第16話 カルリア侯爵
文字数 3,396文字
アルセア・シティーは、二重の城壁に守られた都市である。
小城壁の内側には、貴族とその身内が住む家、それから、国政をつかさどる宮がある。
ダロット=カルリア侯爵の館は、表城門のすぐ内側、地霊宮の南。
爵位には不釣り合いなほど小ぢんまりとした、黒い壁の屋敷である。
とはいえ建物の規模は、エルが住むアパートの、ゆうに倍はある。
エントランスの右、廊下の入り口付近にある応接室に通されて、エルは緊張で身をかたくしながら侯爵を待っていた。
フォスターは前にも来たことがあるはずだが、やはり表情は硬い。
ふたりとも、滅多に着ることのない、旧アルセア帝国ふうの礼装を身につけている。エルは、赤く染めたちりめん織りのワンピースドレスの中に、足首で絞った綿の下服をはいて、爪先を慣れない木靴で痛めながら、直立不動の姿勢を保っていた。
しばらくして、ドアがあく。
カルリア侯爵は、およそ貴族らしからぬ風貌をした男である。この国の貴族階級は、およそ200年前に入植してきた旧アルセア帝国人の末裔であるが、侯爵の髪や眼の色は、茶色がかった薄灰色で、大陸よりもむしろジル・ア・ロー島原住民のそれに近い。
年齢は40前後のはずだが、それよりだいぶ若く見える。
「お久しぶりです、侯爵」
フォスターが、かたい声で呼びかけると、侯爵は目をまん丸くしてつかつかと近づいてきた。
「お前ら、どうした。その格好は」
口元をひくつかせて、今にも吹き出しそうな顔をしながら、
「わざわざ借りてきたのか? 礼服なんか、」
「……実は、お願いごとがございますので。」
「ほう、」
侯爵は表情をかえて、ソファに腰かけた。
「まあ、座れ。……エル、その後どうだ。」
急に話をふられて、エルはうろたえた。侯爵とは、カルナーが死んだ日に会ったきりである。
「調子をくずしていたらしいじゃないか。……まあ、その様子だと、悪くはないみたいだな。
…おい、」
直立不動のままのフォスターを見上げて、
「何をしてる。座れと言ったろう。」
「いえ、……」フォスターは、無表情のまま、
「このまま、お願いを申し上げます」
「なんだと?」
カルリア侯爵は声を高くした。エルははらはらしながら、フォスターのとなりで立っていた。
しばらく沈黙があった。
侯爵は、ふいに大きく息をついて目を伏せた。それからすぐに顔を上げると、落ち着いた、柔らかな目つきにかわっていた。
「よほど、言いにくい頼みごとなのだろうな。」
「……あるいは、そうかもしれません。」
「よかろう。聞いてやる。必ずお前の言うとおりにするから、まあ座れ。」
あっさりそう言われて、フォスターは少しうろたえたように見えた。
エルは、侯爵の態度に驚いていた。カルリア侯爵は変わり者で、なぜかミナの薬草店によく顔を出している。退魔師の活動に理解のある、ものわかりのいい貴族。その程度の認識だった。
フォスターは黙って一礼し、ソファに腰を下ろした。エルもそれにならった。
「……それで?」
うながされ、フォスターはぼそぼそと話しはじめた。
「例の、とかげ鳥のことでございます。」
「ああ、難儀なことだ。……なぜ、あんなことになったのか」
「……やはり、理由はまだわかりかねますか。」
「まあ、な」
少し、含みのある声で、侯爵はうなずいた。
「学問所のマレバ師にたのんで、昔の記録をあさってもらったが、どうやら前例がないでもない。」
「本当ですか。」思わず、エルは身を乗り出していた。
「たしかだ。といっても、記録にある二度のうち、一度はアルセア人入植前で、くわしい様子はわからない。いま一度は、およそ180年前、初代アルセア国王の御代のことだ」
「では、そのときは…、」フォスターをさしおいて口を開くのに気おくれしつつも、エルは訊かずにはいられなかった。
「誰が、どうやって、倒したのですか。とかげ鳥の群れを……。」
「倒せなかった。」
侯爵はあっさりと答えた。
「当時は退魔師も少なかったし、戦後の混乱のただなかで、アルセア騎士団にも、諸侯にもその余裕はなかったのだろう。ただ襲われるにまかせ、しまいにアルセア・シティーとテベーを結ぶ道は途絶えたとある。」
「そんな…、それでは、」
当時は、海路も今ほど発達していなかった。陸路が絶たれたとすると、物資を自給できないアルセア市がどんな惨状においこまれたか、想像にかたくない。
「昔の話だ。……それに、そんなに長いことでもなかったろう。」
「どういう意味です?」
こんどは、フォスターがそう問い返した。
「そのうち、やつらは群れることをやめたのさ。理由はわからん。単純に、餌が足りなくなったのかも知れん。
そもそも、大きな群れをつくる動物ではないからな。今のように何十匹も群れることそのものが、何十年か、何百年かに一度の異常事態ということだ」
「ならば、なぜ、今年にかぎってそのような…」
「わからん。寒さに関係があるのではないかと、アラン老師は考えているようだが」
滅多に雪の積もることのないアルセアで、昨年は数十年ぶりに大雪が降った。それに、今年の夏は異様なほど涼しく、そのせいで、アルセア・シティーの食料問題はいっそう深刻になっていた。
前回の記録では、くわしい気象条件まではわからないが、当時の官吏が残した覚書によれば、真夏に雪が降っていたという。
「……真夏に、雪が。」
それが、どれほどの異常事態なのか、非現実的すぎて、エルにはよくわからなかった。
「関係あるのかどうかも、よくわからん。獣のやることに、意味などないのかもしれない。
……それで、」
すっと目を細めて、侯爵は仕切り直した。
「本題に移ろう。頼みとはなんだ」
「とかげ鳥の退治は、我々にお任せいただきたい」
フォスターは即座に答えた。少しだけ間があいて、侯爵は問い返した。
「我々とは?」
「私とエルに、勇者の子アーサー、夢見の巫女ルナを加えた四人です」
「四人だと、……」
侯爵はなにか言いかけたが、フォスターの目を見て、口をつくんだ。
かわりに、
「どのみち、騎士団はとうぶん出動しないぞ。調整はしているが、前例もノウハウもない。昔からの上級貴族には、退魔師の仕事に理解のないものが多いし…。今日の午後、テベー公に会って、もうひと押しふた押しするつもりだったがね」
「それは、結構ですね」
「結構かもしれないが……。」
侯爵は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「……頼みというのは、それだけじゃないんだろう?」
「はい。」
むしろ、ここからが本題であった。
フォスターは、居ずまいを正して、座ったまま深く頭を下げた。
「ウマを、用意して頂きたい。」
「馬?」
侯爵は思わず首をかしげた。
ジル・ア・ロー島に馬はいない。それどころか、ブルガナン大陸のなかでもごく限られた地域、パンドル王国の火山帯にしか野生の馬は棲まない。
アルセアのほとんどの人間にとっては、名前すら浮かばないような希少動物である。
もっとも、王宮には、パンドルから輸入した馬が数頭いる。主に、パレードや儀式のさいに王族が乗るためのもので、移動手段として使われることはない。
「……お前、馬を見たことはあるのか?」
「間近にではありませんが、何度か」
「乗ったことは?」
「ありません」
「ふむ……」
侯爵はふと思い至って、カルナーか、と小さくつぶやいた。
「誰が乗るつもりだ?」
「……やはり、軽いほうがいいのでしょうね」
「それはそうだが……」
二人は顔を見合わせ、どちらともなくエルのほうを見た。
エルは、軽く目をしばたかせて、無言で頷いた。多少、口許がひきつっていた。
「指南役も必要だろうな。」
「できますれば……」
「わかった。あちこちあたってみるから、少し待て。目処がついたら、ミナの店に連絡を入れよう」
なんでもない頼まれごとのように、侯爵はそう言った。
フォスターは、立ち上がって深々と頭を下げた。
エルも、あわてて立ち上がり、フォスターにならった。
厨房のほうから、暖かい匂いが漂ってきた。腹の虫がかすかな音をたて、エルは赤面した。
侯爵は、からからと大きな声をあげて笑った。
小城壁の内側には、貴族とその身内が住む家、それから、国政をつかさどる宮がある。
ダロット=カルリア侯爵の館は、表城門のすぐ内側、地霊宮の南。
爵位には不釣り合いなほど小ぢんまりとした、黒い壁の屋敷である。
とはいえ建物の規模は、エルが住むアパートの、ゆうに倍はある。
エントランスの右、廊下の入り口付近にある応接室に通されて、エルは緊張で身をかたくしながら侯爵を待っていた。
フォスターは前にも来たことがあるはずだが、やはり表情は硬い。
ふたりとも、滅多に着ることのない、旧アルセア帝国ふうの礼装を身につけている。エルは、赤く染めたちりめん織りのワンピースドレスの中に、足首で絞った綿の下服をはいて、爪先を慣れない木靴で痛めながら、直立不動の姿勢を保っていた。
しばらくして、ドアがあく。
カルリア侯爵は、およそ貴族らしからぬ風貌をした男である。この国の貴族階級は、およそ200年前に入植してきた旧アルセア帝国人の末裔であるが、侯爵の髪や眼の色は、茶色がかった薄灰色で、大陸よりもむしろジル・ア・ロー島原住民のそれに近い。
年齢は40前後のはずだが、それよりだいぶ若く見える。
「お久しぶりです、侯爵」
フォスターが、かたい声で呼びかけると、侯爵は目をまん丸くしてつかつかと近づいてきた。
「お前ら、どうした。その格好は」
口元をひくつかせて、今にも吹き出しそうな顔をしながら、
「わざわざ借りてきたのか? 礼服なんか、」
「……実は、お願いごとがございますので。」
「ほう、」
侯爵は表情をかえて、ソファに腰かけた。
「まあ、座れ。……エル、その後どうだ。」
急に話をふられて、エルはうろたえた。侯爵とは、カルナーが死んだ日に会ったきりである。
「調子をくずしていたらしいじゃないか。……まあ、その様子だと、悪くはないみたいだな。
…おい、」
直立不動のままのフォスターを見上げて、
「何をしてる。座れと言ったろう。」
「いえ、……」フォスターは、無表情のまま、
「このまま、お願いを申し上げます」
「なんだと?」
カルリア侯爵は声を高くした。エルははらはらしながら、フォスターのとなりで立っていた。
しばらく沈黙があった。
侯爵は、ふいに大きく息をついて目を伏せた。それからすぐに顔を上げると、落ち着いた、柔らかな目つきにかわっていた。
「よほど、言いにくい頼みごとなのだろうな。」
「……あるいは、そうかもしれません。」
「よかろう。聞いてやる。必ずお前の言うとおりにするから、まあ座れ。」
あっさりそう言われて、フォスターは少しうろたえたように見えた。
エルは、侯爵の態度に驚いていた。カルリア侯爵は変わり者で、なぜかミナの薬草店によく顔を出している。退魔師の活動に理解のある、ものわかりのいい貴族。その程度の認識だった。
フォスターは黙って一礼し、ソファに腰を下ろした。エルもそれにならった。
「……それで?」
うながされ、フォスターはぼそぼそと話しはじめた。
「例の、とかげ鳥のことでございます。」
「ああ、難儀なことだ。……なぜ、あんなことになったのか」
「……やはり、理由はまだわかりかねますか。」
「まあ、な」
少し、含みのある声で、侯爵はうなずいた。
「学問所のマレバ師にたのんで、昔の記録をあさってもらったが、どうやら前例がないでもない。」
「本当ですか。」思わず、エルは身を乗り出していた。
「たしかだ。といっても、記録にある二度のうち、一度はアルセア人入植前で、くわしい様子はわからない。いま一度は、およそ180年前、初代アルセア国王の御代のことだ」
「では、そのときは…、」フォスターをさしおいて口を開くのに気おくれしつつも、エルは訊かずにはいられなかった。
「誰が、どうやって、倒したのですか。とかげ鳥の群れを……。」
「倒せなかった。」
侯爵はあっさりと答えた。
「当時は退魔師も少なかったし、戦後の混乱のただなかで、アルセア騎士団にも、諸侯にもその余裕はなかったのだろう。ただ襲われるにまかせ、しまいにアルセア・シティーとテベーを結ぶ道は途絶えたとある。」
「そんな…、それでは、」
当時は、海路も今ほど発達していなかった。陸路が絶たれたとすると、物資を自給できないアルセア市がどんな惨状においこまれたか、想像にかたくない。
「昔の話だ。……それに、そんなに長いことでもなかったろう。」
「どういう意味です?」
こんどは、フォスターがそう問い返した。
「そのうち、やつらは群れることをやめたのさ。理由はわからん。単純に、餌が足りなくなったのかも知れん。
そもそも、大きな群れをつくる動物ではないからな。今のように何十匹も群れることそのものが、何十年か、何百年かに一度の異常事態ということだ」
「ならば、なぜ、今年にかぎってそのような…」
「わからん。寒さに関係があるのではないかと、アラン老師は考えているようだが」
滅多に雪の積もることのないアルセアで、昨年は数十年ぶりに大雪が降った。それに、今年の夏は異様なほど涼しく、そのせいで、アルセア・シティーの食料問題はいっそう深刻になっていた。
前回の記録では、くわしい気象条件まではわからないが、当時の官吏が残した覚書によれば、真夏に雪が降っていたという。
「……真夏に、雪が。」
それが、どれほどの異常事態なのか、非現実的すぎて、エルにはよくわからなかった。
「関係あるのかどうかも、よくわからん。獣のやることに、意味などないのかもしれない。
……それで、」
すっと目を細めて、侯爵は仕切り直した。
「本題に移ろう。頼みとはなんだ」
「とかげ鳥の退治は、我々にお任せいただきたい」
フォスターは即座に答えた。少しだけ間があいて、侯爵は問い返した。
「我々とは?」
「私とエルに、勇者の子アーサー、夢見の巫女ルナを加えた四人です」
「四人だと、……」
侯爵はなにか言いかけたが、フォスターの目を見て、口をつくんだ。
かわりに、
「どのみち、騎士団はとうぶん出動しないぞ。調整はしているが、前例もノウハウもない。昔からの上級貴族には、退魔師の仕事に理解のないものが多いし…。今日の午後、テベー公に会って、もうひと押しふた押しするつもりだったがね」
「それは、結構ですね」
「結構かもしれないが……。」
侯爵は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「……頼みというのは、それだけじゃないんだろう?」
「はい。」
むしろ、ここからが本題であった。
フォスターは、居ずまいを正して、座ったまま深く頭を下げた。
「ウマを、用意して頂きたい。」
「馬?」
侯爵は思わず首をかしげた。
ジル・ア・ロー島に馬はいない。それどころか、ブルガナン大陸のなかでもごく限られた地域、パンドル王国の火山帯にしか野生の馬は棲まない。
アルセアのほとんどの人間にとっては、名前すら浮かばないような希少動物である。
もっとも、王宮には、パンドルから輸入した馬が数頭いる。主に、パレードや儀式のさいに王族が乗るためのもので、移動手段として使われることはない。
「……お前、馬を見たことはあるのか?」
「間近にではありませんが、何度か」
「乗ったことは?」
「ありません」
「ふむ……」
侯爵はふと思い至って、カルナーか、と小さくつぶやいた。
「誰が乗るつもりだ?」
「……やはり、軽いほうがいいのでしょうね」
「それはそうだが……」
二人は顔を見合わせ、どちらともなくエルのほうを見た。
エルは、軽く目をしばたかせて、無言で頷いた。多少、口許がひきつっていた。
「指南役も必要だろうな。」
「できますれば……」
「わかった。あちこちあたってみるから、少し待て。目処がついたら、ミナの店に連絡を入れよう」
なんでもない頼まれごとのように、侯爵はそう言った。
フォスターは、立ち上がって深々と頭を下げた。
エルも、あわてて立ち上がり、フォスターにならった。
厨房のほうから、暖かい匂いが漂ってきた。腹の虫がかすかな音をたて、エルは赤面した。
侯爵は、からからと大きな声をあげて笑った。