『本にだって雄と雌があります』

文字数 3,336文字

『本にだって雄と雌があります』/ 小田 雅久仁

 あまり知られてないことですが、本にだって雄と雌があります。

 雄と雌があるってことは、そう、アレしてコレしてこうなって、新しい本が生まれちゃうわけです。

 蔵書家の家にはたいそう沢山の本があるわけでして、その中にはいいかんじになってしまった(つが)いの本があったりなんかして、気がつくといつの間にやら本が増えちゃってる。その理由が実はコレなんですね。

 数千、数万の蔵書をもつ蔵書家の家の本棚は、ただでさえ本が多いというのに、ほっといただけで本が増えてしまうわけです。

「ああ、また本が増えちゃった。こまったなあ」なんてつぶやいたことがある人は、この本の読者にピッタリ。

 人知れず増えていく本の秘密から、本と共に生きた、愛すべき博覧強記のお祖父ちゃんの驚天動地の人生、そしてその一族の悲喜こもごも、更には人類の叡智から宇宙の秘密まで一切合切をつめこんだ大風呂敷を、面白おかしいコテコテの大阪弁で語って聞かせてくれます。

 いやあ、これは面白いわ! あんまり面白くて、この忙しいのに久しぶりにぶっ通しで読んでしまいました。でもって夜も更けているのに二周目に突入しそう、その前に感想だけでも書いとかなくちゃ! って、感想がパタパタと羽ばたいて飛んでいって仕舞う前に慌てて書いてます。

(おまけどころじゃないひとこと以上のこと)


実はこれ↑、私が『本が好き』コミュニティに投稿した、初読時のレビューです。


このレビューを大幅に加筆修正して、月刊群雛2016年01月号に書評として掲載させていただきました。


群雛掲載用の加筆部分を(『らせんの本棚IV』連載99回目を記念して)以下に転記いたします。


かなり長文となりますが、書評に抵抗のない方はこの先もぜひご覧ください♪

 著者の小田雅久仁さんは2009年に『増大派に告ぐ』で第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞。作家デビューを果たしました。『増大派に告ぐ』は14歳の少年とホームレスの男の孤独を描いたダークファンタジー。社会的弱者や身体的弱者への暴力や狂気的な展開でかなり黒々とした重い印象、放送禁止的な用語(もちろん物語に必要な言葉ですが)の積極使用など、日本ファンタジーノベル大賞選考委員もだいぶ揉めたのだとか。選考委員の鈴木光司(すずき・こうじ)氏の「読者のすべてを敵に回しかねない」という言葉がよく特徴というか特性というかを掴んでいる気がします。よくもまあそれを大賞に選べたものです。選考委員の英断に感謝ですね。

 さて、その後発表された本作、前作とはがらっと雰囲気がかわり、明るく楽しい本好きの本好きによる本好きのためのコミカルな大阪弁ファンタジーに仕上がっています。とはいえ、ただの軽い話ではありません。冒頭に紹介した「本にだって雄と雌があります」という一節から始まり、どう見てもホラ話を息子に教える冗談好きのお父さん(でも家庭ではちょっと立場がないっぽい)の言葉。といった雰囲気のお話なのですが、このホラ話、信じていいのかやっぱり冗談なのか。という判別がどうしてもできないまま、微妙に微妙にちょっとづつ信憑性があがっていきます。

 その上で語られる一家の秘密。もともと語り手で狂言回しのお父さんからして異常ともいえる口というか筆のまわり。まるっきり嘘から下世話な下ネタ、冗談を大いに交えて本筋をうっかり見失ってのらりくらりと大いに蛇行しつつ、それでもいつかは海にたどりつく平地の大河のごとく、語られるは一族なかで数々の伝説をもつ蔵書家で人文学者のお爺さんの物語。

 この書を残す対象の語り聞かせる相手は語り手の息子。まだ三才になったばかりと冒頭に書かれているのに、やたらと大量の下ネタの投下はどうなのよお父さん。と思いながらも読者はいつのまにかこの大いなるホラ話にひきこまれ、伝説のおじいちゃん、深井興次郎(ふかい・こうじろう)の話に神妙に耳をかたむけ、ページを捲っていくことになります。

 このホラ話と現実の絶妙なバランスがすばらしいのです。

 大正生まれの興次郎を平成に生きるお父さんが語り、その生きざま死にざま、意思を、次世代に繋げていこうという思いが、膨大な照れ隠しの向こう側に透けて見えてくるのです。


 物語が進むにつれ、興次郎が体験した、太平洋戦争の悲惨さや、戦後、昭和の大事件等のお話も交錯していきます。

 このあたりで、日本人ならよく知っている出来事の裏側にこんなことがあったのか! と、読者の中の史実を補強するような形に、このホラ話が入り込んできます。あれ? これ嘘じゃなかったの? なんて混乱できれば良い方で、大抵の読者は気がつかぬまま『本にだって雄と雌があります』ワールドの住人として本の中に取り込まれてしまうわけです。

 いやほんと、上手いです。すばらしいです。ハラショーです。そして、なんといっても面白い!

 大阪弁って、微妙なニュアンスあるじゃないですか。

 ちゃうちゃうちゃう?/ちゃう、ちゃうちゃうちゃうんちゃう? なんて、コテコテの関西圏ネイティブ以外にはギャグにしかならない言語を普通に使いつつ、それが外ではギャグになるんやろなあ。なんもおもろないけど。とすました顔で流しながらも実はしてやったり、ウケたウケたと内心でほくそ笑む。みたいな。外向きの、本を読んでいる読者(この場合は息子さん)がこう思うだろうと十分意識しつつも知らない素振りで丸め込む手腕がすごい。

 本当の読者(今読んでいるアナタ)がこの物語の中の息子さんとしてお父さんが書き遺した本をいつの日か読むという立場にいつのまにやらインサイドしてしまう。気がつけば自分もかつて大阪で生まれて暮らしていた父を持つ、関西の血が流れている人間なんや。なんて勘違いしかねない秀逸な構成です。実際の実際には、この多重構造の本を書いているのは著者である小田雅久仁さんなんでしょうけど、いや実は、あれ? って、そうとも言いきれない雰囲気にどんどんなってしまう。その複雑怪奇さをうまーくラッピングしていて口当たりよくなめらかにしているのが他ならない大阪弁だと思うのですね。

 何を言っても実は冗談でした。でゆるされてしまいそうなしまわなさそうな、そんな言葉のマジックに本自体がなっているのです。面白おかしく喉越しやわらか。でも飲み込んじゃったらもう大変。すっかりこのヘンテコなワールドの住人です。


 そして、本書のテーマの「増えていく本」こと「幻書」(いろいろな言い方があるようですが、だいたい「幻書」と本書では表記されています)の位置づけがすばらしい。当初はこの不思議なお話の構造・構成とやたらと寄り道をする話に幻惑され、なにやらいつのまにか「あたりまえのこと」と既成事実化されてしまう「幻書」なのですが、実は裏テーマである家族や生命のつながりに深く関わっていくことがだんだんと明らかになります。愛すべきおじいちゃんの興次郎 (いわ)く決して中を読んではいけないという幻書。その謎とはいったい?

 新潮文庫版(深井家の家系図も乗っててオススメです)の解説でSF・ファンタジー評論家で書評家の小谷真理さんが「幻書の生態系まで書かれているのがすごい」と語っています。本書内にも(ある幻書の片親として)登場するネバーエンディング・ストーリーの『はてしない物語』や『指輪物語』等、ファンタジーに登場する作中の物語や魔法の本は数あれど、生態学的な発想で幻書をとらえた例は古今東西なかったのではないか、と。

 たしかにそれはそのとおり、さすが小谷真理さん、といったところですが、私はそれが人や、命や、さらには宇宙の構造にまでつきすすむ壮大な大ボラの根幹になっているところが、特にすごいと思うのです。

 大ボラのふりをしていても、本当かウソかなんてことは、口には出さなくても世の蔵書家はみんな知ってますしね。

 真偽のほどなんて、このさいどうでもいいじゃないですか。この宇宙はこうなっているんですから。

 さて、我が家も今夜あたり本増えてないかな?

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登場人物紹介

神楽坂らせん

読書の合間に本を読み、たまにご飯してお茶して、気が付けば寝ている人です。一度おやすみしてしまうと、たいていお昼ぐらいまで起きてきません。

愛読書は『バーナード嬢曰く。』

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