屋上の鎖
文字数 1,521文字
屋上へと続く扉にはいつも鍵がかかっている。だからきっとシズカも、こうして四階のベランダから雨樋を伝って屋上に登ったのだろう。
なぜそうまでしてここで……と、思う。
いや、彼女にとっては『学校で』ということに意味があったのかもしれない。俺と出会った、この学校で。
夜風は日増しに冷たくなっている。
屋上の縁(ふち)に立つと、ひゅうひゅうと風が吹いていた。
シズカが最後に立っていた場所に、俺も、足をそろえて立った。同じ景色を眺めれば、何かが変わるかもしれないと期待した。
けれど、午前二時の校庭は何も語ってくれなかった。
ひゅう、ひゅうと風が吹く。
「タケル君って、やさしいんだよね」
けっきょく、半年も付き合ったのにシズカは俺の本質を理解していなかった。やさしい人間は、飽きたからといって恋人を切り捨てたりはしない。
最期の日。
彼女は電話で俺を呼び出した。もう彼女の言葉に興味はなかったけれど、『夜中の二時』というシチュエーションには心惹かれた。
「タケル君――」
屋上で彼女は、俺の名前を叫んだものだった。ちょうどこんなふうに、校庭を見下ろして。
他にも何か言っていたが、覚えていない。聞いていなかった。そのときの俺が考えていたのは「彼女が死んだら俺のせいになるんだろうか」とか「警察に呼び出されるんだろうか」とか、そんな自分のことばかりだった。
体面を取り繕うのは上手いほうだと思う。
実際、彼女も俺の、そういう表っ側 に恋をした。俺も、彼女の人なつっこい笑顔だとか、ほっそりした体のラインだとかに恋をした。
そして駄目になった。
彼女は俺の本質にまで踏み込んで来られなかったし、俺は、彼女の平凡さに嫌気がさした。求めていた刺激はそこにはなかったのだ。今回はこちらから切り出したけれども、放っておいたって、きっと似たような結末になったと思う。
ひゅう、ひゅうと風が吹く。
彼女を失っても、日常は変わらなかった。食欲は減らず、睡眠はしっかり取れた。いつもの時間に登校して、同じ道を帰った。
俺は警察に事情をたずねられた。けれど手錠を掛けられるだとか、どこか狭い部屋に閉じ込められるだとか、そういうことにはならなかった。彼女は死ぬ前に通話記録を消し去っていたから、あの日あのときの俺は部屋でぐっすりと眠っていたことになっている。
代わりに彼女は、直筆の手紙を残していた。
家族に宛てたものがひとつ。親しい友人に宛てたものがひとつ――そして最後に、俺に宛てたものがひとつ。
ポケットからそれを取り出して、夜空に掲げてみた。便せんの封は開いている。中には、俺への感謝の言葉が並べ立てられていた。彼女は俺をかばったのだ。それは、恋人 への疑いをかわすための偽装工作であると同時に、彼女の願望でもあった。
手紙の彼女は二人の交際は順調だとアピールしていた。さらには彼女らしい几帳面な文字で、
『やさしいあなたが大好きです』
と、したためられていた。
それは、ぞっとするほど温かな言葉だった。
彼女はやさしさという鎖で俺を縛った。その鎖を留 めるのは、彼女の死という強固な錠前だ。鍵はない。どこにもない。俺はもう自由に歩けない。ここから飛び降りることすらできない。
ひゅうひゅうと、風が泣く。
あるはずのない鍵を探してたどり着いたこの屋上で、俺は手紙をやぶいた。白い紙片は、風に乗って闇へと溶けていった。俺はもと来たようにして屋上から降り、夜の校庭を横切って帰った。
耳の奥では、ひゅうひゅうという音が鳴っていた。
(終)
なぜそうまでしてここで……と、思う。
いや、彼女にとっては『学校で』ということに意味があったのかもしれない。俺と出会った、この学校で。
夜風は日増しに冷たくなっている。
屋上の縁(ふち)に立つと、ひゅうひゅうと風が吹いていた。
シズカが最後に立っていた場所に、俺も、足をそろえて立った。同じ景色を眺めれば、何かが変わるかもしれないと期待した。
けれど、午前二時の校庭は何も語ってくれなかった。
ひゅう、ひゅうと風が吹く。
「タケル君って、やさしいんだよね」
けっきょく、半年も付き合ったのにシズカは俺の本質を理解していなかった。やさしい人間は、飽きたからといって恋人を切り捨てたりはしない。
最期の日。
彼女は電話で俺を呼び出した。もう彼女の言葉に興味はなかったけれど、『夜中の二時』というシチュエーションには心惹かれた。
「タケル君――」
屋上で彼女は、俺の名前を叫んだものだった。ちょうどこんなふうに、校庭を見下ろして。
他にも何か言っていたが、覚えていない。聞いていなかった。そのときの俺が考えていたのは「彼女が死んだら俺のせいになるんだろうか」とか「警察に呼び出されるんだろうか」とか、そんな自分のことばかりだった。
体面を取り繕うのは上手いほうだと思う。
実際、彼女も俺の、そういう表っ
そして駄目になった。
彼女は俺の本質にまで踏み込んで来られなかったし、俺は、彼女の平凡さに嫌気がさした。求めていた刺激はそこにはなかったのだ。今回はこちらから切り出したけれども、放っておいたって、きっと似たような結末になったと思う。
ひゅう、ひゅうと風が吹く。
彼女を失っても、日常は変わらなかった。食欲は減らず、睡眠はしっかり取れた。いつもの時間に登校して、同じ道を帰った。
俺は警察に事情をたずねられた。けれど手錠を掛けられるだとか、どこか狭い部屋に閉じ込められるだとか、そういうことにはならなかった。彼女は死ぬ前に通話記録を消し去っていたから、あの日あのときの俺は部屋でぐっすりと眠っていたことになっている。
代わりに彼女は、直筆の手紙を残していた。
家族に宛てたものがひとつ。親しい友人に宛てたものがひとつ――そして最後に、俺に宛てたものがひとつ。
ポケットからそれを取り出して、夜空に掲げてみた。便せんの封は開いている。中には、俺への感謝の言葉が並べ立てられていた。彼女は俺をかばったのだ。それは、
手紙の彼女は二人の交際は順調だとアピールしていた。さらには彼女らしい几帳面な文字で、
『やさしいあなたが大好きです』
と、したためられていた。
それは、ぞっとするほど温かな言葉だった。
彼女はやさしさという鎖で俺を縛った。その鎖を
ひゅうひゅうと、風が泣く。
あるはずのない鍵を探してたどり着いたこの屋上で、俺は手紙をやぶいた。白い紙片は、風に乗って闇へと溶けていった。俺はもと来たようにして屋上から降り、夜の校庭を横切って帰った。
耳の奥では、ひゅうひゅうという音が鳴っていた。
(終)