちと一緒に遊ぶって、やっぱり楽しいなって思い出したもん。なっちゃんがいたから、もうちょっとだけ頑張ってみようって思えたんだよ。……ありがとうね」
ミイ姉ちゃんがふふふ、と笑った。ミイ姉ちゃんは胸のつかえが取れたような顔をしていた。ずっと伝えたかったんだよね、ぽつりとつぶやく。
ミイ姉ちゃんが話している間、わたしは声が詰まってしまっていた。何も言えずにひたすら黙って感情が爆発しそうになるのをこらえていた。心の奥底で七歳のわたしが嬉しそうに、安心しきって泣き出しているのを感じた。十七歳のわたし自身の目からも、涙が出そうになる。
「それにしても、メデューサってひどいけど、的確な指摘だよね。なっちゃんするどい」
ミイ姉ちゃんがおかしそうに笑う。
「だ、だって、ミイ姉ちゃん、怖いことつぶやいてたから……!」
「うんうん、だから、的確な指摘だって言ったの。ほんとそのとおり。あんな呪詛を流れ星にむかって真剣に吐いてたんだから、ほんとになっちゃんの言う通りわたしはメデューサそっくりだったと思うよ」
それから、ミイ姉ちゃんがふはは、と笑った。
「わたしがメデューサなら、なっちゃんがペルセウスだったのかもね。ペガサスに乗ってメデューサだったわたしを、助けてくれたのかも」
想像の中で、なんどもなんども、あの流星群の夜を思い描いた。
流星群の銀色の星のしずくが、つっつっと垂れていく。その奥には彩りゆたかな星を何千万と縫い付けたビロードの布が、世界を覆い尽くしている。
七歳のわたしはあのとき確かに、星のきらめきがペガサスの羽ばたきの波長に合わせてきらめいているように見えた。
ペガサスがどこかにいるはずだと、夜空を仰いで流れ星の合間を懸命に探した。
でも、違ったのかもしれない。
わたしはすべり台の上に立っていたのではなくて、ペガサスに乗って夜空の一番近い場所で、流れ星がふりそそぐ様を星空に浮かびながら、眺めていたのかもしれない。
そして、メデューサに見えたなっちゃんの手をひっぱって、一緒にペガサスの上へ引きずりあげることができていたのかもしれない。
遠くから、女の子特有の高い笑い声が響いた。
その瞬間、ミイ姉ちゃんがとわたしの間を、夏風がどおっと吹き込み、むわっとした夏の空気が立ち込めた。
グラウンドの方から、プールの方から、容赦なく、なつやすみの気配が立ちこめはじめている。ミイ姉ちゃんとわたしが出会った、あの夏と同じ気だるい気配だ。
でも、わたしはもう、このなつやすみの空気の中を自由に泳ぎ回るすべを知っているし、ミイ姉ちゃんも祈る以外の方法を、知っている。
わたしとミイ姉ちゃんは、どこからどう見ても、十七歳の女子高生と、二十二歳の女子大生になった。
足元から湧き上がる夏の熱気に押されるように、十年前、ミイ姉ちゃんと出会って一緒に過ごした以来の、万能感が足裏からこみ上げてきた。見渡す限り、もうどこにも、地上に割れ目は開いていない。
わたしはそっと、十年もの間、ずっと泣きそうな顔をしてミイ姉ちゃんを探していた、七歳のわたしを抱きしめた。
もう、七歳のわたしに戻ることも、十二歳のミイ姉ちゃんを探すことも、必要ない。
わたしはこれから始まる十七歳の夏を、今の自分の思うままに、駆け巡る。青い帆船をぴんと張った青空の下も、ビロードの布を張り付けた夜空の下も、自由自在に、泳ぎ回る。
ミイ姉ちゃんを見ると、ミイ姉ちゃんも、やってきた夏を見つめていた。白い頬を赤くさせて、突き抜けるように青い空を見つめていた。十二歳のミイ姉ちゃんと変わらず、二十二歳のミイ姉ちゃんも、太陽のように、いろんな色で輝いていた。
「暑いねえ」
ミイ姉ちゃんが嬉しそうにつぶやき、太陽を見つめながら手を上げた。わたしも真似して、太陽に向かって手のひらを差し出す。
わたしの頼りない右手に隠れて、太陽の眩しい光が見え隠れする。指の隙間から差し込む眩しい光に目を細めると、ふいに、自分の手のひらが、ミイ姉ちゃんのように彩り豊かに輝いているのが見えた。
思わず、ぎゅっと手を握りしめる。握りしめた手はあたたかくて、まぎれもなく、七歳のわたしの手を引いてきた、十七歳のわたしの手だった。
……END……
ミイ姉ちゃんが白くなったあの日、わたしは公園に行けなかった。
あの日、弟が流行りの夏風邪をもらって高熱を出し、お母さんが仕事を早退して、弟と一緒に帰ってきたのだ。お母さんは一週間ほど仕事を休んだ。当然、お母さんが家にいるから、わたしはあまり外に自由に出歩けなくなった。
それでも、タイミングを見てなんどか、公園に足を運んだり、サンコウチョウの巣が見える場所まで行ってみたりしたが、ミイ姉ちゃんの姿は完全に消えてしまった。
夏休みが終わって、ミイ姉ちゃんと会えるかも、と、少しだけ期待していた登校班にも、ミイ姉ちゃんはいなかった。団地にいればどこかでミイ姉ちゃんのおばあさんに会えるかも、と思いついて、しばらくは、友達とも遊ばずに団地の中を一人探検して過ごしたが、ミイ姉ちゃんのおばあさんを見かけることもなかった。
今考えれば、ミイ姉ちゃんはおばあさんがデイサービスででかけている昼間だけ、出歩くことが出来ていたのかもしれない。
夕方になればおばあさんが帰ってきて、おばあさんと一緒に過ごさないといけない。
だから、昼間だけわたしと団地の中で遊んだんだろう。団地の外に行かなかったのも、ここの近辺には友だちはおろか、知り合いすらいなかったからだ。
あの夏が終わった後、ミイ姉ちゃんが元いた小学校に戻ったのか、それとも違うところへ引っ越しが叶ったのか、もうわかる術はない。
もうどうしようもないことだからこそ、今でも日常的に、わたしはミイ姉ちゃんを、そしてミイ姉ちゃんと一緒に過ごした夏を、思い出す。
ミイ姉ちゃんを思い出すことは、日常の中に潜んでいる割れ目にストンと落ちてしまうことに似ている。いつもどおりの日常を過ごしていると、ふいに口を広げている割れ目があって、わたしはいともたやすく落っこちてしまう。すると、瞬時に七歳の自分になって、目の前にはミイ姉ちゃんが笑っていて、わたしはすっかり身動きができなくなってしまうのだ。
十二歳のミイ姉ちゃんがいる割れ目に落っこちて、途端にわたしは七歳のわたしに姿を変え、何かの拍子にはっと現実世界に戻って、学校に通い、友だちと過ごし、宿題をする。ミイ姉ちゃんと出会った夏以降、そうやってわたしは毎日を過ごし、歳を重ねていた。
そして今年の夏、わたしは十七歳になった。信じられないことに、あの夏から十年も経ったのだ。
夏が来るたびにわたしは七歳に戻って、電車に乗るたびに、駅から家まで道のりを歩くたびに、十二歳のミイ姉ちゃんの姿を探している。
ミイ姉ちゃんはもう二十二歳になっているはずだけれど、二十二歳のミイ姉ちゃんなんて想像できないから、わたしが探すのはいつも、十二歳のミイ姉ちゃんだ。
ミレーの絵画のオフィーリアのように、このまま世界から消えてしまいそうなほど綺麗で美しい少女だった、ミイ姉ちゃん。
蛇の髪をもったメデューサのように、真っ黒な絶望を知って、夜を味方につけていたミイ姉ちゃん。
あの夏の後、ミイ姉ちゃんは周囲の人を石に変えて生き延びたのか、それとも、自分が消えてしまう方向をとったのか、わたしと過ごした夏は覚えてくれているのか、何度も何度も、答えが出ない問いを考え続けた。
「…‥つき! 夏希!」
はっと顔を上げると、麻央が丸い目をもっとまあるく見開いて、わたしを見ていた。
「大丈夫? 話聞いてた?」
「はなし?」
「ほら、これ」
麻央が差し出したプリントを受け取る。二学期以降、文系理系どちらの授業に進むかの、文理選択の紙。
「この間中学受験したばっかのような気がするのに、嫌になっちゃうよね、もう受験の話なんて」
わたしはゆっくりとまばたきをしながら、あたりを見渡した。
女子だらけの教室は、みんなが思い思いに過ごしている。今は、今日最後の授業が終わり、担任が来て終礼が始まるまでの、ほんの少しの間だ。
そういえば、さっき終礼前に日直が提出物のプリントを配っていた。あまりよく見ていなかったけど、二学期からの授業の文理選択についての紙だったのだろう。
今日は最後の授業の日だから、みんなロッカーから大荷物を持て来ていて、鞄に詰め、入り切らない分は手提げに詰めている。ひどい子なんて、家からキャリーケースを持ってきたみたいで、その中に全ての教科の教科書やらノートやらを詰め込んでいた。
「この文理選択の紙にそって、夏休み明けに進路面談があるんだってさ。夏希は決めた? 文系理系どっちにする?」
「うーん……麻央は?」
「わたし? 文系に決まってるじゃーん! 理系なんて何一つできないもん! 夏希はいいよね、文系も理系もいけるもんね」
「どっちにも得意科目がないってことでもあるけどね……麻央は国語が得意だもんね」
「得意だなんて、うふふ、それほどでもないけどさあ」
麻央がにまにま嬉しそうに笑った。麻央の変に謙遜したりしないところが、わたしは気に入っている。笑顔で正論を言ってくれるし、隠し事や嫌味もない。そのくせ、友だち思いですごく優しい。麻央の前でなら、正直になれることがわかったわたしは、中学二年で麻央と出会ってから、ずっと麻央とくっついて学校生活を過ごしている。
「麻央は行きたい学部は決まってるの?」
「うーんそこまではまだ……もうちょっとやりたいことを調べてからかなあ。夏希は? 決まってる?」
「わたしも、もうちょっと調べてからかな……」
ぼんやりとした頭でそう返す。本当は、行きたい学部はあまり決まってなかったけれど、なりたいものは決まっていた。
わたしは、小学校の先生になりたかった。
どの学部に行ったらいいのか、どの大学に進めば良いのかも知らなかったけれど、いつからか、小学校の先生になりたいと思うようになった。
わたしが小学校の先生になりたいと明かしたら、クラスのほとんどが「意外だね」と驚くと思う。わたしはそれだけ、物静かでぼんやりと考え事をしていることが多い、目立たない生徒だと自負している。麻央だけは、「すごいじゃん! 夏希にぴったりだよ!」と大げさに喜んでくれるかもしれないが。
ミイ姉ちゃんに出会って、気だるく重たい「なつやすみ」の空気の中を自在に泳ぐ姿を目の当たりにして、わたしは少しずつ、自分で泳ぐ方法を身に着けた。
中学受験だって、きっかけは親に言われたからだけれど、受験勉強をしながら自分なりに私立中学校について調べて、行きたい中学を自力で見つけることができた。
中学に入ってからも、自分がしたいこと、行きたい場所、やってみたいことを一つずつ丁寧に日常からすくいだして、自分のペースで実現してきた。
これができるようになったのは、誰がどう言おうと、ミイ姉ちゃんが自由自在な泳ぎ方を様々と見せてくれ、手を引いてくれたからなのだ。
だから、わたしも、誰かの手を引いてあげたい。
本当は、十二歳のミイ姉ちゃんの手を引いて上げたいけれど、それはもう、叶わないとわかっている。それに、未だにわたしは、十二歳のミイ姉ちゃんの手を引いてどこへいけばよかったのか、わからないのだ。
でもだからこそ、しっかりと勉強してから小学校の先生になって、せめて、あの頃のわたしたちだったような子たちと出会いたい、そして、自分ができる範囲でその子たちの手を引いてあげたいと、大げさじゃなく本気で思うのだ。
「はい、じゃあ終礼はじめるぞー」
ガラガラ、とドアが開き、担任の佐々木先生が入ってきた。
佐々木先生は体育の先生で、ガタイもいいし声も大きい。
そのわりに、ガチガチに体育会系の熱血な雰囲気はなく、ゆるく優しい先生で有名だ。そのため、生徒からも人気があった。
その佐々木先生の後ろに、スーツ姿見慣れぬ女の人がいることがわかると、クラス中が静まり返った。そして次の瞬間、こそこそといたるところで会話が起こり始める。
佐々木先生はみんなのささやき声を聞こえないふりをして、夏休みの過ごし方や、夏休み明けに全国模試があること、図書館の夏季休暇中の利用時間をたんたんと話していった。
「ええ、で、だ。まあ、みんなが気づいている通り、夏休み明けから、このクラスに実習生が来てくれることになった。実際一緒に授業をするのは夏休み明けの二学期からだが……今日偶然顔を出してくれたから挨拶だけしてもらうことになってな。夏休みに部活動で学校に来る人は、先生を見かけるかもしれないから、そしたら、挨拶するんだぞ」
佐々木先生が、どうぞ、と言うと、佐々木先生の後ろからはにかみながら若い女性が出てきて、教壇に立った。
「みなさん、こんにちは」
豊かな黒髪をゆらゆらと揺らす姿と、サハリで出来た風鈴のような響きを含んだ声を聞いて、目を見開いた。彼女から視線が外せなくなり、息が止まる。
「はじめまして。四年前にこの学校を卒業した、柏木美衣那と言います。今は文学部に所属しています。二学期からみなさんの国語の授業を担当します。あと佐々木先生と一緒にバトミントン部の部活にも参加したいと思うので、夏休み中にも見かけるかもしれません。見かけたら、ぜひ声をかけてください」
嬉しそうにはにかみ、柏木と名乗った女の人は、教壇から降りた。そしてそのまま佐々木先生の掛け声とともに「さようなら」という日直の声がかかる。
終礼が終わると、いよいよ始まった夏休みに、クラス中が浮足立つのがわかった。佐々木先生と女の人は談笑しながら、そのまますぐに教室を出ていった。
わたしは慌てて、荷物も持たずに佐々木先生の後を追う。
廊下にも教室にも夏休みに喜ぶ生徒たちが溢れていて、なかなか前へ進めない。廊下で荷物を整理する生徒、立ち話をする生徒、大きな部活道具を詰め込んだバッグを持って移動する生徒。
人をかき分け、かき分け、やっとの思いで「せんせい!」と声を出せたのは、職員室を目前にした場所だった。
「うん? 山下か、どうした?」
「あ、あの、えっと……」
ゆっくりと彼女が振り向く。
肩先で切りそろえた髪、薄く化粧をした顔。
ゆらゆらとした黒髪を腰まで伸ばして、化粧っ気のない美少女だった十二歳のミイ姉ちゃんとはぜんぜん違う。
でも、さまざまな色できらきらと光っている姿も、サハリの風鈴の音色のような余韻のある透明な声も、あの頃のままだった。
「わたし、えっと……」
ミイ姉ちゃん、覚えている? わたしだよ、なつきだよ。
心の中で問いかけた途端、ミイ姉ちゃんが「あっ」という声をだした。
「すみません、実は、この子にさっき図書室まで案内してって約束してもらってたんです」
「図書室? 図書室って……お前卒業生だからわかるだろ」
「いや〜ちょっと、ど忘れしちゃって……すぐに職員室戻るので、佐々木先生、ちょっと待っていてください」
納得のいかない顔をした佐々木先生を残して、ミイ姉ちゃんが歩き始めた。
「あ、じゃ、じゃあ、失礼します」
ぺこっと頭を下げてから佐々木先生のわきをすり抜け、わたしはミイ姉ちゃんの後を追った。
わたし、ミイ姉ちゃんの後を追ってる。
ミイ姉ちゃんが歩いた道を、歩いている。あの頃のように、ミイ姉ちゃんの背中を追って進んでいる。
今起きている現実が信じられなくて、幾度となく想像した十年前のあの夏の続きが、たった今始まったかのような錯覚に陥った。
ミイ姉ちゃんはずんずん進んでいって、やがて、外へ出た。そのまま外にある渡り廊下を通り抜けて、人影のない図書室の裏で足が止まった。わたしはミイ姉ちゃんの後についていっただけだ。当たり前だが、この学校の卒業生であるミイ姉ちゃんは図書室の場所を完全に把握している。
「もう、なっちゃんったら、だめだよ。知り合いだってバレたら、いろいろ面倒くさいんだから。もしかしたら、別クラスに移動させられちゃうかもしれないでしょ」
ミイ姉ちゃんの口から、なっちゃん、という言葉が聞こえた。
「なっちゃん、すごいね、こんなに大きくなったんだね。十年だもんね。見た目も変わるよね。あはは、わたし、はじめは全然なっちゃんだって気づかなかったよ」
おかしそうに、ミイ姉ちゃんが笑う。
サハリの風鈴の音色で、なっちゃん、なっちゃんと、ミイ姉ちゃんが呼んでくれる。
図書室の裏の人気のない場所は、ちょうど日陰になっていて涼しい。足の間を夏風が吹き抜け、スカートの裾がひらひらと空気を含んで舞う。
あの夏そのままに戻ったみたいだ。
気づけば、わたしは涙が出そうになっていた。
それがわかったようで、ミイ姉ちゃんが「やだもう、なっちゃん?」と近づいてくれる。
「もう、なんて顔してるの。せっかくまた会えたんだから、笑ってよ。わたし、なっちゃんの笑顔、すごく好きだったんだから。サンコウチョウのひな鳥を見たときも、猫の道を歩いていたときも、いつもなっちゃん、笑ってくれたから。わたしすごく、それに支えられてたんだよ」
「……よかった、と思って」
「よかった? 会えてよかった?」
「それも、あるけど……また元気なミイ姉ちゃんと目の前で話せて、本当に、よかったって」
「なにその言い方! わたしが元気なくなってたみたいじゃない」
「……元気、なくなってたんじゃないの?」
ミイ姉ちゃんが、一瞬虚をつかれた顔をして、それからぺろっと舌を出した。
「そっか、バレてたか。もしかして、わたしがお母さんと言い合いしたとき、なっちゃん近くにいたのかな? まあ、それもそうか、あんなに大声で話してたんだから、声は聞こえて当然だね」
うんうん、とミイ姉ちゃんは一人納得した声を出した。それから、わたしを見て微笑む。
「あのね、わたし、大丈夫だよ。全然平気、余裕、とは言えなかったけど。夏休み明けにクラスに向かうときなんて、自分の足じゃないみたいに動かなくてさ。大変だったけど……。でも、なんとかなった。わたしさ、あのあとすぐ、お祈りやめたんだ。綺麗さっぱり」
覚えてる? と聞かれ、当然覚えていたので、うなずく。
「わたし、四六時中お祈りしてたんだよ。一緒に流れ星にお願いするって夜公園に引っ張り出したこともあったね……あれは本当に楽しかったなあ、流れ星のことも、覚えてる?」
「……覚えてる。ミイ姉ちゃん、あのとき滑り台のてっぺんで、メデューサみたいだったし」
「メデューサ?! ひどい! そんなふうに見てたの?!」
ミイ姉ちゃんは大笑いして、それから懐かしそうに、幸せな記憶を思い出している顔をして目を細めた。ミイ姉ちゃんの中では、あのときの記憶は幸せそのものになっているようだった。
「おばあちゃんの家で過ごすようになってから、わたしは毎日全力でお祈りしてたんだ。学校のみんながいなくなるか、わたしが別の場所に行けますようにって。とにかく、二度と学校のみんなに会いたくなかったの。でもね、結局、それも叶わなくて……二学期からは、当たり前のように、学校のみんなと顔を合わせたの。でもね、なっちゃん。なっちゃんと一緒に夏休みを過ごしたから、わたしもう少しだけ、がんばろうって思えたんだよ」
ミイ姉ちゃんがじっとわたしの目を見ている。十年前のあの朝、公園で出会ったときのように、わたしとミイ姉ちゃんは長いこと見つめ合っていた。
サハリの風鈴の音で、ミイ姉ちゃんが言葉を紡ぐ。
「一緒に流星群を見たとき、なっちゃん、すごい、綺麗ってたくさん言ってたでしょ? わたしも綺麗だと思ったけど、正直、お願い事をするのに必死で、なっちゃんほど感動していなかったの。でも、お母さんに連れられて家に帰る日、ずっとあのときの流星群を思い返していて。わたしも、ただただ綺麗だな、と思いながら見上げたかったなって、唯一心残りだったなあって思ったの。今思い出しても、ほんと、お祈りしてないで、ちゃんと見ればよかったなって思うよ」
ミイ姉ちゃんはわたしから視線を外して、少しうつむき加減に微笑んだ。
「そう思ったときね、突然、なっちゃんの連絡先を聞き忘れたことも思い出したの。もう、愕然としたよね。祈ってばかりで、わたし、大事なことを見落としてたって気づいたの。それでね、このまま逃げ続けて、目の前の状況から目を背けて、他力本願で必死にお願いだけしていたら、もっと大事なことを見逃していくかもしれないなって思ったんだ」
ミイ姉ちゃんのかしばみ色の目が再び、わたしの目を捉えた。
長いまつげをゆっくりと動かしながら、ミイ姉ちゃんがこれ以上ないほど柔らかく優しく微笑みを浮かべる。
「そう思ったら、祈っていただけじゃダメだったんだな、ってすとんって自分の中で納得できたんだよね。言葉でどうしてほしいか伝えたり、自分の気持を言葉にしたり。もう少し、自分の居場所を作ったり、探したり、見つけたりする方向に、頑張るべきだったんだなって。そうやって納得できたら、もっかい、頑張ろうって思えたの。クラスの子はやっぱりわたしを無視してたけどね。でも、そのときにはわたしは、学校には教室だけじゃなくて、図書室も保健室もあるって気づいてたし、わたしのクラスだけじゃなくて、他のクラスにも生徒はいるって、わかってたから、平気だった。それに、学校の外にもいろんな子がいるって知ってたし」
ミイ姉ちゃんは一つ一つの言葉を確かめるように、ゆっくりと話を続ける。
「なっちゃんは覚えてないかもしれないけど…なっちゃんはいつも、団地の子と会ったら挨拶してたんだよ。クラスも学年もバラバラなのに。それ見てね、同じクラスじゃなくても友だちってできるんだって、びっくりしたんだよね」
全然覚えていなくて、わたしがぽかんと口を開けた。そりゃ、団地の子に会えば挨拶ぐらいしていただろう。でも、ミイ姉ちゃんがいる場所で誰かと会った記憶はまったくなかった。
記憶の中ではあの夏は、ミイ姉ちゃんとわたし二人だけしか小学生がいない世界だった。
ミイ姉ちゃんがゆったり微笑む。あ、と思う。ミイ姉ちゃんの体が、ゆっくり、色を持ってきらきら、ゆらゆら、光っている。
「お母さんに連れられて帰ったあと、一緒に遊び回ってくれたなっちゃんの姿を思い出してね。もうちょっと、学校の隅々まで自分で歩いてみようって思えたんだ。あの夏、祈ってばかりのわたしが楽しかったのは、なっちゃんがそばにいてくれたからだったんだよ。なっちゃんは、一生懸命、わたしのあとに頑張って付いてきてくれて、新鮮な顔でいつもいつも笑ってくれてたから、あんな逃避行一色の夏でも、楽しかった。一生懸命になっちゃんとの遊びに夢中になれて、ほんとに、楽しかったの。友だちと一緒に遊ぶって、やっぱり楽しいなって思い出したもん。なっちゃんがいたから、もうちょっとだけ頑張ってみようって思えたんだよ。……ありがとうね」
ミイ姉ちゃんがふふふ、と笑った。ミイ姉ちゃんは胸のつかえが取れたような顔をしていた。ずっと伝えたかったんだよね、ぽつりとつぶやく。
ミイ姉ちゃんが話している間、わたしは声が詰まってしまっていた。何も言えずにひたすら黙って感情が爆発しそうになるのをこらえていた。心の奥底で七歳のわたしが嬉しそうに、安心しきって泣き出しているのを感じた。十七歳のわたし自身の目からも、涙が出そうになる。
「それにしても、メデューサってひどいけど、的確な指摘だよね。なっちゃんするどい」
ミイ姉ちゃんがおかしそうに笑う。
「だ、だって、ミイ姉ちゃん、怖いことつぶやいてたから……!」
「うんうん、だから、的確な指摘だって言ったの。ほんとそのとおり。あんな呪詛を流れ星にむかって真剣に吐いてたんだから、ほんとになっちゃんの言う通りわたしはメデューサそっくりだったと思うよ」
それから、ミイ姉ちゃんがふはは、と笑った。
「わたしがメデューサなら、なっちゃんがペルセウスだったのかもね。ペガサスに乗ってメデューサだったわたしを、助けてくれたのかも」
想像の中で、なんどもなんども、あの流星群の夜を思い描いた。
流星群の銀色の星のしずくが、つっつっと垂れていく。その奥には彩りゆたかな星を何千万と縫い付けたビロードの布が、世界を覆い尽くしている。
七歳のわたしはあのとき確かに、星のきらめきがペガサスの羽ばたきの波長に合わせてきらめいているように見えた。
ペガサスがどこかにいるはずだと、夜空を仰いで流れ星の合間を懸命に探した。
でも、違ったのかもしれない。
わたしはすべり台の上に立っていたのではなくて、ペガサスに乗って夜空の一番近い場所で、流れ星がふりそそぐ様を星空に浮かびながら、眺めていたのかもしれない。
そして、メデューサに見えたなっちゃんの手をひっぱって、一緒にペガサスの上へ引きずりあげることができていたのかもしれない。
遠くから、女の子特有の高い笑い声が響いた。
その瞬間、ミイ姉ちゃんがとわたしの間を、夏風がどおっと吹き込み、むわっとした夏の空気が立ち込めた。
グラウンドの方から、プールの方から、容赦なく、なつやすみの気配が立ちこめはじめている。ミイ姉ちゃんとわたしが出会った、あの夏と同じ気だるい気配だ。
でも、わたしはもう、このなつやすみの空気の中を自由に泳ぎ回るすべを知っているし、ミイ姉ちゃんも祈る以外の方法を、知っている。
わたしとミイ姉ちゃんは、どこからどう見ても、十七歳の女子高生と、二十二歳の女子大生になった。
足元から湧き上がる夏の熱気に押されるように、十年前、ミイ姉ちゃんと出会って一緒に過ごした以来の、万能感が足裏からこみ上げてきた。見渡す限り、もうどこにも、地上に割れ目は開いていない。
わたしはそっと、十年もの間、ずっと泣きそうな顔をしてミイ姉ちゃんを探していた、七歳のわたしを抱きしめた。
もう、七歳のわたしに戻ることも、十二歳のミイ姉ちゃんを探すことも、必要ない。
わたしはこれから始まる十七歳の夏を、今の自分の思うままに、駆け巡る。青い帆船をぴんと張った青空の下も、ビロードの布を張り付けた夜空の下も、自由自在に、泳ぎ回る。
ミイ姉ちゃんを見ると、ミイ姉ちゃんも、やってきた夏を見つめていた。白い頬を赤くさせて、突き抜けるように青い空を見つめていた。十二歳のミイ姉ちゃんと変わらず、二十二歳のミイ姉ちゃんも、太陽のように、いろんな色で輝いていた。
「暑いねえ」
ミイ姉ちゃんが嬉しそうにつぶやき、太陽を見つめながら手を上げた。わたしも真似して、太陽に向かって手のひらを差し出す。
わたしの頼りない右手に隠れて、太陽の眩しい光が見え隠れする。指の隙間から差し込む眩しい光に目を細めると、ふいに、自分の手のひらが、ミイ姉ちゃんのように彩り豊かに輝いているのが見えた。
思わず、ぎゅっと手を握りしめる。握りしめた手はあたたかくて、まぎれもなく、七歳のわたしの手を引いてきた、十七歳のわたしの手だった。
……END……