蒼と赤・Ⅰ
文字数 3,486文字
***
『風の末裔』から幾年月
***
泥のように粘つく雲が、とぐろを巻いてゆっくりとうねっている。
雲の表面ギリギリを、蒼の妖精の女の子の駆る草の馬が、うねりに飛び込んだり吐き出されたりしながらジグザグに飛び回っている。
しかし、ヒタリと追走する黒い大鴉(おおからす)を振り切れない。
「ダメか」
舌打ちしながら進路を変えて、鴉の登れない高空を目指してみる。
しかしこの妖精も大した上昇力は持っていない。
鴉は余裕で先回りして、翼を広げて煽って来た。
このままでは馬が疲れて追い詰められる。
妖精はためらいながら剣の束に指を掛けた。
雲がグワリと乱れて、炎をまとった狼が飛び出して来た。
大鉈(おおなた)のような前肢と爪が一瞬で、鴉だったモノを、辺りに飛び散る羽根だけの存在にしてしまった。
「なめられてんじゃねぇ! どチビが!」
欲望の赤い狼は、自分と対峙する『蒼の狼』の名が気に入らなくて、『どチビ』とか『ちっこいの』としか呼ばない。
少年は間を取って『小狼(シャオラ)』と呼んでくれた。
女の子はその名の響きは結構気に入って、好きに呼んで貰っている。
(第一あんな小兵を振り切れないようでは、まだまだ蒼の狼は名乗れない……)
――獅子頭の少年・・彼の名はテムジンといった。
草原の平定は、英雄伝説に乗っかれたのもあり、比較的早かった。
元々混沌とし過ぎて、人も人外も収束を求めていた。
人外に関しては、何が出て来てもテムジンは動じなかったし、小物は赤い狼の一睨みで退散し、理性的な者には蒼の妖精の娘が話を付けに行った。
人の生業に、人外の協力を得るか得られないかの違いは計り知れない。
それをやってのけた少年が最速で若い王まで駆け上がれたのは、至極当然だったのかもしれない。
しかし草原から外に出ると事情が違った。
統治より征服の色が濃くなると、地元の人外部族の反感も買う。
小狼が頑張って駆け回るが、蒼の妖精その物が知られておらず、見た目の幼さに侮られる事の方が多くなった。
そして世界が広がると、同じレベルの敵とも出会う。
侵攻先の先陣に、魔物を使役する将軍がいた。
動物を模した小者の魔性を複数操れるようで、人間の兵士には見えないので始末が悪い。
砦に籠って出て来ないので、正体が分からない。人間の陰陽師か、高位の人外の協力を得られているのかもしれない。後者だと厄介だ。
その情報を探りに行った筈が逆に鴉を放たれ、危うく落とされる所だった。
(しかもまた赤い狼(アイツ)に借りを作ってしまった……)
野営の本陣は、崖を背にした河の側に張られていた。
最奥の、他の天幕より一回り大きい天幕の横に、女の子の草の馬はフワリと降り立つ。
立ち番の兵士がのんびりと会話している。彼らには妖精も草の馬も見えていない。
「ああ、殿はいつも陣を張る時は、御自身の天幕の横に無人の小さなパォを張らせるのさ。戦神(いくさがみ)を住まわせているのだと」
「縁起担ぎですか。豪胆な王とイメージが違いますね」
そんな会話の横をすり抜けて、小狼は王の天幕へ急いだ。
偵察して来た事を報告しに行くのだ。
しかし入り口の二重の御簾を潜(くぐ)った所で硬直して止まった。
そして林檎みたいな頬を更に真っ赤にし、風よりも早くその場を走り去った。
「今、入り口の布が上がったような?」
「……風だよ」
本陣を離れた崖の真下に小さな森があり、小狼は陣の雰囲気を抜け出したくなると、こういう木の多い所へ来る。
低い枝が重なってハンモックのようになった場所がお気に入りで、うつ伏せで手足をブラブラさせる。
「お――い」
呑気な声。
背が伸びて、王となって、父親になっても、この人の本質的な所は何も変わらない。
「軍議だよ―― 作戦パォに来て」
妖精の娘はゆるゆると身を起こすが、仏頂面で目も合わせない。
「ん~? どした、ご機嫌斜め?」
「こちらの奥方様が来られる日だとは、存じませんでした」
「あぁ、あの人はこちらの奥方様じゃなくて、あちらの三番目の人。いい加減俺の奥さんの顔くらい覚えてよ」
「あんなに大勢いたら覚えきれません!」
「しょうがないじゃん、子供いっぱい欲しいもん! 俺の代だけじゃ無理だもん、世界制覇!」
「…………」
この人は何処まで本気で何処からが冗談なのか分からない。
(でも、こんな人に着いて行こうって決めたのは自分だ)
最初は、自分の大好きな草原の戦火を収めて行ってくれるのが、単純に嬉しかった。
だが彼にとっての世界は、自分の思っていた範疇より遥かに広かった。
赤い狼の力も拍車をかけて、襲覇の勢いが止まらない。
本国を出た今、小狼は、ただただテムジンへの好意だけで側に居る。
(だから……その好意が、揺らいだ時が怖い)
妖精は小さく息を吐いて、テムジンの後に続いた。
大きな台座を囲んで、難しい顔をした面々が額を付き合わせている。
この辺りの地形図が墨で乱雑に描かれ、盤上に布陣を表す駒。係りが王の指示に従って駒を並べて行く。
「後、此処と此処。そんでこっちに数が少ないけど行動の早い部隊。あ、そこ、谷が切れ込んでいて騎馬が通れないから書き足しておいて」
臣下達は何故王が、居ながらにして敵の布陣を手中にしているのか、疑問に思っても今更聞かない。
いつもの事だし、違(たが)えていた事もない。余程優秀な間者を持っているか、さもなければ本当に戦神(いくさがみ)が憑いているのだろう。
目に見えない子供が台の端に腰掛けて、指差して教えているなんて、努々(ゆめゆめ)思わない。
あ、ここで鴉に……と言い掛けて、小狼は、慌てた指で駒をカタンと倒してしまった。
一同ギクリとなる。
「ん? 其処がどうかした?」
王は何でもないように独り言を呟く。
「ああ、ああ、あの鴉使いの砦か。確かに其処は気を付けなきゃね」
手元で駒をクルクル回して置き直す王を見ながら、本当に戦神が憑いているのかもしれない……と一同は思うのだった。
一通りの偵察の結果を告げれば、後は王と臣下達の軍議だ。妖精の娘に用はない。
小狼はさっさとパォを抜け出し、森へ戻った。
ところが定位置のハンモックには、赤い狼が陣取っていた。
野牛程の大きさにもなれる魔性だが、今は通常の狼サイズ。炎も静かで、身体の中心で燠を灯らせているだけだ。『のべつまくなしに炎を燃え立たせているような燃費の悪いバカじゃねぇ』らしい。
何にしても小狼は彼が苦手だ。長年行動を共にしているとはいえ、そもそもが相容れない相手。
でも言うべき事はちゃんと言わなきゃ……
「あの」
銀の三白眼が、妖精の娘をギロリと睨み上げる。
「先程は、ありがとうございました」
「別に」
心底面倒臭そうに吐き捨てられたが、いつもの事だ。言うべき事は言ったと、小狼は踵を返した。
「お前さぁ」
狼が妖精に自分から声を掛けるのは珍しい。
「向いてねぇぜ、戦場」
そしてそんな時は、ろくな事は言われない。
「そ、そうですね!」
一言返して小狼は駆け出した。
そんなの分かってる!
自分の小さなパォに飛び込んで、妖精はベッドにうつ伏せた。
しかしふてくされている暇もなく、入り口に獅子頭が顔を出した。
「饅頭食う?」
「軍議はいいんですか」
「終わったよ。今日明日でどうなる物でもない。向こうの出方待ち。使者が来るかもしれない。明日また偵察を頼むと思う」
「分かりました」
話を切ったつもりだが、王はまだ入り口で突っ立っている。
「まだ何か?」
「だから饅頭」
「いりません!」
王は心底困り顔をする。そういう顔が昔から変わらないのはずるい。
「……いただきます」
後で食べるから置いていってください、と言う暇もなく、王は隣にいそいそと来て、大きな饅頭を取り出して半分に割った。
「はい、大きい方!」
仕方なく饅頭をモソモソ頬張る。贅沢な材料を使った物なのは分かるが、味がしない。
「さっきの女性(ヒト)のさ、土産がこれ。センスとしてどうよ、色気がないと思わない?」
妖精は饅頭の塊をごくりと呑み込んだ。
「王が甘党だとご存知だったのでしょう。私が頂いてしまって申し訳なかったですね」
「険があるねぇ、んんん~? ヤキモチ?」
小狼が枕を振り上げて立ち上がった。
「だってしょうがないじゃん、お前いつまでたってもお子さまなんだもん」
王はひらりと出口に退避して、御簾の向こうに逃げたかと思いきや、もう一度顔を出した。
「鼻の頭、餡コ」
そして飛んで来る枕を尻目にサッサと消えた。
後に残された女の子は、呆然と固まった後、最大脱力してベッドに倒れ込む。
『風の末裔』から幾年月
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泥のように粘つく雲が、とぐろを巻いてゆっくりとうねっている。
雲の表面ギリギリを、蒼の妖精の女の子の駆る草の馬が、うねりに飛び込んだり吐き出されたりしながらジグザグに飛び回っている。
しかし、ヒタリと追走する黒い大鴉(おおからす)を振り切れない。
「ダメか」
舌打ちしながら進路を変えて、鴉の登れない高空を目指してみる。
しかしこの妖精も大した上昇力は持っていない。
鴉は余裕で先回りして、翼を広げて煽って来た。
このままでは馬が疲れて追い詰められる。
妖精はためらいながら剣の束に指を掛けた。
雲がグワリと乱れて、炎をまとった狼が飛び出して来た。
大鉈(おおなた)のような前肢と爪が一瞬で、鴉だったモノを、辺りに飛び散る羽根だけの存在にしてしまった。
「なめられてんじゃねぇ! どチビが!」
欲望の赤い狼は、自分と対峙する『蒼の狼』の名が気に入らなくて、『どチビ』とか『ちっこいの』としか呼ばない。
少年は間を取って『小狼(シャオラ)』と呼んでくれた。
女の子はその名の響きは結構気に入って、好きに呼んで貰っている。
(第一あんな小兵を振り切れないようでは、まだまだ蒼の狼は名乗れない……)
――獅子頭の少年・・彼の名はテムジンといった。
草原の平定は、英雄伝説に乗っかれたのもあり、比較的早かった。
元々混沌とし過ぎて、人も人外も収束を求めていた。
人外に関しては、何が出て来てもテムジンは動じなかったし、小物は赤い狼の一睨みで退散し、理性的な者には蒼の妖精の娘が話を付けに行った。
人の生業に、人外の協力を得るか得られないかの違いは計り知れない。
それをやってのけた少年が最速で若い王まで駆け上がれたのは、至極当然だったのかもしれない。
しかし草原から外に出ると事情が違った。
統治より征服の色が濃くなると、地元の人外部族の反感も買う。
小狼が頑張って駆け回るが、蒼の妖精その物が知られておらず、見た目の幼さに侮られる事の方が多くなった。
そして世界が広がると、同じレベルの敵とも出会う。
侵攻先の先陣に、魔物を使役する将軍がいた。
動物を模した小者の魔性を複数操れるようで、人間の兵士には見えないので始末が悪い。
砦に籠って出て来ないので、正体が分からない。人間の陰陽師か、高位の人外の協力を得られているのかもしれない。後者だと厄介だ。
その情報を探りに行った筈が逆に鴉を放たれ、危うく落とされる所だった。
(しかもまた赤い狼(アイツ)に借りを作ってしまった……)
野営の本陣は、崖を背にした河の側に張られていた。
最奥の、他の天幕より一回り大きい天幕の横に、女の子の草の馬はフワリと降り立つ。
立ち番の兵士がのんびりと会話している。彼らには妖精も草の馬も見えていない。
「ああ、殿はいつも陣を張る時は、御自身の天幕の横に無人の小さなパォを張らせるのさ。戦神(いくさがみ)を住まわせているのだと」
「縁起担ぎですか。豪胆な王とイメージが違いますね」
そんな会話の横をすり抜けて、小狼は王の天幕へ急いだ。
偵察して来た事を報告しに行くのだ。
しかし入り口の二重の御簾を潜(くぐ)った所で硬直して止まった。
そして林檎みたいな頬を更に真っ赤にし、風よりも早くその場を走り去った。
「今、入り口の布が上がったような?」
「……風だよ」
本陣を離れた崖の真下に小さな森があり、小狼は陣の雰囲気を抜け出したくなると、こういう木の多い所へ来る。
低い枝が重なってハンモックのようになった場所がお気に入りで、うつ伏せで手足をブラブラさせる。
「お――い」
呑気な声。
背が伸びて、王となって、父親になっても、この人の本質的な所は何も変わらない。
「軍議だよ―― 作戦パォに来て」
妖精の娘はゆるゆると身を起こすが、仏頂面で目も合わせない。
「ん~? どした、ご機嫌斜め?」
「こちらの奥方様が来られる日だとは、存じませんでした」
「あぁ、あの人はこちらの奥方様じゃなくて、あちらの三番目の人。いい加減俺の奥さんの顔くらい覚えてよ」
「あんなに大勢いたら覚えきれません!」
「しょうがないじゃん、子供いっぱい欲しいもん! 俺の代だけじゃ無理だもん、世界制覇!」
「…………」
この人は何処まで本気で何処からが冗談なのか分からない。
(でも、こんな人に着いて行こうって決めたのは自分だ)
最初は、自分の大好きな草原の戦火を収めて行ってくれるのが、単純に嬉しかった。
だが彼にとっての世界は、自分の思っていた範疇より遥かに広かった。
赤い狼の力も拍車をかけて、襲覇の勢いが止まらない。
本国を出た今、小狼は、ただただテムジンへの好意だけで側に居る。
(だから……その好意が、揺らいだ時が怖い)
妖精は小さく息を吐いて、テムジンの後に続いた。
大きな台座を囲んで、難しい顔をした面々が額を付き合わせている。
この辺りの地形図が墨で乱雑に描かれ、盤上に布陣を表す駒。係りが王の指示に従って駒を並べて行く。
「後、此処と此処。そんでこっちに数が少ないけど行動の早い部隊。あ、そこ、谷が切れ込んでいて騎馬が通れないから書き足しておいて」
臣下達は何故王が、居ながらにして敵の布陣を手中にしているのか、疑問に思っても今更聞かない。
いつもの事だし、違(たが)えていた事もない。余程優秀な間者を持っているか、さもなければ本当に戦神(いくさがみ)が憑いているのだろう。
目に見えない子供が台の端に腰掛けて、指差して教えているなんて、努々(ゆめゆめ)思わない。
あ、ここで鴉に……と言い掛けて、小狼は、慌てた指で駒をカタンと倒してしまった。
一同ギクリとなる。
「ん? 其処がどうかした?」
王は何でもないように独り言を呟く。
「ああ、ああ、あの鴉使いの砦か。確かに其処は気を付けなきゃね」
手元で駒をクルクル回して置き直す王を見ながら、本当に戦神が憑いているのかもしれない……と一同は思うのだった。
一通りの偵察の結果を告げれば、後は王と臣下達の軍議だ。妖精の娘に用はない。
小狼はさっさとパォを抜け出し、森へ戻った。
ところが定位置のハンモックには、赤い狼が陣取っていた。
野牛程の大きさにもなれる魔性だが、今は通常の狼サイズ。炎も静かで、身体の中心で燠を灯らせているだけだ。『のべつまくなしに炎を燃え立たせているような燃費の悪いバカじゃねぇ』らしい。
何にしても小狼は彼が苦手だ。長年行動を共にしているとはいえ、そもそもが相容れない相手。
でも言うべき事はちゃんと言わなきゃ……
「あの」
銀の三白眼が、妖精の娘をギロリと睨み上げる。
「先程は、ありがとうございました」
「別に」
心底面倒臭そうに吐き捨てられたが、いつもの事だ。言うべき事は言ったと、小狼は踵を返した。
「お前さぁ」
狼が妖精に自分から声を掛けるのは珍しい。
「向いてねぇぜ、戦場」
そしてそんな時は、ろくな事は言われない。
「そ、そうですね!」
一言返して小狼は駆け出した。
そんなの分かってる!
自分の小さなパォに飛び込んで、妖精はベッドにうつ伏せた。
しかしふてくされている暇もなく、入り口に獅子頭が顔を出した。
「饅頭食う?」
「軍議はいいんですか」
「終わったよ。今日明日でどうなる物でもない。向こうの出方待ち。使者が来るかもしれない。明日また偵察を頼むと思う」
「分かりました」
話を切ったつもりだが、王はまだ入り口で突っ立っている。
「まだ何か?」
「だから饅頭」
「いりません!」
王は心底困り顔をする。そういう顔が昔から変わらないのはずるい。
「……いただきます」
後で食べるから置いていってください、と言う暇もなく、王は隣にいそいそと来て、大きな饅頭を取り出して半分に割った。
「はい、大きい方!」
仕方なく饅頭をモソモソ頬張る。贅沢な材料を使った物なのは分かるが、味がしない。
「さっきの女性(ヒト)のさ、土産がこれ。センスとしてどうよ、色気がないと思わない?」
妖精は饅頭の塊をごくりと呑み込んだ。
「王が甘党だとご存知だったのでしょう。私が頂いてしまって申し訳なかったですね」
「険があるねぇ、んんん~? ヤキモチ?」
小狼が枕を振り上げて立ち上がった。
「だってしょうがないじゃん、お前いつまでたってもお子さまなんだもん」
王はひらりと出口に退避して、御簾の向こうに逃げたかと思いきや、もう一度顔を出した。
「鼻の頭、餡コ」
そして飛んで来る枕を尻目にサッサと消えた。
後に残された女の子は、呆然と固まった後、最大脱力してベッドに倒れ込む。
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