第20話

文字数 3,355文字

 天気は快晴だった。そして、多分明日も快晴だ。
 軽い準備運動をしながら、さっきまで目が痛くなるほど青く澄み渡っていた空を見上げる。
 夕焼けが綺麗ってことは、明日も晴れるってことなんだよね。昔、ユキが言ってた。
 そんなことを思いながら、ユキの姿を見る。ユキは日焼け止めをばっちりぬった体で、日陰のところでじっと颯が来るのを待っている。
 何で、昨日は直樹の部屋にいたのかな……というか、何でまず薫が直樹の部屋にいたんだ?
 よく分からないことだらけだった。あのあと、ユキは普通に元気になったみたいで二人でお風呂にも入ったし、寝る前に枕投げ(ただし、アサが一方的にテンションを高くしてユキに投げて、ユキがそれをうっとうしそうにキャッチしてアサに投げよこすというもの)もした。なんら不自然な様子もなかった。なのに、直樹の部屋にいたユキは何となく、泣いていた感じがした。目はそんなに赤くなっていたわけじゃないが、確かに、そんな感じがした。しいて言うなら、あの部屋にはユキのしょっぱい涙の匂いがしたのだ。
「うぅー……最近わかんないことだらけ! 考えるのも面倒だよー! 諒!」
「はあ? いきなり俺に振るなよ」
 諒はさも面倒くさそうにアサの方を振り返った。諒は公平な勝負のために、とさっきから地味に道路に転がる小さな石ころを拾っては海に向かって投げている。ユキもその作業をしよう、と諒に言われたのだが、そんな面倒な作業はごめんだったらしく、颯を待つ係りとなったのだ。まあ、ユキならしょうがない。
「……石あったって別に大丈夫だよー?」
 首筋にうっすら汗をかきながら作業を続ける諒を見ていると、諒のための勝負なのに、何だか余計諒がつらくなってしまっている気がする。これなら、勝負なんてしない方が諒のためになったんじゃないか?
「いや、でも転んだら結構コンクリは痛いだろ」
「はぁ……偉いね、諒は。敵に情けをかけるんだね。颯くんまだ中一だもんね。後輩に怪我させちゃ先輩として胸が痛むもんね」
「なあ?! ちげえよ! 別にそいつのためだけってわけじゃ……」
「ん? 何?」
「……なんでもねえよ」
 半ば諦めたかのような顔をして、諒はまた黙々と作業をし始めた。
「…………?」
 本当に、最近みんなしてよく分かんないよ。
 アサ一人だけ、何も分かっていないんじゃないかという気がしてきて、何となく寂しくなった。
 凪がまだ来ないことを示すかのように、アサの短い髪をさらっていく風が海から吹いてくる。潮の香りを含んでいる。海に目をやると、もう日が海に落ちている。小さいころ怖かった景色と同じように、蒼い海を青い空をも巻き込んで赤く染めている。これからくる夜が、アサ一人にしかこない気がした。みんな平等に暗い夜が来るはずなのに。
「アサー! 準備してー」
 ユキの声にはっと目線を山際に戻すと、階段を一個一個下りてくる颯が目に入った。昨日とほとんど同じ服装だ。多分背丈的にはぴったりなのだろうが、異様に細いせいで体にあってない白い半そでのランニングシャツを着て、下は黒いスポーツウェアを着ている。白いシャツは、半そでのはずなのに、五分丈ぐらいまで長さがあった。
「はあい!」
 ユキに大声で返事をして、先ほど諒がこつこつとまっすぐになるよう、チョークで線を引いていたスタートラインに立つ。
 颯の方を見ると、ユキに呼び止められていろいろと説明を受けているようだった。
 今回の競争は、海沿いのこのコンクリートの直線の道路をただ走るだけ。港の方に向かって走り、先に客船の時刻表をタッチした方が勝ちだ。客船に乗る人には迷惑極まりないが、凪が起こるころにはもう船も出発して乗り場にもほとんど人はいなくなっているだろうし、大丈夫だろう。
 最後に仕上げとして軽くジャンプをする。さすがにビーチサンダルで走るわけにもいかないので、近所の子から運動靴を貸してもらった。諒の靴を本当は借りる予定だったのだが、思いのほか大きかったのだ。諒には大きすぎると言われたが、信じられなかったから一応諒に靴を持ってきてもらった。足を靴の中に突っ込んだ瞬間は衝撃だった。ブカブカ、とかそういうレベルじゃない。この世にこんな大きな靴があって、しかもそれがぴったりな人がいるということが信じられなかった。
 諒の足、つい最近まで一緒の大きさだったんだけどなー。これじゃあ、もう一緒に隣で走ったとしても、諒と走っているって感じないのかもしれない。
 自分の体が宙に一瞬浮いてはコンクリートの硬い道路に吸い付くように着地しているのを感じながら、ふとそんな考えが頭を過ぎった。 
アサにとっては、島に来て諒と一緒に全速力で走ることは何よりも大切なことの一つだった。隣で同じくらいの背丈で、同じくらいの体重で、同じくらいの息遣いをした子が走っている。それは、ユキが隣を走るのとはまた違う高揚感をくれた。ユキの走り方は一緒に手を繋いだり、どんなときでも隣にいることが当たり前、という安心感を持っていた。そして諒の走りは、抜かされるはずはないのだけれど、全力でアサを追い抜かそうとする気迫を持っていた。どちらも走っているときはこれ以上ないほど楽しいのだけれど、諒の自分に追いつこうとしてくれる必死さが好きだった。何となくたくさん似ている部分を持った子が、必死で後ろに迫ってくる感覚が心地よかった。多分、アサは自分がユキを必死で必要としているくらい、誰かに必要とされていることを実感したかったのだ。
 だって、最近ユキは何となく一人でもやっていけそうな雰囲気があるから。
 ジャンプするのを止めて、じっとりと汗ばんできた体を耐えさせるようにうつむいた。真剣なことに臨むときのクセだった。こうすると、体全体の神経に自分の思いを届けることができるように感じるから。
 視界の隅に、ほとんど黒に近い濃い藍色の靴ひもが見えた。顔を上げる。
「遅かったじゃーん」
 にっこりというよりは、ニタリと笑うように意識しながら口角を上げてみせる。颯はアサの方を見ることもしないで足首をくるくる片方ずつ回していた。
「約束の時間にはまだ余裕がありましたから。それよりも、宇波先輩より速いって本当ですか?」
「ん、本当。アサも一度も負けたことないよ。君もそうみたいだけど」
 わざと相手の神経を逆なでするような言い方をする。颯は目だけ動かしてアサを見た。
「それ、さっきのあそこに立ってる人にも言われました」
 颯があごでくいっと指した先には、ユキが暑そうに、でも真剣な様子でじっとこちらを伺っている。自分を見てくれていることに、ひどく安心感を覚える。さっきまで胸を覆っていた重たい雲と雲の間に、微かに淡い光の兆しが射し込む。
ユキが今だけでも、このときだけでも、アサのことを心配して見ていてくれるなら、絶対アサは勝てる。
「じゃ、僕があなたの一番最初の勝者ですかね」
 スタートの格好をし始めた颯はまだ余裕の気持ちがあるらしく、そんなことを呟いた。それを、アサも屈伸しながら応じる。全く、口だけは達者らしい。
「んー? どうかなあ。少なくとも、アサは負けるつもりないからねー。諒のこと、悪く言った人になんて負けない」
 自然と気持ちがこもった口調で言い、ふっと風を飲み込んだ。凪がそろそろ起こる気がしたからだ。今、アサの頬を滑った風は、凪が起こる直前を最後としたら、後ろから何回目の風なのだろう。
 ちらっと横を見ると、ユキはもういなくなっていた。ジャッジをしてくれる約束だったから、多分もう港の方に行ったのだろう。
「イチについて」
 諒の声変わりした声が響いた。
いつも、思う。誰かと競い合って走る前。この瞬間は、どの瞬間よりもきっと純度が高い瞬間だと。どの瞬間よりも、透き通っていて綺麗だと。
「ヨウイ」
 ざっと隣で颯が構える音がした。もしかしたら、アサの音だったかもしれない。
 じりじりとアスファルトの熱い熱がじっとしている体にいつもよりもまとわりつく。
 何も考えられなくなった頭がキンと冷えわたったようにしびれる。
 今見えるものは、まっすぐ続く灰色のコンクリートの道路だけ。
「ドン!」
 風が、止んだ。
 その瞬間、息をも止めて消えてしまった風を自ら作るように、アサは走り出した。
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