9-3

文字数 1,924文字

 ひどい有様だった。ある者はねじくれた体勢で、またある者は片腕を水に浸けながら、男たちが下生えに転がっている。昨日の傷が癒えない百舌と矮鶏、特に手ひどく電気を流された嵐蔵は気を失っていた。誰も彼もどうしてこうなったかわからない。
 そんな中、がくつく膝をどうにか支え、立ち上がる影が二つ。花岡と斑鳩であった。
 満身創痍でも、相手を捉える眼だけは緩めない。双眸(そうぼう)に宿る暗い炎は、むしろ火勢を強めているかに思われた。だが、花岡は怯まなかった。焼けつくような視線を受けながら、しかと相手を見据えている。いつの間にか、昨日までの強張りがなくなっていた。なぜだろうと考えて思い当たり、ふっと笑う。楽観視はできない。しかし、迷いもない。依然抜けきらない痺れを抑え込みながら、印を結び、柄に手をかけた。
 地の利は斑鳩にある。力の源は瀑布(ばくふ)より際限なく(ほとばし)り、我が意のままだ。消えない憎悪に突き動かされるように顕現させたのは、首と腹だけの龍だった。大口を開けたそれは、ただ仇敵(きゅうてき)を喰らい、もがき苦しませるために形作られている。巨体ゆえに制御が難しく、保つだけで頭がはちきれそうになる。腕に乗るぎりぎりとした重みに足までふらつく。しかし、眼前の、尚も崩れぬ凛然たる立ち姿が、すべてを忘れさせた。
 昔から変わらないその姿。待ち受ける困難にただ立ち向かう、純粋なまでの愚直さ。虫唾(むしず)が走る。見ていられない。近くでやるのをやめてほしい。やめてほしかった。やめなかったからだ。
 いびつな水の龍が解き放たれた。その身を捻り、逆巻(さかま)きながら、猛然と迫ってくる。木々が揺れ、激しい飛沫が葉を散らした。
 今まさに呑み込まれんとする直前、花岡は一歩を踏み出した。龍の牙へ向け、右腕を振り抜く。愚かなことだ。水を斬ろうなどと。一笑に付されるであろう刀は、しかし、押し止まった。すり抜け、取り込まれるはずが、水に接しながら、それでいて確かに抗っている。
 花岡の刀は炎をまとっていた。目の前を覆いつくす水の塊に比べれば、それは限りなく矮小なものに違いない。だが、相反する属性で消滅させんとする力を前にしても、失われることはなかった。大いなる水の中で、烈々と燃えているのだった。
 我が身など捨て置き、斑鳩はさらに圧力をかける。徐々に体との隔たりが生まれ、踏んばる花岡の足は退がっていく。いつもなら、今までなら、ここで終わりだった。家を出ていく兄を止められなかったあの日からずっと、届かない手を伸ばし、前を向くふりをしていたのだ。
 でも、これからは違う。心のままに生きなければ、見えている景色は嘘ばかりだ。
 水の中でひときわ強く、劫火(ごうか)が燃えさかる。
 牙が砕け、全身がはじけた。
 降り注ぐ雨の後にあったのは、穏やかな水のせせらぎと、立ち昇る白煙だけだった。いつか龍は、本来の流れへと還っていた。
 くたびれた体を地に投げ出し、斑鳩は絞るように言った。
「……この期に及んで峰打ちとは、どこまでも気に入らぬ奴だ」
 数年ぶりに聞く声はしゃがれていたが、それでも兄の声に違いなかった。
「我をどうする気だ」
 込み上げるものを抑え、花岡は答える。
「どうもしないさ」
「なんだと……?」
 憎々しげに目を剥いた。
「善人ぶるな。協会に引き渡すなりすれば良いだろう。それで貴様は、正式に花岡を継ぐことになるのだからな」
「僕は花岡流を継がない」
 驚きから言葉を失った斑鳩に、花岡は静かに語りかける。
「父さんも継げとは言わない。でもそれは、兄さんを連れ戻して継がせるためじゃない。本当はそんなこと、どうだっていい。どうだっていいんだよ、兄さん」
 どうでもいいはずはなかった。ゆえに自分は拘泥(こうでい)し、瓦解(がかい)し、憎しみに取り憑かれた。なのになぜ、そんなに真面目な顔で見るのか。
「……我をここで逃せば、再び貴様たちに仇をなす。何度でもだ」
「兄さんがそうしたいのなら、そうすればいい。戻っても戻らなくても、兄さんの人生なんだから」
「知ったふうな口を叩きおって……甘ったれた考えを壊されてから知るがいい」
「兄さんが僕の前に立ちはだかるというのなら、その度に止めてみせる。何度でもね」
 (てら)いなく、すっきりとした声だった。たとえ報われない道でも、歩むと決めている限り、それでよかった。
「ただ一つ、気になるといえば」と、花岡は続けた。
「その芝居掛かった話し方をやめたらどうだい。似合わないよ」
 そう言って意地悪く笑ってみせた。見たことのない表情に面食らったが、やがて斑鳩はぽそりと呟いた。
「言うように、なったな……」
 薄らいでいく意識の中で、水際に立つ弟の姿が見えた。暗がりで燃えていた炎は、いつか聞こえた波紋に揺れる。その目元には、かつての面影が差していた。
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