4 交響曲 第五番 運命

文字数 5,786文字

 感傷に浸る間もなく舞台は進行する。
 司会者が言っていた通り、合唱団が左右に下がると、間を置かず、指揮者がタクトを構えた。

 ベートーヴェン作曲『交響曲 第五番 運命』
 二人にとっての最後の時間が始まった。残された時間は三十分。

 緒方祐衣が本西健人と出会ったのは大学の体育の授業だった。体育の授業では幾つかの種目から選択できたので何となく野球を選んだ。祐衣は野球の経験が全然なくて、友達には、カエルが暴れている投げ方だと言われた。それでも、健人がボールの投げ方を教えてくれたので、たちまちに上達した。そんな感じのごく普通のきっかけだった。
 高校時代に祐衣が付き合っていた相手はクラスの人気者だった。その彼が祐衣を選んでくれたのは嬉しかった。けれど、周囲の女子生徒からは羨望と嫉妬の目で見られ、交際は三か月しか続かなかった。そんなことがあったので、大学に入って付き合うとしたら、どちらかというと目立たない人がいいと思った。その点、本西健人はクラスでもグループでも、その他大勢のうちの一人だった。
 絶対に彼が好き、好きで好きでたまらないというような恋愛ではなかったと思う。
 その当時、2021年に入学したとき、大学は新型コロナ対策をとっていた。授業は、通常の体面形式とリモート授業とが半々くらいの割合だった。二人は週に三日くらいは学内で顔を合わせていた。通学しない日、祐衣はリモート授業が終わると彼の部屋に行ったりもした。
 交際は順調だったが、最初の違和感は去年の暮だった。
 健人は大学から二駅のところにアパートを借りていた。彼の部屋に泊った夜、夕食のことでちょっと口論になった。その日はコンビニ弁当にしたのだけど、健人は、今度は祐衣が作ってくれないかと言い出した。祐衣は実家暮らしで料理なんか作ったことない。そう答えたら家庭的でないと思われたようだった。
 たぶん、その日からズレ始めたかもしれない。
 それは、恋人同士にはよくある些細なことで、そこからしばらく交際は続いた。けれども、新学年になるタイミングで別れることにした。交際中、健人のことが大好きで、他の人には取られたくないと、そこまでは思わなかった。だから、別れ話もすんなりまとまった。彼は、ゴールデンウイークの前に別れた方がいいよねと、言ってくれた。長い休みの間に、祐衣を縛り付けることなく自由にしてくれたのだった。それには感謝の気持ちでいっぱいになった。
 そんな思いを載せて、『運命』の第一楽章は流れていく。
 『運命』は、最初のテーマを何度も繰り返し、それは深刻な感情を抱かせる。祐衣は何度か聴いたことがあるけれど、今日はこれまでになく重苦しく聴こえた。もちろん、彼と最後の日だから、付き合っていた日のことを思い出してズシリとくるのだ。それに、『フィンラディア』と『ワルシャワの生き残り』から続けて『運命』を聴くと、なおさら胸に迫るものがあるのだった。
 第二楽章に入って、テンポは緩くなってきた。
 祐衣はますます息苦しさを感じた。祐衣の左手は健人の右手を握っていた。さっきから、ずっと手を繋いでいる。

 ***

 アレクサンドルはイヴァンの家を訪ねた。彼の死を家族に伝えるためだった。両親に、どう切り出したらいいものかと考えると足が重くなった。イヴァンの家が見えてきた。アレクサンドルはそこで立ち止まって、ああ、と言った。彼の家は屋根が落ち、壁も壊れて向こうの景色が丸見えだった。家の前には、イヴァンの乗っていた車がロシア軍の戦車の下敷きになっていた。カテリーナの家と同じく、ここにも人の姿はなかった。
 最悪のことしか考えられなくなった。ロシア軍が侵攻してから最悪続きだが、彼らが去った後には最悪のレベルを突破してしまった。
 アレクサンドルは聖アンドリュー教会へ行くことにした。カテリーナは家族と共に教会に避難しているかもしれないと思った。そうだった。リュドミラの家に隠れていたとき、彼女の夫が教会で働いていると言っていた。ロシア兵は教会には押し入ってこないと、そう言った。
 きっと、そうだ。少しだけ希望が見えてきた。

 **

 緒方祐衣は隼人と手を繋ぎ合ったままだ。この手を放したくない。彼の皮膚に爪が食い込むほど強く握りしめた。
 健人はいつも「緒方さん」と呼ぶのだった。普通に、祐衣でいいのに。付き合い始めたときから、ずっと、「緒方さん」だ。祐衣もそれに習って彼を呼ぶのに「健人さん」と、さん付けにしている。だから、半年経った今でも、何となく打ち解けない。それも別れる理由の一つだった。
 健人に祐衣と呼んでほしかった。
 何てことを考えているんだろう。恋人同士の呼び方なんて、人それぞれだし、どうでもいいではないか。
 ベートーヴェンの『運命』はどれくらいの長さだったか。たぶん、三十分ぐらい。案外短い曲だ。もっと長ければよかったのに。そうすればもっと健人といられる。
 やっぱり、料理も出来なきゃダメだと思う。女子力が足りなかったかもしれない。次に付き合う彼には肉ジャガを作ってあげよう。
 次の彼? 新しい彼・・・果たして見つかるだろうか。
 健人と別れるなんて言わなければよかった。どうして、別れることになったのだろう。料理がきっかけだった。いや、そんなはずはない。そんなつまらない理由で別れ話が出るわけがない。そう、健人は、そんな理由で別れ話を持ち出すような男ではないと思う。
 でも、緒方さん、でなくて、祐衣って呼んで欲しかった。せめて、別れるこの日に。
 だって、好きだから。
 祐衣って呼んでくれたら・・・「祐衣、祐衣、元気でな、祐衣」
 祐衣は好き。
 少しだけ希望が見えてきた。

 ***

 アレクサンドルは聖アンドリュー教会へ急いだ。きっと、そこにカテリーナが身を寄せているはずだ。道路に放置されている遺体があるのを見た。その度に立ち止まってお祈りをした。ロシア軍の戦車や装甲車も乗り捨てられている。不発弾や地雷があるかもしれないので安全を確かめながら歩いた。もう少しで教会が見えてくる。
 通りの左方向から叫び声が上がった。あっちだ、逃がすなと怒鳴る声が聞こえる。郷土防衛隊の隊員だろうか、がっしりした身体の男が一人駆け寄ってきて、
「ロシア兵を見なかったか」
 と訊いた。アレクサンドルが首を振ると、男はまた駆けていった。
 ロシア軍の残党がまだ隠れているのだ。アレクサンドルは念のため家の塀に身を寄せて周囲の様子を確かめた。家の玄関には子供用の自転車が横倒しになっている。ボールも転がっていた。この子は無事だっただろうか・・・
 そのとき、二軒先の家から若い男が顔を覗かせた。キョロキョロと辺りを警戒している。間違いない、ロシア軍の兵士だ。兵士はアレクサンドルと目が合ったとたん、反対方向へ走り出した。アレクサンドルは反射的に追いかけた。
 その兵士は軍服を脱いで長袖のシャツ一枚だった。銃を持っているかもしれないが、不思議と恐怖は感じなかった。イヴァンの仇だ。捕まえて検問所の仲間の仇を取ってやる。捕まえるだけでは気が済まない、銃を奪って撃ち殺しても構わない。
 しかし、相手も必死だ。道路の段差に躓き、植木鉢にぶつかりながら、それでも走り、角を曲がった。アレクサンドルは見失ってしまった。アレクサンドルは追うのをやめて元の道へ戻った。一人では捕まえるのは難しいから、誰か援軍を頼もう。警戒しながら歩いて行くと、子供用の自転車とボールがあった家まで来た。
 その先の崩れたレンガ塀のところに、見失ったロシア兵が蹲っていた。よく見ると、若い男だ。あちこち逃げ回ったとみえてシャツもズボンも泥まみれだった。撤退した部隊に置き去りにされたのだろう。だが、赦すわけにはいかない。イヴァンの仇だ。この手で捕まえて復讐してやる。
 アレクサンドルが一歩踏み出しとき、兵士が気付いて、こちらを振り向いた。兵士は慌てて立ち上がる。武器は持っていないようだが、兵士だから用心しないといけない。接近して組み合うのは危険だ。アレクサンドルは、足元に転がっていたボールを見つけた。
 パスは正確だ。イヴァンが受け損なっただけだ。イヴァンは身をかわせたが、ロシア兵にはそんな芸当はできやしない。
 ボールを蹴った。
 アレクサンドルが狙いすませて蹴ったボールは、カーブを描いてロシア兵の右足首に命中した。
 兵士が小さく叫んでつんのめって地面に倒れ込んだ。アレクサンドルは背後から飛びついた。兵士の持っていたナイフが転がった。打ち所が悪かったのだろう、兵士はあっけなく抵抗をやめた。アレクサンドルは胸の上に跨り、ナイフを手繰り寄せた。無言でナイフの刃先を兵士の首筋に押し当てた。
 殺してやる。イヴァンと検問所の仲間たちの仇を討ってやる。
 下になった兵士が、助けてと言った。たぶん、そう言った。酷い訛りのロシア語だ。ロシアの正規兵ではなく、カザフスタンとかチェチェンの出身だと思った。出稼ぎのつもりで入隊し、前線に送られたに違いない。
 兵士が怯えた目付きで見上げる。殺さないでと訴えている。
 しかし、同情は禁物だ。

 アレクサンドルはナイフを振りかぶった。
 ナイフはしかし、兵士の耳元を掠めて地面に刺さった。

 人は殺せない。殺してはいけない。
 正常な神経の持ち主であれば、人を殺すことなどとうていできはしない。たとえ戦場であってもだ。
 アレクサンドルには人を殺せない。
 この哀れな兵士にも、帰りを待つ家族がいるだろう。恋人もいるだろう。ロシア兵であっても、これ以上、悲しむ人を増やすことはしたくない。
 アレクサンドルは立ち上がった。この兵士を捕虜として連行することに決めた。そこへ物音を聞き付けた郷土防衛隊の隊員がやってきたので、ロシア兵の身柄を引き渡した。
「よくやってくれた、礼を言う」
「仲間の敵討ちです。検問所にいた友人が犠牲になりました」
「そうだったのか・・・これからどこへ行くんだ。他にもロシア兵が逃げ回っているから注意してくれ」
「聖アンドリュー教会へ行きたいんです」
 それを聞いて郷土防衛隊の隊員の顔が曇った。聖アンドリュー教会にも攻撃があったのだろうか。
「何か、あったんですか、教会に。砲撃されたんじゃないでしょうね」
「いや、教会は無事だ・・・教会の空き地に臨時の墓地を造って、放置された人を仮埋葬しているとのことだった」
 アレクサンドルは教会へ急いだ。
 郷土防衛隊の隊員の話では、教会の建物は被害がなかったらしい。それは安心できる情報だ。だが、臨時の墓地という言葉を聞いて不安になった。
 屋根が見えるところまで来た。
 歌声が聴こえた。立ち止まって耳を澄ませる。確かに微かな歌声がしている。あのメロディー、あの歌、フィンラディアの歌だった。
 あの歌声の中にカテリーナがいるはずだ。
 カテリーナ、待っていてくれ、カテリーナ。
 カテリーナ、そこにいて、そこにいて、カテリーナ。
 きっと、彼女はそこにいる。

 ***

 『運命』の第三楽章は、ダダダ、ダンと繰り返す。それが、ひたひたとクライマックスへ向かっているように感じた。
 緒方祐衣はオーケストラの奏でる音に身を任せ、そして、隣にいる本西健人に身体を寄せてみる。肩に触れるか触れないかのギリギリの姿勢。何度も彼の腕に抱かれ、身体をあずけた。祐衣が覚えているのは、心地よかったことだけだ。
 健人が好きだ。別れるなんて言い出さなければよかった。
 どうして別れ話が持ち上がったのだろう。そうだった・・・祐衣はその理由を思い出すのをやめた。いや、理由なんか忘れてしまった。
 ここまで聴いた音楽が蘇る。
 『フィンラディア』と『ワルシャワの生き残り』。
 かつて、フィンランドはロシアの圧政に苦しみ、また、アウシュビッツでは多くのユダヤ人が殺害された。そして、ウクライナの人々は、突然の侵攻で人生が一変した。過去にも現在にも運命に翻弄される人々がいる。
 このコンサートが始まるまで、本西健人と出会ったことも別れることも、以前から定まっていた運命だと思っていた。恋と愛が、この世界の全てだった。
 けれども、『フィンラディア』と『ワルシャワの生き残り』、そして『運命』を聴いて、その気持ちが変わった。
 この世界には、自分の意思と関わりなく、愛し合う相手と離れ離れにならざるを得ない人たちがいる。
 それに比べれば、健人との別れを、少し大げさに考えすぎていたのかもしれない。
 恋も、愛も、人生において、すごく大切で重要なことだと思う。一つ一つの恋愛を一生懸命にやりたい。結論を急ぐことはやめよう。
『運命』は第四楽章へなだれ込んだ。
 今度は、ひたすらクライマックスへと突き進む。
 しかし、クライマックスは来ない。
 緒方祐衣は本西健人と別れるのをやめて、もうしばらく交際を続けたいと思った。
 けれど、健人はどう思っているだろう。また不安になる。健人は別れるスケジュールを作成し、ディズニーランドへ行き、最終日に、このコンサートに来ることを提案した。
 それを、今さら、思い直してくれませんか、別れるのをやめてくれませんかとは言い出しにくい。
 何かいい方法はないか。まだ、迷う。
 『運命』は、ついに最終盤、コーダに入った。弦楽器の弓はせわしなく動き、トランペットとトロンボーンが鋭く咆哮し、ティンパニーが激しく叩かれる。その一拍、一拍が、祐衣の身体を震わせた。ピッコロが空気を切り裂くように響いた。 
 そうだ、コンサートホールに入るとき、六本木ヒルズの近くで、ウクライナ支援の活動をやっていた。そこに、金髪のきれいな少女がいた。
 来るときは、急いでいたので募金しなかった。コンサートが終わったら、健人と一緒に行こう。
 そして、もし、あの場所に金髪の少女がいたならば、健人に交際を続けたいと告白してみよう。
 彼女はウクライナの少女だ。
 健人と最後の日になるか、それとも、まだ交際が続くのか。彼女があの場所にいれば、交際は続ける。けれど、彼女がいなければ・・・きっぱりと交際はやめる。
 彼女の名前は何だろう。
 金髪のきれいな彼女の名前は・・・名前は分からない。
 彼女がそこにいれば健人と別れない。
 そこにいて、そこにいて。
 きっと、彼女はそこにいる。

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