十三

文字数 1,144文字

 翌日、ミライが珍しく外出すると言って出かけ、帰宅したのは終電の時刻をかなりまわっていた。顔がほんのり紅く上機嫌で、目元に細かい皺が寄っている。濃い化粧と派手なタイトスカートが目に入った。帰るなり蛇口をひねり、コップで水を一気に飲むと、顎についた水滴を手の甲で拭った。
「劇団の仲間と飲んできちゃった」
 目を合わせなかった。テーブルの上に放置してある、近所のコンビニエンスストアの白いレジ袋を手に取ると、袋が擦れる耳障りな音がした。
「ねぇ、怒ってるの?」
「レンジで温めた方がいい? それとも自分でやってくれる?」
 背を向けたまま黙っていた。
「機嫌が悪いの? 近頃ずっとそうやって私に背を向けて一体どうしたというの?」
「僕のことは、放っておいてくれ」
「それなら、もうお風呂にでも入って寝たらいいのに」
 立ち上がろうとしたが、上手く立ち上がれない。
「顔色悪いわ、本当に具合が悪いんじゃないの? 明日仕事よね? 休めないの?」
「大丈夫だよ、風呂に入ってくる」
 浴室に入った。浴室の鏡に自分の顔を映す。痩せて青白く、頬の骨が出ていた。瞳に輝きが無く、不安げな弱々しい空洞のような目をしている。掌で頬の辺りを触ってみる。肌がカサついて粉を噴いたようだ。何かに怯えたような力の無い瞳の奥に、隠し切れない、ある感情がすぐそこまで顔を覗かせている。しかし、それを認めたくなかった。ここで認めたら、自分はもう終わりだ。自殺する自分の姿を想像し、怖くなって浴室を出た。顔が青ざめている。
「どうしたの?」
「ごめん、僕はもう・・・・・・」
 その表情を見て、ミライは目を紅くした。
「本当は、私がここにいると迷惑なんだよね? そうなのね?」
 首を横に振り、うな垂れた。喉の渇きを感じ、台所の蛇口を捻ると、水が勢いよくステンレスのシンクを叩いた。蛍光灯の明かりがちかちかして眩しい。
「もう、寝るよ、体の具合が悪いんだ」
 部屋の照明を落とし、ベッドに転がった。
「やっぱり、私のせいなのね」
 肩を震わせた。ミライの手が腕に触れた。冷たい指先だった。そっと自分の腕から引き離した。
「私たち、もう、終わりなの?」
 答えられなかった。代わりに欠伸が漏れた。小さいのが幾つも幾つも訪れて止まらなかった。ミライは静かに立ち上がって、部屋を出て行った。立ち去る気配を背中で感じつつ、扉が閉まり、外から鍵をかけた時の、鈍い金属音に心臓を打ち抜かれた。そして、部屋に冷蔵庫のモーター音だけが響き渡った。
 翌朝、目を覚ますと、ミライが部屋に戻っていた。テーブルに頭をもたせかけるようにして眠っている。外は雨だったのに、傘も持たずに歩き続けたのだろう。髪がまだ少し濡れていた。たいした所持金も無かったに違いない。その日、仕事を休んで眠り続けた。
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