第4話 クリスマス・イブ(4)

文字数 10,018文字

「よっこら…せーぃ!」
 ストロベリータイムスに戻った騎馬命は、老婆が慌てるのにもかまわず、冷蔵ケースを店の前に担ぎ出した。重さ二百キロに迫ろうかという冷蔵ケースも、地獄の鬼をひっくり返すほどの怪力の前には太刀打ちできない。
「ああ…、なにを……」
 呆然とする老婆に、フランソワーズが決然と言った。
「このまま待っていても、あの三百個のショートケーキは売れ残るだけです。だったら、夕方の人通りが多い時間に合わせて売り切ってしまいましょう。特価で」
「で、でも、あのケーキは……」
「愉快犯のためのものだって言いたいんですよね。もし、その人が現れたときは、わたしが相手になります。弁償しろというなら、その時は代償を払いましょう。ただし、その人に、これまでもまったく非が無ければ……の話ですけどね」
 フランソワーズは淡々とした顔をしている。老婆には、その余裕が理解できないが、小閻魔がふたりもいるのだ、罪人の嘘などたやすくつまびらかになる。それをなんとなく察している甘王女が、老婆に言った。
「ケーキが無駄になるのは、わたしも悲しいです」
 老婆は、心配顔で奥の厨房を振り返る。
 甘王女は懇願した。
「おばあさん、今日はこの人たちに任せましょう」
 それを聞いてフランソワーズが甘王女を振り向いた。
「なに言ってるの、あなたも手伝うのよ。と言うより、あなたが主役よ」
「え?」
 甘王女はきょとんとした。
 フランソワーズは、真顔で言った。
「苺、三パック。忘れないでよね」
 そう言って右手を顔の高さに構えた。すると、そこに黒い影が走り、あたりに高い音の【ラ】が響いた。そして音が消えたとき、フランソワーズの手には、漆黒の指揮棒が摘ままれていた。
 スゥッ……
 フランソワーズは目を閉じると深呼吸し、笑みの一つも無い真顔でまぶたを上げた。
 そして、夜空へ声を上げた!
「歌える船頭、フランソワーズ・テンプル・小閻魔が命ずる! 今宵、空を彩る満艦飾よ、分け与える善意で我が元へ!」
 黒い船員服、そして漆黒のタクトで、フランソワーズは空へ願い、そして多くの光を受け取るように、キリッと凜々しく歌い始めた。
「踊れトナカイ!
 回れサンタ!
 今宵は楽しいクリスマス!
 子どものため 夢の夜に
 ちいさな勇気で ベル鳴らせ!」
 歌いながら裸足で地面を打ち、タクトをくるくる回す。すると、夜空のどこからか、星の流れのように光が集まってきて、ストロベリータイムスのレトロな外観を彩りはじめた。
 一つ一つは小さな星のようだけれど、思い思いの瞬きで、窓や屋根を飾っていく。その光は、店の前に出した冷蔵ケースにも……。そして、店の前の空にロープが走り、光に包まれた満艦飾が咲いた。色とりどりの小旗だ。
 それは万国旗ではなく、航行する船がやりとりする信号旗だった。さらに、夜空を舞うカラスたちの羽根が、白と黒のタキシードのように塗り分けられ、彼らは満艦飾を電線代わりに整列し、フランソワーズがリードしたクリスマスソングを、陽気な調子で歌い始めた。それは、あたりの人が振り返るほどの、けたたましい合唱だった。
「踊れトナカイ♪
 回れサンタ♪
 今宵は楽しいクリスマス!(イブイブイブイブ♪)
 子どものため、夢の夜に♪
 ちいさな勇気でベル鳴らせ♪(ヘイ!)」
 ジングルベル~ジングルベル~と臆面も無く歌うカラスたち……。
 騎馬命は苦笑いで見上げた。…と、そこにタクトの先がピシッ!と向けられた。
「あんたも、ぼさっとしてんじゃないわよ!」
 まるで攻撃を食らわすかのように喝が飛ぶ。同時にタクトの先から黒い五芒星が列になって飛び、騎馬命の姿を取り巻いた。
「う…わ」
 おぞましいばかりの黒い星に取り巻かれ、さすがの騎馬命の浮き足立つ。……が、直後。
 星の流れがスケバンの衣装を削り取り、筋肉質かつ豊満なボディーラインをつまびらかにした。それから首元と肩、胸元に灼けた星となってまとわりつき、慌てる騎馬命を余所にドラムロールに合わせてパッと弾けた!
「うっわ、なんだこれ!」
 騎馬命は絶叫に近い悲鳴を上げた!
 膝丈の黒いワンピースに白いエプロン、襟、カフス、フリルをつけた給仕の衣装が、騎馬命の体を包んでいた。しかも頭には白いレースをあしらったヘッドドレスまでされている。
「お、おいっ!」騎馬命はスカートを抑えた。「足が、スースーするじゃねぇかッ!」
 自分のアイデンティティーを壊され、顔を真っ赤にして叫ぶ。
 フランソワーズは、その眉間にピッ!とタクトを向けた。
「今日のわたしは気が立ってるの。逆らうのなら、帰りは三途の川を歩いて渡ってもらうわ。そのカッコウで、ね」
「ぐッ……」
 陽気なクリスマスソングが地獄の賛美歌に聞こえてきた。
 しかし、今日は逆らわない方がいい。スケバンの感性が、そう訴えていた。
 フランソワーズは騎馬命をねめつけてから甘王女を見下ろした。
 笑みもない、冷え切った目だ。甘王女は、思わず首をすくめた。
「最後の仕上げは、あなたよ」
「あんな黒と白の姿になるのですか?」
「………」
 フランソワーズは答えない。笑みもない。甘王女は震え上がった。そしてタクトが向けられた。
 甘王女は小さくなって目をつむる。
 ……トン。
 タクトは甘王女のチューリップハットを叩いた。
 途端、身の回りで光の明滅が沸き起こった。目をつむっていてもわかるくらいの明るさだ。
 直後、アッハッハ!と騎馬命が爆笑した。
 恐る恐る目を開けてみると、甘王女は全身を電飾で飾られ、さらに緑色のチューリップハットが七色に塗り分けられ、頭の天辺でメリーゴーランドのように回転していた。
「………」
 あまりの派手さに甘王女は閉口する。
 フランソワーズが冷ややかに言った。
「あなたはショートケーキの主役なんだから、ちょっとは主張しなさいな」
「ちょ、ちょっとどころですか、これ……?」
「文句がある?」
 フランソワーズは怖い。甘王女は言葉を飲み込み、騎馬命に助けを求めた。けれど、騎馬命は腹を抱えて笑うばかりで助け船を出す様子もない。……と、背中に手のぬくもりを感じた。
 見上げると、爆笑する騎馬命を不愉快そうに見ながら、フランソワーズが手のひらで背中を押していた。
「クリスマスなのに、普通のショートケーキを、この時間から三百個も売り切るのよ。楽しくしなかったら売れるものも売れないわ」
「……はい」
 きついことを言いながら、背を押す手にはあたたかみがあった。
 甘王女は、歩き出す寸前、もう一度だけ、フランソワーズの目元を見た。そこに、青い星がないかと、気になったのだった。けれど彼女は、メイド服で胸組をする騎馬命を淡々と見やるばかりで、その瞳に光った星については、ついにつまびらかにはならなかった。


 カランカラン!とハンドベルが鳴る。
「いらっさいませー!」
「いらっさいませー!」
「今日だけショートケーキがお買い得ー!」
「ショートケーキがお買い得ー!」
 駅前から流れてくる人波に、騎馬命と甘王女が声をかける。普段はイルミネーションなどない一角に、今夜は煌々と灯る明かりに思わず足を止める人も多かった。もちろん、カラスたちの歌うけたたましいクリスマスソングも一役買っていた。
「おにいさん、ショートケーキはいかがですかー?」
「苺のかわいいショートケーキはいかがですかー?」
「今なら三個で三百円、超絶お買い得ですぜー!」
「そうですぜー!」
 本当なら三個で千円は下らない。値段もさることながら、メイドに扮した騎馬命と、隣でピカピカ光る甘王女の息が合ったかけ声で、売れ行きもまずまずだ。高校生、大学生、仕事帰りの人、お年寄り……世代も様々だった。
 カランカラン!
「お買い上げー!」
「お買い上げー!」
 売れれば鐘を鳴らす。売れなくても鳴らす。
 騎馬命がお金を受け取り、甘王女が手早く箱に詰める。箱を健気な笑顔で差し出すと、「ありがとう」「いただきます」と声を残していく人も多い。
 そのたびに甘王女がパッと明るい笑みをするので、さらに電飾が星になって空に飛ぶので、物見遊山で次から次にと人が足を止めていく。
「なんだか楽しいです!」
「だな!」
 ほんの合間に二人が笑い合う。
 それをほほえましく見ながらも老婆が言った
「任せててよいのかしら…」
「いいんです。お気になさらず」
「でも…」
「あの子は苺を無駄にしたくないだけなんです。あなたがどこまであの子の話を信じているかは知りませんけど、あの子、本物の妖怪なんですよ。それで今は、仲間を救うので一生懸命なんです。見守ってあげてください」
 老婆が、甘王女のことを話半分に訊いているだろう事は想像がついていた。それよりも、どうしても愉快犯のことが頭から離れないらしい。フランソワーズは眉間にしわを寄せて言い切った。
 その時、学生服を着た少年が騎馬命たちの前で足を止めた。背格好から高校生だ。彼はびっくりした顔で、居並ぶショートケーキと仮装した騎馬命たちのことを見た。騎馬命は小銭を受け取るところで、甘王女はケーキを詰めているところ、目の前に現れた少年には気づいていない。
 少年が、店の入り口で心配そうにしている老婆を見た。老婆を見ると、その視線に気づいた風はない。表情も変わらない。
 フランソワーズが前に目を戻したとき、冷蔵ケースの向こうに少年の姿は無くなっていた。
「………」
 少年の視線は、フランソワーズを見なかった。けれどフランソワーズは、その表情にただならないものを感じ取っていた。
 その時。
 店の中でジリリリン!と黒電話が鳴りだした。
「あらあら、電話だわ」
 老婆が慌てて店に戻る。
 フランソワーズは、冷蔵ケースの脇を抜けて通りに飛び出した。


 学生服の少年は急ぎ足で住宅街の方へと歩きながら、スマートフォンを耳に押し当てていた
「ええ、そうです。ケーキを注文した者です。三百個、今から受取に行きますから。……え? 用意できない? どうしてです? 頼んだじゃないですか!」
 だんだんと声を荒げながら小走りするように歩いている。……と、突然!
 街灯の光を遮って、大きな黒い影が頭上を追い越した。そして、ニンジャのようにタッ!と、先の暗がりに立ち塞がった。そのシルエットは小柄だったが、長くて大きなツノを二本も生やした鬼に見えた。
 少年は思わず立ち止まった。
 スマートフォンの向こうで、詫びる言葉が続くが、もう耳に入っていない。なぜなら、立ち塞がった影から闇がしみ出したかと思うと、あたりの暗がりよりもなお黒い瞳が開き、明らかな憎しみを込めて睨みつけてきたからだ。
 少年は、息を呑み、それからスマートフォンを耳から離して、咄嗟に通話終了のボタンに指を伸ばした。
 ザザッ!
 その時、雑音を巻き込んだ風が吹き寄せ、黒い影が目の前に迫り、一瞬の後、目の前に憤怒の顔があった。そして手の中からスマホが奪われていた。
 慌てて取り返そうとすると、
「動かないで。動くと死ぬわよ」
 少女の右手に摘ままれた細い棒が、ヒュッと風を切って、鋭利な先端を眉間に押しつけた。
 その言葉、その瞳には、殺意があった。少年は震え上がったが、実はまだ、その殺意には理性が働いていた。閻魔の掟の発動がないことが、その証拠だったが、少年は知るよしもないことだった。
 少年は身動きを封じられ、スマホはゆっくりと少女の耳にあてがわれた。
「フランソワーズです。犯人、捕まえました。ケーキは売り切っていいです。本人、あとで連れて行きます」
 フランソワーズは、それだけ伝えると、一方的に通話を切った。
 そして、スマホは返さず、キュロットのポケットに押し込むと、改めてタクトの先端を少年の眉間に突きつけた。
「言い訳なんてさせないわ。わたしだって閻魔の端くれ。醜い心なんて簡単に見抜けるもの」
「あ……アッ……!」
 そう言うなり、フランソワーズは身から染み出た闇を瞳に収束させた。
 少年は、逃げ腰になって怯えた目をするしかなかった。
 せめて殺意を帯びた視線から逃げようとしたが、それも無駄だった。
 眉間に突き立ったタクトの向こうで、黒い炎の影が揺らぐ。
「苺たちが、どんな思いで死んでいったか、思い知りなさい」
 その言葉は黒い針となって耳の中に侵入してきた。そしてあっという間に鼓膜を掻き取った。体が跳ねるほどの激痛に耳を守ろうとしたが、腕はなにかに縛られて動かせなかった。そして鼓膜はズタズタになり、自分の心臓の音以外に聞こえるものなくなった。…が、その中でも、聞こえてくるものがあった。
「これで聞こえるようになったはずよ、死していった者達の嘆く声が」
 フランソワーズの声だけは、氷を砕くかのようにような固い音として聞こえた。そしてその言葉が、静寂の中で尾を引いて消えていくと、入れ替わりに、人のものとも思えない金切り声が聞こえ、それが何重にもなり、水が押し押し寄せきたかのように少年を取りまいた。
「う……あッ」
 おぞましい音の奔流に少年の腰が引ける。そこにフランソワーズの腕が回り、少年は腰を抱き留められた格好になった。そしてフランソワーズは、タクトの先で少年の眉間を突いた。
 まるで鉄串を刺すように薄い肌に穴が開き、頭蓋を貫き、心の奥へと鉄の棒が侵入していく。いま、その冷え切った鉄の棒は、フランソワーズの現し身だった。

 少年は、小学生時代の記憶の中に、黒い水兵服の少女が立ち現れたのを目撃した。季節ははっきりしない。ただ、場所は、あのケーキ店の前だった。
 ちょうど、小学二、三年の頃の自分が、母親に手を引かれて、店のドアをくぐっていくところだった。
 黒い水兵服の少女は、冷たい目でチラリとこちらを振り返ってから、ふたりを追って店へと入った。
「いらっしゃいませ」
 対面の冷蔵ケースの向こうで老婆が言った。
 その時の少年の身長では、冷蔵ケースが大きすぎて、老婆と向き合うことは無理だった。代わりに目の前に、色とりどりのケーキと向き合うことはできた。チョコケーキ、モンブラン、チーズケーキ……。その中でも、少年の心を掴んで離さなかったのは、真っ白いクリームに赤い苺をあしらったショートケーキだった。
 見ているだけでほっぺが落ちそうな顔をして、彼はショートケーキを見つめていた。……と、ふと気づいた。
 冷蔵ケースのガラス越しに、向こうの厨房の様子が目に入った。
 白髪の職人が、絞り器を手に、ホールケーキにデコレーションをしていた。絞り出された真っ白いクリームが、魔法のように形をなして、まるでコビトが整列していくかのようにケーキを飾っていく。
 視線を感じたのだろう、ふと職人の手が止まり、ガラス越しに目が合った。
 どうだい、うまいもんだろう?
 誇らしげな視線に、少年は子どもながらに胸を打たれた。そして、声を上げた。
 ボク、ケーキ屋さんになりたい!
 ママ。ケーキ屋さんになるには、どうしたらいいの?
 老婆が聞きつけてニコリとする。
 母親も、ニコリとした。

 誰からも返事はなかったけれど、少年は、小さな箱を手に提げて、帰り道は、とても楽しいものになった。
 そして夕食の後、父親と三人でケーキを食べた。美味しくて、本当に幸せで、少年は父親に話した。冷蔵ケース越しに見た、魔法の一瞬のことを……。そして、言った。
 大きくなったらケーキ屋さんになりたいな!
 なのに。
 ケーキ屋なんて、大学に入らなくてもなれるじゃないか。
 いい大学へ行くんだろう?
 もっといい仕事があるはずさ。
 父親は、彼の夢を笑った。そして本気にしなかった。
 次の年から、少年は学習塾に通うようになって、駅前のケーキ屋は通り過ぎるだけの場所になった。
 毎日毎日、夢の前を通り過ぎるだけの日々……。
 気づけば、夢を夢と言うこともできなくなって、十年の年月が流れた。
 いつしか、口にできない夢の存在自体が憎しみの対象になっていった。矛先を向けられたのは、思い出のあるショートケーキだった。
 そして、今……。
「そんなことで、人に迷惑をかけられるのね」
 水兵服の少女が、冬の夜空の下で、大きくなった自分に、漆黒のタクトを突き立てていた。頭を貫かれ、どこか空間に固定され、その上、睨みつけられて、口答えをすることもできなかった。
 少女は憎悪を込めて言った。
「そんな醜い気持ちが、どれだけの苺たちを殺してしまったか、わかる? あなたは、あんなにショートケーキが好きだったのに、あんなに美味しそうに苺を食べていたのに、どうしてかしらね?」
 漆黒のタクトに、グッと力が込められる。
 その先端が、さらに頭の中に入ってくる。それがわかる。
 痛みはない。ただ、冷たく、恐ろしい。
 少女は氷の眼差しで言った。
「苺たちは、どうにもならない状況で、絶望に沈んでいったわ。その苦しさがわかる? わたしにはわかるわ。そしてそれは、あなたが夢を諦めて悶える苦しみなんかとは、比較になるものではないわ。だから、死ぬ気で詫びなさい。詫びて反省なさい。それでも一生悔いるでしょう。でも、仕方がないことよ。悔いて生きなければならないだけのことを、あなたはしたのだから。
 さあ……」
 漆黒のタクトは、黒い鋼でできていた。
 それは、絶望の意味を思い知らせるように、少年の頭の中をゆっくりとかき混ぜた。



 三百個のケーキが、ほとんど売れてしまった頃になって、少年が引っ立てられてきた。
 彼はうつむいていた。
 甘王女は怒りに拳を握りしめた。
 フランソワーズが背中をどつくと、彼の口から弱々しく「ごめんなさい」と、詫びる言葉が出た。
 けれど、それで取り戻せることなんて何一つない。甘王女は、怒りを言葉にすることもできなかった。いざとなると、言葉が出てこなかったのだ。
 老婆が心配そうに見守る一方で、店主は奥から出てこなかった。
 フランソワーズは、少年の代わりに、見たことを語った。
 かなえられない夢を、憎んでしまったこと。
 そして、迷惑をかけたこと。
「許されないことよ。だから、一生、悔いて生きるように、心に印を刻んでやったわ」
 少年の眉間には、うっすらと傷のようなものが残っていた。
 騎馬命は、少年に声をかけた。
「よかったな、印くらいで済んで。あたしら、人殺しは出来ねぇんだけど、本気になったら、精神崩壊させるくらいのことはできるんだぜ。よかったな、本当に」
 言いながら、チラリとフランソワーズを見る。
 フランソワーズは、闇の渦巻く冷徹な眼差しで少年を睨んでいた。
 騎馬命はブルッと身震いした。そんなフランソワーズなど見たことがなかった。そして逃げるように目をそらし、甘王女に言った。
「今日のフランソワーズ…、マジで怖いぜ。たかが印とはいえ、どんなもんかわかんねえよ。生きてるうちに、そんな経験するやつなんか、たぶん、滅多にいねぇ。だからさ、許してやってくんねぇかな。前の百個は、ほんと、申し訳ないと思うけど、今日のケーキは、あとちょっとで売り切れるしさ」
 甘王女は硬直したきり返事もしない。
 少年の方も、凍り付いたように動かない。
 その様子を、フランソワーズが氷の視線で見つめる。
 老婆が、オロオロし始めた。
 騎馬命は苛ついてきた。
「ああ、もう……。じゃあ、あたしがけりつけてやンよ。あたしらのやり方で、よ!」
 そう言うなり、甘王女を押しのけて少年の前に割り込んだ。
「顔、上げな」
 怖い声で命じる。そして、青ざめた顔に選択肢を突きつけた。
「グーがいい? それともパー? あ、やっぱ男ならグーだよな? よーし、いい根性だ。気に入ったぜ。ほら、歯、食い縛んな。でないと、二、三本、行方不明になっちまうぜ?」
 言いながら右手を拳にして関節をポキポキ鳴らす。
 フランソワーズは止めない。老婆は慌てるがどうにもならない。そして甘王女も、何かをこらえるようにうつむいてなにも言わない。
 少年は観念して、目をギュッとつむると歯を食いしばった。
「おーし…!」
 騎馬命は力こぶを作って、拳を頭の高さまで引いた!
「やめて!」
 足元で悲鳴が上がった!
 甘王女だった。
 見ると彼女は、その場にしゃがみ込んで顔を手で覆っていた。
「やめてよ、もう! そんなことでわたしたちの気持ちが収まるわけないじゃない! 恨みなんて晴れないよ! わたしたちの気持ちなんて収まらない!」
 騎馬命は振り上げた拳をそのままに、甘王女にたずねた。
「じゃあ、どうすればいいんだい? そこら辺で野垂れ死んでもらって、あんたの希望通り、地獄へ連れてくかい?」
「……!」
 甘王女は息をのんだ。
 脳裏に、高笑いする自分の姿と、誰か、誰かわからないけれど、悲しむ人の姿があった。
「それとも、その手で殺すかい?」
 騎馬命は詰める。
 甘王女は、頭の上からフランソワーズの視線を感じていた。
 そして、唇を噛むと立ち上がった。
 足元に目を落として、拳を握る。
 決意して背負ってきたことが、のしかかっていた。
 しぼり出した言葉は、嘆きに暮れていた。
「いっその事、泣いてごまかせたらいいのに」
 甘王女は涙も流せない。泣いたら負けだと、ずっと歯を食いしばってきた。大勢の涙を背負っても、屈しない思いがないと、妖怪にはなれなかった。だから、自分の思いを捨てることも、仲間の思いを捨てることもできないと思った。甘王女には、こらえることしかできなかった。
 その時、誰かが動いた。
 騎馬命が拳を下ろす。
 甘王女は目を上げられない。ただ、気配に怯えた。
 紙の箱を組み立てる音がした。冷蔵ケースの扉を開ける音がして、薄いアルミホイルがいくつか鳴って、手持ちを止めるテープが切られた。
「わたしは、許しますよ」
 老婆の、優しい声が立った。
 甘王女がハッと顔を上げると、彼女はケーキの箱を、うつむいた少年の前に差し出していた。
 少年は、驚いて箱を見つめた。
 老婆は、静かにいった。
「あなた、三人家族でしょう? だから、ケーキは三つ、ね」
 少年の目が、なぜ…とまん丸くなった。
 老婆は目を細めた。
「わたしも主人も、あなたの声を、覚えていましたよ。ケーキ屋さんになりたいって言ったあなたの声を……。そのおかげで、十年長く、店を続けることができました。あなたの声は、最後まで、わたしたち夫婦の励みになってくれました。これは、そのお礼ですよ。
 さあ」
 少年は子どものようにまん丸な目をして涙を零した。
 そして、呆然と言った。
「ごめんなさい…ッ」
 老婆は、目を細めて微笑んでいた。
 甘王女は愕然と老婆を見た。そして、瞬きもできないまま、首を回してフランソワーズを見た。すると、彼女は知らぬ振りで顔をそらしてしまった。
 突き放されたと思った。
 そして急に怖くなった。
 恐ろしいことを考えていたと知った瞬間だった。青ざめ、震え、そして考えがぐちゃぐちゃになり、何が何だかわからなくなり、頼りたい人にも横を向かれて、たまらなく悲しくなってフランソワーズの胸にしがみついていた。しがみついて胸に顔を押しつけ、子どものように声を上げて泣きだした。
 騎馬命は、フランソワーズの驚いた顔を見た。フランソワーズも目を丸くして騎馬命を見、老婆を見、そして泣きすがる甘王女の事を見つめ下ろすと、おずおずと、少女の頭を、そっと抱きとめた。
 騎馬命は、ふと背後に視線を感じた。ゆっくりと振り返ると、厨房の戸口に、老主人のシルエットがあった。職人気質丸出しで、シルエットはますます無口だった。彼は今、誰を見ているのだろう……

 辺りには甘王女の泣く声が響いていた。
 少年も目を腕で隠してすすり泣いていた。
 フランソワーズは、伏し目がちに甘王女の髪を撫でていた。
 老婆は静かに見守っていた。
 騎馬命は、ふと、自分がまだ、拳を握っていることに気づいた。それを、こっそりとほどくと、手持ち無沙汰に頭にやり、満艦飾に彩られた空を見上げた。
 たくさんの旗を吊したロープにはカラスたちが整列して、眼下のことを見守っていた。合唱は、フランソワーズが少年を連れて戻ったときから止まってしまっている。彼らは、思った以上に敏感で、今も沈黙し、用心深く成り行きを見守っていた。
 そのせいで、ここには泣き声だけが響いている。
「……ッたく」
 騎馬命は頭を掻いてから、カラスに向けて人差し指を一本、立てて見せた。
 指で作ったタクトだ。騎馬命はカラスを全員見渡して、指先に注目させ、ゆっくりと三拍子の三角を作って見せた。
 カラスたちは、静かに歌い始めた。
 それは、聖夜の調べ……。
「クリスマスでも、なんでも、いいけどよ……」
 騎馬命は呆れたそぶりでつぶやくと、都会の空に星を探しながら、心ではこっそりと歌っていた。



**** 連載5回目【仕事納め】は12月29日に投稿予定です。
     後日談まで、ぜひお読みください!        ****
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