(2) 高嶺の部下

文字数 1,368文字

『おう、休憩時間中に悪いな』

 電話は上司の石本部長からだった。

『すまんが、立花くんと一緒に謝りに行ってくれないか』

 ランチに出遅れる原因となったクレーム先へ、担当者と一緒に謝罪に行けという。

『直帰でいいぞ。金曜だし、正式な報告書は週明けでいいから。終わったら電話だけ入れてくれ』
 
 定期的にクレームを入れてくる、有名な顧客だった。午前中の状況からして、こういう事態は十分に予測できた。ただ、担当の立花絵里子(たちばなえりこ)は部長お気に入りの女子社員だ。クレーム先へも部長が帯同するのではないかと思っていた。お鉢が回ってきたことは嫌ではない。彼女と部長を行かせるよりも、むしろ良かったと思う。気が進まないのは、そのクレーム先がかなり遠方にあるせいだ。

「すみません。手を煩わせてしまって」

 出掛け、立花絵里子はエレベータの前で、そう頭を下げた。

「気にすることはないよ。誰が担当しても文句を言う人なんだから。文句が言いたいんだよ、あの社長は。立花さんが上手に相手をしてくれているから、これでもまだおとなしい方だと思うよ」

 それは本音だった。彼女を担当につけた当初は、若い女が担当なんてと、しつこく文句を言っていたのだ。それを収束させたのは誰の手柄でもない。彼女が若くて美人だからという側面もあるかもしれないが、それよりも彼女の仕事振りや顧客に向かう真摯な姿勢の賜物だ。

 二月二十九日生まれの彼女は入社五年目。長身痩躯(ちょうしんそうく)のモデル体型。細面で整った目鼻立ち。男女を問わず誰もが、おっと思って目を止めるほどに美人だ。狙っている男性社員は多いものの、あまりに高い(みね)に咲く花の如く、手が出せない存在になっている。

「昼は食べたのか?」

 食べる暇などなかったと、分かっていての質問だった。
 クレーム対応なんて仕事は、相手方との折衝はもちろん、顛末(てんまつ)の報告まで(わずら)わしさだけで構成されている。しかも、いかに上手く収束させたところで誰も褒めてはくれない。
 でも、それだけに——。

「腹ごしらえは必要だぞ」

 二人して駅の売店でおにぎりを買った。車内が空いて、二人並んで席が確保できたところで、遅くて短いランチを済ませた。

「不快な思いをさせてしまったのであれば、その点はお詫び申し上げます」

 こちら側の対応に落ち度はない。謝罪すべき点などないのだが、それを主張しても(らち)は明かない。正論だけでは世の中は回らない。だから、このようなお詫びの文言になる。

 隣に座った彼女は神妙な表情を崩さず、黙って頭を下げていた。極力口は開くなと事前に指示をしておいた。相手が飽きるまで同じ謝罪を繰り返すのみ。これは暗黙の式次第に則ったセレモニーなのだ。

 相手が飽きたら、今度はくだらない世間話を一頻(ひとしき)り聞かされる。それに二人でいちいち大袈裟な相槌を打ってご機嫌を取る。ようやく解放されたときには陽が沈みかけていた。

 帰りの駅のホームから部長に報告の電話を入れた。忙しいらしく、心ここにあらずという感じで、形式的にご苦労さんと言われただけだった。

「部長から、立花さんにもご苦労さんってさ」

 強引さの目立つ上司だが、上層部への根回しが巧みなおかげで実害は少ない。ドラマに出てくるような百点満点の理想の上司など、現実には存在しない。仕事の面では良しとすべきなのだろう。ただ、この部長の場合、懸念は別のところにあった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み