第1話 序章「サボテンの花」
文字数 6,241文字
ここは地の果て魔王城――大陸を二分する魔族の本拠地であり、魔族を統べる魔王の居城である。
「見たまえヴェルネガーくん、サボテンの花が咲いている」
「咲かせないでください魔王のくせに」
現在人類と魔族は休戦条約を締結し、つかの間の平和な時代。
だもんで、魔王をしてガーデニングにうつつを抜かす有様であった。
「くせにってキミィ、魔王に向かって失礼な」
腹心の部下、“智将”ヴェルネが―の冷たい物言いに抗議する魔王。
彼がその気になれば、山の一つを消し飛ばすこともできれば、海の一つも干上がらせることもできる。
無論、無礼な口を利く部下を粛清することも容易である。
だがこの魔王はそれをしない。
平和主義者――ということもある。
意外に思うが、魔族といっても好戦的な者ばかりではない。
だがそれ以上に、ヴェルネガーは大変優秀な部下なのだ。
どれくらい優秀かというと、魔王がサボテンに花を咲かせるほど仕事をサボっていても、特に滞りなく魔王城の運営ができてしまうくらい優秀なのだ。
「いい加減仕事してください」
だが、いくら優秀なる才女ヴェネルガーをもってしても、できないこともある。
「本日はお客様もいらっしゃいますので」
それが、公的な「接見」である。
魔族であろうが人類種族であろうが、一定の地位を持つ者が訪れた際、王が直々に面会し、その労をねぎらい、信頼と結束のアピールをしなければならない。
むしろ、複数の氏族が連合を組む形で構成されている魔族は、下手な人類種族の国家よりも、そういった点が重要だったりする。
要はまぁ、形式的な大人のやりとりなのだ。
「めんどくさいなぁ! どうせあれでしょ、深海卿でしょ?」
あからさまに嫌そうな顔をする魔王。
「あの人なんでしょっちゅう来るの? ヒマなの? 海ヒマなの?」
深海卿は、魔族四天王の一人にして、海洋に棲む魔族の長。
その勢力範囲と配下の数は魔王軍屈指である。
「そんなに嫌いですか、深海卿?」
「好きか嫌いかで言われるとね、大嫌い」
ヴェネルガーに問われ、魔王は即答する。
「だってあの人ヌルヌルしてるじゃない」
「外見的な特徴で人を差別するのはいただけませんよ」
「そうじゃなくて、性格が」
「ああ、たしかに」
一時は諌めたヴェネルガーだったが、その答えを聞いて納得する。
「あの人さぁ、なんでああネチネチネチネチしつこいの? 百年前の新年会の時の箸の置き方のことまでぐちぐちと……」
言いながらため息をつく魔王。
深海卿は海棲魔族の長、故にその姿も、海棲生物に近しい姿をしている。
だが、だからといって、クジラやイルカ、もしくはシャチやサメやマグロといったものではない。
「あの姿見ればわかるでしょうよ。なにあの触手三昧」
イカやタコ、イソギンチャクやアメフラシと言ったような、軟体の、ヌルヌルとした、触手と触腕がこれでもかと生やした姿をしているのだ。
「なんていうかねぇ、性格って出るよね、姿に!」
「それも問題発言ですよ……」
「ともかく僕ァ接見はお断りだよ。風邪ひいたとか言っといて」
「魔王が風邪に感染したって、それもどうでしょう?」
天地の間にある万物は、等しく光と闇に分かれるとされており、病は体内の「闇」の気が高まりすぎたがゆえに引き起こされると言われている。
だが逆にいえば、すべての「闇」の統括者たる魔王は、そもそも「闇」を極めているので、病気に罹ることはないのだ。
「んなモン、適当に理由つけといてよ。ともかく僕ァ会わないよ!」
「ご安心ください。来られたのは深海卿ではありません」
「え、そうなの? って……」
そこで、魔王の顔が青ざめる。
ドクロを模した、王冠と一体化した仮面を始終かぶっている魔王の顔が、その仮面を越しでもわかるくらい「青ざめ」ていた。
「まさか、それって………」
魔王軍四天王のうち、邪竜卿はすでにこの世になく、深海卿は来ていない。残る二人のうち、一人はヴェネルガーである。
そうなると、残るはただ一人――
「うわぁー!? あの人来ちゃったの!? もっとダメだよ! 居留守居留守! 面会謝絶!!」
その者の到来を知り、魔王はあからさまにうろたえた。
魔族の王の沽券に関わる姿だが、そんなことはどうでもいい話だった。
「オーホッホッホッホッホッホッホッ!!」
「この声は!?」
突如こだまする女の笑い声。
魔王には覚えのある声であった。
魔王軍四天王一人、“淫靡卿”――アルア・ドネア・リアの声であった。
「お久しぶりですわね、魔王様………あらあらうふふ」
天井から、舞い降りるように、優雅に、それでいて淫らに降り立つアルア・ドネア。
「アルア……いつから天井に張り付いていたのだね?」
「この城に入ってすぐに、屋根裏を伝いに伝って」
「アホかね君は」
「あらあらうふふ」
呆れる魔王に、アルア・ドネアはその言葉もまるで自己への賞賛を受けたように自慢げに笑う。
淫靡卿の名の通り、アルア・ドネアの姿は、ともすれば娼婦のようであった。
だが、ただの淫婦ではない。
体全てから放つ甘い香りは、嗅ぐ者全てから理性を奪い取り、どれだけ貪ろうが決して尽きることのない欲望の泥沼に引きずり込む、退廃と堕落の娼姫。
彼女がその気になれば、一国の男たちを虜にし、百年の繁栄の都を、一月もたずして廃墟にすることも可能だろう。
彼女は淫魔――サキュバス族の長なのだ。
(やれやれ……)
面倒くさそうに頭を振る魔王。
彼女の淫靡の力は、人間どころか魔族にも有効だ。
それも、中級上位に位置するものでも抗うことは難いだろう。
とはいえさすがに魔王相手には魅了を果たすことは不可能だが、それでも、「濃い香水の匂いに包まれる」程度には辟易する。
「一体、今日はなんの――」
「『ヨルムンガルド』で、おもしろいことをはじめたそうね?」
用だ――と魔王が言うよりも早く、アルア・ドネアは問う。
「あいかわらず……耳ざとい」
アルア・ドネアは、魔王軍の中での勢力は、邪竜卿や深海卿には大きく劣る。
しかし、彼女の一派は人型魔族が多く、高度な知性を持つ者が多い。
そのため、人類社会に潜入しての、諜報工作に長けているのだ。
いわば、魔族軍の諜報機関の長官のようなものである。
「大陸の端っこで朝起こったことも、その日の夕方にはワタシの耳に入るわよ」
「だろうね、ああ恐ろしい」
うそぶく魔王だが、言っていることは真実であった。
単純な戦力なら、彼女は弱い。
無論、そこらの高位魔族を遥かに凌駕しているが、それでも四天王や魔王など、魔族軍最高幹部の中では、一歩劣るところがある。
しかし、彼女を本気で潰そうとすれば、魔王でも手こずる相手なのは間違いない。
「こういうのも、人間力っていうのかねぇ」
魔族なのに“人間”力とはこれいかに――などと思いつつ、魔王はつぶやく。
「で、なんだい? 『ヨルムンガルド』がどうかしたかい?」
「あら連れないこと言うわね魔王さまったら」
魔王軍は現在、大きく分けて二つの勢力がある。
そのものズバリ、人類種族との「和平派」と「好戦派」である。
魔王は前者、ヴェルネガーも同じく。
今はなき邪竜卿と、魔王と仲が悪い深海卿は後者である。
そしてアルア・ドネアといえば、彼女も「和平派」なのだ。
「あそこは『和平派』の仕切りでしょう?」
「君は『和平派』とはちょっと違うだろう?」
アルア・ドネアが『和平派』なのは、様々な思考はあるのだろうが、極論すると「人間を滅ぼせば、人間を食べられなくなる」からである。
この「食べる」は、捕食という意味ではない。
性的な意味である。
「まぁね、人間が滅んだら人間の童貞も滅ぶじゃない」
彼女の好物は、オスの精気。
魔族のものも好物だが、人間のそれが特に大好物である。
そういう「嗜好」の意味では、この大陸で最も、平等な視点を持っている存在と言えた。
彼女の目から見れば、魔族も人類種族も、等しく「ごはん」なのだ。
「君にとっちゃ、どうでもいいだろ別に」
魔王立教育機関「ヨルムンガルド」――そこは、疲弊した魔族が、次代の人材育成のために作られた教育機関である。表向きは……
「あなた、ワタクシに内緒にしていたこと、あるでしょ?」
「なにが?」
アルア・ドネアの視線を、魔王は正面から見つめ返す。
魅了の力を持つ淫靡卿の眼。
人間ならば、たとえ半世紀修行を積んだ高僧でも、骨の髄まで溶かされ、彼女のなすがままの人形と化すだろう。
だが、魔王にはそれも通じない。
「僕が君に隠さなきゃけないことなんてないよ。隠したってバレるんだから」
(この女……あの事に気づいたのかな……?)
顔色どころか声色にも変化を見せず、しかし心中で魔王は訝しむ。
「ヨルムンガルド」は、ただの養育機関ではない。
現在、ただの「休戦中」である、魔族と人類種族が、「和平」に至るための人材を育成するための場所。
そんなことを、もし「好戦派」の連中に知られれば、魔族は割れる。
(もしそうだとしたら、考えないといけないねぇ……)
「最悪の手段」まで脳裏に浮かべる魔王に、アルア・ドネアは答える。
「人間の、教師を雇ったそうじゃない?」
「………!」
アルア・ドネアの顔から笑みが消え、魔王の顔に、わずかに険しさが生まれる。
「淫靡卿様……魔王さまは――」
「おだまり無駄巨乳」
ヴェネルガーがとっさに口をはさもうとしたが、それも拒まれる。
同じ四天王であるが、若手のヴェネルガーと、魔王に継ぐ長命であるアルア・ドネアでは、様々な意味で“格”が違う。
「君にいちいち相談しなければならないようなことではなかったと思うが?」
「やぁね、仲間はずれ?」
再び、魔王とアルア・ドネアの視線がぶつかりあう。
「そんないやらしいことするのなら……ワタクシ、他の人のところに仲間入りしちゃおうかしら……」
「冗談でもそんなことを言うんじゃない。君に言うほどのことじゃないという意味さ」
アルア・ドネアが、深海卿の派閥に移れば、それだけですぐには瓦解しないが、魔王軍は揺れる。
実際に移らなかったとしても、匂わせるだけで、組織は揺れてしまうのだ。
それをあえて「冗談」と言うことで、魔王は事の矮小化を図った。
「あんな閑職の人事案件の一つを、魔王軍四天王の一人にまで伝える必要はなかろう? ただの人類種族の裏切り者だ。置いておいても損はないと考え、窓際部署に送っただけさ」
「ふぅ~ん……そんな取るに足らない人事案件を、なぜか魔族の最高権力者が把握しているのね」
「…………ちっ」
一見すれば、彼女はただの色情狂に見えるだろう。
それもまた事実の姿である。
だが、彼女のこの鋭さは、ある意味で、万の軍勢を率いる者以上に厄介なのだ。
「その人間……あなたが関与しなきゃいけないほどの重要な人物なの? もしくは、そこまでの、“なにか”を、させたいの?」
魔王は答えない。否、応えない。
今この状況でなにを言っても、意味はない。
(おおよそ殆どを掴んでいるのだろうな。その上で、僕にゆすりをかけ、自分の推測に確信を得ようとしている……困ったなぁ)
さてどう答えようか、そう魔王が心中で腕を組んだとき、アルア・ドネアはさらなる質問を、とてもとても奇っ怪な質問をした。
「一つだけ答えて……その人間、童貞?」
「はぁ?」
これにはさすがに、魔王もポーカーフェイスを貫けなかった。
「あの、それ、重要……?」
思わず問い返してしまった。
彼女の嗜好は、「童貞好き」である。
だが、休戦条約を締結してしまったため、魔族はみだりに人類種族領に入れない。
四天王クラスのアルア・ドネアとなればなおこのことである。
その結果、自分の大好物の「人間の童貞」を保護するために休戦派になったのに、その大好物を食いに行けなくなってしまったのだ。
「あの~……アルア・ドネア? いいかい? 確かに、彼は……その……童貞だけど、君が好むようなタイプじゃないよ?」
アルア・ドネアとて、見境なしではない。
いや、見境はかなりないが、それでも、趣味嗜好はある。
「彼は、君が好きな、すね毛生えてない系の美ショタじゃないよ?」
どっちかというと、すね毛生えている系の、むっさい男である。
「誰がそんな話をしたのよ」
「え?」
てっきり、魔族領に入り込んだ人類種族の童貞を食いに行こうとしているのかと思ったら、アルア・ドネアの反応は予想に反したものだった。
捕食のため、というより、むしろ別の――
「変なことにならなきゃいいけど……ま、いっか」
「ん?」
勝手に納得すると、アルア・ドネアは、くるりと踵を返し、もう要は終わったとばかりに魔王の部屋から退出しようとする。
「アルア・ドネア……いや、淫靡卿? 君、一体何しに来たんだい?」
相手に探りを入れる……ではなく、心からの疑問を、魔王は向けた。
「別に、もう用は終わったわ……ついでだから、適当に男ナンパして帰るわ」
「そのついでやめてくんない?」
魔王の言葉にもそれ以上答えず、アルア・ドネアは去っていった。
「何しに来たんでしょう?」
「さぁて」
智将とさえ呼ばれるヴェネルガーでも読みきれぬアルア・ドネアの内心。
魔王にも、推測も予測もできなかった。
「あんな方でも、元“神”というのが信じられませんね」
「まぁそれを言っちゃあいけないよ」
魔族たちの中では、高位の存在は土着神や、「主」という形で、信仰の対象になっていたもののいる。
ましてや魔族最高幹部クラスとなれば、現在人類種族が信仰している「絶対なるもの」が現れるまで、いわゆる「旧世界」においては神であった者たちなのだ。
深海卿はまさに「海神」であったし、邪竜卿は「戦神」であった。
淫靡卿もまた、かつては“女神”と呼ばれた女なのだ。
「ちなみに、なんの神だったんですか、あの人?」
「あ~……それはねぇ」
ある意味で「それっぽい」のだが、聞けば意外な答えを、魔王は言うかどうか悩む。
(まぁしかし………変なことが起きなきゃいいけどねぇ)
それよりも、目下の悩みは、アルア・ドネアが「なにを憂慮しているのか」「それはヨルムンガルドに関係あるのか」もっと言えば……
(クトゥ―くん、またなんか起こしそうなのかな?)
今さっきまで話題に出ていた、人間の青年のことを頭に浮かべる。
なにかしら、やっておかねばならない。
最悪の事態が起こる前に、最低でも、最悪は回避できる程度の工作を。
「見たまえヴェルネガーくん、サボテンの花が咲いている」
「咲かせないでください魔王のくせに」
現在人類と魔族は休戦条約を締結し、つかの間の平和な時代。
だもんで、魔王をしてガーデニングにうつつを抜かす有様であった。
「くせにってキミィ、魔王に向かって失礼な」
腹心の部下、“智将”ヴェルネが―の冷たい物言いに抗議する魔王。
彼がその気になれば、山の一つを消し飛ばすこともできれば、海の一つも干上がらせることもできる。
無論、無礼な口を利く部下を粛清することも容易である。
だがこの魔王はそれをしない。
平和主義者――ということもある。
意外に思うが、魔族といっても好戦的な者ばかりではない。
だがそれ以上に、ヴェルネガーは大変優秀な部下なのだ。
どれくらい優秀かというと、魔王がサボテンに花を咲かせるほど仕事をサボっていても、特に滞りなく魔王城の運営ができてしまうくらい優秀なのだ。
「いい加減仕事してください」
だが、いくら優秀なる才女ヴェネルガーをもってしても、できないこともある。
「本日はお客様もいらっしゃいますので」
それが、公的な「接見」である。
魔族であろうが人類種族であろうが、一定の地位を持つ者が訪れた際、王が直々に面会し、その労をねぎらい、信頼と結束のアピールをしなければならない。
むしろ、複数の氏族が連合を組む形で構成されている魔族は、下手な人類種族の国家よりも、そういった点が重要だったりする。
要はまぁ、形式的な大人のやりとりなのだ。
「めんどくさいなぁ! どうせあれでしょ、深海卿でしょ?」
あからさまに嫌そうな顔をする魔王。
「あの人なんでしょっちゅう来るの? ヒマなの? 海ヒマなの?」
深海卿は、魔族四天王の一人にして、海洋に棲む魔族の長。
その勢力範囲と配下の数は魔王軍屈指である。
「そんなに嫌いですか、深海卿?」
「好きか嫌いかで言われるとね、大嫌い」
ヴェネルガーに問われ、魔王は即答する。
「だってあの人ヌルヌルしてるじゃない」
「外見的な特徴で人を差別するのはいただけませんよ」
「そうじゃなくて、性格が」
「ああ、たしかに」
一時は諌めたヴェネルガーだったが、その答えを聞いて納得する。
「あの人さぁ、なんでああネチネチネチネチしつこいの? 百年前の新年会の時の箸の置き方のことまでぐちぐちと……」
言いながらため息をつく魔王。
深海卿は海棲魔族の長、故にその姿も、海棲生物に近しい姿をしている。
だが、だからといって、クジラやイルカ、もしくはシャチやサメやマグロといったものではない。
「あの姿見ればわかるでしょうよ。なにあの触手三昧」
イカやタコ、イソギンチャクやアメフラシと言ったような、軟体の、ヌルヌルとした、触手と触腕がこれでもかと生やした姿をしているのだ。
「なんていうかねぇ、性格って出るよね、姿に!」
「それも問題発言ですよ……」
「ともかく僕ァ接見はお断りだよ。風邪ひいたとか言っといて」
「魔王が風邪に感染したって、それもどうでしょう?」
天地の間にある万物は、等しく光と闇に分かれるとされており、病は体内の「闇」の気が高まりすぎたがゆえに引き起こされると言われている。
だが逆にいえば、すべての「闇」の統括者たる魔王は、そもそも「闇」を極めているので、病気に罹ることはないのだ。
「んなモン、適当に理由つけといてよ。ともかく僕ァ会わないよ!」
「ご安心ください。来られたのは深海卿ではありません」
「え、そうなの? って……」
そこで、魔王の顔が青ざめる。
ドクロを模した、王冠と一体化した仮面を始終かぶっている魔王の顔が、その仮面を越しでもわかるくらい「青ざめ」ていた。
「まさか、それって………」
魔王軍四天王のうち、邪竜卿はすでにこの世になく、深海卿は来ていない。残る二人のうち、一人はヴェネルガーである。
そうなると、残るはただ一人――
「うわぁー!? あの人来ちゃったの!? もっとダメだよ! 居留守居留守! 面会謝絶!!」
その者の到来を知り、魔王はあからさまにうろたえた。
魔族の王の沽券に関わる姿だが、そんなことはどうでもいい話だった。
「オーホッホッホッホッホッホッホッ!!」
「この声は!?」
突如こだまする女の笑い声。
魔王には覚えのある声であった。
魔王軍四天王一人、“淫靡卿”――アルア・ドネア・リアの声であった。
「お久しぶりですわね、魔王様………あらあらうふふ」
天井から、舞い降りるように、優雅に、それでいて淫らに降り立つアルア・ドネア。
「アルア……いつから天井に張り付いていたのだね?」
「この城に入ってすぐに、屋根裏を伝いに伝って」
「アホかね君は」
「あらあらうふふ」
呆れる魔王に、アルア・ドネアはその言葉もまるで自己への賞賛を受けたように自慢げに笑う。
淫靡卿の名の通り、アルア・ドネアの姿は、ともすれば娼婦のようであった。
だが、ただの淫婦ではない。
体全てから放つ甘い香りは、嗅ぐ者全てから理性を奪い取り、どれだけ貪ろうが決して尽きることのない欲望の泥沼に引きずり込む、退廃と堕落の娼姫。
彼女がその気になれば、一国の男たちを虜にし、百年の繁栄の都を、一月もたずして廃墟にすることも可能だろう。
彼女は淫魔――サキュバス族の長なのだ。
(やれやれ……)
面倒くさそうに頭を振る魔王。
彼女の淫靡の力は、人間どころか魔族にも有効だ。
それも、中級上位に位置するものでも抗うことは難いだろう。
とはいえさすがに魔王相手には魅了を果たすことは不可能だが、それでも、「濃い香水の匂いに包まれる」程度には辟易する。
「一体、今日はなんの――」
「『ヨルムンガルド』で、おもしろいことをはじめたそうね?」
用だ――と魔王が言うよりも早く、アルア・ドネアは問う。
「あいかわらず……耳ざとい」
アルア・ドネアは、魔王軍の中での勢力は、邪竜卿や深海卿には大きく劣る。
しかし、彼女の一派は人型魔族が多く、高度な知性を持つ者が多い。
そのため、人類社会に潜入しての、諜報工作に長けているのだ。
いわば、魔族軍の諜報機関の長官のようなものである。
「大陸の端っこで朝起こったことも、その日の夕方にはワタシの耳に入るわよ」
「だろうね、ああ恐ろしい」
うそぶく魔王だが、言っていることは真実であった。
単純な戦力なら、彼女は弱い。
無論、そこらの高位魔族を遥かに凌駕しているが、それでも四天王や魔王など、魔族軍最高幹部の中では、一歩劣るところがある。
しかし、彼女を本気で潰そうとすれば、魔王でも手こずる相手なのは間違いない。
「こういうのも、人間力っていうのかねぇ」
魔族なのに“人間”力とはこれいかに――などと思いつつ、魔王はつぶやく。
「で、なんだい? 『ヨルムンガルド』がどうかしたかい?」
「あら連れないこと言うわね魔王さまったら」
魔王軍は現在、大きく分けて二つの勢力がある。
そのものズバリ、人類種族との「和平派」と「好戦派」である。
魔王は前者、ヴェルネガーも同じく。
今はなき邪竜卿と、魔王と仲が悪い深海卿は後者である。
そしてアルア・ドネアといえば、彼女も「和平派」なのだ。
「あそこは『和平派』の仕切りでしょう?」
「君は『和平派』とはちょっと違うだろう?」
アルア・ドネアが『和平派』なのは、様々な思考はあるのだろうが、極論すると「人間を滅ぼせば、人間を食べられなくなる」からである。
この「食べる」は、捕食という意味ではない。
性的な意味である。
「まぁね、人間が滅んだら人間の童貞も滅ぶじゃない」
彼女の好物は、オスの精気。
魔族のものも好物だが、人間のそれが特に大好物である。
そういう「嗜好」の意味では、この大陸で最も、平等な視点を持っている存在と言えた。
彼女の目から見れば、魔族も人類種族も、等しく「ごはん」なのだ。
「君にとっちゃ、どうでもいいだろ別に」
魔王立教育機関「ヨルムンガルド」――そこは、疲弊した魔族が、次代の人材育成のために作られた教育機関である。表向きは……
「あなた、ワタクシに内緒にしていたこと、あるでしょ?」
「なにが?」
アルア・ドネアの視線を、魔王は正面から見つめ返す。
魅了の力を持つ淫靡卿の眼。
人間ならば、たとえ半世紀修行を積んだ高僧でも、骨の髄まで溶かされ、彼女のなすがままの人形と化すだろう。
だが、魔王にはそれも通じない。
「僕が君に隠さなきゃけないことなんてないよ。隠したってバレるんだから」
(この女……あの事に気づいたのかな……?)
顔色どころか声色にも変化を見せず、しかし心中で魔王は訝しむ。
「ヨルムンガルド」は、ただの養育機関ではない。
現在、ただの「休戦中」である、魔族と人類種族が、「和平」に至るための人材を育成するための場所。
そんなことを、もし「好戦派」の連中に知られれば、魔族は割れる。
(もしそうだとしたら、考えないといけないねぇ……)
「最悪の手段」まで脳裏に浮かべる魔王に、アルア・ドネアは答える。
「人間の、教師を雇ったそうじゃない?」
「………!」
アルア・ドネアの顔から笑みが消え、魔王の顔に、わずかに険しさが生まれる。
「淫靡卿様……魔王さまは――」
「おだまり無駄巨乳」
ヴェネルガーがとっさに口をはさもうとしたが、それも拒まれる。
同じ四天王であるが、若手のヴェネルガーと、魔王に継ぐ長命であるアルア・ドネアでは、様々な意味で“格”が違う。
「君にいちいち相談しなければならないようなことではなかったと思うが?」
「やぁね、仲間はずれ?」
再び、魔王とアルア・ドネアの視線がぶつかりあう。
「そんないやらしいことするのなら……ワタクシ、他の人のところに仲間入りしちゃおうかしら……」
「冗談でもそんなことを言うんじゃない。君に言うほどのことじゃないという意味さ」
アルア・ドネアが、深海卿の派閥に移れば、それだけですぐには瓦解しないが、魔王軍は揺れる。
実際に移らなかったとしても、匂わせるだけで、組織は揺れてしまうのだ。
それをあえて「冗談」と言うことで、魔王は事の矮小化を図った。
「あんな閑職の人事案件の一つを、魔王軍四天王の一人にまで伝える必要はなかろう? ただの人類種族の裏切り者だ。置いておいても損はないと考え、窓際部署に送っただけさ」
「ふぅ~ん……そんな取るに足らない人事案件を、なぜか魔族の最高権力者が把握しているのね」
「…………ちっ」
一見すれば、彼女はただの色情狂に見えるだろう。
それもまた事実の姿である。
だが、彼女のこの鋭さは、ある意味で、万の軍勢を率いる者以上に厄介なのだ。
「その人間……あなたが関与しなきゃいけないほどの重要な人物なの? もしくは、そこまでの、“なにか”を、させたいの?」
魔王は答えない。否、応えない。
今この状況でなにを言っても、意味はない。
(おおよそ殆どを掴んでいるのだろうな。その上で、僕にゆすりをかけ、自分の推測に確信を得ようとしている……困ったなぁ)
さてどう答えようか、そう魔王が心中で腕を組んだとき、アルア・ドネアはさらなる質問を、とてもとても奇っ怪な質問をした。
「一つだけ答えて……その人間、童貞?」
「はぁ?」
これにはさすがに、魔王もポーカーフェイスを貫けなかった。
「あの、それ、重要……?」
思わず問い返してしまった。
彼女の嗜好は、「童貞好き」である。
だが、休戦条約を締結してしまったため、魔族はみだりに人類種族領に入れない。
四天王クラスのアルア・ドネアとなればなおこのことである。
その結果、自分の大好物の「人間の童貞」を保護するために休戦派になったのに、その大好物を食いに行けなくなってしまったのだ。
「あの~……アルア・ドネア? いいかい? 確かに、彼は……その……童貞だけど、君が好むようなタイプじゃないよ?」
アルア・ドネアとて、見境なしではない。
いや、見境はかなりないが、それでも、趣味嗜好はある。
「彼は、君が好きな、すね毛生えてない系の美ショタじゃないよ?」
どっちかというと、すね毛生えている系の、むっさい男である。
「誰がそんな話をしたのよ」
「え?」
てっきり、魔族領に入り込んだ人類種族の童貞を食いに行こうとしているのかと思ったら、アルア・ドネアの反応は予想に反したものだった。
捕食のため、というより、むしろ別の――
「変なことにならなきゃいいけど……ま、いっか」
「ん?」
勝手に納得すると、アルア・ドネアは、くるりと踵を返し、もう要は終わったとばかりに魔王の部屋から退出しようとする。
「アルア・ドネア……いや、淫靡卿? 君、一体何しに来たんだい?」
相手に探りを入れる……ではなく、心からの疑問を、魔王は向けた。
「別に、もう用は終わったわ……ついでだから、適当に男ナンパして帰るわ」
「そのついでやめてくんない?」
魔王の言葉にもそれ以上答えず、アルア・ドネアは去っていった。
「何しに来たんでしょう?」
「さぁて」
智将とさえ呼ばれるヴェネルガーでも読みきれぬアルア・ドネアの内心。
魔王にも、推測も予測もできなかった。
「あんな方でも、元“神”というのが信じられませんね」
「まぁそれを言っちゃあいけないよ」
魔族たちの中では、高位の存在は土着神や、「主」という形で、信仰の対象になっていたもののいる。
ましてや魔族最高幹部クラスとなれば、現在人類種族が信仰している「絶対なるもの」が現れるまで、いわゆる「旧世界」においては神であった者たちなのだ。
深海卿はまさに「海神」であったし、邪竜卿は「戦神」であった。
淫靡卿もまた、かつては“女神”と呼ばれた女なのだ。
「ちなみに、なんの神だったんですか、あの人?」
「あ~……それはねぇ」
ある意味で「それっぽい」のだが、聞けば意外な答えを、魔王は言うかどうか悩む。
(まぁしかし………変なことが起きなきゃいいけどねぇ)
それよりも、目下の悩みは、アルア・ドネアが「なにを憂慮しているのか」「それはヨルムンガルドに関係あるのか」もっと言えば……
(クトゥ―くん、またなんか起こしそうなのかな?)
今さっきまで話題に出ていた、人間の青年のことを頭に浮かべる。
なにかしら、やっておかねばならない。
最悪の事態が起こる前に、最低でも、最悪は回避できる程度の工作を。