第二章

文字数 10,733文字

「あのう、ウィリアムさん、この本、返却が遅れちゃったんですけど……」
 ウィリアムは痛む身体に鞭打って、なんとか本の載った台車を押しているところだった。
「いいよ、この上に載せて。僕が返しておくから」
「始末書は書かなくていいんですか?」
 返却が三日以上遅れると、規則で始末書を書かなくてはいけない。三枚溜まると、親に連絡、となっているので、生徒は恐る恐るウィリアムの顔をのぞき込んだ。
「かまわないよ」
 ぶっきらぼうにウィリアムは答える。出来ればしゃべりたくない。
 案の定、生徒は「ウィリアムさん、風邪、ひいたんですか? 声がかすれてますよ?」と心配そうな声で言った。
「なんでもない、さあ、もう行って」
 図書館の司書・ウィリアムさんはいつも柔和な笑みを浮かべていて、声は優しく、上級生からは慕われ、下級生からは尊敬される存在。しかし今日はいったいどうしたんだろうか? 風邪で機嫌が悪いのかな? と、ぶっきらぼうな態度に生徒は首を捻りながら離れていった。
 それを横目で見ながらウィリアムはなおも台車を書庫へと移動させる。そこで額の汗を拭い、壁により掛かった。
「僕だっていっつも聖人君子じゃいられないんだ」
 そう、ウィリアムの機嫌はたいへん悪い。もちろん言うまでもなく原因は昨日のこと。
 いやんなっちゃう、とウィリアムは痛む腰に気を遣いながら本を棚へと戻し始めた。
 いくら機嫌が悪くても生徒に当たるわけにはいかない、ましてや本に。当たるとしたら、他でもない自分、そんなことは承知の上。だって悪いのは自分、とわかっているから。「いやんなっちゃう」は自分への苦言だ。
 掠れる声も痛む身体もみんな昨日のあれのせい。夜通し行われたあの行為のおかげで、その原因はウィリアムが男爵の言うことを聞いていなかったからなのだ。
「なぜ僕が?」と問い返す暇も機会もなく、怒濤のように行為は始まり、そしてしゃくにさわることに、ウィリアムは気持ちよさにあんあんと声をあげ、一体全体なんでこんなことになったのかと考える暇も機会もないままに、そのままずっと朝まで……。
 思い出してウィリアムはぶるりと首を振る。
「悪いのは僕なんだから!」
「否」と言えば済んだものを。
 なんとなれば、ことが済んで朝日が寝室に差しこんできたときのこと。みっしりと太いものがやっとあそこから引き抜かれ、ウィリアムがぐったりとシーツの上で半分意識をとばしながら男爵を見上げたそのときのことだ、男爵はこう言ったのだ。
「なぜかって? ウィリアム、だってお前がいいと言ったのではないか。今夜は満月ではないが、俺さまはちょっとあれをしたくなった、お前のあそこに俺さまのあれを入れて、少しばかりこすってだな、そして少しばかり気持ちよくなりたいのだが、どうだ? と訊いたではないか。そうしたら、可愛いウィリアム、お前はかまいません、どうか、何だって、本当か、と俺が訊いたら、本当ですとも、男に二言などあるものですか、そう答えたではないか。嫌なら嫌と言えばいいのに、だろう? でもお前は嫌と言わなかったし、それに俺さまがあれをあそこに入れて、ほんの少しこすったら、そりゃあ気持ちよさそうに声を上げて、すぐさま白い液をたっぷりと出すから、俺さまはもっとこすって欲しいんだと思ってだな……」
 なんてこと! 確かにそう答えた、とウィリアムはほぞを噛んだものだった。
 それでも最後の瞬間、ウィリアムは釘を差すのを忘れなかった。
「確かにそう言いましたとも。でも男爵、言っておきますが、あの時僕はあることを考えていて、そして気持ちが留守になっていたのです。ですから男爵、今回のことはあなたの誤解ですから。いいですね」と。
 男爵は目を丸くしていたが、それでも最後に「がはは、可愛い奴、そうだとも、恥ずかしがり屋のお前がそんな言い訳をすることぐらいはわかっていたさ」と言い残して部屋を出ていったのだった。
 もう一度深いため息をついて、ウィリアムは残っていた最後の本を書棚に戻し、台車の上に腰を下ろした。
「あっ、痛ッ」
 後ろのあそこにじんと痛みが走ったが、ウィリアムは上着からハンカチを取り出して額の汗を拭った。後ろも痛いが、足ががくがくして長い間立っていられないのだ。
「まったく、どんだけ……」
 それでもウィリアムは自分に「とにかく悪かったのは自分なのだから」さらに「それに男爵にはきちんと自分の意志を伝えたんだ」と言い聞かせる。
 もう二度と、男爵はあんな無体を仕掛けることはないだろう。だろう、ではない。「絶対にない」だ、とも付け加えながら。
 ふと気が付くと、書庫はしんと静まりかえっている。いつもこの時間、何人かの生徒たちは書庫でカードをしたり、こっそりと御菓子を食べたりと、もちろんこの時代であるからマリファナなんか吸ったりせずにウィリアムの目を盗んでちょっとした悪さにふけっているものだが、とウィリアムは辺りを見回した。
「そういえば……」
 昨日、ここで聞いた悪巧みはどうなったのだろう、とウィリアムは思った。
 午後になって、生徒たちが宿題を手に図書館に次々と入ってきたが、その中にターゲットになっていた日本人の少年はいなかった。まさか、ジョージ・ディップディン・ビットにいたずらされて寝込んでいるのではないだろうか? ウィリアムは急に心配になってきた。
 力の入らない足を何とかなだめすかして立ち上がると、台車をそのままにして読書室へと戻る。自分の机に戻ってそここの席でで読書している生徒たちへと目をやると、なんとあの日本人の少年が何人かの生徒たちと窓際のテーブルで談笑しているではないか。
(よかった……)
 しかも友人も出来たようで、ウィリアムはほっとした。パブリックスクールになじめなくて退学、なんてことになったら可哀相だと思っていたのだ。
 ほっとしてウィリアムは傷んだ本の修理を始めた。いかに大切に本を扱っていても、たくさんの生徒たちが読む間、どうしても表紙が破れたり、ページが折れたりするものなのだ。特に男子校ゆえ、本の傷みは激しい。
 ウィリアムが本を一冊ずつ吟味していると、図書館の入り口からキースが入ってくるのが見えた。相変わらずの白衣に瓶底眼鏡だ。まっすぐにウィリアムのところへやって来て、「やあ」と言った。
「ウィリアムさん、どうだった?」
「は?」
「ほら、犬を追い払うって」
「ああ、あれ!」
 少しばかり前、ウィリアムは犬がいやがる匂いの液体をキースに作ってもらったのだ。
 もちろん男爵の変身を防ぐためであるが、「犬が花壇に入らないよう」とキースには説明してあった。
「う、うう、まあ、まあだね。すごくいやがってた」
 匂いを嗅いだとたん、悶絶しかけたジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵のことを思い出しながらウィリアムは答える。男爵の変身を防ぐ役には立たなかったのだが、捨てるのももったいなくてそのあと、下宿のミス・ネリーに試しに使ってもらったところ、これがいつも使われる木酢液よりものすごく効果があった。花壇を掘り返す犬たちも、下の用を足しに来る猫たちも、半径10ヤード以内には立ち寄らなくなったのだ。ミス・ネリーが感動したのは言うまでもない。
「そっか、役に立ったんならよかった。またいつでも作るから言ってくれよ」
 キースは机の前に立ったまま、眼鏡を外してウィリアムを見た。
「ところでウィリアムさん、化学事典(バイルシュタイン)を借りてもいいかな?」
「バイルシュタイン? まさか全部?」
 全何十巻、という化学事典だ。ウィリアムは驚いてキースを見上げる。
「第3巻だけ」
 書庫へ出かけて革張りの大きな事典をえんやこらと持ってくると、キースは貸し出しノートにてきぱきと書き込んでいる。
「ええと、貸出場所は僕の部屋、期間はそうだな、三日でいいや」
 ふと、思いついてウィリアムは尋ねてみた。
「キース君、君のルームメイトって、ジョージ・ディップディン君だよね」
 ああ、とキースは事典を受け取ると、ウィリアムをじっと見た。
「そういやあ、ウィリアムさんはあいつにさんざんな目に遭わされたんだっけね。大丈夫、ディップディンの奴、当分悪さはしないよ」
「え?」
 まさか、とさっきの話を思い出してウィリアムはキースに丸い目を向けた。
「へんな薬を嗅がせたんじゃないだろうね?」
「まさか。いくら僕が化学オタクだって、ディップディンの奴をいい子にする薬なんて作れないさ。あいつ、昨日の晩の悪さがたたって、朝から寝込んでいるんだ。なんでもうんと怖い目にあったんだと。静かでちょうどいいよ」
 キースはにやっと笑うと、事典に愛おしそうに頬ずりをする。
「僕の大好きなバイルシュタインちゃん! 将来大発明をしてお金が儲かったら絶対買ってあげるね」
「キース君は本当に勉強好きだねえ」
 ウィリアムが感心すると、キースは眼鏡の奥の目を細めた。
「勉強好きとは違うな。古典を読むのは大嫌いだし、ラテン語は学名に使われてるから仕方なくやってるし」
 なんとなくわかる、とウィリアムは思った。ウィリアムもいわば魔術オタク、ウィリアムの場合は古典や数学には熱中しても、今一歩化学には興味がもてなかったのだ。
「バイルシュタインが好きだなんてすごいよ。でも実験室で汚さないようにね」
 ウィリアムの心配をキースは「大丈夫」と吹き飛ばす。
「実験室には持っていかないからね」
 けど、とキースは付け足す。
「寮の部屋のほうがいつもは危ないんだよ。実験室には僕しかいないけど。ディップディンの奴は何するかわからない。大事な本に落書きだってしかねないんだからな」
「ええっ、それは困るよ!」
「大丈夫、言ったろう、あいつは熱を出して寝込んでいるって。それに腰も抜けてるからベッドから当分離れられないさ」
 キースは鼻歌を歌いながらウィリアムの元を離れていった。残されてウィリアムはしばし考え込む。
(ディップディンになにがあったんだろう……)
 昨日のディップディンたちの話では、日本人留学生への入寮のイニシエーションを行うはずだった……。その悪さをひょっとしたらスコット君がやめさせて、さらにたっぷり怒ってくれた? 腰が抜けるほど、お尻に鞭を撲った?
 昨日、スコットはウィリアムに「それは僕たちパブリックスクールの伝統」と言ったけれど、遠い国から来た留学生にとってはいじめでしかないとわかってくれたに違いない。
 そうだ、そうに違いない、とウィリアムは心がすっきりと軽くなった。
 読書室の志門少年は、楽しそうに他の生徒と話している。きっと昨日の夜はいたずらをされなかったのだ。
 ウィリアムは自分の席で傷んだ表紙を当て紙で補強する作業をしながら、時折志門少年の方へと注意を向けた。
 開いた窓から風が吹き込み、その風に乗っておしゃべりは時折ウィリアムの耳まで到達する。
「え、そうなんだ、日本にはエンペラーがいるのか」
「それはローマ帝国の皇帝のようなものか?」
 他の生徒たちは志門の母国に関心を持っているようだ、とウィリアムはほほえましく思った。
 やがてとある会話の内容に思わずウィリアムの耳は釘付けになる。
「志門、昨夜は本当にあの部屋へ行ったんだろ?」
「幽霊はいなかったのかい?」
 志門の声はまったく落ち着いている。
「うん。幽霊なんかいなかったよ」
「だよね、上級生がよく僕たちを幽霊の出る部屋に閉じこめるぞ、なんておどかすけどさあ、嘘に決まっているよ」
 すると一人がこう応じた。
「そうかな、僕、聞いたよ。昨日、上級生があの部屋に入って、で、幽霊に出会って、熱を出したって」
 志門の澄んだ声が響いた。
「幽霊なんていない、僕は会わなかったもの。もし会ったっていう奴がいたら、そいつは臆病者さ。自分の影でも見て驚いたんだろうよ」
 おおっ、と驚嘆の声があがった。聞いていたウィリアムも、なかなか堂々としていると感心する。
(志門君にはカリスマ性があるなあ……日本の貴族だそうだけれど、日本の貴族には特別な血が流れているのかなあ。彼は上級生になったら監督生になるかもしれないなあ)
 少年たちの声に混じって、小鳥のさえずりが響き、のどかな田舎の午後だ。
 ふいに一人の少年が「おなか、空いたなあ」とのびをしながら言った。
「夕食は何かなあ。またジャガイモのダンプリングだったら嫌になっちゃうよ」
「そうそう、ここの寮のって、もそもそしてて、全然美味しくないんだなもの」
 一人が賛成した。
「ミートパイがついてるといいけど。あれはまだ食べられるよ」
「けど、小さくないか? 一人二個は欲しいなあ」
 一気に少年たちは食べたいものの名を上げだす。
(食べ盛りの子たちだからねえ、無理ないや)
 笑いをこらえながらウィリアムは破れたページに補強のための紙を貼り続ける。
 すると志門少年の声が響いた。
「今日の夕食はマカロニグラタンとパンプキンサラダ、それにコーンソテーだよ」
 一人ががたんと椅子を慣らして立ち上がる
「マカロニグラタン、やった! 僕、大好き!」
 しかし他の少年たちは「本当か?」と疑いの目を向ける。
 すると志門少年は持っていた本をぱたんと閉じて立ち上がった。
「そろそろ三時だ、さあ、引き上げようよ」
 その言葉にウィリアムもはっと顔を上げた。
(そうだ、閉館の支度をしなくちゃ)
 腰を上げると、ぱんぱんと手を叩く。
「さあ、みんな、閉館の時間だよ」
 いつもとまったく変わらない午後の図書館の風景だ。ただ、今日はディップディンたち悪童連がいないので、比較的早く生徒を送り出すことに成功する。
 下宿への帰り道、ウィリアムはすっかり機嫌が直っていた。なんと言っても、志門少年が無事だったのを確認したのが大きかった。そして自分にはまったくわからない化学畑ではあるが、真面目で学究肌のキースとお話が出来たのも楽しかった。そして今日はジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵はやってこないだろうと予想していることもある。
 しかし、下宿と一緒にあの見慣れた紋章のついた馬車が一緒に視界に入り、ウィリアムの足ははたと止まる。
「まさか、今日もなんて……」
 次第に馬車の姿は大きくなってくる。傍を通り過ぎるときにそっと目をやると、なぜか窓にはぴったりとブラインドが下ろされていた。
 ちらりとブラインドの向こうで人影が動き、わざとらしい咳が上がる。ウィリアムは無視して通り過ぎると、自分の部屋に入り、錠を下ろした。
「絶対、今日はこの部屋へ入れないぞ!」
 そしてこの夏スコットランドへ行ったときに写生してきた、古代の碑文のスケッチを取り出す。
「ゲール語に違いないのだけれど、僕の知っているのとはちょっと違うんだよね……」
 独り言を言いながら、一つ一つを吟味し始めた。すると「とんとん」という遠慮がちなノックの音がした。
 もちろんこのノックはジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵のものではない、男爵ならドアが壊れるほど、拳をたたきつけるからだ、とウィリアムは安心して立ち上がった。
(ネリー夫人かな?)
 ネリー夫人なら、ノックをせずに「ウィリアムさん、スコーンを持ってきましたよ?」とか、「ウィリアムさん、スフレが焼き上がったわ、すぐ食べてちょうだい?」とか、とにかくノックはしないと思うのだが、でもとりあえず男爵ではない、とウィリアムはスケッチを片づけながら「ちょっとお待ち下さい」と声をかけ、ドアのところまで行った。
 それでもすぐには錠を開けず、「なんのご用ですか?」と尋ねる。
「ウィリアムさま、私です、ヘンリー・ウェードでございます」
 ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の執事、ヘンリーだ。ウィリアムは警戒しながら「ヘンリーさん、なんのご用ですか?」と重ねて尋ねる。
「ウィリアムさま、ご主人さまがあなたさまとお話がしたいそうです。あなたさまが許可してくださるのなら、との条件付きですが」
 ヘンリーをだしに使うなんて、なんて男だ、とウィリアムはドアを睨み付ける。もちろんドアに罪はなく、ドアに口が利ければ「ひどい」というところだが、それはともかく、「ヘンリーさん、今日はとても忙しいので誰とも会う暇はありません」と答えた。
「それは……困ります、ウィリアムさま、なんとかお時間をいただけないでしょうか?」
「ヘンリーさん、もし僕が駄目だといって、その答えを男爵のところに持ち帰ったら、ヘンリーさんは殴られるとか、焼き(ごて)を当てられるとか、お仕置きをされますか?」
 すぐさま「とんでもない!」という答えが返ってくる。
「ご主人さまはたいへん勝手なお方で、癇癪をすぐ起こし、時折私はカップやフォークやナイフなどを投げつけられますが……」
「ええっ、本当ですか!」
「わたくしは若い頃、ラグビーをたしなんでおりまして、ポジションはフォワードでしたから、その程度のものを避けることなど朝飯前でございます、ご心配なく」
 なら、いい、とウィリアムは胸をなで下ろし、再びドアをきっぱりと見つめた。
「ではヘンリーさん、僕はやっぱり会えません」
「そうですねえ、個人的意見では、お会いにならないほうが少しはお仕置きになると存じます。私はウィリアムさまの味方です、これからもお力になりますので」
 だったらあの時ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵の行動を止めてくれても良かったのに、とは思ったが、お貴族さまの召使いではそこまでは出来ないだろうとウィリアムはヘンリーの申し出を素直に受け入れることにした。
「ではヘンリーさん、よろしく伝えてください」
「かしこまりました」
 やがてがたがたと馬車の轍の響きが窓から聞こえてきた。
 そっとカーテンの陰から見ると、馬車はどんどんと遠ざかっていく。
「これで大丈夫だ……」
 昨日からの心配事はすべて無くなった、とウィリアムはソファに倒れ込んだのだった。
 
 
 そして翌日のこと。
 午後の図書館でウィリアムは再び志門少年と生徒たちの会話を聞いた。
「すごいよ、志門、君の言ったとおりだ!」
「全部当たってた、なんでわかったんだい? ひょっとして予知能力者、とか?」
 生徒たちは志門少年を取り囲んでわいわいと騒いでいる。
 ウィリアムはもう少しで「静かに、図書室は本を読むところだよ」と注意しそうになったのだが、志門少年の反応を知りたくて、黙っていることにした。
 志門少年は読んでいた本をおもむろに閉じると、「予知能力者なんかであるものか」と答えた。
「じゃあ、なんで?」
「匂いがしたんだ、僕はたぶんみんなより、鼻がいいんだと思う」
 そっか、と一人が腕組みをして頷いた。
「じゃあ、今晩はなんだい?」
 志門少年は開いている窓へと顔を向け、しばらく沈黙する。小鳥のさえずりだけが辺りに響いた。
「今夜はダンプリングだ」
 ちぇーっと失望の声があがった。
「しょうがないや、けど、食堂に入っていって、がっかりするよりましかなあ」
「そうだなあ、なんていうか、今から覚悟を決めるっていうか」
 一人の生徒が志門少年の肩に手をかけ、「なあ、志門、これから毎日夕飯のメニューを教えてくれよな?」と言った。
「ああ、ただ、晴れた日でないとだめだ。匂いがあんまり遠くまでこないからね」
「いいよ、それで。頼むよ」
 育ち盛りの少年たちの興味は食べ物に集中している、とウィリアムは微笑む。
(これで志門君はみんなの仲間になれるな)
 志門少年の鼻が利くと言うことをその時みじんも疑うものはいなかった、ウィリアムを含めて。
 ウィリアムが真実を知ったのはさらに数日後のことだった。


 その日の昼下がり、ウィリアムはネリー夫人の頼みで寮にあるキースの実験室を訪れていた。新たに作ってもらった犬猫対策用香水を手にして外へ出ると、日だまりの中、図書館へと帰る道につく。しばらく歩いていると、池の畔に建つ四阿(あずまや)のところまで来た。
 チイチイと騒がしい鳥のさえずりが聞こえ、ふとそちらを見ると、志門少年が池の畔で何かを捜しているのか、時折しゃがんだり、また時折岸辺に茂る葦の根元をかき分けたりしている。
「どうしたんだい、志門君、何か落としたのかい?」
 近寄ってウィリアムが声をかけると、志門少年は振り向いて、「ウィリアムさん、一緒に捜してください」と叫んだ。
「捜す? 何を?」
「コマドリの雛です! 急いで! 鳶が狙ってるんですよ!」
「鳶?」とウィリアムはまた聞き返した。そして空を見上げたが、なにも見えない。
「どこにいるんだい?」
「僕たち人間には見えませんよ、うんと高いところだから。でも彼らには見えてるんです、だから早くって言ってる。早くしないと、鳶に食べられちゃうって」
 ここで再び「彼らって?」と聞きたかったが、ウィリアムはぐっと我慢した。志門君の表情はとても真面目で、からかっているのではないことが解る。
「いいとも、僕も捜してあげるよ」
 幸いにもウィリアムが池の畔の下草をかき分けると、すぐさまそこに小さな雛がぶるぶると震えているのが見えた。
「いたよ、ほら!」
 そっと掬い上げると、頭の上からチイチイと激しいさえずりが降ってきた。見上げると、胸の赤いコマドリが二羽、ぐるぐると円を描いている。
「ひょっとしてこの子の親かな?」
「そうです、巣から落ちちゃって、捜してくれって僕に言ったんです」
「そうだったのか」
 聞き流したところでウィリアムは「ええっ?」と志門少年の顔をのぞき込んだ。
「君って……」
「それより、ウィリアムさん、雛を巣に戻さなくちゃ。こっちです」
 手を引かれ、ウィリアムは志門少年とともに太い栗の木の下へ行った。
「巣はあそこなんですけど……」
「うっ」
 かなり高いところで、ウィリアムは辺りを見回した。
「はしご……なんてないよね」
「じゃあ、僕が登ります」
「でも雛は?」
「上着のポケットに入れます」
 志門少年は上着を着たまま、するすると木に登っていく。
「すごいね、君」
「僕、熊野にいたころは、森の中で駆け回っていたんですよ。あ、熊野って知ってますか?たいそう古い社があるところです。神が宿る地なのです。天皇もお参りに来るんですよ」
 しゃべりながらあっと言う間に志門少年は巣に到達する。雛を無事に入れると、するすると滑り降りてきた。
「ウィリアムさん、雛を見つけてくれてありがとう」
 志門少年の頭の周りでは、二羽のコマドリがチイチイいいながらホバリングしている。
「その、それってそのコマドリが言っているのかい?」
「ええ」
 ひょっとして、とウィリアムは尋ねてみた。
「君は鳥の言葉が解るのかい?」
 いいえ、という返事を期待していたが、志門少年はあっさりと頷いた。
「ええ、鳥だけじゃなく、僕、動物の言葉が解るんです。信じますか、ウィリアムさん」
 不思議な空気を持った少年だと初対面で感じたのは正しかったのだ、とウィリアムは少年を見つめた。
「うん、信じるよ」
「ウィリアムさんなら物知りだから信じてくれると思いました」
 志門少年はにっこりする。
「それじゃあ、ひょっとして」
 思いついてウィリアムは尋ねてみた。
「昨日、図書館で君たちの話を聞いてしまったんだけど、夕食のメニューを君が知っていたのは……」
「ええ、鳥たちに聞いたんです。彼らは厨房から出るゴミに大変関心があって、いつもコックさんがその日の夕食に何を作るか、覗きに行ってるんですよ。で、みんなにメニューを伝える。僕はそれを聞いたんです」
 入寮の儀式のことをスコットに報告に行った日のことをウィリアムは思いだした。
 志門少年は「パンを残してあげる」と言っていた……それは鳥たちとしゃべっていたのだ。
「志門君は動物に親切なんだねえ」
 志門少年ははにかんだ笑みを見せる。
「僕たちの一族は、とても動物を大切にするんです」
「君たちの一族って?」
 と、ちょうど午後の授業を知らせる鐘の音が響き渡った。
「うわ、遅刻したら大変だ!」
 駆け出そうとする志門少年の腕をウィリアムは掴んだ。
「志門君、上着が泥だらけだ、その格好で授業に出たら怒られるよ」
「え、困ったな……別の上着を取りに戻る時間はないし」
 貴族の子息を預かるパブリックスクールの規則は厳しい。泥だらけの上着はもちろん、上着なしでは授業は受けられないのだ。
 巣から落ちた雛を助けるなんて紳士として立派な振る舞いだった、と、ウィリアムは決心して自分の上着を脱いだ。
「仕方ない、僕の上着を貸してあげるよ、ちょっと大きいけど大丈夫だろう」
「ありがとうございます、ウィリアムさん」
 全速力で走っていく志門君の後ろ姿を見ながら、ウィリアムはさっきの会話を思い出していた。
「熊野、って言ってたな、山の中で育ったって……古代の神が宿る山なのかな。興味深い、そのうちいろいろ教えてもらおう」
 図書館に帰り着いた途端、ウィリアムははっと気が付いた。
「しまった、キース君からもらった香水、上着のポケットだ!」
 人間があれを嗅いでも、別にどうと言うことはない。志門君が例え間違って開けても大丈夫だろう。上着と一緒に返してもらえば大丈夫だ。ウィリアムは結論づけると、また志門少年のことを考える。
「動物の言葉が解る不思議な力か……一族と言っていたけれど、志門君の親戚は皆、そうなのかなあ?」
 途端に日本に関心がわいてくる。
「中国の民話や古典はたくさん読んだけれど、まだ日本の文化にはあまり触れていないなあ。読んだのはゴーストストーリーだけだ、あれは面白かったなあ。確か、うちの図書館にもあったはずだ、もう一度読んでみようっと」
 図書館には何冊か日本に関する書物があったのは覚えていた。どこに保管されているかは不明だが。
「書庫を探してみよう!」
 ウィリアムはさっそく書庫へと行き、ほこりの積もった書棚を探し始めた。いったん本のこととなると辺りが見えなくなる性質だ。しかしウィリアムが書庫に閉じこもっている間、いろいろな出来事が起こるのである……。

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登場人物紹介

ウィリアム・クーパー・ポイズ

ビクトリア朝英国のパブリックスクールオースチン校の司書にして
悪霊を祓う魔術師。

ジョン・ウルフ・ソレント・ハンター男爵

スコットランドの貴族にしてフェンリル狼の血を引く人狼。
かなり自己チューなお殿様。

九条志門

日本から来た留学生。

キース・トランパース
オースチン校の学生。

化学オタクで実験が大好き。

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