任務に忘れられてしまった聖騎士

文字数 1,785文字

 白い霧の中。
 
 ミコシエは、鉱泉に浸ったまま、心地よさに眠ってしまったのだと思った。
 だけど、そうではなく、それはもっと前で、鉱泉からはもう出てきて、布団の敷かれた離れの間で眠りに就いたのだったか、と思う。
 とすると、深くなった霧が、部屋の中に入ってきているのだろうか。
 
 いや、と思い直す。
 ミコシエは今、裸で、とても心地がよい温水に浸っているようだ。
 やはりまだ、鉱泉にいたのだったか。
 婆の言ったように余程の秘湯なのか、感覚そのものが眠りから醒めたばかりのように、甘く、覚束ない。
 
 白い霧の中……そう言えば、とミコシエは、峠でレーネに会ってからの日々、樹のうろでレーネと過ごした夜にも、つめたい霧が入り込んできていたな、と思い出す。
 だけど今はなぜ、こんなに温かい。
 霧の中で一瞬、レーネの肌に触れたのだった。
 あのとき、温かいと感じてしまったことを、ミコシエは思い出す。
 
 以前、この国で、一人の女性と出会った。
 ふと気付くと、誰かが、隣にいる、と感じる。
 レーネ、か。
 どうしてここにいる。
 ここは鉱泉なのか。離れの間なのか。いや、どちらにしても、何故そんな近くに……
 
「あなたはここユミテで、かつての恋人と出会ったのね」
 
「恋人ではない。私は、聖騎士……女性の肌に触れることも、できなかったのだ」
 
「今は?」
 
「私は、……変わりない。私は、聖騎士だ」
 
「可哀想に。あなたは、もう任務に忘れられてしまった聖騎士なのよ。ねえ、ミコシエ。ここはあなたの夢のなか。あなたの好きにすればいいのよ。ここにいる私だって、本当のレーネではない、あなたの夢の中のレーネ。好きにすればいい。あなたから私に触れたって、いいのよ」
 
 レーネが、ミコシエに迫ってくる。
 
 何をしている。ミコシエは、レーネを止めようとする。オーラスに、きみの夫が……亡骸となったきみの夫が待っているのだ。それに会いもせず、こんなところで何をしている。
 
 ミコシエは、峠の夜に触れた、レーネの肌の温もりを、思い出す。
 あれは、偶然触れたにすぎなかった。
 だが、触れてしまった。
 あの温もりを許したということは、私にはすでに、聖騎士としての纏うべき聖性など、剥がれ落ちているのではないか。とっくの昔に。
 あの温もりに触れてしまった今、私はもう、この寒さに耐えることができなくなってきているのかもしれない。
 目の前には、レーネがいる。
 一糸纏わぬレーネが。
 
 わかっていたことかもしれない。
 目を閉じる。
 
 もう、私が仕えていた王のもとに戻れることなどあたわず、私が探していた物はもう、私の手にとることはできない。二度と……。
 
 ミコシエは、目を開ける。
 
 ミコシエの纏っていた漆黒に染まってしまった聖騎士の衣が、剥がれ落ちていく。
 これで、解き放たれたのか。
 
 私はこれから、何を探し求め生きていけばいい。
 
「今はいい。何も、考えなくても」
 
 レーネの腕が、ミコシエを包み込む。
 体を、合わせる。
 ミコシエは、レーネの肌に自らを埋めていく。
 かつて、この体を勇者に選ばれた者が抱いた、体……(それから、野獣のごとく飢えた粗暴な傭兵どもが代わる代わるに抱いた体……私は今、何者ですらない。)
 
 オーラスで永遠の眠りに就く男の姿が浮かぶ。
 
 ……(だめか。私は……)
 
 ミコシエ?
 
 ミコシエは、そっと体を、女の肌から離す。
 
 私は、この肌と一つになるなり方すらもうわからない。(あんな獣どもですらできたことが私にはできない。今更、獣には私はなれないのだ。)
 
 ミコシエ……いいのよ。全てを、預けて?
 
 だめだ。どうも……だめなのだ。
 
 そう……
 
 レーネは、ミコシエをもう一度優しく触れてくれた。
 
 わかった。いいわ、今はじゃあ、ただゆっくりと眠って……ミコシエ。
 
 ミコシエは、自分が今は惨めとも思わなかった。
 勇者でもない、聖騎士でもない、一匹の男ですらない。もう、自分には何も探せない。人に、何を与えることでもできない。
 
 そこに温かい肌がある。
 
 今はもう、それに触れてもいいのに、今更、その触れ方がわからないのだった。
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