第4話

文字数 2,800文字

 ぷすんぷすんぷるるるるるるがくんがくっ。

 エンスト。
 甘かった。

「ご、ごめんっ」

 青に変わった信号を前に、バイクは慌てふためいた。
 歩行者信号の方を向き、点滅をじっと確認して、目の前の信号が青に変わったらすぐに飛び出せるよう身構えているようだったのだが、ちょっと構えすぎだと思っていた矢先だった。意識しすぎたのだ。自然にやればいいのに。

 スタートスイッチを押して再始動させた。今度は上手くやれよ、と胸中で呼びかける。これじゃオレがエンストさせたみたいじゃないか。

 後ろの車が、クラクションを一回鳴らした。

 音に追いたてられるように、バイクのメーターが一気にぶおんと上がった。馬鹿、ふかし過ぎだ。そのままクラッチに繋がり、エンジンががくがくっとまたおかしな音をたてた。待って、待ってとバイクは半泣き。

 苛立たしげに、またクラクションが鳴った。

 ヘルメットの中で溜め息をつき、孝之はバイクを降りた。バイクを押して道路の端に退けた途端、すぐ脇をかすめるようにして後続車が走り抜けていく。運転席に座った男が、睨むような視線を置き残していった。

 苛ついてるのはオレの方だよ。

「ごめんタカユキ……」
「四回目だ」
「ごめん。急がなきゃ、って思うと、自分が何やってるかわからなくなっちゃうんだ……」

 普通に道を走っているときはいい。前に車がいる場合は、問題なく走行できている。ついていくのはできるのだ。
 だが信号待ちから発進するとき――特に自分が先頭のとき、バイクはきまってエンストを続けていた。そうして後続車両からブーイングを喰らい、恥をかくのは孝之だ。

「まったく、なんで信号駄目かな……」
「焦っちゃうんだ、早く行かないとって。ぼくの速度が遅かったら後ろの奴らがイライラするだろうなって思うと、緊張しちゃうんだ」
「それでエンストしてたら世話ないだろうが」

 どうもこのバイクは、他人(他車?)のことを気にしすぎるらしい。みんなに迷惑をかけないように、苛々させないように――バイクにあるまじき、随分窮屈な走り方をしている。

「いいじゃねーかい。どんどんエンストしちまえ」
 蜘蛛が無責任なことを言う。
「何が道路だ。人間だけのもんじゃねー。いつもいつもスムーズに進めると思ったら大間違いだぜぇって、示してやろーってもんじゃあねえの」
「おまえは黙ってろ」
「なんだこの、人間がよう。一人で家も作れねぇ半人前が俺様に指図だってぇ――」
「いくぞ」

 幹線道路を走る間、なるべく信号に捕まらないよう祈った。右左折するときは早いうちに言ってね、心構えがあるから――というバイクの願いに応え、ウィンカーを出す前にハンドルを叩き、曲がるぞ、と知らせてやることにした。心構えもクソも、ウィンカー出して車線変更するだけだろと思うが、バイクいわく「割り込むタイミングが難しい」らしい。割り込む、なんて表現を使うあたり、こいつは車線変更にまで後続車の顔色を窺うつもりらしい。これは既に強迫観念だろうか。そこまで気弱なことでどうすると思う。日本の道路社会を渡っていけんぞ。

 なんとか辿り着いた街道沿いのショッピングモールで、孝之はフロアを駆け回った。最低価格の値段を確認して、用意しておいたメモに書き込んでいく。一つ書き込むたびに、溜め息が一緒について出た。予算が自分の銀行口座分しかない以上、引越し資金も考えれば最低限のものしか買い揃えられないだろうと覚悟はしていたが、それすら危うい。

 ジャンパーのポケットに手を突っ込み、折り畳んで仕舞いこんでいたチラシを探った。また溜め息が出た。

 一度就職先のオーナーに見せてもらった寮は、壁紙に染みが浮いていて、家具も潔いほどに何もついていなかった。当面、不便な生活にはなるが仕方ないと腹を括ったのだ。経験もなく、大学も途中退学になる――そんな立場で雇ってもらう以上、苦労は覚悟しなければいけない。

 孝之が就職を決めたのは、友人の細いツテを手繰った果てにあった、小さなデザイン事務所だった。大学の疎らな授業の合間を縫って始めたささやかな就職活動も、その頃になると、どこか諦めも感じ始めていた。面接で事情を打ち明けるとき、黙って話を聞いてくれるオーナーの前で、孝之はどこかで、でもやっぱり駄目だろうな、と思っていたのだ。
 だから、一緒に働きましょうという返事を貰ったときは、喜びよりも戸惑いが先に立った。数日経っても実感が掴めずにいた。それは誰にも相談をしなかったからかもしれない。会話の中で自分を確認する機会がないから、いつまで経ってもふわふわしたままなのだ。

 ――で、やっと打ち明けたらこうなっちゃうんだよな。

 店の中をぶらぶらと歩き回りながら、そのことを思うと気分が重くなった。
 事後承諾の形で報告する孝之を、和恵は泣きながら詰った。いたたまれなくなって、飛び出してきたのだ。

 仕方ないじゃないか。先に打ち明けていたら、今までの繰り返しだ。すっかり事が動き始めて、自分でも止められないところまで行き着くまでは、ブレーキなどかけられたくなかった。

「もういいの? じゃ、帰るんだね?」

 帰り道はずっと、どうやって話に折り合いをつけていくべきか、考えていた。どうやったら母を納得させられるだろう。自分のもやもやをわかってもらえるのだろうか。
 交差点の向こうにバイク屋が見えた。何年か前に、こいつを買った店だ。わずかに見据え、脇を通り過ぎた。今日はいいやと思った。また考えよう。

「またね、タカユキ。今日は楽しかった」

 月極駐車場の奥に停められたバイクは、疲れているようだったが、どこかさっぱりした声を出した。埃をかぶっていじけているより。踏み出して満足した奴は、きっとそういう声を出す。

「ちょくちょく、色々連れてくことになるけど、いいか?」
「うん。ぼくも頑張るよ。頑張って、タカユキに迷惑かけないように走れるようにする」
「ん」

 少し、嬉しかった。バイクの機嫌をとって喜んでいてどうするんだという気もするが、元気づけることができて嬉しい気持ちは、相手が人間だろうとバイクだろうと変わらない。

 いい気分で家の玄関を開けた。
 途端、気持ちはさっと吹き飛ぶ。リビングに通じるドアの向こうから、錐のように激した声が漏れて聞こえた。電話をしている。母の声だった。

「なんのために産んだと思ってるのよ。あまりに勝手じゃない」

 孝之は二階に上がって自分の部屋に入ると、思い切り音を立ててドアを閉めた。心の中で、わかりあおうという気持ちも叩きつけられて閉じた。
 自分の中で再確認した。絶対、決意を曲げないと。怒りは決意を固着する。あんな人のことなんて、もう気にするもんか。
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