病み上がり刑事 宇津呂

文字数 2,992文字

 村上は生きていた。時田が迅速な救護を行い、波乱万丈の父親が営む非営利慈善団体メガノイド財団が設けた人間再生病院で一命を取り留めた。スーパードクターのドン・ザウサーの手腕により肉体は治ったが、精神が衝撃で閉じたままになっており、捜査が止まってしまっている。
 
 「・・・波乱万丈はどうした?・・」
 「ピンピンしてます。時田刑事の監視のもとで、プール付きの豪邸で美女二人とバーベキューを楽しんでます。奴はバカンスです。」
 「・・・いいなあ。・・」
 「ボス、波乱がしたことは完全な越権行為です。やりすぎです!いいんですか!」
 「・・・神は死んだ。我々は、我々の正義に縋るしかないんだ・・」
 山上はボスの言葉に落雷を受けたような衝撃を受けた。神が死んだとすれば、我々の道しるべは、神が死んだ事実を知った人になる。そうなると、やはりボスは、ボスなのだ。山上はボスに対して畏怖の念を取り戻した。
 「すみませんでした。ボスのおっしゃる通りです。」
 「・・・ところで、村上への尋問は誰が当たる?・・」
 「宇津呂刑事です。まだ病み上がりで本調子じゃないですが、村上も体はなんとかなりましたが、心が塞がっています。波乱の追い込みがトラウマになっているようです。警察の雰囲気があるものが近づくと固まるのです。その点、宇津呂はうつ病で三年入院していました。すっかり警察の雰囲気が消えています。いま、村上に近づけるのは宇津呂だけです。」
 「・・・そうか・・」

 病室は壁もカーテンもシーツもベッドカバーも真っ白だ。そこに眠る人はシミように、白を拒んでいる。もし、白に飲み込まれたら、顔に白い布をかけられる結末に至る。シミは、存在の、命のシミなのだ。だが、進んでシミを消そうとするシミもある。真っ白な世界で、シミでいることが辛い人は、いっそのこと、消えてしまいたいという願望を持つ。それが病み上がりの宇津呂の本心だった。白に囲まれて、薄まるシミという存在が、静かに消えていく結末を待つのが心地よくて、長いこと入院していたが、別段問題がないと追い出された。今はベッドに横になる村上の横で椅子に座って、場所の交代を願っている。真っ白なハリのあるシーツにくるまりたいのだ。まだ、病人という薄れゆく存在に戻りたいのだ。
 たまに村上は思い出したかのように目を開ける。するとそれに気がつき宇津呂も村上の目をじっと見る。心の中で「おはよう。」と村上は言ってみるが、口を開けようとはしない。宇津呂は、その聞こえない声に気がつくが、じっと見つめて、意識あるように装うが、心は全く無視をする。ただ、真っ白な寝具に包まれて横になっている村上を羨ましく思うだけだった。宇津呂の支給されたタブレットに、取り調べの内容を報告するようにメールが入るが従うふりをして「まだ心を開きません。ほとんど寝ています。」などと嘘ではないが、何もせずに付き添う自分のことは一切書かずに、短い現状報告をする。もう入院はできないが、病院という心落ち着く場所に少しでも長くいることが、宇津呂の最後の望みだった。真っ白で、静かで、看護師は親切で、無駄な話しかけはない。これほど居心地が良い場所はない。本当は家に帰れば妻と子供がいるが、刑事の仕事に奔走し、関わり合いがない時間を長く過ごして、その後の三年入院により、まったく異質な存在となってしまっている。だから家に帰りたくない。ここなら泊まり込みの捜査と称して仮眠室の利用を許される。危険な可能性もある容疑者を放っておくことはできないからだ。
 窓から入る日差しの角度がどんどん代わり、いつの間にか薄暗くなっていく。その間、何も音がしない。椅子に座って宇津呂は考え込むふりをして、自分の中から色を押し出して、光の色、白色に近づけようと、疲労のない努力を続ける。言葉を発したり、何かを考えたりするより、全て忘れようとすることは、格段に難しい。忘れようとしているのは意志であり、意志が立ち上がるということは、考えることにつながる。そうすると、頭に抱えていることが増えていき、忘れることがさらに困難になってくる。絵に描いた餅をつくような無駄な仕組みに組み込まれる。だが、宇津呂は少しも困らなかった。それはただ時間が伸びるだけなのだ。それが辛いとも思わないし、居心地が良いとも思えない。ただ、時間だけが消えていくように過ぎていく。その無くなっていく感覚が、薄皮を剥ぐように心地よいところがある。
 「・・刑事さん、いつになったら質問をするんですか?」
 この三日間で初めて村上は口を開いた。そして、宇津呂は初めて、真っ白な皿に汚れを見つけたような嫌な表情をした。黙っていれば皿を割らずに済むだろうに。
 「刑事さん、私は、何もやってませんよ。ドローンで覗き動画を撮って、ユーチューブに流そうとしていただけです。ところが、あんなに死体が転がっているから、驚いて、撮っただけです。そりゃ、人の尊厳を金に変えようとしたところはよくないですよ。しかしね、そんなことで、殺されかけたんです。刑事さん、頭のおかしいやつに殺されかけたことがありますか?私は、頭のおかしい、しかも刑事に、銃やバイクで虫けらのように殺されかけたんですよ。わかりますか?」
 村上はじわりと責め立てるように宇津呂に嘆く。宇津呂は言葉を聞かされること自体が、億劫だった。心は完全じゃないのに、人の気持ちを理解しろと言われても、無理なのだ。腹を下している時に刺身を食わせられるように、不愉快でしょうがない。
 「あまり話しかけてもらっては困る。私はじっと静かな場所にいたいんだ。君は無口な容疑者で病院で寝ている。それをそばで静かに見ている。それで給料を得て、まわりからとやかく言われない。病み上がりの私にとっては、それがベストなんだよ。邪魔をしてもらっては困る。」
 宇津呂は抑揚のない、小さな声で、白い息を吐くように、思いを述べる。村上はその言葉の冷たさに、波乱万丈と違う恐怖を感じた。刑事というものは、人を裁く立場の人間というものは、追われる側の人間が大事にしているものを、とっとと捨てているのだろうか?村上は、得体の知れぬ恐怖を感じる。だが、黙っていると、自分の権利を放棄するようで、それが緩やかな終わりに沿うことになるから、勇気を振り絞り、反抗する。
 「邪魔とはなんだ!あんたの調子なんて関係ない!俺は刑事に殺されかけたんだ!こんなの二度とあってはならないし、許されることではない。しかも、俺は大量殺人とは、本当に全く関係ない。誤認逮捕もいいところだ、いや、逮捕どころか、あいつは「射殺」とかいってたからな、許されないんだ!弁護士を呼べ!マスコミも呼んでくれ!俺は戦うぞ!」
 村上が、なにやらジメッとした熱気を出してきたことに宇津呂は、ただ、うんざりして、こいつは黙らせようと、そうしないと、このうるさい状況がずっと続く気がしてきた。宇津呂は、仕方ないように立ち上がり、村上の胸ぐらを掴むと執拗に激しいビンタを繰り返した。初めは抵抗したが、そのうち諦めて、ぐったりした。そこで、宇津呂は強めの鎮静剤を村上に注射する。すぐに意識は混濁し、村上はくぐもった精神世界に沈んでいく。
 「これで静かになった。」
 落ち着きを取り戻した宇津呂は、曖昧な意識の地平をゆっくりと歩き出す。
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