第32話 浮世絵美人

文字数 3,211文字

 西福寺の庵では、勝川春章がさきをモデルに写生をしている。以前の写楽の時と同じように床几にさきを座らせ、その姿を春章が描いているのだ。この写生した絵を元に本番の「美人鑑賞図」に書き込むのだという。絵の中では一番右で掛け軸を掛けている背の高い女性になるそうだ。
 今まで何回も出光美術館で見たが、あの女性がさきをモデルにしているとは、今まで思わなかった。それを感じていたのは、浅田学芸員だけだったという事だ。やはりプロは違うと思った。
 今日のさきは、黄八丈ではない。さきは江戸紫と呼ばれる色の単衣の着物を着ている。その紫に薄紅梅と呼ばれる色の柄が散っている。その柄は何の花かは判らないが花びらという事は確かだ。今なら地味に感じるかも知れないが、その色と柄がさきの美しさと合わさって若さを醸しだしていた。これが先人の知恵なのかも知れない。今の派手な柄ではなく、地味だがこのように若さを表現する手段があると俺は改めて思ったのだった。
 春章が書いている間に春朗は蔦屋さんに相談事を聴いて貰っていた。もう一つの部屋で話していたのだが、所々聞こえる事から推測すると、どうやら、今後の事についてだった。
 今は元気そうな春章だが春朗によると、実は体調は余り良くないらしい。師匠が存命のうちは今の所に留まるが、春朗はもっと広く修行がしたい思いを抱いているらしかった。その事を相談していたようだ。最後に蔦屋さんの言った言葉で推測出来た。
「決意が決まりましたら、何時でもご相談して戴きとうございます。お力になれれば……」
 歴史的には師匠の春章が亡くなった後に春朗は勝川派を抜けている。破門になったという説もあるが、むしろ自分から広い世界を求めて飛び出した、というのが正解のような気がする。
 
「出来ましたぞ。ご覧くだされ」
 春章がそう言って俺たちに向けて写生した絵を見せてくれた。それは色こそ着いていないが、さきに生き写しだった。絵から抜け出たよう、という言葉があるが、この場合が逆で絵の中にさきが入ってしまった感じがした。
「素晴らしいですな」
「全く言葉もございませぬな」
 蔦屋さんと山城さんの言葉でその出来が推測出来るというものだ。
「こんなに描いて戴いて、私は幸せものでございます」
 少しのため息を交えながらさきが感想と礼を言う。
「何の、絵師してみれば当然の事でございますよ。あなたは絵師の心を動かす何かをお持ちだと思います」
 春朗が師を代弁するかのような言葉を述べると春章は春朗に向かって
「私の亡くなった後の事は心配せぬように、お前の好きに生きなさい。お前はもっと大きくなる。私なぞを追い越して行く存在になるじゃろうて、だから好きにしなさい」
 蔦屋さんとの会話が聞こえていたのだろう。春章は春朗にお墨付きを与えたのだった。
 見ると写生した絵は二枚あった。その一枚を春朗が取り上げ、何と色を付け始めたのだった。簡単な着色だったが、一気にその絵が精彩を放って輝き始めた。そして、自分と師匠の落款を押すと
「さき殿、これは私と師匠からの贈り物でございます。確かにあなたは我々絵師にとって特別な存在のようでございます。その想いを込めてこれをあなたに……」
 そう言ってさきに手渡してくれた。さきは感激で半分べそをかきながら
「ありがとうございます! きっと、きっと大事に致します」
 本当はもっと粋な言葉を言おうと思っていたのかも知れないが、口に出なかったのだろう。俺には判った。さきは心の底から感激するとこうなってしまうのだ。
「師匠、これで良かったのでございますな」
 春朗の言葉に春章は大きく頷いた。
「さきどの、それにこうすけ殿、また先の世でお逢い出来ましょうな?」
 春朗の言葉に大きく頷いて、礼を言って西福寺を後にした。蔦屋さんが
「その絵は、もしやとんでもない宝かも知れませぬな」
 そう言って笑っていたのが妙に嬉しかった。確かに勝川春章と後の葛飾北斎になる春朗の合作の美人画なぞ写生程度でもどれほどの価値があるか計り知れないと思った。これは何処にも出さないとさきと二人で決めたのだった。

 安倍川町の蔦屋さんの家まで戻って来て、山城さんが
「さきとこうすけは元の時代に帰るのじゃろう! その競売に掛けるのを阻止せんとな。真贋の見極めも判ったことだしな」
 そう言って少し別れを惜しむような表情をした。
「坂崎さんはどうしましょうか?」
「なに本部から連絡が行くじゃろうて、それは心配しなくても良いじゃろう。それより、必ず阻止せいよ。お前にかかっておるのじゃらかな」
 確かに元の年代に戻り、イギリスで行われるであろうオークションに出品するのを阻止しなくてはならない。すると蔦屋さんが
「私はこの時代に暫く残ることに致しました。作兵衛のこともありますし、それに春朗さんのの相談にも乗ってやりたい所存でございます」
 そうか、そうだと思った。春朗はきっと蔦屋さんのアドバイスを受けてどんどん大きな絵師になって行くのではと思った」
 蔦屋さんの縁側の見える座敷で別れを惜しんでいると、作兵衛さんが昼食を持って来てくれた。
「お国にお帰りになるなら、せめて昼食を食べて行って下さいませ」
 そう言って出してくれたのは、粥だった。白い七分粥に梅干しと沢庵、それに胡麻が添えてあった。蔦屋さんのだけには大豆の煮たものが別に添えてあった。どうやら「江戸患い」の防止のためらしい。
「あれから作兵衛が色々と工夫してくれています。煮豆だったり小魚だったりします。おかげで体も丈夫になりましてございます」
 そうだ、蔦屋さんには長生きして貰わねばならない。いずれはセンターに来る事を約束した。
「ま、何かありましたら山城殿共々そちらにお邪魔させて戴く所存でございます」
 そう言ったのが真実であろう。
 作兵衛さんの作ってくれた粥は優しい味がした。

 食べ終わると、俺とさきはタブレットを操作してセンターに戻って来た。驚いた事は、センターには五月雨部長の他に浅田学芸員も待機していた事だ。
「どうしたのですか?」
 さきが驚いて五月雨部長に尋ねると
「表向きは浅田さんは出光美術館の学芸員だが、我々の組織に正式に入って戴いた。今後は色々な組織の美術品の鑑定もして貰うことになった」
 そう説明をしてくれた。
「そうですか、それは心強いですね。早速『美人館鑑賞図』の鑑定ですね」
 俺はそう言って、出光に飾ってある本物の「美人鑑賞図」の秘密を説明した。
「そうだったのですか! だから、さきさんとは初めて逢った気がしなかったのですね。それさえ判れば、あのもう一枚は簡単に見抜けます」
 一休みした後、俺とさき、それに浅田さんと三人で転送装置に入った。行く先は二十一世紀のイギリスのロンドンだ。きっとお栄も必ずそこに居るはずだった。今度は失敗は許されない。絵を取り戻すことは出来なくても、価値のないものにしなくてはならないのだった。
「では、行きます! 5.4.3.2.1.……」
 エンジニアの声が遠くなった。
 目を開けるとそこは二十一世紀のイギリス支部の転送室だった。
「待っていたよ。私は支部長のアイリーンだ。宜しく」
 アイリーンと名乗った四十前後の銀髪の背の高い男は右手を差し出した。不思議なものだ。つい二年前までは敵対関係にあったと言うのに……。
「宜しくお願いします。東京支部の光彩孝です。こちらは鑑定員の浅田さん。それに同じく東京支部の光彩さきです」
「噂は良く聴いております。お二人共優秀だとか」
「いえいえ、とんでもありません」
 俺はそう言って謙遜した。いや事実を言っただけかも知れなかった。
「時間がありません。早速オークションの会場に行きましょう」
 所長のアイリーンの一言で緊張が走った。
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