プロローグ~二

文字数 19,428文字

 プロローグ
 2009年7月
 米ルイジアナ州ニューオリンズ郊外
 クリスは空を見あげた。
 だれかに頭の上から呼ばれたような気がしたのだ。
 空には、ミシシッピ川周辺に無数に広がる沼地の湯気を集めたような入道雲が沸きあがっているだけだった。ときどき見かけるWJTVの修理の人が電柱によじのぼってケーブルを張りなおしているわけでもないし、世界で二番目に会いたくないラリーやその兄弟たちが、ルイジアナならではのぬかるんだ小径をとぼとぼと歩く八歳の少年におしっこを引っかけようと、道に張りだした松の枝の上でバランスを取っているわけでもない。
 クリスは額に手をやって光をさえぎりながら目を凝らした。雲のスクリーンの向こうからでも陽射しは強烈で、目の奥がフライドチキンの揚げ油みたいにぐらぐらと泡立ってくる。右の頬がきゅっと引きつり、ソラマメ大にむくれあがった頬の傷痕に鋭い痛みが駆け抜けた。
 心配になって肩からさげた金属製の箱に手をやり、なかをたしかめた。ママがまだ家にいたころ、ニューオリンズのホームセンターで買ってもらったお弁当箱だ。クリスは物置から持ちだした工具を使ってお手製の虫かごに仕上げていた。いまはそこに一匹のカミキリムシが入っていた。太陽をたっぷり浴びて育ったズッキーニみたいな濃い色の背中は十センチ以上あり、鉄パイプのようにがっしりとしている。そこに絵の具で描いたみたいな黄色い斑点が散っていた。ワイヤーのように太くて硬い触角なんて体長の倍近くあるし、なによりギィギィと声をあげながらせわしなく左右に開いては閉じる顎(ルビ、あぎと)は、小指ぐらいへいきで食いちぎってしまいそうだった。
 それは一時間ほど前、森の奥を探検中、レンジャーズのTシャツの胸のところにいきなり飛びついてきたのだ。まるで向こうから友だちになろうとしているかのようだった。クリスはそれを神さまからの贈り物だと思うことにして、ママの虫かごにうやうやしい手つきで入れてあげた。これでしばらくはいっしょに過ごすことができる。
 クリスは学校が休みの日や放課後はいつもその虫かごをさげ、長靴を履いて一人で森に分け入り、新しい“友だち”を探した。そうすればクリスは、ラリーたちのいる学校やあの男のいる家のことを思いださずに過ごせた。森は、雨が降ったあとはかならずといっていいくらい道が消えてしまう。気がつくと、ヒルがうじゃうじゃ落ちてくる真っ黒い泥のなかにひざまで浸かっているなんてこともざらだった。泥の沼は森の奥まで広がり、まるで黒い砂漠(ルビ、ブラックデザート)のようだった。それでも獣や鳥の死骸や腐葉土が放つ汚臭は、クリスにとってはむしろむきだしで清冽な自然の肌触りそのものだった。いやなことを忘れて自分が本当に生きているんだと感じられる瞬間だった。
 それにもうひとつ刺激がくわわるとクリスは歓喜した。
 雨だ。
 それもとんでもないくらい盛大な雨。
 ニューオリンズから車で一時間以上走った先にある田舎町に生まれ、四方を取り囲むデルタ地帯から出たことのない少年にとって、雨といえばバケツを引っくり返したような驟雨のことだった。川はあふれるし、森じゅう水浸しだし、洪水になれば押し流される家々もめずらしくはない。ハリケーンなんて来たらとんでもないことになる。大人たちはどうやら雨が降るのを歓迎していないようだったが、子どもはそんなことおかまいなしだ。雨が降る前はかならず虫かごのほうが変化を教えてくれたし、雨がやんだあと、新しい“友だち”がどこに出現するか見つけるのもたのしみだった。手のひらサイズのカブトムシが網戸にたかっていることもあれば、オオムカデの一家がアスファルトの上を大行進しているなんてこともある。
 もういちど声がした。
 クリスはあたりを見まわした。さっきよりも近く、肩のあたりで聞こえた気がしたのだ。でも生ぬるい風にそよぐヌマスギの木立の合間にも、こないだのハリケーンで傾いだままの電柱の陰にも人影はなかった。それでも首筋がぞくりとしたままだった。あたりの色が変わっている感じがする。時計は持っていなかったが、日没まではまだずいぶんと時間があるはずだ。なのに夕焼けみたいに赤っぽい、というかむしろ薄紫色の光が森の隙間に落ちてきたみたいだった。まるでぼくのほうがサングラスをかけているようだった。
 雨が落ちてきたのはそのときだった。
 最初のひと滴は、鳥肌が立ったままの首筋にあたった。あれっと思ったとき、つぎの滴が右の眉の上に落ちてきた。確信したのは三滴目だった。左の頬と耳たぶの間にぽつりとあたり、熱を感じた。
 熱い雨……?
 うれしくなってクリスは天を仰いだ。
 本当だ。
 もうそのときには、いくら温度調節レバーを最高に設定してもぬるま湯程度しか出てこないトレーラーパークのシャワールームなんかより、はるかに熱い滴がひっきりなしに落ちてくるようになっていた。空全体に広がった雲はさっきより低く垂れこめてきた感じがする。そこから奇妙な熱を帯びた雨が降りはじめていた。
 三十秒もしないうちに土砂降りになった。南部特有のスコールだ。石けんを持ってくるんだった。それでもクリスはハッピーだった。足もとはたちまち泥沼と化し、あちこちに小川のような流れが生まれていたが、きょうも大人用の長靴を履いてきたからだいじょうぶだ。というかうちには子ども用の長靴なんてない。
 びゅうと突風が吹きつけ、虫かごがあおられた。びっくりしてなかの友だちがギィと不平を漏らす。「だいじょうぶだよ」かごに手をやり、クリスがなだめた。「けど、きょうのはとびきりかもね。こんな熱い雨ははじめてだ」そういって走りだした。雨宿りできる場所を見つけたほうがいい。ぼくはへいきでも友だちのほうがまいってしまうから。とりあえずジェシーの店だな。
 いつもコーラを買う雑貨屋まで五分ほど走った。全身びしょ濡れだ。長靴のなかは大洪水になっている。森の小径を抜けて店が目に入った。クリスはばしゃばしゃと音を立てて最後の三十メートルをダッシュした。息をきらせながら軒下に三つ置いてある安楽椅子の一つに腰を落ちつけたとき、店の入り口から三人組があらわれた。クリスは落ち着かない気分になった。失敗した。生まれてからずっと住んでいるトレーラーパークまでは、走れば十分もかからない。がんばって帰ってしまえばよかった。
 ラリーと二人の兄――デイヴとジャレット――だった。
 クリスがとっさに虫かごを隠すと同時にラリーに見つかった。ママは男を作っておまえを捨てたとか、ジャンキーだから刑務所に入れられたんだとか、またなにかいやなことを言われるし、つねられたり、たたかれたり痛いことをされる。だけど友だちを取られるのだけはごめんだった。
 「よぉ、クリス、また密猟か」ラリーは白ペンキの剥げた板張りのデッキを近づいてきた。クリスは首をのばしてガラス窓の向こうにジェシーを探した。しかし店主の姿はない。倉庫かどこかにいっているのだろう。いてくれたら悪ガキたちをにらみつけてくれるのに。
 「見せてみろ」ラリーがさらに近づき、クリスの背後に手をのばしてきた。クリスは身をよじって虫かごを取られまいとした。
 「生意気だな、このガキ」デイヴがにやにや笑いながらスマホを向けてきた。動画で撮りだしたのだ。
 いきなり頬に平手を食らった。ラリーだ。クリスはいすから転げ落ちた。頬の傷痕がずきりと痛む。一年ほど前にできた傷だが、へんに触ると痛みがぶり返してくるのだ。
 やめてよ。
 口にしたかったが、怖くて声が出ない。それに虫かごを守らないと。クリスはおなかの前で虫かごを抱えこみ、ダンゴムシのように体を丸めた。だがラリーにわき腹を蹴られた瞬間、あまりの苦しさに虫かごを手放してしまった。さっとそれが奪われる。ジャレットだった。
 「カミキリだ。恐ろしくでかいぜ」ジャレットは虫かごをラリーとデイヴに見せた。
 「やめ……てよ」やっとのことで声をしぼりだした。
 「うるせえんだよ」ジェシーにばれないよう、ラリーが声を潜めていう。鼻をぎゅっとつねられ、クリスはだまりこくった。
 「こりゃ、きっと高く売れるぜ。こんなんで小遣い稼ぎするなんて許せねえな。密猟は刑務所いきなんだからな」デイヴがいう。「警察に通報しねえと」
 「めんどくせえよ。ここで罰してやろうぜ」ラリーが兄から虫かごを受け取り、小窓を開けて手を突っこんだ。ギィギィという悲鳴がかごのなかであがる。
 「やめてよ!」倉庫にいるはずのジェシーに聞こえるぐらいの声だった。しかし大柄な黒人店主が近づいてくる足音すらしなかった。すでにそのときにはクリスの体はデイヴに羽交い絞めにされていた。
 「すげえ顎してる。なんでも噛みきりそうだ」ラリーは虫かごをぬかるんだ道に放りだし、親指と人さし指でクリスの友人の背中をつかんだ。鳴き声があがる部分をしげしげと眺めてから冷たく口にする。「ためそうぜ」
 弟の言葉にジャレットがすぐに反応し、クリスの前にしゃがみこんで半ズボンに手をかけた。せっかくの友人がぼくの体にひどいことをする。そんなこと考えたくなかったが、ラリーたちはそう簡単に許してくれまい。逃げないと。
 クリスは渾身の力をこめて身をよじり、両足をばたつかせてなんとかジャレットの手をへその前から振りほどいた。
 「痛ぇっ……」
 ラリーの声が聞こえるなり、ブーンとはばたく音がした。ラリーの人さし指から血が出ていた。雑貨屋の軒下を二度、三度旋回してカミキリムシは、デッキとおなじ白ペンキの柱にたかった。
 ギィ――。
 デイヴは弟の指に食らいついた巨大昆虫にあっけに取られ、少年の体を抑えつける力が緩んでいた。クリスはそのすきを逃さず、もう一度、肩を揺さぶって逃れることに成功した。猫のようなすばしこさで安楽椅子の上にのぼり、柱に手をのばす。
 ギィ――。
 クリスはたいせつな友だちをつかみ、そのまま地面にジャンプした。
 「てめえ……」
 ラリーの手がいまにも首筋にのびてきそうだった。クリスは泥だらけになった虫かごを拾うなり、全速力で走りだした。
 トレーラーにもどり、クリスは床下の隙間に並べたダンボール箱の一つを取りだした。友だちが増えるたびにジェシーの店でもらってきたもので、さしづめ昆虫アパートだ。端っこの一つが空室になっていた。
 「いいかい、ちょっと待っててね。いま着替えてくるから。なにか食べものを持ってこよう」クリスは箱を隙間にもどし、トレーラーに入った。
 世界で一番会いたくない相手はまだ帰ってきていなかった。メキシコ移民が作ったエアコン工場にパートタイムで勤めている。仕事がないときは、バーで賭けトランプ。さてきょうはどっちだろう。いずれにしろあの男が家にいないとほっとする。
 こないだ小学校の校長先生が来て、あの男と“面談”したのだが、翌日、学校で校長先生はすごくいやな顔をしてぼくのことを見た。クリス、どうしてママはきみを連れていかなかったのだろうね。口に出さずともそう訊ねているまなざしだった。クリスはみじめな気持ちになった。それをいちばん聞きたいし、知りたいのはぼく自身なんだから。ただ、あの男はぼくのことを「愛してる」と担任の先生に言ったらしい。だからいくらママが望んでも、あの男が許さなかったのかもしれない。ぼくがトレーラーからいなくなることを。
 長靴を脱ぎ、カビ臭いバスタオルで体を拭いたら、ほんのすこしだけ気分がよくなった。おなかもすいた。友だちにご飯をあげるまえにまずはぼくが腹ごしらえをしないと。冷凍庫にはチーズマックがあるが、それは夕食用だ。一日のうちでまともそうな食事にありつけるのは夕食だけだった。ママが出ていってからずっとそうだ。時々、あの男が補充する。それに頼る自分をクリスは呪った。
 しかたないから半分だけ残してあるグラノラバーをかじることにした。ブルーベリーとチョコレートの甘味が体にしみこんでいく。ちょっとだけのつもりだったが、がまんできずにぜんぶ食べてしまった。それでも袋のなかにかけらがいくつか残っていた。
 クリスは外に出た。雨はやんでいた。いつもどおりの蒸し暑い夕方だった。クリスはグラノラバーのかけらを新しい友人にふるまった。長い触角をうれしそうに振りながら友だちはごちそうに舌鼓を打った。クリスはダンボール箱をトレーラーに持ちこみ、友だちを手にのせて遊びだした。いろいろなことを訊ねてみた。どこで生まれたの。家族はいるの。なにが好きなの。敵はいるの。そのたびにカミキリはギィギィと鳴いた。うれしそうだった。
 「きみはぼくの親友だね」
 明かりをつけると、カミキリは羽を広げ、そこに向かってふわりと舞いあがった。それからまるでアフガニスタン上空を音もなく飛ぶ無人機のように、悠然とリビングを偵察飛行した。
 「ぼくも空を飛びたいな。そしたらママのところにもいけるのに」心のなかでいってみたら、なんだか本当に体が浮かぶような感じがした。
 なんだろう、この感じは……。
 クリスは驚いた。金髪の少年がソファに着陸したカミキリムシの背をつかみ、やわらかな腹のほうを検分している。そのようすをクリスはまるで天井に張りついたヤモリのように眺めていたのである。
 車の音がした。
 テールランプの赤い光が窓の曇りガラスに映る。あの男が帰ってきたのだ。もうすぐ七時。あっというまに二時間が過ぎていた。早く箱をトレーラーの下にもどさないと。あいつは息子の趣味のことをひどく嫌っている。家のなかに友だちを入れるのはご法度だった。見つかるとひどいお仕置きが待っている。でもお仕置きはなんだかんだ理由をつけて、いつもされてしまうのだけれど。
 早くして。
 あいかわらず天井に張りついたままのクリスは、自分そっくりの顔をした色白の少年に呼びかけた。それが合図となったのか少年は、カミキリを胸にたからせたまますっと立ちあがり、幽霊のようにふらふらとキッチンのほうに進んだ。
 ドアが開き、油染みの浮いた野球帽に昔のロックバンドのロゴ入りTシャツ、擦り切れたジーンズの男が入ってきた。酒のにおいがトレーラーのなかに広がる。
 「クリス、ただいま」ぞっとする猫なで声だ。かなり酔っている。いったい何時から飲んでいたのだろう。「いい子にしていたか、おい」やつはキッチンで背を向ける息子に近づき、きゃしゃな肩を力強く、気色悪い感じで抱きしめた。「どうした、返事がないぞ。おまえの大好きなパパが帰って――」
 少年が振り向いた瞬間、クリスは天井で息をのんだ。胸にしがみついていたカミキリムシも羽音をたてて電気コンロの上に逃げだした。少年が握りしめているものに驚いたのだ。
 夢を見ているんだ。
 クリスはそう思った。だって自分の姿を遠くから見るなんて、夢のなかでしかありえないじゃないか。でもこれが現実なら、トレーラーハウスで起きている出来事の一部始終を眺めているこのぼくは、いったいだれ? 疑問が浮かんだとき、クリスは体と意識がトレーラーの板張りの天井とクロムメッキの屋根を突き破ってさらなる高みに舞いあがるのを感じた。クリスがクリスでなくなったのは、このときだった。

 一
 2017年7月25日14時32分
 東京都港区汐留
 気象庁からスマホに自動転送されてきた衛星写真を見て、松木由貴(まつき・よしたか)は眉をひそめた。
 あすの番組で流すリポートをさくっと撮り終え、ロケバスで局にあがる途中だった。梅雨明けがいつ発表されるか気になったわけではない。そんなことは空を見れば素人でもわかる。くっきりとした入道雲が点々と沸きたち、その一つ一つが午後の強烈な日差しに輝いている。背景に広がる空は、乱反射する水蒸気のせいで揺らめいて見える。本格的な夏の到来はもう告げられたも同然だった。どうせ一週間かそこらしたら、じつはあのとき梅雨が明けていましたとまぬけな報告を番組でせねばならなくなるだろう。そういうところが気象庁のお役所仕事、というかなにかにつけて責任回避を試みる悪癖だし、番組を見ている人からは、松木の予報が外れたと思われてしまう。こんなことなら「松木流梅雨明け宣言」みたいなものを発令したほうがよさそうなものだが、そんな勝手なことをすれば、膨張した腹とは裏腹のノミの心臓しかない前田CP(ルビ、チーフ・プロデューサー)がすっ飛んでくる。
 そもそも梅雨明け宣言がなんだというのだ。結果的にちがったところで、だれも責任なんて追及しないし、そもそも梅雨明けしたあとだって、東北に冷害をもたらす長雨は降るし、台風や集中豪雨のほうが始末が悪いではないか。それにいまや世界的な気象の激変期に差しかかっている。それが気象学の国際的な通説だ。その視点で考えるなら、気象が安定していた時代の基準に何事もあてはめようとするほうがまちがっている。
 たとえばこの雲なんてそうした“新型”の一つなのかもしれない。
 「どうした、マッちゃん、怖い顔して。また前田さんからお小言メールもらったか」ディレクターの大石が前の席からこっちを見ていた。
 「いや、なんでもないっす。雲の画像見てたんです」
 「もうだいじょうぶなんだろ、雨は」
 「梅雨なら完璧に明けてますよ。でもこんどはゲリラの季節ですからね。条件さえあえば、いつどこで起きてもおかしくない」
 「つまり傘は毎日持っていけってことかい」
 「傘じゃ役に立たないんじゃないかな。もはや日本は亜熱帯じゃなくて、熱帯ですよ。マレーシアやタイとおなじくらいのスコールが降る」
 大石はやれやれとゆっくりかぶりを振った。「オンエアでそれ言ってみなよ。前田さん、その場で失禁するぜ」
 「だけど型通りの天気予報はやめてくれっていったの、あの人ですからね」
 「とはいえ型破りも困るんだろ。出世志向の会社人間には」
 松木は晴れ渡った青空を見あげた。胸の奥に小さな疼きをおぼえる。紗英の顔がよぎったのだ。「でもね、注意するにこしたことはない。事実、ここ何年かの降雨量の増加は熱帯化のあきらかな徴候ですからね。最悪の事態が起きてからでは遅いでしょう」自分に言い聞かせるように松木はつぶやいた。
 あらためてスマホに届いた衛星画像を見つめる。これだけでは判別のしようがない。関東地方、それも神奈川県北東部あたりにごく小さな点が二つ見える。積乱雲に発達するタネである積雲のようだが、松木は妙な引っかかりをおぼえた。積乱雲も積雲も予測不能な激しい上昇気流で発生する。だから衛星から見えるその姿は、現代絵画のように不整形なはずだ。それがこの二つの点――すくなくとも雲だろう――は、どちらも周囲がほぼきれいな円を描いていた。
 首都高は自然渋滞でのろのろ運転がつづいていた。このぶんだと汐留まであと二十分はかかりそうだ。局にもどれば、気象庁が今春から試験的に提供を開始したフェーズドアレイレーダーのデータを参照することができる。きょうの仕事は終わったからあとは帰宅するばかりなのだが、松木は梅雨の去った夏空を見あげ、説明しがたい焦燥感をおぼえた。
 テレビ東邦の朝のニュース番組「モーニング・ストリーム」に松木が出演するようになって二年になる。身長百八十五センチ。三十六歳のいまもすっきりとした体形はモデルのようだが、いかんせん地味な顔だちはけっしてイケメンとは言い難かった。なによりよくしゃべるし、いちいちジェスチャーが大げさだ。顔の筋肉も、自ら平凡なつくりだと認識しているぶん、ことさらに大きく動かしてみせるよう努めてきた。それもこれも三十歳まで、下北沢の小劇場で舞台に立っていた中途半端な経験に基づく。いまでは、お笑い芸人並みのトークとリアクションで、下町のおばちゃんたちに大人気のユニークな気象予報士として知られている。ゴールデンタイムのバラエティー番組に出て、分刻みの視聴率グラフを跳ね上げたこともあるほどだ。浅草や巣鴨あたりに出向けば、いつだってもみくちゃにされる。
 とはいえ色ものあつかいには抵抗があった。役者に見切りをつけ、一念発起して気象予報士となったのは、自然災害が起きたときに救えるはずの命がかならずあることを目の当たりにしたからだった。だからどれだけ番組でダジャレを口にしようが、恥ずかしいくらいの被り物を着させられようが、安全に結びつく正確な情報をいち早く伝えることだけは忘れなかった。
 (パパはみんなのヒーローなんだよ)
 一人息子の晋治は幼稚園で友だちにへいきでそんなことを口にするという。送り迎えを頼んでいる義母に以前言われたことがある。気恥ずかしかったが、うれしかった。息子はちゃんと父親の仕事を見抜いているようだった。
 前田CPからしばしば小言をいわれるのは、松木がお茶の間の人気者として天狗になっているのではという猜疑心もさることながら、天気予報にかけるそうした過剰なほどの熱意ゆえだった。正確な情報提供がいまの報道機関に課せられた最大の使命だが、会社組織のなかでは、それはコンプライアンスという言葉になりかわり、結局のところ内部的な手続き順守――要はあとで社内問題にならないかどうか――というけちくさい話に矮小化されていた。ニュースを伝える場合、記者はデスクに原稿を送り、アナウンサーはそのとおりに原稿を読む。私見はもってのほか、多少のアドリブでさえあとでうるさくいわれる。松木のような契約スタッフとなればなおさらだ。つまり手足を完全に縛りあげ、余計なことができないようにしたうえで、会社がチェックにチェックを重ねた“適正な”ニュース――面白味が完全に削ぎ落とされた大本営発表のような無味乾燥とした情報――を伝えさせられるのだ。
 その傾向は、去年の六月に前田が異動してきてから急に強まった。報道番組のCPは通常、記者出身者、とりわけ政治部か社会部か経済部の人間が担当する。ニュースのプロとして長い時間をかけて鍛えあげられてきているからである。前田はそうではなかった。入社後、ほんのわずかの間、報道局で町ネタを取材したことがあったが、すぐに編成局に移り、そっちで長いこと報道番組の編成業務、取材部門とは異なる、いわば裏方の仕事に従事してきた。
 そんな男がいきなり看板報道番組のCPに抜てきされたことについて、社会部出身で、とにかく曲がったことが大嫌いな大石は「宦官なんだよ」と切って捨てたことがある。大石によれば、かつて中国では、科挙に合格するほどの頭脳もなく、出自も町民レベルでしかない者が高級官僚を目指すには、自ら性器を切り落として宦官になるほか道がなかったという。「前田さんはそもそもコースから外れていたんだが、上にすり寄ってなんとかモーニングのCPにまでなれた。いまはわが世の春でもあるが、最大の正念場でもある。そのつぎを狙うならね」
 くそくらえだ。
 大石ならずとも身震いがした。サラリーマン人生というものがよくわからぬ松木にとって、基準はひとつしかない。常識的かつ科学的な検証をくわえたうえで生みだされた信念を貫いているかどうかだ。
 汐留の社屋に到着するなり、松木はその信念に押されて二階の報道局へと階段を駆け上がった。
 「モーニング・ストリーム」のスタッフルームは、政治部や社会部といったニュース取材部門とガラス張りのスタジオが中央に陣取るだだっ広い報道フロアの隣にある。いつも開けっ放しの入り口に飛びこむなり、松木はお天気チームの島のある窓際――追いやられているわけではない。空を目視する必要があるのだ――に向かった。気象庁とオンラインで結ばれた共用パソコンはさいわいだれも使っていなかった。
 フェーズドアレイレーダーのアイコンをクリックし、IDとパスワードを手早く入力する。画面が立ちあがるまでじれったかった。ゲリラ豪雨をもたらす積乱雲の内部には、激しい対流域が存在し、刻々と変化している。それを高速スキャンにより、従来の気象レーダーよりも迅速かつ立体的に把握できるのがフェーズドアレイレーダーだった。
 データ画面に行きついてからは早かった。松木は気象衛星の画像を参照しながら、問題の雲の立体画像を探しだしていった。まちがいない。
 あざみ野だ。
 田園都市線のあざみ野駅のあたりを中心に直径約二キロの円形の雲ができている。待て。松木は首をひねった。さっき見たときはたしか二つあったはずだ。それがいまは一つしかない。片方が消えてしまったようだ。
 残された雲は上空からは円形に見えたが、地上からとらえた立体画像はせんべい布団のように薄っぺらだった。地表から約三千メートル上空だ。典型的な積雲とは言い難かった。動き方も妙だった。あざみ野付近の上空は現在、南南西の風が吹いている。さほど強くはないが、それでも雲は形を変えながら流れる。それが確認できないのだ。風の影響を受けず、形も崩れない。雲は水蒸気の塊だ。それを前提にするならこれは雲ではないのかもしれない。松木はレーダーデータをチェックした。そこにあらわれた数字を見るかぎり、たしかに水蒸気が充満しているようではある。だがなにかが妙だ。松木はほかのデータにすばやく目を走らせた。
 温度だ。
 ありえない。
 内部温度が四十度に達している。
 上昇気流のせいで雲ができた場合、断熱膨張により百メートル上がるごとに気温は〇・五度下がる。三千メートルなら十五度下がる。これをあてはめれば地表温度は摂氏五十五度ということになる。イラクのバスラかアメリカのデスヴァレー並みだ。しかしあざみ野周辺は現在、三十二度しかない。とはいえレーダーが故障しているのでないかぎり、それは現実に起きている自然現象だった。なにか理由があるはずだ。そもそも科学が自然界のすべてを把握しているわけではないのだし。松木はスマホをつかみ、気象庁のホットラインにかけてみた。
 当局は事態を把握していなかった。担当者は調べたうえで折り返し連絡するといってくれたが、それがいつになるかわからない。もしこれが地表になにかの異変――雨、それも局地的な大雨をもたらすものであるなら、警告は早めに発しないと。しかし役所のいまの対応を見るかぎり、大雨に関する情報がテロップで流れるとは思えない。
 松木は壁の時計を見た。夕方ニュースがはじまるまであと一時間もある。そっちのお天気コーナーを受け持つ気象予報士の横田加奈はスタジオでリハーサルの最中だった。事情を伝えてもいいが、オンエアまでは彼女にできることはなにもない。
 昼下がりの駅前や住宅地のようすが頭に浮かんだ。学校は夏休みに入っただろうが、中学や高校では登校している生徒は多いだろう。営業マンたちが噴きだす汗に閉口しながら熱を帯びたアスファルトの坂を上っている。あちこちの工事現場では外国人労働者たちが日本の蒸し暑い真夏の到来に音をあげているかもしれない。そして母親たちは……。
 紗英は生まれたばかりの晋治をチャイルドシートに載せ、ハンドルを握っていた。ワイパーをいくら最速に設定しても降りしきる滝のような雨の前では無力だった。目の前になにが広がっているかたしかめるなんてできなかった。
 雨なんて降らないかもしれないし、なにも起こらないかもしれない。だがこれは外れてもいい予報だし、外れてくれたらじつにありがたい。前田CPに叱責されるぐらいどうってことはない。勘に頼るなら降りはじめまで三十分も持たないだろう。松木はスマホをつかみ、ツイッターでつぶやくことにした。
 横浜・あざみ野上空に不穏な雲が発生中。念のため傘の用意を!! ゲリラ豪雨の季節に突入しているので、思いきって雨宿りするのも手かも。
 リツイートがたちまち集まった。松木は番組以外でも個人的に気象予報を発信し、たいていは的中している。フォロワー数は一万件を突破した。関東地方でいうなら、世帯視聴率一%がだいたい十八万世帯に相当する。「モーニング・ストリーム」の世帯視聴率は最近は一〇%程度だから、一度の放送で百八十万世帯に情報を伝えられる。それにくらべたら微々たる発信力だが、拡散に期待するほかない。事実、報道局内でもすぐに反応があった。夕方ニュースに配属されたばかりの新米ADの女の子が「うち、実家があざみ野なんですよ。いま電話入れました」とわざわざ言いにきてくれた。それともう一人。案の定、前田が肥大した腹を抱えてのっそりとスタッフルームにあらわれた。
 いちいち説明するのは面倒だった。松木はスマホを耳にあてて電話をするふりをして立ちあがり、しぶい顔をするCPのわきをすばやく通りすぎた。電話を入れようと思ったのは本当だ。階段を下り、エントランスホールまで来て松木は自宅に発信した。
 すぐに晋治が出た。きょうは早く帰って遊んでやると約束していた。だがどうやら借りを一つ作らねばならないようだ。
 「どうだ、元気にしてるか」
 「うん。図鑑見てた」
 「図鑑?」
 「おばあちゃんが買ってくれたの。飛行機の図鑑。かっこいいんだよ」
 「へぇ、そりゃすごいな」
 「あと何分ぐらいで帰ってくるの?」
 ストレートに聞かれ、返答に窮した。「じつはな――」
 「うん、いいよ、わかってる。夜になっちゃうんでしょ」元気に言いきられたぶん、余計に息子のさみしさが伝わってくる。「起きていられたら起きてるね」
 つらかった。気象予報士とはいえ、所詮、松木は派遣スタッフだ。時間の切り売りをしているにすぎない。きめられた仕事が終われば、とっとと家に帰ればいいし、義父母が面倒を見ている一人息子のことを思えば、一刻も早く帰宅すべきだった。だが使命感のようなものがあった。フォロワーたちには打ち明けていないし、そのつもりもないが、これは紗英との約束なのだ。自分にそう言い聞かせるしかない。「ごめんな、ほんと。ちょっと調べたいことがあるんだ。あんまり遅くならないようにするから。約束する」
 「いいって、いいって。いつだってオッケーだよ。気をつけてね、パパ」
 六歳児に背中を押され、松木由貴は真夏の太陽がぎらつく街に飛びだした。

 二
 7月25日東部時間0時42分(日本時間14時42分)
 米ヴァージニア州アーリントン
 おなじ雲に気づいた人物が海の向こうにもいた。
 「USBに落とすわけにいかないから、これしか方法がなかった。けど、意外とよく撮れてるだろ。つまるところアナログなやり方がいちばんってことさ」深夜営業のスポーツバー「ジョヴァンニ・パストラミ」は、ビーフやソーセージをはさんだ豪快なサンドイッチが名物だが、この男、オーストラリア陸軍からペンタゴンに出向中のジャック・ランダース中佐がいつも頼むのは、ぷりっぷりのエビをニンニクとレモンバターソースで炒めた店特製のガーリック・シュリンプだった。それをシカゴ地ビールのグースアイランドで流しこむ。ジャック流の単身赴任の楽しみ方の一つだった。でも今夜にかぎってはお気に入りのコンビネーションがなかなか進まない。「おれがこっちに来て以来、ことによると最大のまともな情報かもしれん」
 職場のパソコンに映しだされたものを隠し撮りしたスマホ画像をテーブルの下に隠すようにして西条(ルビ、にしじょう)に見せ、ようやくジャックはジョッキに手をのばした。職場からは三ブロックしか離れていない。くつろぐ同僚たちの陰で世界各国のスパイたちが目を光らせているような場所だった。それでもにぎやかなバーの雰囲気は意外とリラックスできる。疑り深いペンタゴンの衛兵に見送られたのち、気分転換につい飛びこんでしまう店の一つだった。
 西条鉄夫二佐は香ばしいエビを一尾、ジャックよりさきに口に放りこんでから、関東地方南部を撮影した気象衛星の画像に目を凝らした。「積乱雲に発達する前段階かな。きわめて局地的だが、どうしてこんなものにこっちのやつらが興味を持つのだろう」この手の画像は、木更津の第一ヘリコプター団で小隊長をしていたころに何度もお目にかかっていたし、ほかの気象データと合わせて空の状況を的確に把握するのは、日々のフライトに欠かせぬルーチンだった。その知識を総動員してもジャックの言いたいことがつかめない。西条は気色の悪いもどかしさをおぼえた。
 「テツもたしかトウキョウ出身だったんじゃなかったか」不安げな目でジャックが訊ねてくる。
 「あぁ、渋谷だ」それでも冷静さはたもたないと。
 「うん、知ってる。あのクレイジーな交差点のところだろ。めちゃめちゃ混んでてすべての通行人がランダムに歩いてるのに、だれも衝突しないで渡っちまうって聞いたぜ」
 西条は、神奈川県の内陸部付近に小さな赤丸が二つあるのを確認した。コンピューター上である特定の雲の位置を捕捉しているようだった。
 「渋谷交差点からは離れてるよ。もっと静かな住宅地さ」十年前、三十五歳のときに購入したのが広尾の中古マンションだった。駐屯地をへて本庁勤めになって三年あまりが過ぎたときだった。その後も転勤族であることはわかっていたが、いずれどこかに落ち着かねばならないのなら早いほうがいいと決断したのだ。徒歩一分の有栖川公園は緑が豊富だったし、勤務先への通勤もらくだった。それに子どもができたら教育環境的にも悪くない、いや、最高の場所だった。真知子の実家がある青山に近いのもそこに決めた理由の一つだった。西条は高校まで故郷の山形に暮らしていた。防衛大入学後に上京したが、大学があるのは横須賀だったし、あとは各地を転々としてきたので、じつは東京の地理にはうとい。古いタイプの人間ではないが、なんだかんだいって家のことは妻にまかせるのがいちばんだった。
 「ということは」ジャックはジョッキをあおった。「その赤丸地点からは外れてるってことか」
 西条はガーリックシュリンプをゆっくりと味わいながら、じっくりと画像をたしかめた。「そうだな。二十キロ近く離れてる」
 ふゅぅ。
 ジャックが安堵のため息をもらした。身長百九十五センチ、クロコダイルダンディーを地でいくスキンヘッドの大男が、ボックス席の四人掛けのテーブルに身を乗りだし、声をひそめる。「十時過ぎからようすがおかしいんだ。上の連中の」
 ともに四十五歳のジャックと西条は、三年前にそれぞれ出向してきて、配属されたのもおなじ太平洋統合戦略本部だった。ジャックは軍事衛星の共同運用プロジェクトのアシスタントメンバーで、西条は防空システム構築のアドバイザリースタッフだったが、ともに中佐クラスでありながらお荷物的存在として外野席に座らされている点と、食に関する嗜好が似ていることから、すぐに意気投合した。そして二人とも外野のほうが意外といろいろな情報が漏れてくることに気づきはじめていた。とくにジャックは、出向組の間では公然とジャック・ザ・スパイと呼ばれるほどのペンタゴン内部の情報通で、西条はいつも職場不倫や不正蓄財といった“トップ・シークレット”を聞かされ、それで上層部の足の引っ張り合いが起きている噴飯ものの現実を垣間見ていた。
 だが日々募るのは、離れた場所にいるからこそ冷静に眺めることのできる日本政府の無知と米国への盲従ぶりだった。もはや笑い話をこえて危険水域に入ってきている。米軍が日本を守ってくれるなどというのは、だれもが幻想だとわかっているが、米国が日本の経済と社会を食いつくそうと本気になっていることに気づいている者はほとんどいない。西条は防大卒の防衛官僚だが、極右ではない。国防にも政治にも興味はないし、正直に言えば、防大に進んだのは予備校の模試の成績に合わせて受験してみたら、たまたま合格したというだけだった。それでも二十年以上、おなじ仕事をつづけていると“理想”が見えてくる。それに照らし合わせるなら、いまの日本は国際社会を生き抜くうえでの常識や必要な情報がいちじるしく欠けている。それを平和ボケという者もいるが、西条にはお人好しの極みとしか思えなかった。
 「おかしいってなにが?」西条もビールをあおった。きんきんに冷えた喉ごしがたまらない。グースアイランドは最近の好みだ。すっきりしているがしっかりとしたコクもある。日本でもあちこちで地ビールをつくっているが、とてもでないがこの国にはかなわない。ビール産業はこの国の底力を感じさせる。それがわかっただけでも帰国が延長されて出向三年目に突入した意味があるというものだ。だがもっと仕事に直結する情報に西条は貪欲だった。ペンタゴンに勤めている以上、防空マニュアルを読めばわかるような話を仕入れたところで日本のお人好し連中の目をさまさせられるわけではない。米軍と米国政府がドラキュラさながらに牙をむいている事実がはっきりとわかる端緒をつかまねばならない。
 「衛星画像部門と気象観測部門の責任者がそろって呼びだされている。夜中の十時にだぜ」
 「急を要する事態ってことか」
 「招集したのはゲルドフだ」ラーシャ・ゲルドフは去年発足した新政権に抜てきされた女性の国防副長官だ。「それだけじゃない」ジャックは周囲に目をやってからつぶやいた。「ラングレーからも来てるって話だ」
 西条はジョッキをテーブルにゆっくりと置いた。CIAか。「そんなヤバい話がおれのマンションから二十キロのところで起きてるっていうのか?」
 「わからん。けど、おれも一応調べてみた」ジャックは雲の画像を映したスマホ画面を指先でしめす。「気流データを見るかぎり、このあたりで上昇気流は起きていない。そうじゃないんだ。この二つの雲は上から下りてきたもののようだ」
 「上から……どういうことなんだ」
 「ありていにいえば人為的な可能性があるということだろう。すくなくともふつうの雲じゃない」
 「北か」
 頭のなかで緊急警報が鳴り響き、思わず西条は声をあげてしまった。だが向かいのボックスにいる連中が気づくわけがない。フットボールやメジャーリーグの映像があちこちで流れる店内は、重要な会話が他の客の耳に届かぬようトップ40が絶妙な音量で流れていた。しかし放置できぬ事態に変わりない。米政府は日本政府に通報したのだろうか。それともペンタゴンが直接連絡したのか。防衛省に。だったらなにを置いてもまず自分のところに一報が入るはずだ。いや、入らねばならない。
 そのための出向なのだから。
 いきりたつ西条の内心を察しながらジャックが説明をつづける。「よくミサイル発射してるからな。弾頭に化学兵器を搭載することだってできるだろうし、あの国ならとち狂った将軍さまが命令を出すかもしれん。でもおそらくそうじゃないだろう。地上からのミサイル発射の痕跡がないんだ」
 西条は声をひそめた。「じゃあ、なんなんだ……まさか軍事衛星か」
 「北には無理だ。やるならロシアか中国だろう」
 「状況はどうなんだ」ジャックに訊ねながらも西条はスマホをいじりだした。防衛省から関係者向けの緊急連絡メールは来ていない。日本の新聞社のサイトをつぎからつぎへと開いていったが、異変を伝えるニュースは流れていなかった。念のためNHKもチェックしたがこれといったものはない。
 「こっちでもそれがいちばんの関心事みたいだ。でもすくなくともおれが出てくるときにはなんの情報も入っていないようだった。ただ――」
 「ただ……?」
 「ちらっと聞こえただけだからよくわからんが、八年前の事件がどうとかと言っていた」
 西条は居てもたってもいられなかった。ジョッキを空にすると、めずらしく心配そうな顔を見せる豪軍中佐を店に残し、オフィスにもどることにした。
 ペンタゴンは二十四時間営業だ。世界中の情勢を衛星を通じてつぶさにチェックしているから、シフト制で夜勤のスタッフが各部でひしめている。いくつものチェックゲートを通過した先にある西条のオフィスもそうだった。二児の母親でもある中尉のカレンがヨーロッパ周辺から送られてくるデータをチェックしている。
 カレンはおなじ女性として副長官のラーシャ・ゲルドフをある意味尊敬しているが、決定的にちがうのは自分が黒人だということだ。国務長官にまで上りつめたライスほどの才媛ではないし、人種差別緩和のための広告塔にされるのは正直、めんどくさいと考えることのできる常識派だ。一刻も早く昼間だけの勤務のお気楽な部署――福利厚生とか書庫担当とか――に異動したいと西条にも始終漏らしていた。彼女の焼くダークチェリーパイのおすそ分けにあずかる機会が増えるのなら、希望に沿うよう西条も尽力するつもりだった。
 「テツ、どうしたの。忘れもの?」パソコン画面からカレンが顔をあげた。
 「なんかバタバタしているみたいだね」
 それだけでカレンは西条がもどってきた理由を察した。「まだつづいているわよ」親指を立てて壁のほうを差す。「ラーシャも来てる。メークがボロボロだったわ。あきらかにすっ飛んできたって感じ」
 すぐ隣が会議室というわけではない。西条のオフィスが面する廊下のずっと奥、虹彩認証式のセキュリティーゲートをいくつもこえた先にあるS1会議室だ。Sはたんなる順番でふられただけの記号だろうが、スペシャルとかスーパーとかシークレットとかの雰囲気のある集いが開催されるのが、この会議室だった。ジャックによれば、ほかにセックスのSでもあるのはまちがいないという。
 「なにか聞いてるかい、カレン」
 「内容のことはぜんぜん。テーラーが入っていくのは見たけど」テーラー准将はジャックが言っていた気象観測部門のトップだ。「それを調べにもどってきたの?」
 「秘密パーティーならさぞうまいワインが出るんだろうと思ってね」カレンにウィンクして西条は自席のブースに滑りこんだ。
 まっさきにチェックしたのは、ジャックに見せてもらった衛星写真だった。一部の職員のみがアクセスできるイントラサイトから入っていき、問題の画像にたどり着く。西条がこれを見ること自体は適法だ。ほぼリアルタイムで更新されており、日本の関東南部に赤い点が見える。クローズアップすると、神奈川県北西部、横浜と川崎の境あたりだった。いくつかの雲がかかっており、そのうちの一つが赤く囲まれている。ほぼ円形に近い雲だった。
 ジャックのスマホには赤丸が二つ映っていたはずだ。西条は首をかしげた。風に流されたのかもしれない。地図をすこしずつ動かしてほかに赤丸がついた雲がないかチェックした。だがそれらしきものは見あたらない。西条は赤く囲まれた雲にもどった。さらに拡大してみてわかった。あざみ野駅のあたりだった。万が一、細菌化学兵器や核だったとしたら永田町とか皇居とか東京駅とか、もっとべつの影響力の大きな場所を狙うはずだ。たまたま風に乗ってターゲットからずれてしまったのだろうか。西条は周辺の風力と風向を調べてみた。前線の影響で上空には南南西から比較的強い風が吹いている。だが問題の赤丸は微動だにしていなかった。
 そのときだった。急に画面がフリーズした。マウスポインタ―自体が動かない。あわてて西条はパソコンを再起動させて、ふたたびイントラに入った。しかしさきほどの衛星画像に行きつくことができない。管理者によってアクセスが制御されたようだった。
 さまざまな懸念が頭に浮かび、思わず西条は真知子に電話を入れた。
 「どうしたの、こんな時間に。いまそっち真夜中でしょう」
 「いや、ちょっと気になることがあったんだ。いまどこにいる」
 「どこって、会社よ」真知子は神保町の出版社に勤めている。「打ち合わせ中よ。なんなの、気になることって」
 「いま横浜のあたりで大事件とか事故とか起きていないよな」
 「はぁ? いきなりなにを言いだすかと思えば。ちょっと待ってね」パタパタというパンプスの小気味よい足音が聞こえる。会議室から編集部の大部屋にもどってくれているようだった。「いまテレビ見てるけど、とくになにかが起きているようすはないわ。ネットも……そうね、とくに大きなものは入っていないわ。ねえ、いったいどうしたの。横浜でなにかあったの?」
 西条は迷った。外国からの侵略だろうと小規模なテロだろうとかまわない。本当に攻撃を受けているのならわかっていることはすべて伝えないと。一刻を争う事態の前で機密だの守秘義務だのと言うのはナンセンスだ。だが西条はなにかはっきりしたものをつかんだわけではないし、現に日本で細菌化学兵器や核の被害が出ているわけではないのだ。
 「細かいことは言えないけど……」
 「なによ、いきなり電話してきといてそれはないんじゃないの。いくら国家公務員だからって」
 「じゃあ、もう一つだけいいか。あざみ野のあたりだ。あざみ野の周辺でなにか起きているなんてこともないよな」
 「あざみ野……田園都市線の駅のあるところでしょ……ないわよ……いえ、ちょっと待って……気象予報士の松木さんがつぶやいてたような気がする」
 「だれだ、そいつ」
 「テレビ東邦の朝番組のお天気キャスターよ。あたし、フォローしてるの。けっこう当たるから……」真知子は電話をかけながらタブレットを操っているようだった。「あった。これだわ……横浜・あざみ野上空に不穏な雲が発生中。念のため傘の用意を!! ゲリラ豪雨の季節に突入しているので、思いきって雨宿りするのも手かも……なんかすごい雨が降るみたいよ」
 カレンがブースに顔を出してきた。「終わったみたいよ、会議」
 西条は妻におざなりに礼を告げて電話をきり、なにくわぬ顔をして廊下のほうへ近づいた。セキュリティーゲートのほうから十人ほどが歩いてきていた。先頭はゲルドフ副長官だ。カレンの言うとおりひどいメークで昼間の顔とはずいぶんとちがって見えた。しかしそれ以上になにか重大な出来事を現場から突きつけられ、悄然としているように見えなくもない。ほかの連中もいちようにこわばった表情で口を閉ざしたままだった。
 集団に遅れて見慣れぬ背の高い白人と、対照的に小柄なインド系の顔だちの男が並んで近づいてきた。たったいま話し合ってきた事柄について、副長官たちには言えぬ感想でもあるのか、あえて前にいるグループを避けてあとから出てきたかのようだった。あれがラングレー組か。西条は察知した。白人のほうはいかにもCIAのエージェントといったダークスーツだった。インド系のほうは白いTシャツに濃紺の麻のジャケットを羽織り、下はジーンズだった。どうにも似つかわしくない。それが伝わったのかインド系の男のほうがにらむような目で見返してきた。西条は目をそらさずに軽く会釈した。すると相手の足が心なしかこちらに向いたような気がした。目つきもなにか訴えかけるようなものに変わっている。だがそれ以上のことはなかった。二人はそのまま西条とカレンの前を通過した。気のせいだったようだ。
 「あの二人だけど」西条はカレンの耳もとでささやいた。
 「見覚えないわね」
 「ラングレーが来てるっていうんだが」
 「入館記録でわかるわ」カレンは手にしたスマホを西条に見せた。動画が再生されている。たったいま西条たちの前を通りすぎた者たちのようすをカレンはちゃっかり撮っていたのだ。カレンはあとからきた二人組がもっとも近づいたところで映像をとめ、二人の胸の部分を拡大した。「VISITOR」と印字されたネームプレートをさげている。そこには発行日付と番号が付されていた。
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